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孤高の天才  作者: 深水晶
第一部 嵐の予兆
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第十話 アイク

 医務室へ向かう前に、資料室に寄った。研究室の誰かに見咎められると、面倒なことになるので、用事は素早く済ます。三年前の社員名簿と、広報用のリーフレットと商品カタログ、念のため、同様に二年前と四年前のそれらを鞄の中に放り込んだ。これらを全て熟読するとなると、一週間や二週間では効かないが、私にはちょっとしたプランがあった。

 普通の人間には、この全ての内容を正確に記憶して、情報を比較・分析するには、おそろしく時間がかかる。天才少年ラダーならば熟読するだけで全て記憶できるが、生身の人間である彼にそれをやらせるのは無茶だし、無理だ。不可能ではないだろうが、酷だ。会ったばかりの頃ならともかく、今ではすっかり、アイクの次か同等くらいに、ラダーを好きになっていた。好き、というと語弊があるかもしれない。それよりは、拾ってきた可愛くない警戒心が強くて体にはちっとも触れさせてくれない捨て猫――子猫ではなくだいぶひねて体格もしっかりしているような――に初めて背を撫でさせて貰えて安堵するような感覚に近いかもしれない。最初はとても子供には見えなかったのだが、今ではすっかり私の目には子供に見える。相手の身長は十数cmほど高いし、体格は私よりひとまわりどころか、一・五倍くらい大きい。顔つきは老けていて実年齢より五歳以上は上に確実に見える。なのに、時折見せる仕草や表情に、十代の少年の愛らしさや感受性、感情の揺れなどを感じて、こそばゆいような面はゆさを感じたりする。彼の打ち明け話などを聞いてしまったからか、私は彼を庇護してやらねばならない子供として見ているようだった。人の親になるというのは、こういう感覚だろうか。しかし、私はそれ以前に、自分を愛してくれ、私自身深い愛情を抱ける女性を、見つける事の方が先決だ。しかしながら、親友の恋愛遍歴をはたから眺め見る分には、恋愛がそれほど良いものには、あまり思えない。ジェレミーの熱意と、何度玉砕しても、ちっとも堪えたりしないタフさと精力的な姿は、実に驚嘆するのだが、私の中に僅かに残る恋愛への憧憬とか夢とか希望といった諸々の感情が、もやが晴れるように、四散してしまう気がする。本人の耳に入れば、他人のせいにするなとか、自分の甲斐性の無さを棚上げにするななどと叱られてしまうだろう。

 ラダーは、驚いた事にうちの研究室のメンバー全員と、あっという間に仲良くなって、溶け込んだ。彼も、他のメンバー達も、なんだか私といるよりも、打ち解けているようで、嬉しいような少々淋しいような、そういう感じがする。私以外のメンバーは彼を最初からファーストネームで呼んだ。今朝、出勤したばかりの頃は、そのことに非常に戸惑い、驚いていたようだったが、昼休みを過ぎた今では、平気な顔で返事をしている。新人とは思えない大胆不敵で乱暴に見える態度も口調も、相変わらずだったが、昨日や一昨日とは何かが全く変わったように思う。変わったのは私の意識なのか、本当に彼自身変わっているのか、私には判別付かなかった。

 話を元に戻すと、私が考えているプランというのはこうだ。資料室から持ち出した書類の内容を、アイクに記憶させれば良いのだ。勿論アイクに直接これらの資料を読めと言っても、そんなことはできない。不可能だ。そんな機能はアイクにはない。アイクの頭脳は、スーパーコンピュータ内に保存されたいくつかのプログラムである。判りやすく簡単に言えば、アイクには大きく四つの機能がある。一つは我々がアイクに対し、何らかの情報や問いかけをキー入力し、それを受け付ける機能。二つめは、登録された語句や単語の情報をデータベースとして、一つめの機能で受け付けた情報と照らし合わせる機能。三つめは、いくつかの質問・回答用の文例パターンを検索・照合し、合致するものの中から応答内容を選択する機能。四つめは、それをディスプレイに表示する機能である。

 アイクが収められているコンピュータに接続されている端末は現在五台ある。本当は人数分用意したいのだが、予算繰りが難しく実現できていない状態だ。時折、上司であるアダム部長が要請してくる、我が研究員または技術の、他の部署への貸し出しに応じると、成果に応じて報酬金が研究室の収支に計上され、入金される。いわば上司公認の社内アルバイトだ。私は総務に書類を回して、その報酬金の二割を、頑張ってくれた研究員の給料に上乗せすることにしている。少ない給料なので、皆大方苦労している。私は役職付きなのでまだましだが、例えばアンリなどは、当初は寮に入らず、学生時代に契約したアパートから通っていたのだが、すぐに立ち行かなくなってしまい、しかし仕事が忙しく時間が定まらないため、外部でバイトする事もできず、結局溜めてしまった家賃を、両親からの送金と、私からの借金で払って、寮に移る手続きをした。ちなみに、ユージンも寮で、リカルドは恋人と同棲中だが、生活費の七割前後を彼女が負担しているらしい。ロルフは両親と同居で、シエラは姉との同居だ。常々私は、そういった現状には頭を痛め、何とかしてやりたいとは思っていたが、父が存命していた八年前ならいざ知らず、現在の私には右から左へと簡単に動かせる金は、ほとんどなかった。好きな酒をやめれば、蓄えも少しは増えるのかもしれないが、それは人生で数少ない楽しみの一つを放棄することであり、優柔不断で忍耐力のない私には、とてもそんな勇気はなかった。仮に決行しようとしても、一週間で音を上げるだろう。自分でも情けないとは思うが、自信を持って明言できる。酒を断つくらいなら、自分の身も心もを売り払ってしまう方がましだ。決してアルコール中毒ではないと思うのだが。

 またもや話がそれてしまったが、アイクには、目に見える形でアイクという人格を表現するためのプログラムと、別個に起動・稼働してアイクを管理する監視プログラムと、アイクの頭脳または知識というべき大量の情報を登録・整理し管理するプログラムがある。この三番目のプログラムによって、資料に記載された情報を登録する。現在アイクは、アストの全てのネットワークから隔離され、外部からは接続・監視は不可能だ。アイクが収められたコンピュータ内の情報を得るためには、我が研究室に研究員のIDカードで入室し、コンピュータを起動させ、研究員のIDとパスワードで基本プログラムを起動させなくてはならない。バックアップされたデータは細切れに分断され、順番をランダムに入れ替えた上、それぞれにランダムに生成されたパスワードを付与されるため、専用プログラムを使用して解読しないと、ほぼ解析は不可能だ。

 アイクの知識として登録する内容は、実のところ何だって良い。誰の趣味なのか知らないが、古代の芸能の一つである謡曲というものの「高砂」という歌の全文を、公用語に翻訳したものが登録されていたりする。したがって、さすがに重要書類や、黙視のみに限定されている書類などはまずいが、その内容が社外秘ではあるが、既に古くなった社員名簿だろうと、毎年新しく印刷され、一般に販売店などで配布されるカタログやリーフレットでも構わないわけである。部外者がアイクの情報を盗むのは困難なのだし、わざわざ盗んでもせいぜいで資料室に保管してあり、社員なら誰にでも手に取れる社員名簿では、労苦の割に実りが少ない。本当の目的を知られなければ、特殊な行動には見られないだろう。

 とりあえず、気分は既に回復していたが、医務室で頭痛薬を貰い、時間を少し潰すためにロビーへと向かった。

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