第九話 シエラ
「すごいわ、カース! もう作業を全部覚えたの? 飲み込み早くて助かるわ! うちの男どもと来たら、本当使えないのばっかりで、私、いい加減腹が立ってたのよ。あ、いいえ、室長は除いてよ。本当、他の四人ときたら、図体ばっかりは大きい子供みたい! 私は保母さんになりたくて、アストに入社したわけじゃないのよ。本当に良かったわ。私、感激しているのよ、カース。今までの新人と来たらどいつもこいつも、使えない連中ばっかりで! この四人よりもっと最低のクソな下衆野郎どもばっかりで! やっぱりいる所にはちゃんといるもんなのねぇ。ちょっとは希望が見えてきたわ。……あら、ごめんなさい。下品な言葉使っちゃって」
「……あ、いや、それは気にしないんだが……」
ラダーは大きな体をできるだけ小さくしようとしているかのように縮こまって、呆然としたように、目を白黒させて、シエラと四名の先輩達をちらちらと見ている。その表情は困惑だ。……私も、その気持ちは判るような気がする。返答に非常に困る台詞だろう。やはりここは、上司として助け船を出してやらねばならないだろう。新人、しかも世間擦れしていない彼には、ちょっと荷が重い。
「……シエラ。忙しいところ、申し訳ないが、この書類を、アダム部長のところへ届けてくれないか? 緊急を要するんだ。頼めるかな?」
「あ、はい! 室長。今すぐ行ってまいります!」
そう言って、渡した封筒入りの決裁書類を抱えて、駆け出すように退室した。
ラダーはその途端、深い溜息をついて、椅子にぐにゃりと座り込み、引き合いに出されてけなされた四名は、更に深くて大きな溜息をついた。
「……すまない、ラダー。彼女は悪気はないんだが、色々言動に問題がある女性なんだ。慣れるまでは困惑するだろうが、とりあえずなるべく気にしないようにしてくれたまえ」
「……え? 気にしないようにって……俺、何かフォローとか返答とかしなくて良いのかよ?」
驚いたようにラダーは顔を上げて、早口で言った。その言葉に、他の四名は顔を見合わせる。それから代表してロルフが口を開いた。
「……なんていうかな、フォローとかそういうのは考えなくて良いから、とりあえず穏便に済むように、適当に相槌を打っておけば良いんだ。何を言われても、不適切じゃなければ『はい』と『いいえ』と『了解しました』と答えておけば良い。……これは、とある古代語からの引用だけど、『触らぬ神に祟りなし』ってことなんだ。カース君、君はこの言葉の意味を知っているかい?」
「いや。古代語は専門じゃなかったんで。俺、実はちょっと語学系全般苦手で、他の教科に比べてあんまり成績良くないんだ。でも、丸暗記は得意だし、頑張ればなんとか理解できるんで、努力しようと思ってる」
「……ああ、それで。公用語もあんまり得意じゃないんだったかな?」
「うん、俺、ティボットに住んでて、公用語は三年前まで全く知らなかったんだ」
「室長に聞いたんだけど、正式に習ってないんだって?」
「ああ。でも、カルディックでも、セントラルアカデミーでも、公用語が使えないと、どうにもならなかったんで、苦手だけど必死で勉強したよ。最初は片言しか使えなくて、知らないやつに笑われた。単語は丸暗記したから、なんとなく判るんだけど、文法がなかなか理解できなくてすげぇ苦労した。最初の二週間の授業は、内容が判らなくてさっぱりだったな」
「……誰も、言葉や文法を教えてくれなかったのかい?」
ロルフが微かに眉をひそめて、ラダーに尋ねた。
「うん? どうだろ。最初はとにかく無我夢中だったしな。あんまり良く覚えてないや。とにかく公用語が理解できないと、買い物一つ満足にできないからさ。生きるためにも必要だってので、周り見る余裕なんか無かったから」
「それでよくセントラルアカデミーの試験に合格したね?」
「あ? 筆記と講義は全然違うよ。俺、文字はカルディックへ行く前に全部覚えたんだ。でも、聞いたり喋ったりするのは、別だろ? 本当は、学校へ入る前にきちんと勉強しておけば良かったんだろうけど、俺、そんなのちっとも知らなかったし。どうにも見通しが甘かったんだよな。大体、試験受けたからって受かるとは思ってなかったし」
「……受かると思っていなかった?」
ラダーの言葉に、私も含めて、室内の全員が驚いた。
「だって、アカデミーに入る前から天才だって言われてたんだろう?」
「え? おい、考えてみろよ。俺、ずっと、大学どころか、ジュニアスクールも日曜学校もないような田舎の屋敷に引き篭もってたんだぜ? でも、養父がそれじゃいけないってんで、邸内ん中で養父を教師にして、一対一で勉強してたわけ。たった一人の家族である養父に『お前は天才だ。これなら十分セントラルアカデミーにだって入学できる』とか言われて、それを鵜呑みにするバカが一体どこにいる? その学校が、惑星一、頭の良いやつが行く学校で、そこへ入学しただけで『天才』だの『秀才』だの呼ばれるって聞いてだぜ? 自分と養父しか、判断基準にないのに、そんなもん信じられるワケねぇよ」
「……ああ、そうか。そうなのか……」
ロルフは返答に詰まって、額を押さえた。
「あれ? 俺、何かおかしな事言った? 言葉の使い方間違ってたか? 悪い。なんか上手く言葉使えてなくて。俺、勉強が足りないのもあるんだけど、それ以上に、実地の経験が足りないんだと思う。たぶん、もっと必死で本を読んで、人と話して、人の話すのを聞いてれば、もうちょっとマシに喋れるようになると思うよ。っていうか、努力も勿論するし。だから、おかしなところあるようなら、どんどん言ってくれるとありがたいんだけど。指摘されないよりは、指摘された方が、ずっと勉強になるからさ」
「……あ、いや、今のは言葉の使い方というより、なんか感覚の違いっていうか……ごめん、僕の常識で、話をしていたみたいなんだ」
「あんたの常識? そりゃ、俺の常識とあんたの常識が違うのは、自分でも自覚してるけど、何が問題だったんだ?」
「ん……困ったな。判るようで、でも良く判ってなくて、上手く……言葉が見つからないんだ。ごめん。君を困らせたり、不安にさせたりするつもりは毛頭ないんだけど……なんて言えば良いのか、今は、思いつかない。本当に、申し訳ない。許してくれるかい?」
「許すも何も、俺、そんなに頭良くねぇから、あんたの言ってる意味がちっとも理解できないんだよ。何が問題点なのかも含めてさ。だから、謝られたって困るよ。だって、俺は、何をどう許したら良いのか、あんたが俺の何に対して謝りたいと思ってるのか、ちっとも理解できないしさ。でもまあ、俺が今、こうやって困ってることに対して、あんたが謝ってるんだとしたら、俺、そんなの今までずっと慣れてきてるし、今更誰かに謝られたりしなくたって、そういうもんだと思ってるから、謝らなくて良いぜ。気持ちは嬉しいけど。だって、俺、そういう事で他人に謝られたの、初めてだもん。いや、もしかしたら、養父以外の人間に謝られたの自体、初めてかもしんない」
ラダーの言葉に、しまった、と私は心の中で呟いた。そう言えば、私は、ひどい事を言われたからとは言え、彼をいきなり殴ったことに対して一度も謝ってない事に、今更気付いてしまった。それどころか、最初に二時にアダム部長の部屋へ迎えに行く約束をすっぽかしてしまった事に関しても、一言も謝罪していない。
私の焦りなど知らぬげに、ラダーは少年のような、はにかむ笑顔を見せた。無論、彼は十八歳の少年なのだが、その容貌は、二十四・五歳を超えていると言っても信じてしまえる代物だ。
「ありがとう、ロルフ。あんた、良い人だな」
ラダーに嬉しそうにそう言われて、ロルフも笑いながら、首を大きく横に振った。
「そんな事は全然ないよ。僕は当然、謝らなくてはならないと思って、そうしただけだから」
私は深く後悔した。……つまり、私はその当然の事ができない人間であるわけだ。この場で椅子に座っていることが、とても辛い。せめて、先ほど、シエラの台詞に私の名が出て来なければ、もう少しはましな気持ちでいられたのに。この場にはいないシエラを、ほんの少し恨めしく思った。どう考えても自業自得で、誰がどう見たって悪いのは私なのだが。……そもそも、私の方が年上なのだから、暴力に訴える前に、言葉で解決すべきだったのだ。彼のことを知らなかったというのは、いいわけにしかならない。二日酔いではないはずなのに、ひどく頭が痛んだ。
「おい、大丈夫か? 室長。あんた、顔色悪いぜ? 体調悪いんだったら、早退して休んだらどうだ?」
余計なことを言ってくれる! ラダーの言葉に驚いたようにロルフが椅子から立ち上がり、私を振り返る。
「だ、大丈夫ですか!? 室長!! 本当に顔色が悪いですよ!! 一体どうしたんですか!? さっきまで何でもなかったのに!!」
今のやりとりが胸に痛かったからだ、とは言い難い。恥ずかしい以前に、この状況で言えるのは、余程の強心臓だと思う。私にはちょっと無理だ。そもそも、昨日は、他愛もない、根も葉もない、陳腐な噂話ごときに、腰が引けて逃避したような、臆病で腰の据わってない、責任感の無い怠惰な人間なのだ。そもそも、そんな風に素直に事情を話せるようなら、もっと早くにラダーに対して頭を下げることもできたのだし。
「……なんでもない。気にせず仕事を続けてくれ」
「なんでもないって顔色じゃありませんよ! 室長!!」
ユージンが黙ってられない、とばかりに、蒼白な顔で立ち上がった。
「すぐ病院へ行きましょう! 先日、あのような事があったばかりです。もしかしたら脳に腫瘍が……っ!!」
「えっ!? 腫瘍!? こ、困りますよ!! 室長!! 室長がいなくなったら、この研究室はどうなるんです!? 人工知能のアイクはまだ四歳児並の言語能力しかないし、室長がいなくなったら、チームは絶対崩壊します!! 僕達ではシエラ女史には対処不可能です!!」
……ちょっと待て。室長としての私の職務は、シエラ対策だけなのか!? ……頭痛以外に眩暈までしてきた……。
「ユージンの妄想やロルフの暴走はさておき、本当に顔色が悪いですよ、室長。俺、医務室までついていきましょうか? 体力腕力あるから、室長くらいなら支えて一階まで歩くくらいどって事ないですよ。さすがに抱えて歩くのは無理ですけど」
と、リカルドが言う。
「俺なら、抱えて歩けるぜ? 医務室行くなら抱えて行ってやろうか、室長」
そう言ったのは、ラダーだ。……勘弁してくれ。
「そうですよ! カースの体格なら、十分、室長を担げます!! 安心して医務室へ行ってください!! ぼ、ぼく、室長がいなくても、頑張ります! 少しの間なら、シエラさんの機嫌を取ることもできますから!! ……あっ……でも、なるべくすぐ、戻ってきてくださいね……?」
アンリが最初は勢いよく、語尾は自信なさそうに言う。
「何の話?」
全員、飛び上がった。噂をすれば影ならぬシエラ。今の一連の会話に関係なかった筈の私まで、一瞬どきりとした。今の話は聞かれてなかっただろうか?
「あ、いや、その! あ、あの、し、室長がっ……!」
「室長がどうしたの? 何よ、皆、顔色悪くしちゃって……すみません、室長。アダム部長なんですが、また、うちの人員レンタルしたいって……あの人、うちを人材派遣所か何かと間違えてるんじゃないですか……って室長! どうしたんですか!? その顔色!!」
……なんだかもう、諦めた。
「判った。医務室へ行ってくる。病院へ行くような大袈裟なものじゃない。心配いらないから、皆、引き続き仕事をしてくれ。私は一人で大丈夫だから」
「おい、本当について行かなくて良いのか?」
ラダーが言う。この場にいる私を除く六名の内、一番そばにいて欲しくないのは、ラダー本人だ。彼はちっとも悪くないので、大変申し訳ないとは思うのだが、彼について来られるくらいなら、窓から飛び降りて階下へ直行した方がまだましだ。もっとも、その場合は、病院へ到着する前に、心臓が止まっていそうだが。
とにかく、彼について来られては本当に困るので、私はできるだけ、平常心を心がけ、皆を安心させるため、穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫、心配いらない。少し休んだら、また戻って来るから」
するとロルフが憤然として言った。
「駄目です! 室長。あなたは何度言っても無理なさるんですから、絶対に休んでください。重要な決済書類や、緊急の要件は全て処理済みなんですから、後は僕達だけでも、問題ありません」
「……そう言えば、シエラ。アダム部長がどうとか言っていなかったかね?」
「いえ! 大丈夫です! 気にしないでください!! 狸部長が何と言おうと、室長には絶対ご迷惑はおかけしませんから! いざとなったらロルフを部長室へやりますから、室長は安心してお休みください」
今、ふと思ったのだけれど、もしかして、シエラがやる気になれば、アダム部長がうちの研究室へ要請してくる事の半分くらいは、容易に片付くのではないだろうか? だが、その代わりにロルフや他の研究員達の胃や腸に穴が空いてしまうのが先かも知れない……。