03 バイクにて歯みがき
それから、四年後――。
場所は、同じく地球にて。
景色は縦長だ。視界が、グーンと下に伸びる。
高層ビルが建ち並ぶ都市。その上空を、飛行しているからだ。鳥瞰。
ホバーバイクで、二人乗り。速度は遅め。
ビル群の隙間から、途切れ途切れに、朝の陽光が差し込む。ただ、人影は他に無い。
バイクは勝手に飛んでいる。自動操縦なのである。
後ろへ流れゆく景色を、横目で追いつつ、龍輝は空中で、娘の歯みがきの準備を始める。
広いシートに座る龍輝。身長、百八十五センチ。娘は、くっつくように向き合っている。娘の身長は、百三十五センチ。
娘は、左右に開脚し、スニーカーの足を、龍輝の腰に添えている状態。両腕を伸ばし、小さな手を、龍輝の肩に載せている。体勢としては、「やや離れた抱っこ」か。
「キャアー!」
娘がはしゃぐ。青いスカートが、風圧でめくれたからである。
上の前歯が、一本ない。笑った時に、それが見えた。生え変わりである。
「こら、スカート、ちゃんと自分で押さえなさいよ」
しぼり出した歯みがき粉を、歯ブラシに塗りつつ、龍輝が注意した。声は、太い低音。
「お父さんから手を放したら、地上に落っこちないかな?」
「冗談言うな。シートベルトしてるんだから」
「ああ、それもそーか」
娘は納得したようで、手を龍輝の肩から下ろし、自分のスカートに載せる。手の甲の下で、スカートは風船のように膨らんだ。娘の手は小さく、龍輝の手の半分ほどだ。
娘の後頭部では、黒いポニーテールも、風にぴょんぴょん跳ねている。
その顔を、よけるみたいに、ビルの列が左右へ分かれて、後方へ去ってゆく。
「紗良葉も、もうすぐ十歳なんだから、そういうこと、気を付けなきゃ」
龍輝は、はっきりと娘の名前を呼んで、自覚を促した。
「そっか」
娘・紗良葉は、幼いなりに、神妙な表情を作る。大きな瞳は、少し吊り目で、意志の強さも感じさせる。
(杏樹の、切れ長の目とはタイプが違うけれど、顔立ち、きれいになってきたなあ。……まあ、親の欲目なんだろうけどな)
などと思いながら、龍輝はうなずいて、
「そうとも。スカートは要注意。レディーのたしなみ」
「今日は、お母さんも帰ってくるしね」
「ん? うむ。ま、そうだ……な」
紗良葉が別の話題を足したので、龍輝は意表を突かれ、小さくうなった。父と娘とで、同じ人を同時に思い出した不思議さもある。
それを、龍輝の焦りだと勘違いしたのか、
「忘れてた?」
いたずらっぽく、紗良葉がニヤリとする。また、前歯の抜けが見えた。
「まさか。忘れるもんかよ」
これは本当だった。今日は、妻が地球へ帰ってくる日。半年に一回の、待ち遠しいイベント。忘れるはずがない。
ちょっとムキになったのを、娘から、今度は正確に見抜かれて、
「ラブラブだね」
からかわれた。
「ちェっ」
二秒ほど、龍輝は黙ってしまうが、
「まっ、それはそれとして、だ。歯、磨くぞ。――はい、じゃ、口あけて。あーん」
龍輝の言葉に、紗良葉は素直に従い、
「あーん」
(いい子だ)
内心で、父は娘を褒めた。子供じみたしつこさが、ないからだ。とりあえず、この話題は終わる。
龍輝が、紗良葉の小さな口へ、歯ブラシをそっと差し入れると、ミントの香りが広がった。左下から、優しく磨いてゆく。
(あっ、奥歯も一本、生え変わりかけてるな)
抜けかけの乳歯が一本、歯列のわきへずれていた。その横から、永久歯の先端が顔を出している。まるで、竹の子のようだ。
ざっと磨き終えたら、龍輝は、肩から提げた水筒のふたに、麦茶を注いで、
「よし、こいつを口に含んで。含んだら、ブクブクして。飲んだら駄目だよ」
紗良葉は上を向いて、
「ファイ」
はい、と言ったらしい。