2話
ある日のこと。
昼間、ゼノが馬屋に向かおうとしていると、甲高い声が聞こえてきた。
(あれは)
声の方を見れば、側室たちがひとりの少女を取り囲んでいた。
(あの金髪の側室、たしかベラといったか)
次の瞬間。ベラが少女の髪を引っ張り、肩を突き飛ばした。
周りにいる他の側室は笑ってそれを見ていて、止めようとはしない。近くには衛兵もいたが、見ないふりをしていた。
あの中で一番位が高いのがベラなのだろう。
少女は抵抗することなく、胸の前で手を握りしめ、地面を見つめている。今にも泣きそうな顔をしていたが、必死に堪えているようだった。
(妹に似てる)
そう思ってしまったら、勝手に足が動いていた。自分は他国の人間で、余計なことをすべきじゃないと考えながらも止められなかった。
少女を庇うように前に出る。
「い、異民だわ!」
側室たちの顔色が嘲笑から驚きに変わる。
ベラが忌々しげにゼノを見た。
「お前、なんのつもり? わたくしはそこの者に用があるのよ。どきなさい」
「奇遇ですね。俺も彼女に用がある」
そう言ってゼノが微笑む。とたんに側室たちの顔が赤らんだ。
後宮に来てから、ゼノの常套手段である。
男として女性に手をあげるわけにはいかないので、自分が絡まれた時はこれで上手くかわしていた。
しかし、ベラには効かなかったようだ。
毒気を孕んだ目でゼノを睨むと、その手を振り上げた。
ぱしん、という音が耳に響く。頬に痛みが走った。
「わたくしが誰かわかっているの?」
「ベラ様でしょう。もちろん知っていますよ」
(初日にケチつけてきただろうが)
内心でそう思いながら、ゼノはわざとらしく首を傾げた。
「あなたこそ、俺が何者か理解していますか?」
腐っても王家に連なる者である。手をあげるのは褒められたことじゃない。
その言葉の意味するところがわかったのだろう。
ベラは悔しげに舌打ちをして、側室たちと共に引き上げて行った。
(やっちまったかな)
ゼノが頭をかきながらため息をつくと、後ろを振り返った。
「大丈夫ですか?」
「はい……あの、助けてくれてありがとうございます」
少女が頭を下げた。
「私は男爵家のアメリアと申します」
「俺はゼノ。となりの――ああ、その様子だとすでにご存知みたいですね」
アメリアが頷いた。
「あの日はすごい騒ぎでしたから。それ以降も、ゼノ様のことはたびたび耳にしておりました」
「興味本位で聞きますが、それって良い噂でした?」
「半々といったところでしょうか」
(半々か〜)
異国ということを考えればマシほうなのだろうか。とはいえ先ほどの件もある。しばらく、昼間は部屋にいたほうが良いかもしれない。
(自業自得だな)
ゼノが肩をすくめると、アメリアが小さく笑った。
「もしよければ、なにかお礼をさせていただけないでしょうか?」
「気にしないで。俺が勝手にやったことですから」
「ですが……」
食い下がるアメリアに、ゼノはそれじゃあと口を開いた。
「お互い、かしこまるのをやめましょう」
妹に敬語を使われているみたいで落ち着かなかった。
「良いかな」
「……はい、あっ」
口を押さえるアメリアにゼノは口元を緩ませる。
「はは、ごめんごめん。無理にとは言わないよ。それと、この国の事を教えてほしいんだけど。特に側室たちのこと」
「それが、お礼ですか?」
「うん。すごく助かる」
◇◇◇
ヴィンセントは、執務室で部下から報告を聞いていた。
「南が鉄を集めていると間者より連絡がありました」
「国境に兵を送れ。それでしばらく様子見する」
「はっ」
(北から人質を取ったのは正しかったな)
南の雲行きが怪しい今、背後から狙われる心配を避けたのは大きい。
北の国はそれほど大きくはないが、もとは騎馬民族。戦となれば厄介な相手になる。
とはいえ、たったひとりの命で手も足もでないようだが。
(聞いていた通り、ずいぶんと甘い)
身内を斬り捨てたヴィンセントからすれば、情など理解できたものではなかった。
数日前に見た、赤毛の男を思い出す。
いかにも情に厚そうな優男だった。あれで武芸に秀でた種族というのだから信じ難い。
(まずは南を潰す。北はその後だ)
そう思案していると、部下である男の額に汗が浮かんでいるのに気づく。
「どうした」
「……いえ」
男はまっすぐに壁を見つめている。何かを視界に映さないようにしているようだった。
ふと、手元に置かれた水が目に入る。
無色透明の、なんの変哲もない水に見える。
それは、一種の勘だった。
水の入った杯を持ち上げ、男に向かって突き出す。
「飲んでみろ」
「っ!」
男の顔が青ざめる。
(やはり毒か)
勘は正しかったらしい。男が懇願するようにひざまずいた。
「ど、どうかお許しを!! 私は命令されて」
「裏にいるのは誰だ。教えれば命だけは助けてやる」
「それは。しかし、私には家族が――」
男が口をつぐむ。話すつもりはないようだった。それなりに長い付き合いだったが、所詮はこんなものだ。
(まあいい。目星はついている)
ヴィンセントは立て掛けてあった剣を手に取り、鞘から抜いた。その目はひどく冷たい。
「お待ちくだ、がはッ……!」
潰れた声が部屋に響く。男の腹が赤く染まっていく。
ヴィンセントは、突き刺さした剣を奥深くに押し込んでから躊躇なく引き抜いた。
男が倒れ込み、床に血が広がる。
国を荒らすしか能のない肉親を斬り捨て、王に即位してからも、ヴィンセントの道は血に染まっていた。
生きていくために裏切り、裏切られの繰り返しで、心休まる日など訪れたことはない。
(いったい何が違う)
床に染み出した血があの赤髪と重なる。
国は違えど、同じ王族だ。
だというのに、あれと自分はまったく異なる存在に見える。
(あれの死を、惜しむ存在がいる)
血の匂いを嗅いだせいか、気が立っていた。
いずれ自国を踏み荒らされるとも知らず。後宮で過ごすあの男の顔を見れば、いくらか気が紛れるかもしれない。
ヴィンセントは部屋を出ると、後宮に足を向けた。