書庫の呪い
背表紙の連なりに指を滑らせる。
平日の閉店間際、大型書店とはいえ客の姿はまばらだ。
微かにインクの匂いの香る文庫コーナーは私のように知識欲の強い男にとって、絶好の憩いの場だった。
種々雑多なテーマを取り扱った文庫本の中から、意図して自分の興味のない本を選び出す。
一読してその内容に興味を抱くことが出来れば収穫だし、そうでなければ自分の内面の境界を一本引くことが出来る。
アジアに貧乏旅行などしなくても、平易に自分探しが出来るというのは何故かあまり知られていないこの世の真理だ。
『大航海時代における三角貿易の成立と展開』という本を手に取った時、それはやって来た。
激しい、腹痛。
本屋に行くと必ず襲ってくるこの業病に、私は何度も泣かされていた。
ハンカチを口にくわえて手を洗いながら、思索をさまよわせる。何故、本屋に来ると腹が痛くなるのか。
一説によれば、揮発したインクが腸内活動を活発にするのだという。
馬鹿馬鹿しい。
それが本当なら、私は職場で常に腹を抱えていないといけないはずだ。
一体、印刷所にどれだけのインクがあると思っているのか。
輪転機に使うインクの量があれば、都内の老若男女を全てトイレに走らせることが出来るに違いない。
「そういえば……」
老若男女、というところに私はひっかかりを覚えた。よくよく思い返してみれば、昔はこんなことはなかった気がする。
三つ子の魂、百まで。
今と変わらず本好きな少年だった私は、暇さえあれば本屋に出掛けていた。
司馬遼太郎の全集なんかを読みふけりながら戦国時代や幕末に想いを馳せ、日が暮れるまで過ごしたものだ。
それが、いつからこんなことになったのだろう。
『蛍の光』を聞きながら、会計に並ぶ。
レジの後ろの書棚には、高額書籍や予約された本が取り置かれていた。
その中にある『萩原朔太郎詩集』に、一瞬黒髪の少女の姿が重なる。
「朝倉、さん……」
そうだ、朝倉さんはいつも『萩原朔太郎詩集』を持っていた。
長い黒髪をポニーテールにまとめた、図書委員の朝倉さん。
少し広いおでこと赤いセルフレームの眼鏡が特徴的な彼女のことを思い出すと、何故かまたお腹に違和感を覚える。
釣り銭を無造作にポケットにねじ込み、店を飛び出た。
トイレのあるコンビニを探しながら思い出すのは、あの懐かしい高校時代のことだった。
公立の高校としてはそこそこ整ったその図書室は、代々“図書館”と呼ばれていた。
館というからには独立した建物である必要がありそうなものだったが、そういった字義的な問題に噛みつく偏狭な生徒はあまりいなかった。
(そういう生徒は、資本主義や合衆国や体制であるとかいった、もっと立派な敵を抱えていた)
そもそも“図書館”に関心を抱く生徒の数自体がそれほど多くはなかった。私は数少ない例外の一人であり、であるからには図書委員でもあった。
図書委員に与えられた“特権”の一つに、書庫への立ち入りがある。
書庫とは名ばかりのかび臭い小部屋であったが、それはちょっとした愉しみであった。
私はこの部屋を秘密基地のように扱い、周りもそれを黙認した。誰もが管理を嫌がっただけという説もある。
ともかく理由はどうあれ、私は高校の中に教師ですら持っていない私的な空間を所有し、随分と好き勝手をやった。
ストーブで沸かした湯で茶を飲んだり、拾得物を横領したコタツでみかんを食べたり。
建設的なことには何一つ手を染めず、破戒の限りを尽くす毎日。
悪行はすぐに他の図書委員の知るところとなったが、誰も口出しはしなかった。
口を出すような気概がないというよりも、厄介事に関わりたくないだけだっただろう。
そういう時代だった。
朝倉さんが私の牙城に単身で奇襲をかけてきたのは、春先のことだ。
桜が咲いても肌寒いある日、入学したばかりの新一年生によって我が城は失陥した。
攻守三倍の原則を無視した横暴に私は異議を申し立てたが、
「私は図書委員です。であるからには、書庫に立ち入る資格があります」と腕章を指差しながら応じられては返答に窮してしまう。
結局、私はこの“女竹中半兵衛”を書庫の共同統治者として受け入れることを認めざるを得なかった。
それからは毎日がまるで薔薇色の日々だった。
二人で書庫の本を並べてドミノ倒しに興じたり、何代か前の先輩が屋根裏に隠していた一升瓶を空にしたり、冬にはアンコウ鍋までつつく楽しみよう。
この邪智暴虐な振る舞いは幾度となく職員会議の俎上にあがったようだが、そんなことは二人には関係なかった。
互いに口には出していなかったが、こんな日々がずっと続けばいいと思っていたはずだ。
裏切ったのは、私だった。
私は、本屋でバイトを始めた。地元では有名な大店で、結構な規模を誇る。
私が書庫に顔を出す回数が減ったことに朝倉さんは静かに、しかしはっきりと抗議した。
「共同統治の盟約に反する行為です。即刻、現状を復帰することを強く要求します」
ヒステリックに暴れられるより、余程堪えた。
歯車は狂いはじめていた。
夕陽の射す書庫に呼び出されたのは、私の卒業一ヶ月前のことだった。
窓を背にして立つ朝倉さんの表情はうかがい知れないが、視線は私の方をしっかり捉えている。
壁掛け時計の音が、妙に大きい。
「先輩」
朝倉さんの硬質な声に、私はポケットに突っ込んだままだった手を抜き、姿勢を正した。
そうすることが、必要な気がしたのだ。「先輩。あたし、先輩に呪いをかけました」
真面目な顔で朝倉さんは続ける。
「とても、とても強力な呪いです」
「……それは、どんな呪いなの?」
私を、奴隷にでもする呪いだろうか。そうされても私は構わなかったが。
「本屋に、行けなくなる呪いです」
「本屋に?」
それは困った。
私はポケットに手を突っ込んだ。
「先輩はこれから一生、本屋にいくとお腹が痛くなります。絶対です」
「絶対に?」
「はい、絶対に」
つまり、バイトに行くなというわけか。
「だから、先輩は残りの一ヶ月、私と一緒に書庫にいるべきです」
やはり。
私の答えは、決まっている。
「そいつは、出来ない相談だな」
朝倉さんの、彼女の肩が僅かに震える。
いつの間にか、時計の音は聞こえなくなっていた。
「一ヶ月、なんて短すぎる」
私はポケットから取り出したものを朝倉さんの前に突き出す。
「これから、ずっと一緒にいたい」
小さな箱に入った、給料三ヶ月分。
顔が火照り、鼓動が全ての音をを飲み込んでいく。
彼女は掌で顔を覆うと、小さくすすり上げ始めた。
私は彼女の前髪をかきあげると、おでこにそっと口付ける。
彼女は、抵抗しなかった。
コンビニでケーキを二個買う。
記念日でも何でもないが、たまにはこういうのも悪くないだろう。これだけ愛しているんだから、そろそろ呪いを解いて貰ってもいいんじゃないかと思う。
空には十六夜。家路を急ぐ私の足は、いつもより軽かった。