15・ホウカイ
十五・ホウカイ
皮肉な事に、誠にとって初めて公園で出来た友達は、その公園で終わりを遂げた。友達としての期間は、たった数週間だった。
……そう、たったの数週間かじゃないか。
誠は、何度もそう自分に言い聞かせた。
初めての友達は、他人で初めて自分に深く関わり、たった数週間という期間であっても、誠にその掛け替えのなさが重く伸し掛かる。
今まで、人生に闇ばかりを見てきた誠は、彼等と出会って、初めて生きてくことに光を見出していた。それまで、ただ繰り返されてきた毎日は、彼には絶望でしか無かったのだ。明日に希望など持てなかった。
ところが、彼ら友達という存在との出会いで、誠は、明るいこれからを夢見るほど、訪れる未来に希望を持てるようになっていたのだ。だが、彼はその友達も失ってしまったのである。
初めて友達が出来、友達を亡くし、友達を失くす。その出来事に、誠の心は耐えきれずに悲鳴を上げる。それがこんなにも辛いなんて。これならいっそ、始めから友達などいなかったならよかったのにと、彼は、その出会いですら否定しようとした。
気付いていた。幼い頃から。希望を持つと、それを失くしたときその何倍もの絶望が待っていることを。だから、誠は、何も求めてこなかった。そうやって傷付いてきたのだから。だが、頭で理解していようとも、心が意思に反してそれを求めてしまったのだ。人との触れ合い、温もり、愛を……。
……もう、そっとしておいて欲しい……。
誠は、このまま家に帰れば頭がおかしくなりそうだった。そう、家ではまた、あの二人が喧嘩しているに違いない……。
……お願いだから、今日はそっとしておいて欲しい……。
誠は、涙も乾ききぬまま、玄関のドアを開けた。
「ただいま」
中は真っ暗だった。まだ、父も母も帰ってきてないのだろうか。
窓から差し込む夕日の陽の光を頼りに、誠は薄暗い部屋の電気のスイッチを探る。
夕方の薄暗い部屋に電気を灯そうと向かった先で、彼は、現実とは思えない惨状を目にするのだ。
ドクンッ。
「な、何だよ……、これ……」
全身が凍りつく。呼吸が出来ない。景色が有り得ないくらいに歪む。吐きそうになる。心臓が痛い。締め付けられている。苦しい。苦しい。クルシイ……。
ドッドッドッドッ……。
「おかえり。誠」
母が誠に優しく答えた。
「何……してんだよ……、母…さん……?」
苦しい。息が出来ない。声が思うように出なかった。顎はガクガクと震え、自分の絞り出す声が、ちゃんと喋れているのかすらも判断出来ない。
景色の歪みは途端、目の前が真っ赤になり、背景はモノクロに変わる。視界に捉えたそれは、尋常じゃなく歪なものだった。
そこには、真っ赤な血を畳一面に流し染め、動かなくなった父と、血の着いた包丁を両手に持ち、座り込む母の姿があった。
……何だよ。ナンダヨ、これ……。ナンデ、ナンデ母サン、笑ッテルノ……?
誠は、自分がまるで異世界に迷い込んだのかと錯覚さえ覚える。酷い錯乱状態にある彼に、母は相も変わらず歪な笑みを浮かべ、優しい声で言うのである。
「この人ね、またお酒飲むのよ。もうお金ないから辞めてって言ってるのに。そしたらね、この人、またお母さんの事殴るの。だからね、お母さんね、お父さんの事……、殺しちゃった」
……何、言ってんだよ……。オカシイだろっ! だからって、夫婦じゃないか! ねぇ、父さんなんだよ? 俺の……。俺の、父さん……。
誠には理解出来ない。今、何が起きているのか、何故、母が父を、自分の夫を殺しておいて笑っていられるのか、理解出来るわけがなかった。
今日だって誠は、いつものように訪れるであろう夫婦喧嘩に悩まされるだろうと思っていた。しかし、そんな彼の心情も他所に、目の前には、変わり果てた父の姿と、血の着いた包丁を両手で持ち、父の前で座り込む母が異質な空間を造り上げていたのだ。その包丁からは、さっきまで、父の身体の中を流れていたであろう血が、ポタポタと畳を汚している。
平凡でのどかな日常ではなかった。なかったが、誠にとっての日常は、突如として異常なものへと姿を変えてみせたのだ。
「こ、殺しって……、母…さん……?」
「もうね、お母さん疲れちゃった。お父さんも、借金も、あの男の事も……、…………アナタも……」
「あ…ァ……」
声が出ない。息が出来ない。何も考えられない。解らない。もう、何も……。
……「アナタも……」って何だよ……、俺の事? 解らない。ワカラナイ……。
「ねぇ……、誠……、一緒に死にましょう。誠も清々してるんでしょ? 暴力振るうお父さん、いなくなって」
「何、言ってるんだよ……、母さん……、死ぬ…とか言わないでよ…母さんが死ぬなん…い、嫌だ…よ……」
……嫌だ。イヤダ……。父さんも死んで、母さんまで……。
「何言ってるのよ。今更。ずっと死んで欲しいって思ってた癖に。アナタの私を見る時の目。汚らわしいものを見るように……。お母さんの事軽蔑してたんでしょ。ずっと憎らしかったわ。アナタのこと。アナタのその目が」
母はあろうことか、自分を誰よりも愛する息子に向かい、憎らしかったなどと言い、誠に包丁の先を向けたのだ。
……え……? 母…さん……?
母の言葉、動作、一つ一つが彼の思考をガタガタに崩壊させる。最初の一見で既に彼の思考は崩壊し、止まっていたというのに、母の言い放つ一言一言、行動は、彼の止まった思考を突き動かしては、停止させるのだ。
耐え切れない。視界から飛び込む絶望。愛する母からの言葉の絶望。愛する者を失くす絶望。それらが誠の全てを蝕む。もう頭も心も、うねうねと混沌に乱れ狂っている。それというのに、母は、さらに彼に追い打ちを掛けるのだ。
「アナタのせいよ! 全部。こうなったのも。お父さんも最初は優しかったのに……、アナタがいるせいで……。
アナタなんか産まなきゃよかった。ねぇ、お願いだから死んでよ! どうせ、誰からも必要とされてないでしょ? 誠はこの世に必要ない人間なの! 誠は、この世にいちゃいけない人間なのよ。要らない人間なのっ! だから、ね? お母さんと死にましょ? 一緒に……。お母さんが手伝ってあげるから」
真っ白だ。モノクロだった背景がスッと真っ白になる。自分の身体の存在さえ実感出来ない。もう、母親の姿も線でしか見えなかった。
誰よりも父を、そして母を愛していた。その父は死に、その母は、自分を産まなければよかったと、要らない人間だと言うのだ。そして、死んでくれと……。
ただ誠は、今死んだら、本当に楽になれると思ったのだ……。
もうこの世は、彼にとって絶望でしかなかった。
母の言う通り、自分は要らない人間なのかもしれないと、誰も自分のために悲しむ者などいないだろうと、うねうねと蠢いていた彼の中は、絶望に空々(からから)と軽くなったのだ。
……誰にも必要とされてない俺が、誰かを必要とすること自体が間違ってたんだ。……それでも俺は、父さん、母さんが必要だったんだ。大好きだったんだ……。
「そっ…か……、そうだ…ね……。ごめんね……、母さん……。俺、生まれてきて……、ごめんね……」
誠の目から溢れる涙が頬をつたったその時だった。
「アナタは……、どうして……」
ブシュッ! 母の喉から鮮血が迸る。
……母…さん……?
「母さん! なんで! 母さんっ!」
誠は、母の首から流れ出る鮮血を両手で必死に押さえ込む。だが、止まらない。止まらないのだ。必死に、必死に抑えても、愛する母の血は誠の指の隙間から次々と流れ出る。
「母さん! 死なないでよっ! 俺がまだ生きてるじゃんか! 母さん! 母さんっ!」
両手できつく抑えても、流れ出る血は誠を赤く濡らし、真紅に染め上げるばかりで止まってくれない。彼はその母の血を、すくっては裂けた喉に押し戻そうとする。何度も、何度も。必死で掻き集め、何度も何度も、ただひたすらに裂けた喉に血を押し戻す。。
だが無情にも、母の血は止めどなく彼の全身を真紅に染め上げていく。
……アァ……、止まらない……。イッパイ出てクル。あぁ、止まってよっ。どうしてっ、止まらナイヨ……。
母は、血のアブクを口から流し、呼吸をする度、ヒューヒューと音を鳴らすのだ。
……ナンダヨ。コレ。止まれよ……。トマレッ! トマレヨッ!
……タスケテヨ。ネェ! ダレカ……、母さんを……。母さんを助けてよっ!
ヒューヒューと音を鳴らしいていた喉の音は、次第に弱まっていく。
そして、誠がどう願おうが、どう望もうが、母の生命の呼吸音は静かにその音を無くしたのだ。
母は、帰らぬ人となった。だが、誠がそれを受け入れきれるわけもなく、もう死んで動かなくなった母の血を、彼はただ必死で止めようとするのだった。