死神と人間
男がいた。
何もない、ただ荒れているだけの荒野にその男はいた。
ただ一点を見つめ、呪うようにあるいは祈るように、あるいは願うように、何かに斯うように。
その男には表情というものが感じられない。
否。
表情のみならある。
笑顔だ。
しかし、その笑みは嘲っているようにも至極幸せそうにもあるいは微笑んでいるようにも取れる笑みだった。
しかしそのどの種類の笑みにもあの笑みは属さないだろう。
まるで異質。
死人のようであり、賢者のようにも、またはなんてことないただの人のような。
とにかく異質、いや、遺失であった。
<己>というものがまるでないかのように、男はその場にたたずんでいた。
わたしは、彼を恐れた。 人間ではない、寧ろ人間より高貴なわたしが人間である彼を畏怖したのだ。
寒気もしたし、動悸が激しい。
次の日。
同じ場所に男はたたずんでいた。
やはり、彼の周りだけ空気が違う気がする。
ーー君子危うきに近づかず。
されど、悲しい動物の性か。
わたしは彼と話がしたかった。
何を感じ、何を思い、如何なる育ち方をすればこんな<人形>のようで<死人>のような人間になるのだろうと。
ーー興味を持ってしまった。
《男、》
彼はわたしのコエにも動じず淡々と返してきた。
「あぁ、死神、昨夜から覗いていたかと思えば今度はなんだ。」
死を纏い、死へ誘う我らを畏れぬ生き物など初めてだった。
《男、我ヲナゼ恐レヌ、畏レヌ》
男はなんともなしに、嗚呼例えば地球は丸いか四角かと問われた時のようにきょとんとした後に、
「恐れなければならない理由がない。 もちろん、 畏れる理由もない。 」
死を恐れぬ人間は見たことがある。
しかし、畏れない人間など、まして理由がないなどと言う輩など…
「死神、俺を、連れていくのか。」
淡々と…表情もなく、わたしが恐れたあの「笑み」で男はこちらに笑んだ。
《……逝カヌ。 男、貴様ハ マダ 》
まだ、死なないはずだ。
男の寿命を告げる、砂時計はまだまだ余裕がある。「 まだ、 か。 ならば 何時か俺は そちらに 逝ける のか。 」
それは質問のような響きであったが、決して質問ではなかった。
ならばわたしの応えは。
《……分カラヌ 、 男、 何故 死 ヲ 畏レヌ 》
男の魂はもはやわたしの知る冥府の底よりも深く、濃い漆黒に染まっている。
男が死を畏れぬ限り、冥府には来れまい。
「言っただろう。死を畏れる理由がない。嗚呼違うな。生を尊いと感じていると言った方が正しいか。」
尊い、と。
《ナラバ尚ノコト。生ト死ハ離セヌ。生ヲ尊イト感ジルナラバ 死ヲ 畏レル ハズ ダ 。》
「……ある、男が…いた。どこにでもある悲劇だ。いや、喜劇かな。」
男は唐突に話はじめた。
「男には、妻がいた。娘と息子もいた。幸せ、だった。春の木漏れ日のように柔らかで暖かな日々。男は生を楽しんだ。しかし、ある日・・・娘が死んだ。突然だ。息子も、亡くなり男は・・・死を憎み、嘆き、……恐れた。」
「男には妻と、家族と過ごした家だけ残った。」
「この、宝だけは、放さぬと、男はありったけの力で抱きしめていた。」
「そしてーー妻が、死んだ。」
・・・・・・・・・・・・
「嗚呼、わたしには…何もない。この家など…! ただの大きな箱に過ぎない ! 」
死神が笑う、嗤う。
「家など燃やして、わたしは、そちらに行きたい!」
男が泣いて、泣いて、嘆いた。
「嗚呼、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、」
何故、わた、しだけ、行けぬ!
死神は嗤う。
・・・・・・・・・・・・
「死神、わたしは全て失った。全てだ、総て。長く暗い年月は自己すらも隠してしまう、暗い暗い闇色の檻になり、わたしをも、覆い…!」
男は、泣いた。
「何故…わたし、わたし、っは!」
「嗚呼、わたしは、わたしは」
《あなた。》
聞き違えるはずがない。
この、優しい子守唄のような音で話す女性を知っている。
「か、れ…ん…?」
何年も発していなかった単語なのな、スッと口をついだ。
《あなた…わたしは、幸せなのです。あなたと、出会えたことが。子供達と過ごせた日々が。》
あぁ、だからどうか。
なかったことに、しないで。
「かれん…」
男の目に、透明の液が溢れた。
男が死を憎み畏れなかった心が、死を初めて畏れたのだ。
死神は、軽く笑んで、鎌を、ふるった。
仮面が剥がれた死神のその顔は彼が生涯愛した人のものであった。
語ることはなにもないです。
あ、誤字脱字とかコメントとか下さいね!
お待ちしております。(切実ッ)