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孤高の天才  作者: 深水晶
第一部 嵐の予兆
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第十一話 ルグラン

 一階のロビーへ向かうと、来客や営業課の社員などが三十数人ほど、歩き回り、あるいは椅子に座り、あるいは立ち止まっているのが見えた。午前中のロビーはほとんど無人と言って良いが、午後からは人が増えて来る。窓際の明るい場所に、待ち合わせや簡素な商談に利用できる、来客用のソファとガラステーブルが置かれていて、珈琲の香りと人の声で溢れかえっていた。ラダーが『受付の美人』と評した女性が誰で何処にいるのか、一目で判別はできなかったが、私はそういう目的でここへ来たわけではなかったから、正直それが誰でも構わなかった。ただ、ラダーの感覚では、どういう女性が美人になるのかな、と思っただけだ。少なくとも、私の目には、どの女性も美しく装っているように見える。当たり前だ。受付へ配属される女性は、中身より外見が重視される。下世話な言い方をするなら、『表玄関には綺麗どころを置いて、こんな美女を雇う金があるんだぞと外部から来る人間に見せつける』という事らしい。かなり偏見や私見が混じっているかもしれないが、大体そんなところだ。

 ところが、困った事に私の目には、どんなに容姿に優れた女性も、魅力的には映らない。どちらかと言えば、年上の女性に惹かれる傾向であるようだが、私の年齢で年上となると、大抵は既婚か、離婚歴のある女性である。既婚はまずいが、離婚歴に関しては、こだわりなどない。ないのだが、好意を抱いても、相手に愛を打ち明けようとまで思った事は、ここ十数年まるで無かった。さすがにこれは、自分でも何かおかしいのではないかと思わないでもなかったが、だからと言って好きでもない女性と交際したり結婚したりするのは、私の性には合わなかった。そもそも、男女間の付き合いというものが、そんなに良いものだとは思えなかったので、好きでもない女性のために、そんな煩わしい事をするくらいなら、自分一人で処理する方がましな気がした。ジェレミーの十分の一で良いから、誰かに心ときめいてみたいと思わないではないが、彼のようになりたいとは露程にも思わない。私の目には、やらなくても良い労苦ばかり味わって、全く実りないまま辛酸を味わわされる、としか見えなかった。たぶんこれは穿った見方なのだろう。ジェレミー本人を見る限りでは、彼なりに幸せそうに見える。だからといって、身も心もジェレミーのようにはなりたくない。それくらいなら、生涯独身を貫いた方がましだという気がする。無論、これも幼馴染みである親友には言えない事の一つである。

 ロビーの片隅に、誰でも自由に珈琲が飲めるサーバーが置かれていた。そこで、私は自分が飲むためのカップを取り、泥のように濃いエスプレッソを入れた。……いつも思うのだが、機械で入れられた珈琲は何故こんなに不味いのだろうと思う。人間の手で入れた珈琲はもっと香りが良い。色も美しいし、味も良い。しかし、私は珈琲を味わうために入れたのではなかったので、無言で喉に流し込んだ。苦く熱い黒い液体が、喉を伝い臓腑へと落ちていく。

「こんなところで何をしているんだ? ジーンハイム」

 背後から、低い声で話しかけられ、思わずぎくりとした。ゆっくりと振り返ると、果たしてそこには、予想したとおりの人物──同期の出世株、ロバート・ルグラン──がいた。

 私は慌てて穏やかな笑みを作った。

「やあ、ルグラン。久しぶりだな。元気そうで何よりだ。仕事は忙しいんじゃないか?」

「お前とは違ってな」

 短い答えに、やはり私は彼に嫌われているのだな、と思う。別に彼に嫌われるような事をした覚えはないのだが、もしかして、酒癖が悪くて迷惑でもかけたというのだろうか? しかし、私はルグランと共に飲みに行ったことなど無いので、それもどうかと思われる。いつから、こんな風だっただろうかと思い返すが、良く覚えていない。同期入社の社員の中でも、彼とは特別仲良くした記憶も、またはその逆の記憶も、全く思いつかなかった。少なくとも、入社後三年間は全く会話を交わした事が無かったと思う。

「これから外出かい?」

 そう尋ねると、

「今、帰社したところだ。こちらは忙しいのでな。そうしたら、ロビーの隅で、のんびり珈琲を飲んで、百面相しているお前を見つけたわけだ」

「……百面相? そうか、それはすまなかった。指摘してくれて有り難い。自分ではまるで気付かなかった。今後注意するよ」

「……お前には嫌味も通じないのか?」

 と、ルグランは嫌悪の表情を私に向けた。嫌味? すると今、私は彼に嫌味を言われたわけだ。『のんびり』と『百面相』のいずれか、あるいは両方がそれに当たるわけだ。

「それは気付かなかった。気分を害してしまったようだな」

「……お前のそういうところが、私は嫌いなんだ」

 ルグランは私を睨み付けながら言った。嫌いならば、わざわざ話しかけて来なければ良いのに。そもそも、彼と私では、役職と年齢こそは同じだが、会社での立場も扱われ方も、何より給料がまるで違う。頭の良い人間のやることは、私には理解できない。察しが悪いと他人に指摘されるまでもなく、自分で良く判っている。たぶん今、私は理不尽な理由で絡まれているのだろう。と、すると、それにいつまでも付き合ってやらねばならない義務も義理もないわけだ。

「珈琲も飲み終わって気分転換もできたことだし、私はもう部屋へ戻るよ」

「……待てよ、逃げる気か? ジーンハイム」

 おかしな理屈だな、と思いつつも、立ち止まる。

「用件があるなら聞くが、一体なんだ? 率直に言ってもらえると有り難い」

「こちらへ来い」

 そう言って、ルグランは私の肩を掴み、非常階段の方へと促した。肩を掴まれながら一緒に歩く。

「……どんな手を使った?」

 ルグランは低い声で囁いた。私は意味が理解できなくて、彼の顔を覗き込むように見つめた。彼の顔は真剣だった。苦虫を噛み潰したような顔をしているが、それは私がそばにいるからだろう。そんなに嫌なら離してくれても良いのに、と思うが、この流れで行くと、彼は最初から私に尋ねたい事があって、声をかけたのだ。だったら、最初からそう言ってくれれば良いのだが、そう簡単ではないらしい。しかし、質問の意味が理解できないというのは、困ったものだと思う。だから、まだるっこしいやり方はやめて、率直に尋ねた。

「どういう意味だ?」

 すると、ルグランはますます嫌そうな顔になった。

「……判ってる癖に。相変わらず食えない男だ。ラダーだ。カース・ケイム=リヤオス=アレル・ドーン=ラダー。期待の新人、セントラルアカデミー最年少首席卒業した天才少年のことだ。一体どんな手を使って取り入った?」

「……は?」

 言われている意味が本当に理解できずに、目を丸くすると、ルグランは舌打ちした。

「お前がしゃしゃり出てきたりしなければ、私の研究室へ来る予定だったんだ。就職が決まる以前、最初からな。なのに、お前が余計な事をするから、彼はお前の所へ配属されてしまった。折角の才能を砂に埋めるようなものだ。私は彼を説得しようとしたが、彼の意志は固かった。お前は一体、どんな手段を使った? いつも穏和な笑みを浮かべて、周囲を騙しきって『仏のジーンハイム』などと言われて悦に入っているようだが、底の浅いバカ共は騙せても、この私の目は誤魔化せないぞ。にこにこ笑ってるその顔の裏で、一体何を企んでいる?」

「……何故そんなことを言われなくてはならないんだ?」

 本気で理解できなくて、私は尋ねた。

「知っているんだぞ。アダム部長の娘のことだ。彼女はお前の外見に騙されて、危うくお前の手に落ちるところだった」

「はぁ!?」

 そんな事は初耳だった。しかし、私はアダム部長の娘という女性には会った事もなければ、顔も知らない。

「私が気付かなければ、彼女はお前の毒牙にかかっていただろう」

「…………」

 誤解だ。何か激しい誤解が生じている。明らかにルグランは真剣だった。間違いなく本気でそう思っていて、そうに違いあるまいと信じている。しかし、私がアダム部長の娘とやらに会ったことがないのは確かな事だから、アダム部長や、本人に確認してもらえれば、すぐに事実は証明されるはずだ。

「これだけは抗弁させて貰うが、アダム部長の娘とやらには、私は1度も会った事がない。だから、彼女を毒牙にかける事など不可能だ」

 そう言うと、ルグランは吐き捨てるように言った。

「嘘をつくな。五年前の副社長就任ガーデンパーティー。お前も出席しただろう。その時、林檎の木の下で、ハンカチを拾った女性を覚えていないとしらばっくれる気か?」

 ……誤解とは言え、何故そんなに具体的なんだ?

「ルグラン。そんな記憶は私には無いのだが、君はそのお嬢さんを良く知っているのか?」

 だったら話は簡単だ。本人に確認取ってもらえれば良いのだから。

「現在の私の妻だ」

「え……?」

 ルグランが結婚したのは三年前だ。それは知っている。だが、その結婚した相手のことなんて……。

「忘れたとは言わさんぞ、ジーンハイム。私はこの目ではっきりと目撃したんだからな?」

 愕然とした。

「そ、そんなっ!!」

「だいぶ酒を飲んではいたようだがな、忘れたふりは許さんぞ。私は素面だったからな。確実に幻覚ではないと言い切れる」

「……ルグラン?」

「一時期はお前の正体も知らず、騙され籠絡されそうになったが、彼女は今では私の愛情を受け入れて、とても幸せだ。お前のことなどすっかり忘れている。賢明な女性だ。お前に二度と騙されることなど無いだろう。……しかし、お前という男は、今度は天才少年ラダーに目を付けた。本当、油断も隙もならないやつだ。いつ、どうやって、どんな手段で彼に取り入った? 私の目を盗んで、どうやって彼と接触したんだ? お前はどうしてそう、私の行く先々に現れて、私の邪魔をしようとする? 何か私に恨みでもあるのか? 妬みか、それとも陥れて、自分が成り代わろうと企んでいるのか?」

 ……冷静に判断すると、恨んでいるのも、妬んでいるのも、ルグラン本人なのではないだろうかと予測されるのだが。やはり本人に面と向かって言ったら、怒られるのだろうな。

「ラダーとは、彼が入社して配属される以前に、一切面識は無い。彼に確認してくれたら、証明できるはずだ」

「嘘を言うな」

 ……どうしてこう、彼は他人の話を聞こうとしないのだろう。私は不可能な事は言っていない。それほど難しい事を言っているわけでもない。私とラダーはあの殴り合いをした夜以前に、出会った事はない。あれほどの体格と、特徴的な容貌の持ち主だ。1度でも出会っていたら、記憶に残らない筈がない。アダム部長の娘であり現ルグラン夫人とは比較にもならない、と思う。何しろ言われても名前も顔も、その問題の一件すら思い出せないのだから、比較のしようもないのだが。

「私は彼に会って話をした。彼ははっきりと言っていたぞ。『ジーンハイム室長の下で人工知能の開発に携わりたい』と」

「……え……?」

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