1・柚木
人は、どれほどの物を失くすことが出来るのだろう
どれだけ失くせば0になれるのだろう
いつから、ボクの手はボロボロと物が零れ落ち始めたのだろう……
二○二三年 七月
「一体どうなってんだ!」
「皆、一斉に動き出しました! 東京は愚か、北海道、関西、中部、九州!」
「クソッ! 急げ! 手が空いてるものは全員、近くの現場へ迎え!」
「無理です! 数が多すぎます!」
「構わん! 行ける奴だけでもいい!」
「駄目です! 既に現場へ向かってるもので手一杯です!」
「なんとかするんだ!」
「なんとかって! どうするんですか! こ、こんなこと、どうして……」
「何でもいい! 考えてもどうにもならん! 取り敢えず、近くの現場へ向かうんだ!」
「り、了解!」
「本当に始めやがった! ちくしょう。どうなってんだっ! くそったれぇ!」
「碇さん、現場に付きました! 救援お願いします」
「気を付けろ仲川!」
「うわぁっ!」
「どうした? 仲川!」
「どうなってんだ……どうして、持ってるんだ……」
「おい! どういうことだ! どうした? 仲川!」
「何で……こ、こんな……う、うわぁぁぁーーーーーっ!」
「仲川! 何があった? おい! 仲川! 仲川ぁぁぁっ!」
序章
一・柚木
二○一九年 七月
暖かい日差しが瞼を重くする。眠くてたまらない。別に寝不足というわけでもなく、今日だって、昼過ぎにここへ来た。ただ、昼の校舎の屋上ってのは、人をどこまでも心地よく眠りに誘う。
「柚木くん。ねぇ、柚木くんってば!」
またか……。
自分がこうして一番安らげる時間を、いつも誰かが邪魔をする。
そして、今日はこいつ。
「…………」
無駄だと分かりつつも、今までの心地いい空間からすぐに抜け出せず、柚木は瞼をきつく閉め、全身に日差しを浴びる。だが、無駄なものは無駄だ。ドスッ!
「……!」
声にならない声が出た。
腹部に強い衝撃が走る。昼に食った柏おにぎりが喉元まで上がってくる。
「ご、ごめん。大丈夫?」
自分が思っている以上に柚木が苦しむのを見て、女は慌てていた。
その手には、先ほどの凶器と思われる手提げ鞄が両手にあった。
彼女は、両肩に届くほどの黒髪を、夏の風になびかせ、柚木を心配そうに覗き込んでいる。
「チサ、やりすぎだろ」
柚木は、腹を抑えながら声を振り絞った。
「だから、謝ってるじゃん。いつまで寝てるの? 学校終わっちゃったよ」
全く謝っている態度とは思えないチサの仕草も、ついさっきまでの慌てようを思い出すと笑いが込み上げてきた。
その上、この体制からだと、否応なしに、短いスカートの中の白いショーツが目に入ってくる。痛み分けだ。
「なによ、ニヤけて、キモいんだけど」
チサは意表をつく柚木の笑みにバツが悪そうな顔をする。
「いや、てか、まだ昼すぎじゃねぇか。もうちっと寝かしとけよ」
「はぁ」
額に手をあて、チサが溜め息をついた。
「今日は、学校昼まででしょう。てか、柚木くん、学校に何しに来てるの? 一回も教室にも来ないで、屋上で寝てるだけ?」
「分かってんじゃん」
柚木の返事にチサはあからさまに呆れてみせた。
「あんたねぇ、だかっ」
「落ち着くんだ。ここが、一番」
チサが全て言い切る前に、柚木の言葉が遮った。
「そう」
落ち着くんだ。ここが、一番。そう言った柚木の目が余りにも悲しい目をしていて、チサは言葉を詰まらせた。
チサは、柚木のこういった部分を放っておけなくて、つい世話をやいてしまう。チサ自信、それを理解している。柚木は何か、他の高校生とはどこか違う場所にいるように感じられた。それは、柚木本人の意思に反して。
柚木に対して相槌しか打てない自分がもどかしい。でも、それは間違っている。自分の場所がどうとか、自分で決め付けてしまうのは何か違うし、他人が決めることでもない。
「その、柚木くんは、屋上が一番落ち着く場所かもしれないけど、もっと、もっとたくさん、自分の場所があると思う。だから……」
言いかけて辞める。自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているか、柚木のニヤけ顔で現実に引き戻されたからだ。
チサは、これまたあからさまに顔を赤くしてみせた。
「ああ、もう一つあったわ。俺の場所。こいつだ。ッ痛」
柚木は、言い終わると同時に口元の絆創膏を剥がしてみせた。ピリッとした痛みに、屋上の優しい風が柚木の口元を撫でる。
「なんで、そうなの男って。喧嘩ばっか」
また、あからさまに頭を抱えるチサに柚木は笑みがこぼれる。
「お前には、分かんねぇよ。けど、俺、バカだからよ、いろんなゴチャゴチャ面倒くせぇの抱えて悩むより、なにも考えず突っ走って殴り合ってると、それが楽しくて仕方ねぇ」
まったくろくでもないことを言っている。
殴り合うだの、それが楽しいなど、チサには全く理解できなかった。
それに、今時リーゼントという時代錯誤な柚木の髪型は、それ以上に理解出来ない。
ただ、そう言っている柚木の顔は、とても無邪気で純粋だった。
「鞄、サンキュ」
チサの手から柚木は鞄を受け取ると屋上の出口へと向かう。チサは小走りに後を追い柚木の顔を覗き込んだ。
「アイス。食べたくない?」
これまた、あからさまにニヤけた顔で、チサが突拍子もないことを言うのだ。
「は?」
「アイス。私、バニラがいい」
「俺が金ないの知ってんだろ」
「いいよ。私が奢ったげる」
「何企んでやがる」
「人聞き悪いこと言わないで」
明らかに、チサが何か企んでいる事が見て取れたが、柚木は、ことさら奢りという言葉に弱かった。
澄んだ空から照り返す日差しと、夏の風が創り出した屋上の心地よさに別れを告げ、柚木は屋上を後にした。
コンビニの駐車場でチサは子供のようにアイスを舐めている。柚木はアイスという気分でもなっかたらしく、缶珈琲を片手に持ち煙草を吸っていた。
「ねぇ。煙草っておいしい?」
チサは、柚木の口から出てくる煙を目で追っている。
「美味いって思うときもある。飯の後とか。でも、美味いとか以前に大概が吸わないとやってらんねぇ」
「分かんない」
「分からん方がいい。吸わないに越したことはない」
「お金ないくせに煙草は買うんだ」
チサが棘のある言葉で柚木に言う。別に未成年だからとか、そういうのではなく、柚木の現状を考えた上でだろう。
「これは、笹崎から一カートン貰ったやつ。それに、煙草代を浮かしたところで、家の借金はどうにもなんねぇよ」
「そうかもしれないけど。お父さん返せなかったら結局、柚木くんが……」
「メンドクセェの。親父の借金に振り回されんのは。いざとなったら、夜逃げでもなんでもすりゃいいだろ」
柚木がそう言うと、チサがあからさまに俯いた。
左手に持っていたアイスは、既に失くなり棒切れになっている一方、手持ち無沙汰な右手は、膝上のスカートをきつく握り締めていた。
柚木はそれを見て、バツが悪そうにフォローする。
「あぁ、まぁ、なんとかなるだろ。夜逃げは最終手段だから。その……、てか、お前何かあったんじゃねぇの? 話」
柚木は、屋上での出来事を思い出していた。
昔は幼馴染ということもあり、よく一緒に遊ぶこともあり、家族ぐるみの付き合いも多かった。だが、ここ最近、学校では会話はするものの、一緒に帰るなど久しぶりだった。
「うん、あのね。別に企んでるとか、そういうのじゃなくて、私のお父さんがね、卒業したら家で鍛えてやるからって。それで、その……」
「それで、前原建設で働けと」
「うん。太ちゃん、あっ、柚木くんがよければ、進学も決まってないって言ってたし」
太ちゃん。その呼びかけに柚木は懐かしさが込み上げる。
柚木太成(ゆずきたいせい)で、太ちゃん。そして、前原建設の一人娘、前原千紗(まえはらちさ)。
……いつからだろう。チサがその名で俺を呼ばなくなったのは。
「いいぜ」
「へ?」
チサは、この柚木の答えがよっぽど予想外だったのか、間の抜けた声を上げた。
「なんつぅ顔してんだお前。だから、いいぜ。俺も卒業してから、どうすっか分かんなかったしよ。頭悪ぃし、それに、ガキんとき、お前の親父の働いてる姿見て、カッコイイとか思ってたしな」
みるみるチサの表情が和らいでいく。
チサは本当に判りやすい。自分で気付いているのかどうか、口に出す前に考えていることが分かってしまう。
「本当に? お父さん、きっと喜ぶ」
チサのその大げさな喜びに対し、柚木は、そのむず痒さに悪態をつく。
「鼻水出てんぞ、お前」
「え? うそ?」
「うそ」
ドス! チサの両腕からスイングされた鞄は、柚木の腹に、今日、二度目の衝撃を与えたのだった。