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  作者: 中邑あつし
第二章
35/36

7・カエデ

 六・カエデ



 黒いスーツを身にまとった、頭をオールバックにした男が深々と頭を下げた。「誕生日、おめでとうございます。会長、これは、私からの」

 ラウンジのソファーで女に囲まれた会長のテーブルの前に、ヴィンテージワインのボトルセットが置かれた。明らかにボトルの大きさに比べ底が厚かった。ボトルの下には、現金が仕込まれているだろうことに察しはついた。

 両脇の女の肩に腕をまわして、かっぷくのある腹を出し会長は言った。

「おう。実際、誕生日は明後日だがな。政治家のお偉いさんやら、家族サービスがあるからな。堅苦しいのなんの。ということで、今日が俺の誕生日だ。お前等も楽しんでくれ。そういや、お前ん所も景気が良いようだのぉ、鷲津」

「いえ」と鷲津と呼ばれた男は姿勢を崩さず答えた。

 帝劉会系列紫劉一家(ていりゅうかいけいれつしりゅういっか)、会長、鈴原秀善(すずはらしゅうぜん)――今日はその彼の誕生日を祝うため、複数の暴力団組員が集まっている。鈴原の両脇にいる二人の女性、その少し離れた所でカエデは上品にワインを飲んでいた。

 ZEROの存在は、暴力団を恐怖で脅かす一方、組同士が縄張り争いせずにシマを拡大し、景気が良くなる組もあるらしい。紫劉一家はその典型的な例といえた。

「このまま、ZEROが他の組を殺してくれればいいんだがのぉ」鈴原は言った。その手は女の胸元に忍ばせられている。

「はぁ」と鷲津は答えた。答えに困るといった感じだった。

「まあ実際、恐ろしいわな。なるべく、事務所の場所を同じ位置に置かないことだ」

「はい、そのように」

 暴力団は今、事務所の場所を転々としていた。無論そのせいもあって、ZEROが襲撃した際、中はもぬけの殻なんてことは少なくなかった。

 カエデには深くは分からないが、ZEROの幹部にはハッカーがいるらしい。そのハッカーが不動産の顧客管理をハッキングしているということを彼女は耳にしたことがあった。それでも転々と事務所を変える組に対し、その情報を正確に得ることは難しいらしい。

 どちらにしろ、自分には関係のないことだと、彼女はZEROについて深く知ろうとはしなかった。幹部になる気など毛頭ないし、彼女にとって、ZEROという組織自体も興味深いものでもなかった。それはただ、自分の死に場所を与えてくれるに過ぎないのだ。

 カエデは灰がこぼれないように灰皿を重ねたあと、新しい灰皿に交換した。それを鈴原の前へ戻した。そしてワイングラスを手に取ると、遠目から彼を見つめた。

「今日は気分がいい」そう言って鈴原は、女の肩にまわした両腕をほどいた。そして立ち上がり、隣の丸いテーブルに積み上げられた現金から、札束を三つほど手に取った。その現金は、全て鈴原への誕生祝いである。彼はそれを持って元のソファーに腰掛けた。「これは、俺からのプレゼントだ」

 鈴原はカエデを含めた三人の女に百万ずつ、合計三百万の現金を渡した。それに真っ先に飛びついたのは両脇の女達だ。

「きゃぁ、いいんですかぁ。会長」と両脇の女達は、黄色い声を上げ喜んだ。

「ああ。持ってけ」

 ここにいる者は皆、金に取り付かれている。女達は会長の顔が現金にでも見えているのだろうとカエデは思った。数週間、鈴原の近くにいて分かったことが一つある。鈴原秀善という男の周りに集まる女は、彼自身ではなく、彼の持つ金のことしか見ていない。それだけに彼は、自分を見てくれる女に飢えている。

 カエデは現金には目もくれず、ワインを(たしな)んだ。

「ありがとうございます。私、こんな札束持ったの初めて。会長大好き」そう言って一人の女が抱きつくと「私も」などともう一人の女も会長に抱きついた。

 鈴原は伸ばした鼻の下を隠そうとせず、二人の女の腰に手をまわした。そしてすぐにこちらに視線を向けると、怪訝そうな顔をした。

「どうした? お前は嬉しそうじゃないな」鈴原はカエデに訊いた。

「いいえ。嬉しいですわ。少し、やきもち妬いてしまって」

「ああ、そうか、悪かった」そう言って鈴原は、両脇の女の腰から手を離した。「今日は、お前のために二日早く誕生会をしたんだ。あとでのお前との時間はつくっている」

「そんな気配り、もったいないです」そう言ってカエデは微笑した。

 彼女は金でもなく、会長でもなく、鈴原秀善という男を見ていた。

 鈴原は純金製の腕時計を見て言った。「もう、こんな時間か。今日はもう帰るかの」

「はい」と鷲津が返事をした。

「ええ? もぅ帰っちゃうんですかぁ? 会長」

「会長、もっと飲みましょうよぉ」

 二人の女が心にもないようなことを言った。傍から見れば、それはみえみえで滑稽であった。しかし当の本人ともなると、中々気付かないものらしい。いや、鈴原自身気付いているのかも知れない。だからこそ、カエデがそこに付け入ることが出来たのだ。

 カエデはワインを片手に薄く笑った。

「すまねぇなぁ」と鈴原は、膝に手をあて立ち上がった。「今日は、大事な日なんだ」

「はぁい。会長、またねぇ」

「またねぇ」

 女達は札束を片手に持ち、そしてもう片方の手をひらひらさせ鈴原へ別れの挨拶をした。

 鈴原が立ち上がると同時に、複数の組員達が出口まで一斉に並んで道をつくっていた。

「おう。また会おうねぇ」そう言って鈴原が踵を返したとき、カエデも静かに立ち上がった。そして口元に人差し指を縦にすると、女達の前に自分がもらった現金を置いた。目の色を変えてそれに飛びつく女達を尻目に、彼女は鈴原のもとへと向かった。

「おい」と鈴原が言った。

「はい。何でしょう?」鷲津は訊いた。

「今日の誕生祝いの品と現金、俺の家まで届けてくんねぇか?」

「はい。会長は?」

「今日は、大事な日だと言ったろ。ボディガードもいらん。あと、女房には上手く言っといてくれ」

「分かりました」そう言って鷲津は踵を返すと、整列する組員の中から三人ほどを呼びつけた。彼等に事情を説明したあと、鷲津は鈴原の後ろに付いた。

「どうした」と鈴原は訊いた。

「いえ、出口までは見送りを」

「ああ、そうか」そう言って鈴原は、やれやれといったふうに首の後ろを掻いた。そのあと、となりのカエデに向き直った。「では、行こうかね。カエデ」

「はい」

 鷲津に支持された三人は、鈴原の誕生祝いの品々と現金をまとめていた。

 二人はラウンジを出た。出口では深々と鷲津が礼をしている。二人は歩いて鈴原の所持するラブホテルへと足を進めた。

 鈴原には、ほぼ誰かが側に付いているうえ、車の移動がほとんどだ。彼がこうして女と二人で街を歩くのは、随分久し振りのことのようだった。

「会長、腕を組んでもよろしいですか?」鈴原の顔を覗き込んでカエデは訊いた。

「ああ。カエデ、二人っきりの時はシュウと呼んでくれと言っただろ」

「はい。シュウ」そう言ってカエデは、鈴原の腕を組み、頭を彼にあずけた。


 通りの人達から見れば、不倫のカップルのようにも見えるだろう。実際、その通りなのだ。鈴原秀善がカエデと初めて会ったのは、自分の経営するラウンジだった。会長である自分に色目を使う女は、大抵が金目的だ。ラウンジの女達も例外ではなく、先程の誕生会と同じように、彼が差し出す金に目の色を変えて飛びついてきた。

 ただ、カエデだけは違っていた。金のために、媚び、尽くす女達をよそに、差し出す金を彼女が受け取ることは一度としてなかった。そして気が効くばかりか、自分の話に静かに耳を傾けるのだ。そういった女に鈴原が次第に惹かれていくのはごく自然の事だった。

 二人はラブホテルに入り、会長専用のプライベートルームでワインを嗜んだ。大きな一枚ガラスの窓際に、テーブル越しに向き合う形で二人は椅子に腰掛けていた。

 ホテルの最上階にあるこの部屋は、見事な夜景を一望出来る。その夜景を見ながらカエデと嗜むワインの味に、格別な美味しさを鈴原は感じた。

 二人の関係は誰にも秘密だ。勿論、さっきの男、鷲津にもだ。ただ自分が執心していることは、傍から見れば誰でも判るだろう。察してはいるようだ。だがカエデが一体何者であるかは、鈴原自身を含め、誰も知らなかった。

 徐々に知っていけばいい、彼はそう思った。これから、長い付き合いになるんだ。徐々に知っていけばいいじゃないか――。


「シュウ、先にシャワー浴びてくださる?」ワインを片手に夜景を見ながらカエデは言った。

「カエデ、一緒に入ろうや」鈴原は言った。

「一緒に入るのは、終わったあとでね」

「今からじゃ駄目なのか?」

「楽しみは、あとの方がいいでしょ」

「分かったよ、カエデ」そう言って鈴原は立ち上がった。「シャワー浴びてくる」

 カエデに促されるまま、彼はシャワーを浴びに浴室へと歩きだした。その後ろ姿に向かってカエデは言った。「ごゆっくり」

 鈴原は浴室に入ったようだ。シャワーの音が微かに聞こえてくる。カエデはグラスをテーブルに置いた。そして部屋を物色し始めた。まず、ダブルベッドの向かいにあるクローゼットを開けた。そして首を横に振ったあと、バーを模したカウンターの中へと入った。その後ろの酒の並ぶショーケースを開けた。続けてショーケースの下の引き出しを開けたとき、彼女は目当てのものを見付けた。

 これでいいわ――。

 カエデはアイスピックを手に取った。酒を飲むのに必要な、氷を砕くためのものだ。彼女はアイスピックをポケットに忍ばせようとした。そして気が付いた。ポケットのあるコートは椅子に掛けられたままなのだ。タートルネックのセーターとミニスカートには、ポケットは付いていなかった。

 すぐにシャワーを浴びるのに、今さらコートを羽織るのも不自然すぎる。どうしようか考えあぐねているとき、「カエデ?」と呼び掛けられる声にはっとした。

 鈴原がシャワーから戻って来たのだ。カエデは慌ててアイスピックを背中の後ろに隠した。白いガウン姿の彼はいぶかしげな顔をしている。

「じゃぁ、シュウ、次は私がシャワーに入りますわね」右手を後ろに回したままカエデは言った。「電気消してらしてて」

「なにしてたんだい」と彼は訊いた。

「ちょっと酔っちゃったみたいだから、冷たいお水飲もうかなって」

「なんだそうか」そう言って鈴原は、しゃがみこんで冷凍庫のドアを開けた。そして握り拳ほどの氷の固まりを取り出した。「これは南極の氷なんだ。これで飲むウィスキーは格別だ」

「お気遣いなさらずに、お水ていどでそんな氷もったいないわ」

「まあ、そう言うな」言いながら彼は、冷蔵庫からペットボトルの天然水を取り出した。氷を台の上に置くと、水をグラスに注いだ。続いてこちらに歩を進ませる。

 カエデは後ずさった。そして鈴原の目当てのものが何なのかを悟った。それは彼女の後ろ手に持たれているものにほかならない。

 彼はショーケースの下の引き出しを開けた。そして首を捻った。「おかしいな……」

「どうか……したの」カエデは訊いた。声が震えた。

「いや」と言って彼は引き出しの中を漁った。「ここにアイスピックがあったはずなんだが」

 やはり鈴原はアイスピックを探していた。カエデはそれから彼の気を逸らせることを考えた。

 それよりも、とカエデは言った。そして彼に近づく。「早くお水飲みたいわ。シャワーも、早く浴びたいし」彼の頬を左手で撫でた。

「そうだな」そう言って彼はカエデのスカートの下、内腿に手を這わせた。彼女はそれを左手で静止して言った。「お水、まだです?」

「あ、ああ」

 鈴原は名残惜しそうに踵を返すと、水を注いだグラスを持ってきた。その水を一口飲んでからカエデは言った。「シャワー、浴びできますわね」

「ああ。早く戻って来ておくれ」

「そうしますわ。シュウは先にベッドに入ってて」

 分かった、と鈴原は頷いた。そして彼がベッドに入ったのを確認してから、カエデはアイスピックを隠しつつ、浴室へと向かった。

 脱衣所の洗面台にアイスピックを置くと、カエデは服を脱いだ。

 不意に、カエデは鏡に映る裸の上半身を眺めた。そこに映る二つの膨らみ、そのうちの一つに手を這わせる。何も感じなかった。

 まるで意思を持った人形ね――。

 鏡に映る自分の姿を見て、カエデはそう思った。

 カエデは浴室に入るなり、シャワーの温度を調節した。汗をかけず、体温調節の出来ない身体だ。温水をかけ続けるのは体温上昇につながる。蛇口を捻った。シャワーの水は首もとから全身をつたった。

 昔の自分なら、これを気持ちいいと感じたはずだ。だが今の自分には、熱を感知することさえ出来ない。温かいと思うことも、シャワーの水しぶきが皮膚を心地良く撫でる感覚――それさえも味わうことが出来ない。

 カエデはシャワーを顔からかぶった。顔をしかめることもなかった。

 その時――。

 シャワーの流れる音に混じって、後ろからドアの開く音がカエデに聞こえた。ホテルの浴室に鍵は付いていない。気が抜けていた。予想出来るはずだった。

 恐る恐る彼女は振り返った。

「来ちゃったぁ。カエデ」

「どうして……」

 カエデの視線の先には、腹の贅肉を揺らし下品な笑いを浮かべる裸の鈴原の姿があった。そのまま彼はシャワーを浴びるカエデに後ろから抱きついた。

「カエデ、よく見るとお前、痣だらけじゃないか。どうしたんだ?」

「いえ、昔、色々ありまして」カエデは身を萎縮させて言った。

 鈴原はカエデの尻に自分のモノを押し当てていた。彼女には感覚がないためそれが分からなかった。ただ鏡に映る姿から、おおよそは察しがついた。

「カエデ」鈴原が耳元で囁いた。「口で元気にしてくれないか?」

「えっ」

「聞こえなかったかい? 口でしてくれよ」

「今から……ですか」カエデは訊いた。

「決まっているじゃないか」

 カエデは焦っていた。彼女は勿論、口の感覚もない。食事中、自分の舌を噛んでしまうほどだ。そのため、彼女の今の主な食事は流動食を摂っていた。そんなカエデが、男のモノを咥えれば大変な事になることは明らかだ。武器を持っていない今、女の力では男に対処出来るわけがないのだ。

 どうしよう――。

 耳元からは、鈴原の酒臭い息遣いが聞こえていた。幸い、彼は洗面台の上のアイスピックに気付いてはいないようだ。

 カエデは意を決した。蛇口の横の温度調節のノブを回す。シャワーの温度を高温全開にしたのだ。熱湯となったシャワーは、自分ごと鈴原に浴びせ掛かった。

「ぎゃあぁぁっ」と鈴原が悲鳴を上げた。

 カエデの皮膚は、みるみる赤く膨れ上がる。目にも熱湯が入ったらしく、右目からの視界は白くぼやけ始めた。

 一方鈴原は、熱湯の熱さに耐え切れず、その熱さから逃れるように空の浴槽に転げて悶えていた。そして全身の焼け付く痛みを和らげようと、浴槽の蛇口を捻り、身体に冷水を浴びせ掛けている。彼は訊いた。「どうしたんだっ、カエデ」

 しかしカエデは答えない。浴室内は熱湯の湯気が立ち混めた。片方しか見えないカエデの視界は余計に遮られる。

 ひとまず、この場を、武器を――。

 カエデは見える片目を頼りに脱衣所へと駆け込もうとした。途端、太い枝が折れるような乾いた音が足元から聞こえた。それと同時に、カエデの視界が急転した。脱衣所の洗面台を見ていたはずだった。ところがその視界は、床に置かれた脱衣カゴを捉えているのである。すぐに理解した。脱衣所に出る際、段差に足を引っ掛けてしまったのだ。

 カエデの左足は、(すね)辺りから在らぬ方向を向いていた。乾いた音の発生原は、その足の折れる音にほかならい。

 だが自分の足が折れているということに、彼女はこの時気付いてはいなかった。

「カエデ……何をしている?」

 鈴原がシャワーを止め、カエデに詰め寄った。彼は自分の身に起きた一瞬の出来事に、状況が理解出来ないといった感じだ。

 浴室の湯気に覆われ、腹の出たその鈴原の真っ赤な身体は、まるで鬼のようにカエデに見えた。

 彼女はアイスピックを取るため立ち上がろうとした。しかし足が折れていることを知らない彼女は、折れた左足を床に付けたのだ。当然、折れた左足はカエデを支えることが出来ない。そのまま彼女は倒れ込み、ガンッという鈍い音を脱衣所に響かせた。倒れる際、洗面台で頭を強打したのだ。カエデの頭からは血がどろどろと流血し始めた。

 それでもカエデは、アイスピックを片手に取っていた。だが片眼だった視界に、流れ出る血が彼女の視界を奪う。そのうえ、頭を強く打ったショックか、脳震盪(のうしんとう)を起こしふらふらと頭が揺れる。

 最悪だ、失敗か――。

 カエデは後悔していた。機会は今までに幾つもあったはずだ。これならば、鈴原がアイスピックを探していたあの時に決行すべきだった。少なくとも、あの時の彼は隙だらけだったのだ。

 帝劉会系列紫劉一家、会長、鈴原秀善――その暗殺を使命とし、数週間に及ぶ綿密な計画だった。だがカエデは鈴原に何をされたわけでもなく、ほとんど自滅という形で最悪の状況を迎えていた。

 視界は遮られ、片足は使い物にならない。そのうえ、軽い脳震盪まで起こしてしまっている。絶望的だった。

 しかしどういうことか、鈴原の近づいてくる気配がカエデには感じられないのだ。白くぼやけた視界の先には、浴室内で微動だにしない彼の影があった――。


 鈴原はその場で茫然と立ち尽くしていた。身体中にじんじんとした痛みを感じながら、彼はただ目の前で奇怪に踊る、裸の女を呆然と見ていた。

 彼はカエデのことを深くは知らない。これから知っていこうとしていた。彼女の全てを早く知りたいがために、浴室に入った矢先だった。彼女に惹かれ、恋心があったのも事実だ。それだけに、鈴原から見ればこのカエデの一連の動きが異様だったのだ。

 自らも一緒に熱湯を浴びせ、脱衣所へ向かったかと思えば、物凄い音と、乾いた骨の折れる音と共に彼女は脱衣所へ倒れ込んだ。そして起き上がったかと思えば、また倒れ、頭を強打し血塗れになっているのである。

 さらに、その女の目は開いているというのに、きょろきょろと視線が定まっていない。這いつくばり、水に濡れた長い髪を地に這わせ、血塗れの頭を左右に振り、まるで獣のように辺を警戒するその様は、滑稽でいて(おぞ)ましかった。

 こんな光景を目の当たりにすれば誰でも固まってしまう。解らないのだ。そもそも、何故熱湯を掛けられたのかも、この女が、何故勝手に自滅しているのかも、彼には全く理解出来ない。気が触れているとしか思えなかった。

 ただ怖かった。これだけの傷を負いながら、声一つ上げないこの女に、鈴原は恐怖を感じていた。まるで、ゾンビを見ているような錯覚さえ覚えるのだ。

 這いつくばりながら、カエデが浴室へ戻ってくる。血だらけの女が、折れ曲がった足を引きずり、地を這う、その様は異様だった。

 そして鈴原は、この時に初めて気が付いたのだ。彼女の手に、失くなったはずのアイスピックが握られていることに――。

「うわぁぁっ、くっ、来るなっ」鈴原は腰が抜けヘタリ込んだ。

 その声が命取りだったということに、彼は後で気が付いた。カエデの視界は見えていないのだ。彼女は声のする方へと前進するように自分に向かってくる。

 相変わらず、きょろきょろと鳩のように頭を右へ左へと動かしている。額からは、あぶくを出しながら血が流血していた。折れた足は、有り得ないところから斜め上に折れ曲がり、紫色に膨れ上がっている。四つん這いでその足を引きずり、血に濡れた髪を引きずりながら、裸の女が自分に近づいてくる。

 動けない。腰が抜けて、立ち上がることさえ出来ない。

「ぅ、うわぁ、ばっ、化け物ぉ、来るなっ……」

 最初に痛みを感じたのは、太腿だった。「ぎゃぁぁぁあっっっ」

 そしてすぐに、次は腹部に激痛を感じた。その後、彼自身、視界が失くなった――。


 血で遮られていた視界が戻り出す。右目は白く霧がかったままだが問題ない。

 最後の仕事……しなきゃ――。

 カエデは動かなくなった鈴原の姿を見て呟いた。彼はアイスピックで全身を刺され息絶えていた。

 身体の血は目立たないが、顔周辺ともなると、目は抉れ、歯はぼろぼろだ。鼻はその穴の数を数個増やし、原型をとどめないその顔は(いびつ)なものだった。

 カエデは最後の仕事に取り掛かるため、アイスピックを手に持とうとした。だがそれを持つ事が出来ない。彼を刺し殺す際、勢い余って右手首が折れてしまっていることに、彼女は今さら気が付いた。仕方なく、彼女は左手にアイスピックを持った。そして鈴原の首元を裂き始めた。

 心臓はもう止まっているため、血が勢い良く噴き出すことはない。鈴原の首から流れ出た血を、左手で掬い取った。そして、タイルの壁に大きく文字を書く。


  ――ZERO――


 終わった――。

 彼女は浴槽を背もたれに天井を眺めた。

 両目の視界を失くしたあの時、もう駄目かとカエデは思った。しかし同時に零が悲しむと、そう思ったのだ。あとは、無我夢中だった。気配を、声を頼りに鈴原目掛けてアイスピックを振り下ろした。

 激しい運動に加え、手足も骨折している。意識は朦朧としていた。体温調節が出来ない身体は、異常なほど発熱しているのだろう。

 今日で、私の人生も終わりなのね――そう思ったとき、胸に忘れたはずの痛みを感じた。人生の最後に彼女が思い浮かべたのは、両親でもなく、かつての恋人でもなく、零という本名も知らない男のことだった。

 どうして私、零が悲しむなんて思ったのかしら。

 どうして、零が悲しむと、私が辛いんだろう。

 零、私が悲しいと、零も悲しい?

 私の心は、壊れてないのかしら……。

 零……逢えてよかった……サヨナラ――。

 カエデは、自分の喉元にアイスピックを突き刺した。


「零? 泣いてるの?」

「どうしてだい?」

「だって……零、悲しい顔してる」

「おかしなことを言うなぁ、ユリは。ボクにはもう、感情がないんだよ……」


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