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  作者: 中邑あつし
第一章
26/36

8・怪物

 八・怪物



 柚木とチサは、事務所を出て家路を辿っていた。

 冬の帰路は冷たく、静かに二人の身体を冷やしていく。冷えたアスファルトは、裸足である二人の足を凍てつかせ、冷たい風が体温を奪い、手足の指を悴ませる。

 リハビリ途中の柚木の指は、余計に感覚を麻痺させ、痛みだけは、ジンジンとその指々に感じられた。冷たくなった手指を暖めようと、ズボンのポケットの中で、小刻みに手の摩擦を繰り返す。

 こういった、空気が乾ききったシンとした夜は、星空が綺麗なのだろう。ただ、今の柚木には、その星を眺める気にもなれず、指先を赤く変色させた足元にしか目がいかなかった。

 血に濡れていた足は、貸しビルの一回に備え付けてあった水道で洗い流した。それもあってか、凍るような冷たい水によって濡らされた結果、冷たい空気に晒され、両足にも、指先からジンジンとした痛みを感じさせた。

 ふと、制服の袖が引っ張られる。見ると、チサが柚木の制服の袖を摘んでいた。

「手、握って」

 チサが袖を掴む手が震えている。

 彼女の震えは、寒さからではなく、恐怖がまだ拭えないのだろう。

 無理もない。十八歳の少女に、今日の出来事は余りにも酷だった。未だに信じられない。ただ、冬の寒さが意識をはっきりさせ、二人にまざまざと現実を突き付けた。

「ああ」

 柚木はポケットから手を出し、チサの手を握った。

 夜風に晒されたチサの右手は、驚くほど冷たかった。

「暖い」

 寒さに熱を奪われていたチサの右手は、柚木の体温を求め、ギュっと彼の左手を握るのに力が入る。

 ただ寒いからだけというのではなく、脱衣所で感じた、人の温もりが感じさせてくれる「生」を、執拗に求めた結果だった。

 そして、冷えきった左手のせいもあってか、チサは、人の体温がこんなにも暖かかったのかと、冬の寒さによって初めて、彼女はそれを実感させられるのである。

 次第にチサの右手は熱を取り戻し、柚木の左手を暖めていく。

「私ね……」

「ん?」

 言いかけて辞めたチサは、思い詰め、決意にも似た表情を造っていた。それは、彼女が自分に話を聞く体制を、整えるための時間を与えているように感じられた。

「誠くんがあんな風になったのは、やっぱり、私にも少し原因があると思うの。誠くん、何もかも失くしたって言ってたよね。

 本当に、何もかも失くしちゃったと思ったのかもしれない。

 友達も……」

「ああ」

 柚木は、チサのせいではないと言おうとしたが、話の腰を折るのを辞めた。彼女は、話したがっている。

「誠くんはね、本当は凄く優しい人なの。心が、とても強くて」

「ああ。そうみたいだな。前に、お前と充からも聞いてたしな」

 柚木は充にも聞かされていたが、想像出来なかった。あの化け物が、チサが言うような人物に。

 けど、今日、時折垣間見せた誠の目は、優しい目をしていた。

 それ以上に、あんなに悲しい目をする人間を、柚木は今まで見たことがなかった。

「誠くん、色々なもの背負ってた。ずっと一人で。イジメとか、借金とか……。

 私と充くんがね、誠くんのことを友達だって言ったら、すごく喜ぶの。生きてきた中で一番嬉しいって。

 可笑しいでしょ。たったそれだけのことなのに。私達にとって、友達は普通に、自然と近くにいて、それが当たり前だって思ってた。

 それなのに、たったそれだけのことが、誠くんは何よりも大切だったの」

 チサは涙を浮かべ、柚木の手をより強く握り締めた。

「それから、誠くん、私達とよく会うようになって、すごく、本当に、すごく楽しそうに笑うの。幸せだって。誠くん、毎日、毎日傷だらけで虐められてるのに……。

 私も充くんも、誠くんにいっぱい幸せになって欲しくて、誠くんが笑うと、嬉しかった」

 柚木は、黙ってチサの話に耳を傾けるが、どうしたのか、チサは言葉を詰まらせている。

「……それから、充くんが死んじゃって……。私、すごく悲しくて、すごく落ち込んでて……、それでも、周りに気遣っちゃって、無理に気張って、もぅいっぱいいっぱいだったの。

 そんな時ね、誠くんと会って、誠くん、私を励まそうとしてくれたの。誠くんも、本当は凄く悲しかったのに。凄く落ち込んでたのに……」

 チサの目からは、ポロポロと涙が溢れ落ちていた。

「私ね、子供だから、誠くんの言ってる意味を理解出来なかったの。誠くんね、充くんの事、幸せだったって言ったの。私、充くん失った自分の事しか考えてなくて……。

 私、本当に、凄く酷い事を誠くんに言ったの。誠くん、凄く悲しそうな目をしてた……。すぐ謝ればよかった。けど、謝ったのは誠くんの方で……。

 私、誠くん置いて帰っちゃった。私が怒って帰ったから、誠くん、独りぼっちになって。あんなに友達が出来て幸せだって言ってたのにっ! 私が誠くんを独りぼっちにしたのっ!」

 チサは自分を責め立てた。チサは解っている。それだけが原因じゃない。それでも、全てを失くしたと言った誠に、支えてくれる友達が一人でも側にいたらと、あの時、彼から走り去った自分が許せなく、自責の念に駆られていた。

「誰もお前の事責めちゃいねぇ。誠だってそう言ってたじゃねぇか」

 柚木は、自分を責め、泣きじゃくるチサのその様を見ていられなかった。

「だって、その日なんだよ? その日の夜に、心中なんて……」

 柚木は愕然とした。よく、不幸は重なるというが、誠を取り巻くこの世界は、傷を癒す時間でさえも奪ってしまったのだ。

 ……なんてことだ……。一日のうちに誠は、友達、両親も失ったってのか……。

 だが、よく考えれば誠は柚木達の前で、次々と人を殺してみせた。相原誠は殺人鬼でもある。彼が、両親の二人を殺した可能性はないのだろうか。

「それも、誠が殺ったという事はないのか?」

「ううん。目撃者の証言と実況見分、現場検証の結果でね、父親は母親が包丁で……。母親はその包丁で自分の首を裂いて自害したらしいの。

 闇金による借金苦での無理心中だろうって、病院の人が教えてくれたの。誠くん。必死で、泣きながらお母さんの首抑えて、血を止めようとしてたって……」

 友達を失ったと思った誠は、その日の内に家族を失くした。

 彼が心を失ったとすれば、その時なのだろう。

 ……間違いねぇ……、誠を追い込んだのは金だ。

 誠の家族を心中するにまで至らしめたのは、金による、その無機質な苦しみからなのである。充の件に関してもそうだった。金に溺れ、金に取り付かれた汚い人間が、人の心、命を悉く食い潰したのだ。

「私、事件の事を知った後、誠くんが入院してる精神病院に行ったの。一言、謝りたくて。でも、誠くん見たら出来なかった。

 誠くん、昼は看護師の人が付きっきりで見張ってるの。夜は、ベットに手足を括り付けられて……。

 死のうとしちゃうんだって……。目を離したら。

 私、聞いちゃったの。誠くん、看護師さんに、死なせて下さい。死なせて下さい。って何度も……。

 私、その時、気付いたんだ。充くんの事、幸せだったって言う意味。始め、人が死んでなんで幸せなの? って、解らなかった。でもね、何もかも失って、死のうとしてる誠くん見たら、誠くんは、なんて不幸なんだろうって……。独りぼっちで死ぬなんて……。

 それっきり、誠くんとは……」

 人の心はどれだけの事に耐えうるのだろうか。

 もし、自分が誠と同じ不幸を経験したとして、果たして、自分は、その不幸に耐えうる心を持ち合わせているのだろうか。柚木は誠に対し、同情が芽生え始めているのを感じていた。

 だからといって、例え相手がヤクザであろうと人が人を殺していい理由にはならない。そして、その誠を見舞った不幸に対し、チサが責任を感じる必要はないのだ。

「そっか。それで、お前はここ最近、落ち込んでたってわけだ。それでも、お前は何も悪かねぇよ。

 誠が独りぼっちになったってのも、誠の早とちりだ。ただ、お前等は、ほんの少しすれ違っただけだ。本当に誠と絶縁したいって思った訳じゃねぇんだろ? どこにでもある、友達同士のすれ違いだ」

「でも……」

 チサは、ほんの少しのすれ違いだったとしても、あの時、誠を突き放した自分が許せないのだろう。その償いか、自分に罪を着せたがっていた。

「どんな理由にしろ、どんな相手だろうと、人が人を殺していい理由にはならねぇ。

 少なくとも、誠がああなった理由は、お前にはねぇ。あの怪物を目覚めさせたのは、他でもない、俺なんだ」

「どういうこと?」

「誠が言ってたの、お前も聞いてたろ。俺が入院したのは、あいつにやられたからだ」

「え?」

 チサはあの時、確かに聞いていた。いや、聞こえていたと言ったほうが正しいだろう。

 聞こえていたが、誠が話す言葉をただ、声としてしか認識出来ないほど、あの時のチサは錯乱状態にあった。頭がその声の内容を理解出来なかったのだ。

 チサは今、言われて初めてその声の内容を理解し始める。


『違うんだ。チサさん。俺、死のうと思ったんだ。その時にね、柚木君に会って、殴られて、殺されると思った』

『それで、思ったんだ。殺される前に俺も必死に足掻いてみようって。そしたら、喧嘩最強って言われてた、あの柚木君が、驚くほどモロイんだ。その時、俺の中に何かが生まれたんだと思う』


 確かに誠はそう言っていた。

 柚木に足掻いたと、そして柚木が驚く程、脆かったと。……「生まれた」と……。

「俺はあの日、色々な事が身に在りすぎた。ムシャクシャしてた。甲斐に裏切られ、ヤクザからお前んとこに、借金肩代わりにさせるって言われて、ヤクザ、半殺しにしちまった。俺も頭オカシクなってたんだ。何もかもどうでもよくなってた。

 たまたまだ。たまたまだったんだ。その時、そいつが誰かも知っちゃいなかった。肩がぶつかって、そいつの目が気に喰わなかった。気付いたら、……ぶん殴ってた。

 何て事はない。八つ当たりだ。ただ、憤りをそいつにぶつけた。止まらなかった。馬乗りになって、何発も何発も殴り続けた。気付いたら、立場が逆転してやがった。気付いたら、俺がさっきまで殴ってたそいつは、化け物になってた……」

 チサの手を握る柚木の手は、恐怖で震えている。

 柚木が誠に最も恐怖を感じたのは、自分が殺されることに対してや、彼が自分を殺そうとするその行為ではなかった。彼の人を殺そうとする時の目が、「死」を連想させたからだ。自分、他人とかいう個々ではなく、全体的な「死」そのものを……。

 その気になれば抵抗出来るはずだった。だが、誠のその目を見た瞬間、柚木は動けなくなっていた。

「俺なんだ。怪物が生まれるキッカケを造ったのは」

 柚木は歯を食いしばる。誠が怪物に至る原因は、不幸の積み重なりに外ならない。だが、最終的にそのキッカケを造ってしまったのは、自分なのだからと。

 結局は、柚木にしてもチサにしても、お互いがお互い、誠が壊れてしまったのは自分のせいだと思っていた。

「太ちゃんも、気にしないで」

「ああ」

「…………」

「…………」

「誠くん。……死なないよね」

「……ああ」

 柚木はチサに相槌をするが、実のところ、何とも言い難いかった。

 ただ、誠はもう、死ぬ事しか見い出せてないようだった。彼の目は柚木と会った時から死んでいたのだ。いや、誠は、母親が死んだ時に、もう死んでいるのかもしれない。

 ただそう思うも、柚木はチサの問いかけに対し、頷くことしか出来なかった。

「チサ……」

「何?」

「悪かったな、うちの借金で巻き込んじまって。怖かったろ。本当に悪かったと思ってる」

「気にしてないよ。そりゃ、怖ったけど。太ちゃんが守ってくれたから」

 ……ははっ。誠と同じ事を言いやがる。

「そっか」

「うん」

 柚木は、何も出来なかった自分が何故、チサも誠もそう言うのか理解出来なかった。彼にとって今日の出来事は、自分の小ささ、無力さをまざまざと痛感させられた。

 ……情けないが、俺は何もしていない。何も出来なかった。

 そんな柚木に、チサは守ってくれたと、誠は、「ありがとう」なんどと言った。チサを守ったのも、「ありがとう」って感謝されるのも、本当は自分ではなく、誠なのではないだろうか。

 ただ、柚木もチサも、それが言えなかった。それを言ってしまえば、彼のやった行為、人殺しを認めてしまうようで。

 チサが話してみせた相原誠は、美化しているのではないかと思えるほど、優しく、そして、純粋だった。そうであればあるほど、今日見た彼が、嘘であって欲しいと思ってしまう自分がいる。

 柚木は誠に対し、僅かな同情を覚えていた。それと同時に、人殺しに対し、その感情を少しでも抱く自分が常識として、異常ではないのかと葛藤してしまう。

 いっそ、チサの話す相原誠という人物が、憎たらしいほど醜悪であってくれたのなら、複雑にならずに済むのにと、柚木はやり場ののない感情を覚えていた。

「クシュンッ」

 チサが小さくクシャミをする。

「大丈夫か? すまねぇ、今まで気ぃ利かなくて」

 柚木は制服の上着をチサに羽織る。

「ありがとう。でも、それじゃ、太ちゃんが」

「気にすんな。寒さにゃ慣れてる」

「そしたら、今日缶珈琲飲めなかったから、自動販売器見つけたら、今度こそ温かい缶珈琲のもうね」

「ああ、そうだな。それがいい」

「私、温かくて、とびきり甘いヤツがいい」

「ああ」

 柚木は、静かに相槌をうった。

 ……俺も、今は甘いものがいい。

 別に甘党なわけではないが、今は甘く温かい珈琲で、中から身体を暖めるのは、少しでもあの惨状を忘れわせてくれるだろうと、柚木は思った。

 ふと柚木は、チサの歩き方に違和感があるのに気付いた。何かを気にしているのか、どことなく歩き方が妙なのである。

「それよりお前、なんか歩き方変だぞ」

 柚木がそう言うと、チサは、どうしてか顔を赤らめた。

 ……? なんか俺、変な事言ったか?

「だって、気持ち悪いんだもん」

「は? 何が?」

「……パンツ」

 チサは顔を真っ赤にして俯いている。

「へ? お前、まさか、また履いたの?」

「だって、あそこに置いていけないでしょっ」

 柚木は、顔を真っ赤にして声を張るチサが可笑しくて仕方なかった。

 今は、忘れたい。誠の事も。あの惨状も。だから、ほんの少しの事でも笑っていたかった。

「それにしても、制服と一緒に誠に頼めばよかったじゃねぇか」

「そんな恥ずかしいこと、頼めるわけないじゃないっ!」

 分かった上で、改めてチサの歩き方を見ると、柚木はまた可笑しくなる。

「それもそうだな」

「もぅ。いい」

 チサは、あからさまに不貞腐れそっぽを向く。

 柚木がチサの手を握ると、チサはそっと、その手を握り返してきたのだった。


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