7・惨状
七・惨状
終わった……。
時間にして、十分も経っていなのではないだろうか。ただ、体感では何時間も経った感覚さえ、柚木は感じられた。
凄惨な光景だ。部屋には五人の死体。床にはペンキを撒き散らした様に赤い血溜まりを造り、そして、寺田の喉から噴き出した血は、壁を真っ赤に染め上げ、天井からは、ポタッポタッと血が滴り落ちている。
そして、死屍累々のその中央に佇む、包丁を持った血塗れの少年……。
ただ、殺すことに執着した少年は、返り血を避けようとぜず、真っ向から包丁を振り回したため、身体だけに限らず、その顔にまで大量の血を帯びていた。
前髪の先端からは、未だに赤い液体がポタポタと、少年の制服を汚し、そして、床を汚す。
少年の頭は黒と赤で統一され、両目の白目だけが不気味に白く、黒目は相変わらずの死んだ目で、どこを見ているのか判らない。まるで、ホラー映画のワンシーンだ。
柚木は、ブラウン管の中の出来事を観るように、現実を逃避させた。一方チサは、放心状態に陥り、目は開いているものの、視界には何も捉えてはいないのだろう。浮き世離れした恐怖の現実に、付いていけない心を、どこか別の所に隠してしまったようだった。
少し、誠の目に似ていた。ただ、心を別の所にしまったチサは、この通りの放心状態。小振りな鼻からは、涙に混じるサラッとした鼻水と、無意識に開けられた口の端からは、涎を糸引き垂れ流し、空を見つめるその目は、どこを見ているのか解らない。
もし、誠が心を失くし、死んだ目をしているのなら、何故彼は平然と動いていられるというのだろう……。
二人の思考はどれほど停止されいたのか、いつの間にか、誠は一旦部屋を離れ、肌が露出している頭や手首などの部位を、水で洗い流していた。
ポケットに入れておいたのだろうか、血塗れだった軍手は、新しい物に変えられている。
誠が二人に歩み寄る。
「い、嫌っ…、来ないで……」
チサが我に返り、近づく誠に脅える。
その時、柚木は初めて、誠の目が悲しい目になっているのを見逃さなかった。
……こんな目も、するのか……。
「ごめんね、チサさん。怖かったよね……」
そう言うと誠は、佐伯のスーツの裾で包丁に付着した血を拭った。
彼は包丁をこちらに向け、二人の前にしゃがみ込む。
「い、嫌ぁ。殺さないでっ」
誠の目が、より一層悲しくなる。
「大丈夫だよ。ほら、背中向けて」
そう言うと、誠はチサの肩に手を回し、背中を向けさせると、ブチッ、ブチッと音を立てて、彼女の縛られていた縄を包丁で切った。
その間、チサは自分の顔を目一杯彼から逸らし、ガタガタと身体を震わせ、彼への拒絶を示した。
かつて、「友達だよ」と屈託のない笑顔を誠に見せた少女は、今は、こんなにも彼を拒絶している。彼の心中はどんな気持ちなのだろう。
因果応報という言葉がある。その因果は起こるべくして、過去の物事に連結している。彼女の反応は、ごく普通で当たり前の反応だ。誠の行動のもたらした結果に過ぎないのである。
例えそれが、二人を助けるための行動であったとしても……。
「さぁ、次は柚木君の番」
そして次は、誠に促されるまま、柚木は自分から彼に背を差し出した。チサに同じく、柚木の縄も包丁で切られ、はれて彼の両手は自由を取り戻したのである。
縛られ、執拗に藻掻いた抵抗の後は、手首に赤黒い痣となって、彼の手首に形を残していた。
「何故……、俺達を助ける?」
柚木は落ち着きを取り戻し、それと同時に数々の疑問が湧いて出る。そもそも、何故誠はここに来たのか、何故、いとも簡単にヤクザを殺してみせたのか。何故……、考えれば切りがない。
「判らない。ただ、死ねるって思ったんだ」
質問の答えになっていない。誠は何を言っているのか、柚木はますます彼が解らなくなる。
「誠くん、どうして? こんなこと……」
チサも落ち着きを取り戻したようで、誠に疑問を投げ掛けるが、チサは未だに彼と目を合わせようとしなかった。
「人はさ、何もかも失くしたらどうなると思う? どうでもよくなるんだ。自分の命も、人の命も。俺、心まで失くしてしまったんだと思う」
「私の、せい……」
「どうして? チサさんは関係ないよ」
「私が、誠くんを独りぼっちにしたから……。ごめん…な…さい、誠くん…、ごめんな…さい……」
チサは、誠がこうなった理由に、自分が起因していると思ったのか、泣き崩れ、その口からは、途切れ途切れの謝罪の言葉が吐き出された。
……何を言ってる。お前のせいなわけないだろ。コイツは元から化け物なんだ。
結果的に助けられてはいるが、人殺しに見せる涙なんかないと、
柚木は、目の前にいるこの男のせいで苦しみ泣く、チサを見ていられなかった。
「チサ、お前のせいじゃない。コイツは頭がイカレてんだ」
「柚木君の言う通りだよ。チサさん」。
「私が…あの時、私が…誠くんを……」
チサは、二人の声が耳に入っても、まるで、誠を怪物に仕立て上げたのは自分だと言いたいように見える。
……チサ……、前にもそんな事を……。
チサは彼に対し、一体何を抱えていたのだろうか、柚木は、彼女のその取り乱し様に気が気でなくなる。だが、何があったにせよ、誠がこうなったのは、彼自身の問題であって、チサが自責の念に狩られることではない。
柚木は、彼女の肩に手を回し、自分に引き寄せ落ち着かせようとする。ヌメッとした感触が彼の手に捉えられた。先程のヤクザの返り血だろう。背筋にゾクゾクと気持ち悪い寒気が走る。それでも構わない。柚木は尚、彼女を強く自分へ引き寄せる。彼女に少しでも人の温もりを与えたかった。
「違うんだ。チサさん。俺、死のうと思ったんだ。その時にね、柚木君に会って、殴られて、殺されると思った……」
泣き濡れるチサに見兼ねてか、誠は、自分のこうなった訳を語り始めた。
……あの時か。
柚木に、忘れることの出来ない、初めて恐怖を植え付けられたその日の記憶が甦る。結果、殺されかけたのは自分だった。
「あぁ、俺、死ぬんだって思った。でも、それもいいかなって。藤井君の親友、柚木君に殺されるんなら、それもいいなって。
だけど、頭に、蝶が浮かんだんだ……」
……チョウ? 確かあの時、コイツはそう呟いて……。
「前にね、蜘蛛の巣に絡み付いた蝶を見付けてさ、そいつ、必死に藻掻くんだ。無駄なのに。藻掻けば藻掻く程、蜘蛛の糸は羽に絡み付いて。でもさ、諦めないんだ。必死に、必死に藻掻いてさ。
だから、可哀想になって、蝶を助けたんだ。でも、蝶の羽、もぅ、ボロボロで。結局、蝶は救えなかったんだけど……。
話逸れちゃったね。それで思ったんだ。殺される前に、俺も必死に足掻いてみようって。そしたら、喧嘩最強って言われてたあの柚木君が、驚くほどモロイんだ。その時、俺の中に何かが生まれたんだと思う」
……他の誰でもない、俺が怪物を造っちまったってわけか。
「俺の…せいか……」
「あ、ごめん。柚木君のせいとか、そんなつもりじゃなっかったのに」
「気にすんな、気持ち悪ぃ。どうって事ない。つぅか、どうすんだ?これから」
自分を気遣い、謝罪の言葉まで口に出したこの男に、柚木は異様な居心地の悪さを感じた。
誠の起こした、この余りにも奇怪な行動に混乱し、現状を忘れていた。人を尽く惨殺し、柚木自身も、過去に恐怖を植え付けられたこの男が、優しく縄を解き、気持ち悪いことに自分に「ごめん」などと詫びを入れるのだ。
その言葉遣いは先からずっと片言で、まるで小さな子供と話しているようにさえ、柚木に感じさせた。
ただ今は、悠長に話をしている場合ではなかった。柚木はそんな事より、早くこの血腥い場所から抜け出し、チサをこの場所から早く開放してやりたかった。
「そうだね。少しここで待ってて」
そう言うと、誠は事務所から出て行った。
彼がこのまま戻って来ない可能性もある。だが、柚木は何故か不思議と、彼がここに戻ってくると核心が持てていた。
柚木は、チサの様子が気になり伺うと、彼女は、両手で顔を覆いまだ泣き崩れていた。
「チサ、もう大丈夫だ」
柚木はそっとチサを抱き寄せた。
ガチャン。と玄関を開ける音が聞こえた。誠が戻って来たのだろう。部屋のドアが開くと、彼は大きなバッグを片手に持って入ってきた。
「これ、着替え入ってるから、男物だけど。チサさん、服、着替えないと」
チサの制服はヤクザの返り血が付いていた。この格好で外になど出られやしない。
誠がバッグを広げて見せると、中には男物の服が数着入っていた。
柚木が中を覗くと、無地のグレーのスウェットが上下であるのが見当たる。これなら、違和感なくチサも着られるはずだろう。
誠はガリガリで身体の線が細いため、チサが着るのに支障ははないだろう。
バッグの中の服には、そのどれもにタグが付いている。柚木は少しホッとした。洗ってあったとしても、人殺しが一回でも着た服を、チサには着せたくなかったのである。
「こっちの部屋に風呂があるみたいだから、血を洗い流して着替えるといい」
そう言うと、誠は風呂の場所を指して見せた。
彼が何故風呂の位置まで把握しているのか、柚木は疑問に感じられたが、問い詰める気は起きなかった。
今は、チサの血腥い制服を着替えさせることの方が優先すべきと判断したからだろう。
「すまねぇ。チサ、立てるか?」
「うん」
柚木は、チサを支え立ち上がらせようとするが、腰を抜かしたチサは、立ち上がることが出来ないでいる。
「掴まれ」
「ごめん。太ちゃん」
柚木は、チサをおぶって風呂場へ向かう。
「ばぁか。この時は、ごめん、じゃなくてありがとうだ」
「ありがとう。太ちゃん」
柚木は少しでもチサを和ませたいと、その一心で軽口を叩いてみせた。
背中におぶる彼女は軽く、そして、彼女が未だに身体の震えを止められずにいるのを、柚木は背中越しに感じ取られた。
……ちっ、足に血が纏わり付いてきやがる。気持ち悪ぃ……。
床におぞましく流れ出た幾人もの血が、柚木の靴下を赤く染めていく。靴下から染み入る血が、ネットリと足の裏に絡み付き、気持ち悪く吐きそうになる。
時折、その血で足を滑らせ、よろけながらも、柚木はチサを脱衣所まで運んでみせた。
柚木は、脱衣所にチサをゆっくりと降ろした。
「ここからは一人で大丈夫か?」
「うん。ありがとう」
柚木に降ろされたままの、座った体制でそう言うチサは、柚木の首に回した腕をどかそうとしない。
何人もの人が目の前で殺され、その「死」を目の当たりにした恐怖。その恐怖から逃れるための心の拠り所を、柚木の体温の温もりで感じていたかったのだ。いや、人の温もり、その圧倒的な「生」を感じることで、冷たい「死」を感じさせるのを辛うじて拒絶させていたに過ぎない彼女は、今、その「生」から離れるのが怖くて仕方ないのだ。
今、離れてしまえば、人を、ただの動かなくなった物体に変えてしまう、その「死」の恐怖が再び顔を出しそうで……。
「何なら、一緒に入っても」
「エッチ」
柚木の冗談にチサはほんの少し笑ってみせた。
まだ、恐怖はあった。けど、自分を励まそうと冗談を言う彼の温もりを少しでも感じられた。少し、笑ってみせるだけで気持ちは幾分楽になった。
「ちょっと待ってろ。着替え持ってくる」
そう言って、柚木は急いで脱衣所を後にし、少しでもチサを一人にしないようにと、すぐにバッグを持ち戻って来た。
「ありがとう」
柚木が自分に凄く気を遣っている事が判る。
行動、言葉、一つ一つが自分を励まそうと、元気付けようと。それが、凄く支えになっていることも切実に実感できた。
支えてくれる人が近くにいること、その大切さ、そのありがたさにチサはどれだけ自分が救われているかを実感する。
それと同時に、三ヶ月前のあの日、悲しい目をした男に背を向けた自分の行動が、その男に対し、自分には想像出来ないくらいの悲しみを与えてしまったのではないかと、罪悪感が胸を痛め付けるのだ。
「じゃぁ、シャワー終わって、着替えたら言ってくれ」
「うん」
チサが返事をすると、柚木は目を細め笑ってみせ、脱衣所から出ていった。
シャワーを流す音が聞こえる。
柚木は、部屋に戻ると血の流れていない場所を探し、そこに腰掛けた。
「チサさんを守ってくれて、ありがとう」
柚木が座るのを確認した後、誠は突如、彼に対し礼を言うのだ。
……ちっ、何て優しい目をしてやがる……。
柚木の目の前に居るこの男が、今の、この様を生み出した者と同一人物とは、彼にはどうしても思えなかった。そう思わせないほど、今の誠は優しく澄んだ目をしていたのだ。
これが、チサや充の言っていたような、本当の誠の姿なのかもしれない……。
「俺は、何も出来なかった」
「ううん。柚木君は、しっかりチサさんを守ってたよ」
「よせ。俺はただビビってただけだ」
「柚木君がいなかったら、チサさん、壊れてた。柚木君、ずっとチサさん励ましてくれてから」
さっきまで、ヤクザを次々と殺していた殺人鬼は、驚くほど涼しい顔をしている。
……ちっ、何なんだこいつは……。
調子が狂う。どうしたら、あんな惨劇を起こした直後で、これほど冷静に涼しい顔をしてられるのだろう。
その言葉の一つ一つは、柚木を気遣う優しい言葉遣いだが、死屍累々の光景を目の当たりにする中、まるで人間味を感じられなかった。
「もう一度聞く。何故、俺等を助けた。どうでもよくなったんだろ?人の命も」
柚木は誠の行動に対する違和感が拭えず、同じ質問を問い掛けた。
「だって、いい人だから。二人共」
「いい人? チサはともかく、俺は、お前を出会い頭にボコボコにしたんだぞ」
柚木には、どうしても誠の行動に納得が出来なかった。
始めは、チサを助けるついでかとも思った。チサの友達である自分を助けないわけにはいかないため、そのついでに、結果的に自分が助けられた。それは誠の放った言葉から、チサを執拗に気にかけているのが理解できたからだ。
しかし、今、誠は、自分にまで感謝をし、「ありがとう」などと礼を言うのだ。彼は始めから、自分の事も助けるつもりだったのだろうか。
「柚木君はいい人だよ。だって、チサさんと藤井君の友達じゃないか。藤井君、柚木君の話、いっぱい聞かせてくれたんだ」
「テメェが死ぬかもしれなかったんだぞ。自分の命を掛けてまで、どうして俺達を助けた」
「言ったろ? 自分の命もどうでもいいって。それに、あの時柚木君が声を掛けてくれなかったら、僕は殺されてた」
相変わらずの涼しい顔で、誠は自分の命をどうでもいいと言うのだ。
……どうでもいいって……。
誠は、この男は本気で言っているのだろうか。だとしたら、この男は言った通り、本当に心まで失くしてしまったのかもしれない。それは、柚木が彼に聞かされる前から、彼の何も捉えていない目から、まざまざと痛感させられていた。
皮肉にも、柚木に命の掛け替えのなさ、生きていることの大切さを実感させた男は、誰よりも自分の命を粗末にしていたのである。
「お前、これからどうするつもりだ。死ぬつもりか?」
「…………」
誠は答えない。
「おい。死なせねぇからな。自首するんだ」
柚木は、何故自分がこの男の死を止めようとするのか判らなかった。
今目の前にいる男は化け物だ。既に七人もの命を奪っている。一瞬で、躊躇いなく繰り返された殺しの一つ一つは、許されるべきものではないのである。
……何故……? チサが悲しむから? 判らない……。
「…………」
誠はただ黙っている。
彼は間違いなく死ぬつもりだ。ここにも死ぬつもりで来ていた。二人を助けるために来たことも間違いではないが、結果的に死ぬことも望んでいたのだ。ただ、今はこうして、生き残ってしまっている。
ただ、柚木の前で死ぬとは言えなかった。誠の口から、それを言わせないほどに、彼は「生」に満ち溢れていたのだ。
「太ちゃん」
着替え終わったのか、チサの呼ぶ声がした。
「おう。今行く。」
柚木は、チサを迎えに行くため立ち上がる。
今まで、誠を見ていた柚木だったが、チサのいる脱衣所を目指すとなると、なるべく見ないようにしていた、無残に転がるヤクザの死体の数々が嫌でも目に入ってくる。
彼はまた靴下を血で濡らしながら、ヤクザの死体を縫って歩いていく。死体の脇を通る時、その死体の腕が自分の足を掴んでくるのではないかと、有り得ない恐怖が彼を責め立てた。
脱衣所に入ると、スウェットに着替えたチサがドライヤーで髪を乾かしていた。
こっちは急いでこの場から離れたいというのに、しっかりとシャンプーまでしているチサを見て、柚木は、意外と女の方が図太いのじゃないかと思えた。だが、よくよく考えると、ヤクザから流れ出た血は、チサの髪まで汚していたのだ。実際は、いくら洗っても洗い足りないくらいだろう。
ドライヤーの暖かい温風に乗せられて、チサの髪からシャンプーの匂いが柚木の鼻に運ばれる。その香りと、彼女の濡れた髪の色っぽさに一瞬心を奪われそうになる。
だが、チサの足元の血に汚れた制服を見て、また一瞬で現実に引き戻される。
「チサ、ほら背中」
髪を乾かし終えた、チサをおぶろうと柚木は、腰を降ろして背中を差し出した。
「もう、自分で歩けるよ」
「バカヤロウ。俺の足見てみろ。それじゃ、シャワー浴びた意味ねぇだろ」
「ありがとう。太ちゃん」
そう言って、チサは柚木の背中に身体を預けた。
シャワーで暖められたチサの体温と、半乾きの髪から香り立つシャンプーの匂いが、今起きている現実を少しでも忘れさせてくれる。
苦おしいほどに、「生」を実感させられる。
チサをおぶり、洋服の入った黒いバッグを片手に持つと、柚木は脱衣所を後にした。
「で、これからどうするんだ?」
柚木は誠に尋ねた。
「後は俺に任せて。柚木君達は帰っていいよ」
「お前は、どうすんだ?」
「心配しないで。俺の事より、チサさんの心配をしてあげて」
「ちっ、テメェの心配なんかしてねぇよ」
「そうだね。柚木君はそのままチサさんをおぶって行ってあげて」
「言われなくてもそうする」
誠に指図されるのが気に食わず、柚木はいちいち噛み付いてしまう自分がガキに思えてくる。異様に落ち着ついている誠の姿が柚木にそう思わせてしまうのだ。
「うん。チサさんは事務所を出るまで目を閉じてて。玄関にも、二人の死体があるから」
「…………」
チサは黙って顔を伏せ、誠と目を合わせようとしない。頑なに彼を拒絶しているようだ。
「分かった。目は閉じさせる」
柚木がチサの変わりに答えた。
「柚木君は、玄関出たら靴下を脱いで玄関に投げ捨てて。俺が処分しとくから。血の付いた靴下、履いとけないだろうし。あ、チサさんの制服は?」
「脱衣所だ」
「悪いけど、制服は置いて行って。それも処分しとくから。予備はまだ持ってるんでしょ?」
「チサ。どうなんだ?」
柚木は、チサが誠に返事をする間を与えず、もう一度、彼女に制服の予備があるのかを尋ねた。
チサの気持ちを察してだろう。彼女は誠を執拗に拒んでいる。この状況で、平然と誠と話を出来る方が普通じゃないのだ。
「うん。持ってるよ」
「そっか。じゃぁ、もういいよ」
「ああ。分かった」
そう言うと、柚木はバッグを降ろして玄関へ向かう。
玄関へ出ようと、部屋のドアノブに柚木が手を掛けた時、誠は二人の背中に、一言、小さく呟いたのである。
「……さよなら…………」
その声が、余りにも悲しく。余りにも寂しく。余りにも優しくて……。
「誠くんっ! ごめんなさい。私……、友達だから! ずっと、今も、友達だからっ!」
「チサ。行くぞ。目を閉じろ。チサ!」
チサは張り詰めた糸が切れた様に泣き喚く。
自分のせいで誠を変えてしまったという罪悪感を抱きつつも、恐怖で彼を拒絶し、遠ざけた。それは当たり前の行動だ。普通なら近くにいることでさえも嫌悪する。
それに対し、この猟奇的殺人を犯した相手に、友達と言うのは常識的にも異常なのだろう。
何人もの人を殺した誠は、化け物に違いはない。違いはないが、彼は、自分にずっと優しい言葉を掛けていた。彼に恐怖の感情をぶつけようとも、自分がどんなに拒絶を示そうとも……。
思えば、あの時も自分は、彼を拒絶してしまったのだ。夕暮れの公園、気落ちしていた自分を慰めようと、元気付けようとしていた彼を……。
『分かったような事言わないで!』
何も分かってないのは自分の方だった。
自分のことしか考えていなかった。自分が可哀想で……。彼は、誰よりも人の事を考えていたというのに……。
優しい言葉を掛けられようが、彼がもう昔とは違い、化け物であるということに何も変わりもないのかもしれない。でも、それでも、その男が、時折自分に向ける視線、言葉は、三人、公園で語り合ったあの時と、何も変わっていなかった。
ただ、ただ、どうしようもなく、チサは柚木の背中で嗚咽するしかなかった……。
「ありがとう。チサさん」
バタン。
部屋のドアは閉じられた。
柚木は玄関を出るとチサを降ろし、誠に言われた通り靴下を玄関に投げ捨てた。
玄関に柚木達の靴はなかった。多分、佐伯の車の中だろう。
柚木は、またチサをおぶろうと背中を差し出した。
「ありがとう。太ちゃん。でも、もぅ大丈夫。一人で歩けるよ」