3.書記官令嬢の困惑
州都では帰還した討伐軍を労う宴が盛大に開かれた。
北州を治める州侯ヴァルドイは、宰相を筆頭とした中央貴族たちからどれほど圧力をかけられても、討伐軍に対して好意的な姿勢を崩したことのない人だ。北州では他の州に比べて災害獣討伐軍の派遣頻度が2倍以上高いことを差し引いても、自腹で討伐軍のための宴を開いたり、州都内での宿泊や飲食の料金が討伐軍とその家族に対しては割引になる州法を施行したりと、なかなかの大盤振る舞いぶりである。
それにルデアには、ヴァルドイに頭が上がらない理由がもう一つあった。
2ヶ月ぶりに母に会うため、ルデアは途中で菓子店に立ち寄った。食欲のない母もここの店の果物のジュレは食べてくれる。菓子店の店長とも売り子たちとも、もうすっかり顔なじみだった。カランと音をたてて戸をあけると、とたんにどっと甘い香りと、女性たちの笑い声が道路にあふれ出てくる。
「ルデアちゃんおかえり!いつものね?」
「やだ、また瘦せたんじゃない?おまけに焼き菓子つけておくから、これはルデアちゃんが食べなさいね」
「リリーったら、自分が少し太ったからって、ルデアちゃんまで仲間にしようとしてるのね」
「なんですって?もう一度言ってごらんなさい!」
やだこわあい、とおどける声に、全員の笑い声が重なる。女三人寄れば姦しとはよく言ったもので、様々な年代の女性たちが働くこの菓子店には、常にうるさいくらいのおしゃべりと笑い声が満ちているのだ。買ったものを入れてもらった袋をもって外に出て、戸が閉まると、雪あがりのきんとした静寂が耳に痛かった。
薄く雪の積もった石畳の道を、しゃく、しゃく、と音を立てて歩く。
郊外にある療養所へ向かう夕暮れの道はどこか物寂しい。ただいま、おかえり、というたわいのないやり取りが遠くに聞こえる。
(私はあと何度、あのひとに、ただいま、を言えるのだろう)
会うたびに細く頼りなくなっていく母の面影が、ルデアの足元に踏みつけられている葉のない木々の寒々しい影に重なるようだった。
暗くなる前に到着しなければ、と、立ち止まりそうになる足を励ましてさらに一歩を踏み出したとき、後ろから声がかけられた。
「ルデア」
聞き慣れた声。知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜ける。
「アレクさま。宴会はお開きですか」
「夕方以降は町に繰り出して酒宴だそうだ。おれは抜けてきた」
「お酒はお嫌いですものね」
「弱いとはっきり言ってくれてもかまわないぞ」
国内最強のこの将軍に、ルデアが唯一勝てるのが酒だった。南方出身者には下戸が多く北方出身者には底なしが多いという通説のとおりである。
「火酒を召し上がっていただけないのは、北方出身者としては大変残念ですけれど。雪鱒はお試しになりまして?」
「ああ、食べてきた。本当は酒のつまみにするものだと聞いたが」
「そうなんです、あの塩辛くてほのかに脂身が甘いのが、お酒が進んでしまうんですよ」
火酒はその名の通り、火を噴くほどに強くて辛い酒である。家庭によって異なる配合で仕込まれる香辛料のペーストに温めた酒を注いで作られ、北州ではこれなくしては冬の寒さを耐えることはできないと言われている。雪鱒は、秋に獲った脂ののった鱒を干した後、雪の中に埋めた樽の中で塩と海藻で熟成させたもので、そのまま食べるだけでなく炙りで出されたり、汁物の具になって出されたりもする、北州の冬を象徴する食材だ。
「あなたは今日からは母親のところに泊まるのだったな。たしか町はずれの療養所の」
「はい」
「近いのか」
「あと20分ほどですから、日没前にはつきます」
「送っていこう」
当然のように言われてルデアはうろたえた。いくら女だといっても、軍服をまとった者に悪さをしようとする者がこの都にいるだろうか。
「え、あ、あの」
「あの道はあまり人気がないだろう」
そう言ってさっさと歩きだした将軍の大きな背中を、ルデアは慌てて追いかけた。
昼間以外の時間に療養所に行くのはこれが初めてのことだった。昼間はのどかな田舎道だったのが、夕闇の迫る時間となれば確かにどこか不吉な物寂しさがある。小高い丘の上にある療養所には明かりが満ちて、そこだけが煌々と光って見えた。
「お母上は、もう相当にお悪いのか」
しばらく無言のうちに歩き続けていたからか、唐突に投げかけられた問いを脳が理解するのに、5歩ぶんの時間が必要だった。
「ええ、そうですね。たぶん、あと1年もないかなと」
常より遅かった返答をどう思ったか、アレクが立ち止まり、こちらを振り向く。
「不躾な質問だった。すまない」
「いえ、とんでもありません、討伐軍のお給金やヴァルドイ侯のご親切がなかったら、もうとっくにお別れがきていたはずですし」
「そうか」
また歩き出しながら、アレクは何かを考えているようだった。
療養所のある丘はぐるりと低い石垣で囲まれていて、趣味の良い庭園にあるような、人の胸の高さほどの木の門がついている。門をあけて戸を押さえてくれたアレクに、ルデアはちいさく礼を言った。きいと音を立てて、また戸が閉まる。
「ルデア」
「はい」
閉じた門を挟んで、再び目が合う。夕暮れから残照へと変わりゆく空を背景に、ふたつの太陽のような瞳がこちらをまっすぐに見ていた。
「1年くらい、ここにいるか」
言葉が少なすぎるきらいのあるこのひとの話し方にはとうに慣れたつもりでいたのに、またしても、返答に常より時間がかかった。
「代わりの書記官が見つかったのですか」
「いや、いない」
「ではどうやって」
「どうにかする」
「……どうにかなりそうには聞こえませんが」
「しかし、あなたには代わりの母がいるのか。あなたのお母上には代わりの娘がいるのか」
家族というものを知らずに育ち、人の生き死にに眉毛一本そよがせないこのひとから、こんな言葉が出るとは。ルデアは奇妙な感動を覚えた。もしかしたらかなり失礼な感動の仕方かもしれなかった。
「母にも聞いてみます。お気遣い感謝します」
ようやっとそう返事をすると、彼はくるりと踵を返した。
「良い夜を」
「アレクさまも」
丘の上から振り返ると、未だ厚くない夜の帳の向こうに、かすかに軍服の背中が見えた。あの人ひとりで歩くとあんなにも速いのか。
手にした菓子の包みを抱えなおして、ルデアはひとつ息をついてから、療養所の戸をたたいた。
この療養所は、5代前の北州州侯が肺を病んだ娘のために建てさせた一軒の小さな家を、その娘の遺言にしたがって、10人ほどの療養者が生活できるように増築したものである。庭園はいつも美しく整えられ、提供される食事の質も良い。「診断」の能力者が常駐していて、療養者の状態の診断を定期的に行い、外部からの訪問者が感染症などを持ち込まないように常に目を光らせている。ルデアも戸口のところで診断を受け、感染症の疑いなしと認められて、中に招き入れられた。
ルデアの母は7年前から肺が徐々に機能を失ってゆく死病を患い、4年前からこの療養所に入って、病気の進行を可能な限り遅らせる薬物療法を受けている。ヴァルドイが、そう申し出てくれたのだ。
母の部屋は3階の真ん中の部屋だ。部屋の窓から見下ろせる、噴水のある庭園を母はとても気に入っている。今の季節はきっと氷が張っていて、噴水は動いていないだろうが、花が楽しめない冬には庭師たちはよく雪像をつくってくれるそうだ。だからいつも窓を開けるのが楽しみなのだ、と母は話してくれた。母の肺はもう、健常なところは4分の1程度しか残っていないが、それでも彼女がまだベッドから立ち上がって歩く力があるのは、そういう楽しみがあるからなのだろう。ひとり娘として母のそばで時間を過ごすことができない罪悪感がないといえば嘘になるが、この療養所のほうが、ルデアよりもずっと良く母を世話してくれていることもまた確かなのだった。
部屋の戸を静かにノックしたとき、部屋の中から声がした気がして、ルデアははっとした。いまの母の肺ではこれほど大きな声は出せないはずだった。先客がいるのだ。
そっと戸を押し開けると、正面には見慣れない木製の衝立があり、母のベッドはその陰になって全く見えなかった。衝立を回り込んで母と来客の姿を確認する前に、柔らかく明るい声が自分の名を発したので、ルデアはそのまま動きを止めた。
「ルデアちゃんは何歳になったんだっけ?」
「…にじゅう…ろく」
「そうかあ…もうそんなになったのね」
「日焼け…して…怪我も…わたしの…知ってる…ルデアじゃ…ないの」
ジルヴァステルン王国の国教の女神は、金髪に透き通るような白い肌の嫋やかな美少女とされていて、それがそのまま多くの女性の美の基準になっている。特に貴族の間ではその傾向は強く、ルデアの母も、一緒に住んでいたころはルデアの肌の手入れに気を遣い、特別な日には髪を金色に染める高価な染料を取り寄せていた。
「そうね。討伐軍の書記官になるって聞いたときは驚いた。でももう7年も続けているってことは、貴族のご令嬢やご婦人をやるよりも、そのほうがルデアちゃんに合っていたんじゃない?」
「ええ…あの子…は…強い子」
「さすがあなたとスタークの子って感じがするわね」
「そう…かしら」
「そうでしょうとも」
「わたしは…普通の…普通の貴族の女」
「どういうこと?」
「いまでも…わたしの…知ってる…ルデアに…会いたい」
ルデアは凍り付いたように動けなかった。
「わたしの…ドレスを…着せたい。討伐とか…どうでもいい…あの子を…ちゃんと…花嫁にしてやりたい。あの子は…それを…望まない…わかってる…」
ひゅう、と母の喉が鳴る。
「わたしは…だめな…母親なの…かしら」
「そんなことないわ!あなたはルデアちゃんに幸せになってほしいんでしょう。あなたの思う一番の幸せをあげたいんでしょう」
「ええ…ええ…でも…あの子の…幸せは…わたしのとは…違うみたい…」
「あなたの幸せは?あなたはどうしたいの?」
「スタークと…約束したわ…あの子を…幸せにするって…あの子の…花嫁支度を…わたしひとりでも…ちゃんとするって…」
母と母の友人らしい人との会話に聞き耳をたてていた記憶は、そこで途切れている。気が付いた時にはルデアは1階の共用の広間にいて、背後で大きな音がしたので振り返ると、先ほどの母の友人が従僕に荷物を持たせて帰っていくところだった。先ほど衝立だと思ったものは、彼女が持ち込んだ大きな姿見だとわかった。
つい今しがた到着した風に母の部屋に戻ると、母はいつもと変わらない優しい笑みを浮かべた。
「おかえりなさい」
「ただいま帰りました、お母さま」
混乱していた。頭の中が、まるで坤亀がすべての書架を蹴倒していったあとの図書館のようになっていた。
それでも、ただいまを、言うことはできた。
ルデアにおかえりなさいと言ってくれる、世界でたった一人の相手に。




