02 量子力学宇宙船
「量子力学宇宙船」。
人類が、ロケットを超える技術として開発した、次世代型の宇宙船である。
まず、高エネルギー加速器で素粒子を衝突させ、人工のブラックホールを作り出す。
そこへ、人を乗せたカプセルを潜り込ませる。
その際、「量子もつれ」を利用する。
量子もつれとは何か。それは、一度ペアになった電子は、一方を測定すれば、もう一方も測定されるという現象だ。互いの距離に関係なく、である。
――「どんなに遠く離れていても、瞬時に情報が伝わる」という言い方も出来るし、「重ね合わせによって、場・距離という概念自体が、発生と消滅を繰り返している」とも言える。
もともと、惑星アウダピスの付近には、小規模なブラックホールが存在する。
地球の人工ブラックホールを、ここにつなげるわけである。「量子もつれ」を間に挟むことで、可能となる。
以上の仕組みこそ、量子力学宇宙船であった。
かくして、地球から約0.9光年も離れた惑星アウダピスまで、人類は行き来をすることが可能となったのだ。
SF映画やアニメでは、よく「何万光年」などという表現が出てくるため、「たかが0.9光年ごとき」と思われるかもしれないが、とんでもない。
0.9光年は、およそ8兆5千億キロメートル。
あのボイジャー1号でさえ、地球から離れられたのは、250億キロメートルほどにすぎない。しかも、これは無人の探査機である上に、この移動距離に五十年もかかっている。
桁が違う。
既存の燃料や電力を用いたエンジンでは、人類は「光年」へ届くことは出来ないのだ。
ブラックホールと量子力学との「合わせ技」で、限定的な条件下でのみ、ようやく可能となったわけである。
ただし、ブラックホール同士をくぐる途中で、人の意識や肉体はダメージを負う。
どうやら、乗員には数日間でも、実質的に長い年月を経ているらしいのだ。そのギャップが、記憶障害や臓器不全を引き起こす。
そこで、カプセルに乗り込む者には、あらかじめコールドスリープが施される。低体温・低代謝による、一種の人工冬眠である。
こうして、乗員は低リスクで地球とアウダピスを往復できるようになった。
一方で、副作用もある。それこそが、前述の「若返り」現象だ。
量子力学宇宙船に乗る度に、人は、肉体が少し若返るのであった。
歪んだ時空の中を通過するため、細胞の老化が逆行するのではないかと考えられている。
「お待たせ」
会計を終えた杏樹が、にこやかに戻ってきた。ヒールがカカッと床に響く。
「どうする、このあと。もう少し、中でショッピングするか?」
龍輝が尋ねたら、妻は左腕を上げ、指を熊手のように広げて、セミロングの髪の毛を下へ、しごいた。絡まっていた毛先が、フワッとほぐれる。
巻き付いた髪の毛越しに、薬指の指輪がまた光った。
「外に出たいかなー。お日様、もっと浴びたいの」
納得した龍輝は、
「アウダピスは、ドームだもんな」
「そうなのよ」
一旦、駅ビルから出て、肩を並べ、駅の構内を歩く。
焼けたパンの香り。改札の外のミニ店舗で、売っているのだ。店員は、美少女ロボット。
物珍しそうな杏樹。
「わあ、リアル。ロボットでしょ、あの子」
「ああ」
「かッわいいー。やっぱり、地球は華やかだなあ」
横目で眺めつつ、杏樹は、うらやましげだ。惑星アウダピスは、居住区の全体が、広大なドームで覆われている。閉鎖的であり、華美な装飾は、余り根づいていない。
「おっ」
空中移動型の車椅子が二台、龍輝たちの頭上を、シュッと通り過ぎてゆく。龍輝たちと同様、やはりカップルらしい。
太陽の話題へ戻る。龍輝が、
「一応、アウダピスにも太陽は出るんだろう?」
「まあね。地球の月光を、ちょっと明るくした程度だけどね」
「物足りないな」
龍輝は、フッと笑った。
「全然、足りないよ」
杏樹の目も笑っている。
「でも、青い太陽って、きれいだろうなあ」
アウダピスから見える、特殊な太陽。龍輝も、写真で見たことはある。もちろん、地球を照らす太陽とは、全くの別物であり、ガスの組成も違う。
「きれいだよー。晴れた朝なんか、辺りの氷河をカーッと照らすの。もう、息をのむ美しさよ」
杏樹がここまで話した時、二人は、駅舎の外へ出た。
頭上から降り注ぐ、秋晴れの陽光。
「ヒャッ!」
まぶしさに、杏樹が、のけぞる。ズボンに付けたキーチェーンが、シャランッと鳴った。
冗談で、わざと大げさに反応したのだろう。だが、何割かは本心のようだ。
「どうだ、地球の太陽はすごいだろう」
なぜか、龍輝が得意になる。
ククククッと、音がした。杏樹が、下を向いて笑っているのだ。細い肩が、震えている。
つられて、龍輝も視線を落とす。
杏樹のヒールと、龍輝のスニーカー。クローバーの上に、二人の靴が四つ、横並び。
「クローバー、きれい。緑だねー」
と、顔を上げた杏樹の瞳は、潤んでいた。
(えっ)
一瞬、ドキッとする龍輝だったが、
(ああ、そうか、笑い過ぎたせいで、涙ぐんだだけか)
と気づいた。
「アウダピスには、クローバーはないのか?」
杏樹は、指先で涙をぬぐいつつ、
「そりゃあね。だって、外は氷河だし、ドーム内は、植物っていっても、農作物が優先よ。スペースに余裕ないもん」
「なるほど」
駅前のベンチを、よけて囲むように、クローバーの緑色が、うねっている。それは、歩道の段差まで続いていた。
日差しと風に、葉っぱの香りが鼻をツンと突いた。
ハトが三羽、カサカサと足音をたてて、斜めに横切る。犬の散歩をする男児を、太った老人が見守っている。祖父であろうか。
その向こうには、銀色のビル群。青空を、フライング・カーや、ホバーバイクが、まばらに横切る。
龍輝は、
「んじゃ、クローバーでも眺めながら、行くか。なるべく、緑色の所に沿ってさ」
「いいねー。それ、私には最高のぜいたくかも。――お昼は、龍輝のラーメンでいいんだよね?」
「ああ、もちろん。ごちそうするよ、いつもどおりに」
龍輝の職業は、屋台のラーメン屋なのだった。
思い出したように、杏樹は瞳をパッと見開き、
「そういえば、忍ちゃん、元気?」
「ああ、元気だよ」
うなずく龍輝。
「次のライブは?」
「土曜日」
「ってことは、明後日か」
龍輝は、
「ああ。路上だけどな」
「見に行っていい?」
「もちろん。忍さんも喜ぶだろ」
「今度、中学に上がるんだっけ?」
「いや、もう中三だよ」
「そっかー。早いねえ。私も、年を取るわけだ」
三十代の杏樹は感慨深げだが、外見が若いので、様になっていない。まるで、小娘が、おばさんぶっている感じに見える。どこか、嫌味な印象なのだ。
(やれやれ。なんだかなあ。まあ、杏樹は何も悪くないんだけど)
龍輝はため息が出そうだったが、杏樹に感づかれそうなので、グッと飲み込んだ。
忍は、十五歳の少女。マイナーなアイドルである。
ライブの時、龍輝は、忍のバックで演奏をしている。龍輝は、セミプロのギタリストでもあるのだ。
杏樹は、クローバーのすき間を渡るみたいに、そっと歩く。下を向いて、細いヒールで、緑の葉の上を、サワッ、サワッとゆっくり踏んでいる。
ふわふわした、天然のじゅうたん。そのやわらかさを、損ねないようにしているのか。
「四つ葉のクローバーでも見つけて、紗良葉にあげようかしら?」
紗良葉というのは、今、幼稚園にいる娘の名前。
妻の思い付きに、
「いいんじゃないか?」
龍輝が賛意を示す。
すると杏樹は、うふふと、無邪気に笑い返す。
「――」
今度は、妙に幼ぶって見えたが、龍輝は、口角をグッとひねり、強めにほほえんだ。
早速、数歩進むごとに、杏樹はしゃがんで、クローバーをまさぐり始める。
スーツの上着の裾が、草の先に触れても、お構いなしに、
「見て! 小さなチョウもいる!」
などと、時折、龍輝を振り返っては、子供みたいに見上げてくるのだった。