2.雪豹将軍の述懐
いまこの娘は、矜持、といったのか。それが彼女をここまで強くしたのか、と、アレクは尊敬にちかい感傷を覚えていた。
荒削りの木椀を大事そうに両手で包み、森の色の瞳にいっぱいに喜色をうかべてちびちびと口をつけている書記官は、数年前に初めて討伐に帯同した後はただ地面に蹲って吐いていることしかできなかった。汚れぬようにと後ろでくくってやった栗色の髪は、いっそ腹が立つほど柔らかかったことを覚えている。
目の前で人が死ぬのを、しかも穏やかに眠るようにではなく、紫岩蛇の尾に締め上げられて地面に繰り返し叩きつけられて殺されるのをみた貴族令嬢の反応としては、しごく健全な反応といえたかもしれない。しかし討伐軍の一員としてはあまりにも頼りない。惨酷な死は討伐軍の誰もが覚悟していることで、慣れていることでもあった。否、慣れなければならぬことだった。
アレクは南州の漁師町の貧民街の出だ。穏やかならざる死は日常茶飯事だった。アレクは両親のことは何も知らなかった。ただ、勝てる喧嘩のやり方はよく知っていた。15歳になるころには、自分と同年代の似た境遇の男女50人ほどのまとめ役になり、体の弱い子らのために薬屋に詐欺をしかけたり、警邏に痛めつけられた仲間のために詰所の便所をすべて壊したり、すっかり荒くれ者として名をはせていた。
四級災害獣の刳鷗がその漁師町を襲ったとき、アレクとその仲間たちは協力して、臨時討伐隊の到着前にその群れのリーダーを討伐した。刳鷗は、くちばしと爪に人の皮膚を溶かす毒があり、触れたところが深くえぐれたような傷になることからその名がついた、群れで行動する習性のある鳥である。
アレクはリーダーの鷗と取っ組み合いをしたあと、全身どこにも健康な皮膚は残っていないようなありさまで、つい今朝までは市場だった広場の片隅に、倒れたテントやらひっくり返った荷車やらに埋もれていた。頸を折った鷗の死骸から手を離す力も残っておらず、このまま死ぬならそれもそれで悪くないと思っていた。
そこへ討伐隊の隊長が、薬箱を提げてやってきた。手柄を横取りしたと難癖をつけられるものと決めてかかっていたアレクは逃げ出そうとしたが、いくら豹のような身のこなしで喧嘩巧者として鳴らしていたといっても、こちらが満身創痍で相手が無傷、しかも人外の素早さや攻撃性をもつ災害獣を相手取ってきた専門家となっては、完全に分が悪い。討伐隊の隊長はまるで威嚇する子猫でも相手にするかのようにアレクの首根っこを取り押さえるや、その場でさっさと身包みをはがして全身に薬を塗りこんで、包帯で巻き上げてやった。後から知ったことだが、鷗との取っ組み合いの最中に離れ離れになったアレクの子分たちもやはり、同じように彼から手当てを受けていた。
手当てが終わるころにはさすがにアレクも抵抗の意志を失って、口に流し込まれた苦い化膿止めの薬湯も拒否しなかった。
討伐隊の隊長は、手当てに使った道具を手早く片付けながら、静かに訊いた。
「なあ、お前、なぜ一目であれがリーダーだとわかった」
「動きが違った」
「どんなふうに」
「ほかのやつらはみんな、人間のほうをみていた。あいつは人間じゃなくて、自分の仲間のほうをみていて、人間に負けそうになっているやつを助けて回っていた」
ほう、と彼の視線が鋭くなったのが、目を閉じていてもわかった。
「お前と同じ立場だったということか」
ご明察、とアレクは笑った。
「少なくともおれがあの毒鷗どもの頭だったら、あいつと同じやり方をする。だから、おれが殺してやらなきゃならないと思った」
アレクたちが喧嘩をするときは、アレクはそういう立ち位置にいる。アレクがきてくれれば大丈夫だ、と、アレクの仲間たちはみんな思っている。そう思われていることがアレクのささやかな誇りで、あの刳鷗を見たとき、アレクは畜生相手には似つかわしくないほどの奇妙な共感を覚えたのだった。
お前がお前の群れをひきいて人間を襲うというのなら、おれはおれの群れを守るためにお前と戦おう。
もし刳鷗と言葉を交わすことができたなら、そんな仰々しい宣戦布告までしていたかもしれない。
隊長の推薦のもと、討伐軍に正式に加入することが決まったのはその2週間ほどあとのことだった。そのかわり、アレクとアレクの仲間がこれまで働いてきた盗みや詐欺は不問にされ、基本的な読み書きと計算の教育まで施されることになった。
アレクは討伐軍訓練課程に送られた。討伐軍というのは王族や貴族の身辺に仕える親衛軍や各州の治安維持を担う州軍などよりもはるかに危険な任務を担っているからして、訓練の過程も過酷をきわめた。訓練の途中で死者が出ることすらあった。
そういうものだと初めから割り切っていたアレクにとっては、その過酷さは何らの問題にもならなかった。むしろ、これまで学ぶ機会のなかった武器の訓練や、これまで所属する機会のなかった規模の群れの中での生活を楽しんでいたといってよい。はじめに彼を雪豹と呼び始めたのは確か教官のひとりだったか。ところどころ黒の混じる白に近い灰色の髪に黄玉色の瞳、しなやかで軽い身のこなし、そして獰猛な本性のわりにあまり動くことのない表情はなるほど雪豹の特徴と一致して、その二つ名はその後の軍人生活のあいだずっと彼について回ることになる。
それまでの人生で縁のなかった書記官というものの存在の重さをアレクが知ったのも、同期のひとりが訓練行軍中に崖から転落死したことによった。訓練課程中に訓練生が死亡した場合、遺族には軍務省から十分の慰労金が支払われることになっていたが、この件に関しては支払いが拒否された。アレクと他の数人の訓練生は教官に詰め寄った。
「なぜ」
「証拠不十分だそうだ」
「しかし、訓練に参加していた我々は、全員がドルグが転落したところを見ています」
「お前たちの中に書記官はいるか」
沈黙が落ちた。
「……書記官というのは、記録の特殊能力者のことでしたよね。それとこれに何の関係が?」
「ドルグの入隊宣誓書も死亡時の報告も、書記官によって上げられたものではない。信憑性に欠ける、慰労金目当ての虚偽の申告だと、お偉方は判断したということさ」
「しかし、これまでは、書記官がいないことが理由で申告が通らなかった例はなかったはず。そもそも貴重な書記官を危険にさらすなと言われているではありませんか」
教官は重いため息をついた。
「先代の討伐軍の将軍が、親衛軍の副将軍の娘に言い寄られたが毛の一本もなびかず、引退と同時に長く想い合ってきた幼馴染と所帯を持ったという話は聞いているか」
「……はい。若すぎる引退だが、嫁をこれ以上心配させたくないという理由ならしかたがないと、皆ほほえましく噂をしていました」
「我々にとっては確かにほほえましい話だ。しかし親衛軍にとってはどうだと思う」
「まさか」
「そのまさかだよ。親衛軍はほとんどが中央の有力貴族だ。軍務省に圧力をかけて、討伐軍に嫌がらせをしているのさ」
「そんな馬鹿な。ドルグの家族には何の関係もないのに」
「イズキ将軍は面子を気にする貴族たちとの折衝が先代よりはるかに上手い。これほどの嫌がらせはそう長くは続かんだろう」
教官の言った通り、討伐軍の新将軍の尽力があって、1年もたたないうちにドルグの家族は正しく慰労金を受け取ることができた。
しかしアレクが訓練課程を卒業して実際の討伐任務につくころには、討伐軍と軍の訓練課程において、必要な物資や予算の申請が受け付けられないことがかなり増えていた。親衛軍や州軍に比べて申請が多すぎるというのがその理由だった。討伐軍のほうがはるかに厳しい現場にいるので、その分消費が増えるのは当然のことのはずだったが、何かにつけて水増しや横流しをしていると言いがかりをつけられる。危険な現場に貴重な書記官を伴うことはできないと断ると、それみろやっぱり不正をしているのだ、とさらにかさにかかって責め立ててくる。かといって帯同してくれる書記官を探そうとすると、すでに貴族に抱き込まれているか脅されていて、討伐軍の者とは話せない、と言われたりするのだ。当代の討伐軍将軍イズキが世渡り上手だったことがかえって災いして、貴族たちの中では、平民からも人気の高い彼を失脚させ、あわよくば討伐軍という組織そのものも解体してしまおうという動きさえあったことを、後にアレクはルデアから聞くことになった。
ルデアはアレクとは違い、生来の資質は慎ましく穏やかで、軍人の制服が似合うようなひとではなかった。はじめのうちは、吐いているところを介抱されたり、服をまくられて傷の手当てをされたり、自分で立つことができず抱えて運ばれたりするたびに、恥ずかしがって泣いていた。男所帯の中では、ほかにも数えきれないほどの不便と羞恥を経験してきたことだろう。
それでも彼女は今日まで、軍服に身を包んで戦場にいることを選んできたのだ。レースの映えた白い肌はもうすっかり日に焼けてあちこちに傷跡が残り、手のひらには馬の手綱を握る形のたこができ、嫋やかだった腕はしなやかな筋肉に覆われて。震えたり泣いたり気を失ったりしながらも、なけなしの矜持をふりしぼって。
「……敵わないな」
え?とまぬけな声とともに顔を上げた討伐軍の女神はいま、なかなか噛み切れない干し肉の筋との格闘の真っ最中。自分が王国史上最強と名高い雪豹将軍から降参宣言を勝ち取った唯一の人間であることなど、毛の先ほども知らなかった。




