10・友達
十・友達
身体の節々が痛い。歩く度に関節が悲鳴を上げる。真夏の熱い日差しが、顔の傷口をジリジリと焼き、額から流れる汗は、ヒリヒリと傷を痛ませる。
夕暮れの街は朝に比べると、まるで同じ場所とは思えないくらいに風景を変えてみせる。
誠は、この夕暮れ時の街が割と好きだった。黄昏に落ちる陽の見せる茜色の空。それを受け止めるアスファルト。時折、吹き抜ける夏風の匂い。一方、帰宅ラッシュの車の並び、家路を急ぎ行き交う人の群れ。それを取り巻く人の流れが、どうも誠には好きになれなかった。
足を引きずり歩く誠の視界に、路地で一人の男が、三人の不良等に醜悪な暴行を受けている様が入ってきた。三人共、制服に統一性がなかった。
聞いたことがある。寺田とかいう者が絡んでいる、何か物騒な話。実態も目的も解らない不気味な騒動。自分の高校の生徒も何人もやられているとか。
……悪いけど、こんなのには関わりたくないな。
「助けて……」
……ヤバッ、目が合ってしまった。
リンチにされている男が誠に救いを求めてくる。誠は周りに目を配るが、誰もが皆知らない振りをしていた。大人までも皆、早歩きでその場から立ち去ろうとするのだ。
……どうする。
足が震えだす。吉井達にやられた身体はまだ、痛みに悲鳴を上げていた。それ以前に、元々自分さえ救えない誠が、この場を何とか出来るわけがないのだ。
「何見てんだテメェ」
不良の一人が、こちらに気付き手を止めた。標的が変わる。
「助けて!」
男は必死に誠に助けを求めてくる。
「ち、ちくしょうっ!」
誠は意を決し、一心不乱に不良に向かっていった。だが、彼はあっけなくいなされ、ガラガラと音を立て、ゴミ溜めに背中から倒れ込んだ。
……だから、俺には無理なんだ。大体、弱い俺なんかに助けなんか求められてもこうなるのがオチだ。
「何だお前、威勢だけは良かったけど、バカか? 弱すぎんだろ」
不良の一人が拍子抜けた様に嘲る。
「まぁ、お前でいいや。こちとら誰でもいいんだ。金さえ貰えれば」
見ると、さっきまでリンチに遭っていた男の姿が見えない。
「あのガキなら、お前がやられてる隙に自分だけ逃げやがったぜ」
「え?」
「いいなぁ、その目。土壇場で裏切られた奴のそういう目。俺、大好物」
「趣味悪ぃなぁ、お前」
不良達は、ゲラゲラと下品な笑い声を響かせた。
良かった。男が逃げたのは予想外だった。だが、強がりとかではなく、男を現状から救い出したことには違いない。
人を救うとか助けるとか、正直なところ誠には柄じゃない。ただ、あの時の地面に力なく落ちていく蝶が、彼の頭にチラついて離れなかった。
誠は、立て掛けてあるデッキブラシを手に取る。ブラシを持った手がガタガタと震える。それでも、自分を奮い立たせるしかない。デッキブラシを両手に持ち、恐怖に脅えた心を鞭打ち不良らを睨みつけた。
「そんなもん持ち出すってことは、覚悟は出来てんだろうなぁ」
……どうする……、クソ! クソッ! クソォッ!
誠は一心不乱にデッキブラシを振り上げた。
「クソオォォォォーーーーーーーッ!」
夏の風がまた、ヒリヒリと傷口を撫で誠は目を覚ました。
「大丈夫?」
目を開けると、女が心配そうに誠の顔を覗き込んでいた。
「ここ、どこ?」
「公園だ」
すると、すぐ上から男の声がした。
「いつまで、こうしてるつもりだ」
「え?」
気付けば、誠は公園のベンチで男を膝枕にしていたのだ。
「う、うわっ。ゴメンッ!」
誠は慌てて飛び起きるが、関節の節々が痛みを訴える。
「ッ痛」
「ほら、急に起きるから。大丈夫?」
苦痛に顔を歪めた誠に、また女が心配そうな面持ちで顔を覗き込む。そこには、ベンチの前に座り込み、誠の目の高さまで視線を落として頬杖を付く少女の姿があった。
……ち、近い。
女の顔がこんなに近くにくるのは初めてで、誠の顔が紅潮する。
……あ、この娘、確か……。
彼は彼女のことを知っていた。顔見知りではない。一方的に知っているというだけだ。
……そうだ。同じ学校の、前原、前原千沙さん。
「あ、ごめん。もう大丈夫。前原さん」
誠がそう言うと、前原は少し驚いているようだ。彼が自分のことを知っているのが意外だったのか、彼女の大きな目が一際大きく開かれた。
「私のこと、知ってるんだ」
前原千沙とは、同級生ということ以外、まるで接点がない。だからか、彼女は誠が名前を知っている事に対し少し驚いていた。といっても、同級生なのだ。名前を知っていてもおかしくはない。
というか、前原千沙は、学校ではちょっとした有名人でもあるのだ。大滝の喧嘩を知るなら柚木、大滝高を知るなら充を知れ。と謳われる柚木太成と藤井充。この二人と仲良く、そして、その二人を一喝で止めれらる女なんてそうはいない。それが、今、誠の目の前にいる、この前原千沙だった。
「いちお、同級生だからね」
「そっかぁ。君は確か……」
「誠。相原誠」
「相原誠くんね。私は前原千沙」
……いや、だから、それは知ってるって。天然、入ってんのかな、この娘。
今しがた、誠は前原の名前を呼んでみせたというのに、彼女は改めて自分の名前を紹介するのだ。その声は優しく、その表情は純粋で、今まで彼が見たどの人間よりも澄んでいた。
大袈裟なのだろう。彼女はどこにでもいる普通の少女だ。ただ、誠の周りに絡み付く人間は、尽くその人間の醜悪とも呼べる汚い部分を彼に見せつけた。まるで、彼が人間でないように。だが、前原千沙という少女は、純粋に相原誠という人間を見つめ、言葉を交わすのだ。ただ、それだけのことに、誠は言葉を飲み込んだ。
「おい。さっきから俺の事忘れてねぇか?」
言われて思い出す。自分は確かこの男の膝の上に。
男を見て驚いた。この男こそ、大滝の二強のうちの一人、藤井充に他ならなかった。誠にとってこの二人は憧れでもあった。喧嘩の強さもそうだが、生き方に芯がある。自分とは正反対で、自分とは違う世界の人間だと、憧れの中にも劣等感さえ抱かせていた。
彼は、同級生とは思えないほどのガッチリとした筋肉質の体型に、黒く短い髪を清々しく風に靡かせている。
「ふ、藤井君」
「あ? 俺の名前も知ってんのか」
「当たり前でしょ。ウチの学校で充くんの事知らない人はいないでしょ」
……いや、前原さんも一緒だって。
二人ともどこか抜けている。誠が想像に抱く藤井は、もっとクールなイメージがあったが、どこか人間味を感じられた。
本当は皆そうなのかもしれない。人との会話を好まない誠は、イメージでしかその対象を把握していなかった。自覚している。自分は心が弱い。身体に受ける痛みより、人の言葉から発せられる暴力で、心が傷付けられるのが怖かった。
だた、初めて話す藤井充は、柄にもなく誠に膝を貸していた。思い出して少し可笑しくなる。大滝の二強と謳われ、冷静かつ、頭のキレる藤井充が男を膝枕していたのだから。
「そんなもんか? 俺ってそんな有名なん?」
本当に気付いてないのか、藤井は誠に問いかけた。意外に本人達には分からないものなのだろうか。
「そりゃ、まぁ」
「そっか」
「あ、藤井君、膝、ありがとう」
「全くだ。なんで、俺がテメェなんかを膝枕しなきゃならん」
藤井は、そうとう嫌だったのだろうか手をワナワナさせている。
そんなに嫌なら、ベンチでそのまま寝かしとけばよかっただろうに。
「もう、だから、私の膝に誠くん寝かしてって言ったじゃない」
「バカ。んなことさせられるかっ」
どうやら、誠を前原に膝枕させる変わりに、彼は、自分がその代償を買って出たらしかった。
……なるほど。そういうことか。なんて分かり易い。前原さんは気付いてんのかな。
「それにしても、凄いね。誠くん」
前原が話を切り替え、誠に凄いなどと言うが、誠にはそれが何に対してなのか理解出来なかった。
「え? 凄いって、何が?」
「だって、勇気あるよ。男の人、助けるために不良達に向かってくんだもん」
……ああ、そっか。見てたんだ。情けない。
結果、その後誠は返り討ちに遭っていたのだが。
「助けるとか、そんなんじゃないよ。結果、この有り様だし。情けない」
「ううん。そんなことない。私、なんとかしなきゃって、周りの人達に助け求めても皆、知らん振りするし、そんな時に誠くんが、元々、身体ボロボロで足引きずってたのに。ああ、この人、強いんだなぁって」
「強い? 強くなんてないよ。別にあの時、怪我なんかしてなくても結果は一緒だって。俺、喧嘩弱いし」
「ううん。強いよ、誠くん。喧嘩とか力とか、そういうんじゃなくて。何て言ったらいいのかな。心が強い人なんだなって」
心が強い。誠がそんなことを言われるのは初めてだった。
彼女は思い違いをしているのではないだろうか。自分自身、心が弱いのは誰よりも自覚しているつもりだ。自分には、人に褒められるような強さなど持ち合わせてなどいない。
ただ、例えそれが思い違いだとしても、自分を褒めてくれる彼女の言葉は、自分を嬉しくも高揚させているのが判る。
……でも、やっぱりそんなんじゃない。
あの時、現状に狼狽え戸惑っていた誠は、不良達に目を付けられただけだった。それに、その前から誠に掠める一縷の何かが、頭の中にずっとチラついていたのだ。本当は逃げたかった。怖くて、震えていた。身体は痛みを訴え、心は逃げろと自分に言い聞かせた。
……ただ、頭の中に、蝶が……。
「よく、分からない」
「いいの。分からなくても。でさ、男の人、誠くんが相手してる間に自分だけ逃げちゃったでしょ」
「え? あ、ああ」
……そういえばそうだ。つくづく情けない。
「誠くんが本当に強いって思ったのはその後。だって、男の人、もう逃げちゃったんだから、誠くんも逃げちゃえばよかったじゃない。でも、誠くん手震えてるのに、デッキブラシ持って不良達を凄いニラんでるの」
……情けない。
誠は、ガタガタと震え、デッキブラシを持つ自分の姿を客観的に見て、恥ずかしくなる。
「私、それ見て、止めなきゃって思ったんだけど、何も出来なくて。取り敢えず、手当り次第に電話して」
「んで、たまたま近くにいた俺が飛んで来たってわけ。チサが物凄い喧騒で助けてってよ。チサに何かあったらって、ぶっ飛んできたんだが、そこには三人がかりでフクロにされてるお前がいたってわけ」
藤井が前原の話に割って入ると、事の顛末を話してみせた。
「充くん、暇人だからね。助かった」
「それが、急いで駆け付けて来た相手に言うセリフか?」
前原の発言に藤井は怪訝そうに噛み付いた。
「冗談だってば」
この二人のやり取りを見ていると、誠は、自分がどれだけ二人のイメージを造り上げていたかを思い知らされる。人との会話が苦手な誠だったが、今のほんの少しのコミュニケーションで顔を出す、藤井充、前原千沙の面々がとても新鮮で、人と話すその温もりに彼は嬉しく、少しの感動さえ覚えていた。
「まぁ、話戻すけど、チサから電話あった時、俺、甲斐といたんだけどよ。甲斐、急に用事思い出したとか言いやがってよ。
んで、俺一人で現場駆け付けて、お前をフクロにしてる三人組をシメあげた」
いちいち、電話があったとこまで話を戻すあたり、藤井は、前原に暇人と言われた事を根に持っているのだろうか。
「で、また三人組ってのが、制服がバラバラだ。二人共、この件の事は少しくらい知ってんだろ?」
藤井が二人に問掛けた。当然、誠も知っている。この件は今や、誠に近い年代の者は皆知っている。知っているが、寺田、清門高、金、この三つ以外何も解らないという、謎の多い騒動。
「なんとなくは」
「私もなんとなく」
誠に続き、前原もそれに答えた。
「皆、なんとなくしか知らない。いや、解らないんだ。で、その、三人組に色々と聞き出そうとしたんだが、知らぬ存ぜぬの一点張り。伸びてる誠を放って置くわけにもいかないんで、取り敢えず、チサと公園までお前を運び込んだ。で、今に至るってわけだ」
……なんだか、情けないやら、申し訳ないやら。
「ありがとう。藤井君、前原さん」
「おう。まぁ、喧嘩は慣れてるしな。気にすんな」
そう答える藤井の返事に続き、前原が誠にお礼の返事をする。
「どういたしまして。ってか、チサでいいよ。私も誠くんて呼んでるし、皆、私のこと下の名前で呼んでるし。私、上の名前で呼ばれるの、あんまり慣れてないの」
チサでいいって言われるが、人とそんなに話をしたことがない誠は、彼女を下の名前で呼ぶという、たったそれだけのことが容易に出来きなかった。だが、よくよく考えると、それだけのことが出来ない自分が、どれだけイタイ人間かにに気付かされる。それに、彼女は誠に対し、嘘偽りのない、純粋で無邪気な言葉を彼に投げ掛けるのだ。
「じゃ、チサさんで」
そう呼ぶと、誠は身体が萎縮するようなむず痒さを感知した。
「てか、お前、携帯持ってんだろ? 俺とチサに番号教えろよ」
「え? 携帯?」
藤井の一言が誠にとっては、余りにも以外で聞き返してしまう。
ずっと孤独だった学生生活で、携帯番号を高校生のうちに聞かれることなど、有り得ないと思っていた。
正直、嬉しい。嬉しいのだが居た堪れなかった。貧乏な誠は携帯を持つどころか、家の電話ですら止められている始末だ。
「もしかして、持ってないの? 誠くん」
「ああ、その、うち、貧乏だし。それに俺、友達いないから、別に必要なかったし」
「いいんじゃねぇの。携帯くらい持ってなくても。太成もつい最近まで持ってなかったしよ。それにお前、ダチいんじゃん。ここに、二人も」
「そうよ。私達、友達でしょ?」
友達。皆、生活の中で当たり前に出来るもの。でも、自分には縁がなかったもの。この二人は自分の事を友達だと言ってくれている。別に、自分はずっと一人で構わない。そう思っていた。友達。その響きが、こんなにも自分を感動させるなんて思ってもみなかった。
「そっか。友達か」
「おう。嫌か?」
藤井が分かりきった事を言う。
「嫌なわけないじゃん。メチャクチャ嬉しい。大袈裟かも知れないけど、生きてきた中で一番」
「ホント大袈裟だね」
普通は大袈裟なのだろう。でも、彼にとっては、本当にそうなのだ。退屈で誰も自分に干渉しない生活を望んでいた。それでいいと思っていた。自分の生活には、楽しみや喜び、それらを必要としなかった。それで、自分を傷付けるものさえいなくなるのならと。
だが、今彼に訪れたほんの小さな歓喜が、辛く伸し掛る家や学校、日常の醜悪な環境が繰り返されたとしても、その代価となるのなら受け入れられる気がしていた。
「まぁ、お前、根性あるしな。そういう奴は嫌いじゃねぇ」
……根性?
誠は、自分に根性があるなどと言う。
チサに続き、彼も何か自分のことを勘違いしているのではないだろうかと、誠はその言葉に軽く首を傾げた。
「ってことで、ラーメンでも食いに行かね? 俺、さっきから腹減ってんだわ」
「うん。いいねぇ。ね、誠くん、行くでしょ?」
もう友達なのだから、誠も当然来るだろうとチサは、上機嫌に満面な笑顔を誠に向けてきた。
ただ、それに対し、すぐに返事を返してやれない自分が、もどかしかった。二つ返事で言葉を返したい。だが、食事をするための持ち合わせが誠にはなかった。
対応にあぐねている誠の気持ちを察してか、それとも、始めからそのつもりだったのか、
「金の事なら気にすんな。今日は俺の奢りだ」
と、充は誠の背中をトンと優しく叩いた。
「ホントに? ヤッタァ」
「お前じゃねぇよ」
「えぇ、ケチィ。これでも私、レディなんですけどぉ」
「分ぁった分ぁった。ほら、行くぞ誠」
誠の返事もよそに二人は公園を後にする。
「わ、待って」
ラーメンを食べ終え外に出る頃には、辺りはすっかり暗くなり、
五月蝿いくらいの蝉の声は止み、変わりに夏虫達の涼しい音色が誠達を迎えていた。
色々なことを話した。誠には、そのどれも新鮮で、そのどれもが、自分を楽しくさせた。あんなに笑ったのはいつぶりだろう。頬の上辺りには、ゴワゴワとその余韻がまだ残っている。その一時が楽しければ楽しいほど、時間の経過は驚くほど早く感じられ、別れが物凄く名残惜しいものにさせた。
束の間の楽しい空間は過ぎ去り、誠は、藤井とチサと別れ家路を辿る。
……楽しかったなぁ。人と、友達と話す事がこんなに楽しいなんて。
友達。今日だけで、彼には二人の友達が出来た。まるで小学生だ。ただ、嬉しい。それだけのことが。変え難いほどに。高揚した。心が。傷だらけの身体も、その痛みを忘れてしまうほどに。
その友達が憧れていたうちの一人、藤井充だった。藤井は、チサの事を好きなのだろう。チサはまるで気付いてないようだった。二人共、感情が本当に分かり易い。真っ直ぐに自分に言葉を掛けてきた。他の者とは違う、上辺の取り繕いもなく。歪な感情もなく。ただ、嬉しかった。その空間に自分がいることに。独りには、慣れたはずなのに。独りとは感じさせなかったその空間が、そのひと時が、本当に嬉しかった。
……今日は楽しかったなぁ。帰りたくないなぁ…………、家……。