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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

幸福なままごと

作者: 木山花名美

※直接的ではありませんが、残酷な描写を含みます。

苦手な方はご注意ください。

 

 この世に堕ちてから、何回目の梅雨の頃だったか。

 八回目か九回目……多分、その辺りだと思う。

 僕の周りには、いつも暗くて湿った雲が纏わりついていたから。どこからが梅雨で、どこからがそうじゃないかなんて、未だによく分からないんだ。



 あの日、僕は小学校からの帰り道を、憂鬱な気持ちで歩いていた。くたびれて擦り切れたドブ色の運動靴に、雨が容赦なく染み込んできたからだ。

 靴はこれ一足しかないのに。明日も学校なのに。

 生乾きの嫌な臭いと、湿った布に足を突っ込む不快感を想像しては、いっそ裸足で帰ればよかったと後悔していた。


 暑い、重い、冷たい。

 飛沫を上げては、投げやりに繰り出される左右の靴。

 朦朧とする意識の中、やっと、我が家の掘っ建て小屋が見えてきた。


 家の中は、外よりもっとどしゃ降りかもしれない。

 だけどその時の僕は、一刻も早く靴を脱ぎたかった。



 玄関の前には、中学生の姉が座っていた。

 いつものセーラー服ではなく、非常に奇妙な姿で。

 父のポロシャツに、母のスカート。細身の身体には有り余る布地を纏う姉は、小学生の自分よりもずっと幼く見えた。ひさしの向こうへニュッと突き出された素足には、父と母のサンダルが片方ずつ嵌まっており、流れる雨でテカテカと光っている。


「ただいま」と言うより先に、「おかえり」と微笑む姉。

 びしょびしょの足ですっと立ち上がり、僕を家から守るように、玄関の引き戸を塞いだ。


「……入れないの?」


 長年の習慣から、僕は自然に問う。

 すると姉は、穏やかにこう答えた。


「うん、しばらくね。だから、今日からしばらくあっちで暮らさない? お姉ちゃんと二人で」


 “ あっち ”


 姉が指差したそこは、庭の隅にあるボロボロの物置き小屋だった。

 錆びたトタン屋根と、ところどころ穴が空いた壁を、脆い何かで塞いでいる狭い小屋。

 カビ臭いし、蜘蛛の巣は不気味だったけれど、よくそこを避難所にしている僕らにとっては、家よりもずっと落ち着ける場所だ。


 姉がとても楽しそうだったから。

 深くは考えずに、いいよと返事をした。



 用意してくれていたのか、姉はタオルで僕の足を拭いてくれた。続けて自分の足を拭くと、半分腐った床板をギシリと踏みしめる。


「おいで」と手招きされるまで入るのを躊躇ったのは、物置き小屋の雰囲気が、いつもとどこか違っていたからだ。

 足跡が付く程白かった床は、本来の茶色い木目を見せているし、目立つ所に蜘蛛の巣もない。

 小屋の中心を占領していた段ボールは跡形もなく、代わりに家で使っている卓袱台と、座布団が二つ置いてあった。


「……持って来ていいの?」


 姉が怒られるんじゃないかと心配になる。


「いいの。壊れてたから、私が直して使うのよ」


 その座布団と卓袱台で食事をしたのは、確か前の日の朝。炊飯器に残っていたご飯の青い部分を落として、姉と二人、しょっぱい梅干しで食べたのが最後だった。

 その時は普通に使えたと思うけど……と首を傾げる。


「壊れてたのよ」


 姉は噛みしめるように呟くと、座布団にペタリと座り、卓袱台を撫でる。

 その優しい仕草に何だかホッとし、僕も向かいの座布団にペタリと座った。

 無邪気な双眸が、僕を見つめてキラキラと輝く。


「今日からね、私がお母さんでお父さんよ。きいちゃんにご飯を作ってあげるし、お金も沢山ある。家にはもう入れないけど安心してね」


 ……お母さんでお父さんなら、『お姉ちゃん』はいなくなっちゃうの?

 そう思ったけれど、訊いてはいけない気がした。

 せっかく始まりそうなのに、終わってしまう気がしたから。



 雨の勢いが少し収まると、僕達は傘を差して、近所の商店街へ向かった。

 濡れた靴をもう一度履くのは嫌だったけど、買い物に行くという非日常にわくわくしていた。


「今日はお鍋にしようと思うんだけど。包丁は使えないから、そのまま食べられるか、手で千切れる野菜にしなきゃいけないの。きいちゃん、選べる?」


 任されたことが嬉しくて、僕は「うん!」と胸を張る。

 八百屋で、トマトともやしとキノコを選んだ僕を、姉は「すごいね」と褒めてくれた。

 本当の母よりも、ずっと「お母さん」みたいで。

 初めて「普通のお母さん」に触れた気がして、嬉しかった。


 酒と博打にまみれた父の財布を手に、「何でも好きな物を買っていいのよ」と胸を張る姉は、逞しくて「普通のお父さん」みたいだった。

 僕は真っ直ぐ駄菓子屋へ走り、滅多に食べられないお菓子と、一度も遊んだことのない玩具を選ぶ。

 次に靴屋で、長靴と真っ白な運動靴を選び、新しいゴムの匂いのする袋をギュッと抱きしめた。

()()()()は買わないの?」と訊くと、姉は嬉しそうに笑う。商店でお餅やお豆腐や鰹節なんかを買い、満足気に帰路に就いた。


 重い荷物を二人で分けっこしながら、再び暴れ出した雨空の下を歩く。

 暑くて、重くて、冷たい足も、全然気にならない。替えの靴も、長靴だってあるんだし。

 おまけに頬っぺたは、駄菓子屋で買ってもらった大きな飴玉で膨らんでいる。ザラザラの砂糖がしっとり溶ける度に、甘美な幸せが広がっていった。



 小屋に戻るなり、卓袱台にお菓子や玩具を並べる僕を見て、姉は優しく微笑わらう。


「あっちの家から、お鍋とコンロを取ってくるから。いい子に待っていてね」


 僕も手伝うと立ち上がったが、「きいちゃんは入っちゃ駄目」と、厳しい顔で言われてしまった。



 トテテン……トン、タタン


 一人きりの静かな小屋に、屋根を打つ雨音が響く。

 急に尿意を催した僕は、小屋の裏にある汲み取り式のトイレへ行こうと思いつく。あそこは臭いし、虫がいるから嫌なんだけど。家に入れないのだから仕方ないと、傘を手に外へ出た。


 用を足して戻る途中、庭の向こうで物干し竿に手を伸ばす姉の後ろ姿が見えた。

 傘も差さずに、しばらく竿を見上げた後、くるりと縁側へ入って行く。残された物干し竿には、赤茶色のセーラー服が、無言で雨に打たれていた。


 お鍋や食器、コンロを何度かに分けて運んだ姉は、髪からポタポタと滴る雫を、新しいタオルで拭いている。

 やっぱり手伝った方がよかったんじゃないかな。こんなに濡れて、気持ち悪くないのかな。


 頭にさっきの光景が過り、つい疑問を口にしてしまう。


「洗濯物、干しても雨で濡れちゃうよ?」



 ────姉の顔から一切の表情が消える。


 あ、訊いてはいけなかったんだ。

 始まったばかりなのに、終わってしまったらどうしようと悲しくなる。

 だけど姉は、すぐに大人びた笑みを浮かべ、「あれは干してるんじゃなくて洗っているのよ」と答えてくれた。


「雨で洗っているの?」

「うん。酷い汚れは、洗濯機よりも雨の方がよく落ちるの」

「へえ」


 僕は感心した。

 さすがお母さんになれるだけのことはあるなと。


 雨が汚れを落とすなら、僕のぐしょぐしょの運動靴は、何故汚いままなのだろう。

 おかしなことに、そんな素朴な疑問には辿り着けなかった。



 水を張った鍋をカセットコンロに置くと、姉がマッチで器用に火を点ける。ぽこぽこと細かい気泡が立ち始める水は、鰹節やら醤油やらの調味料で、茶色く濁っていく。

 そこにトマトを丸ごと一個沈め、もやしや、お餅や、豆腐や、とにかく買ってきた材料を全部入れていく。

 一番楽しかったのは、キノコをむしる作業だった。僕はしめじを、姉はえのきだったかな。もっともっととはしゃぎながら、鍋をいっぱいにしていく。


 出来上がった鍋は、それまで生きてきた中で、一番美味しかった。

 乞食と揶揄からかわれながら何度もお代わりする給食よりも、ついさっきの甘い飴や菓子よりも。

 どうして肉や魚がないのかなんて訊く必要がないくらい、充分に濃厚で美味しかった。


 窓のない湿気のこもった小屋には、湯気が充満して更にじめじめする。

 姉も僕も、額や首に汗の玉を浮かべながら、夢中ではふはふと貪り続ける。


 どんなに暑くても、小屋の戸は開けたくなかった。

 せっかく遮断したのに、壊れてしまう気がしたから。



 鍋を空っぽにすると、僕は買ってもらったばかりの長靴を、姉は例の歪なサンダルを履いて、近くの銭湯へ歩く。

 小雨の中、さっぱりした手を繋ぎ、またじめじめしたあの家へと戻った。


 豆電球の仄暗い灯りの下。

 座布団を枕にして丸まる姉は、お母さんでもお父さんでもなく、小さな赤ん坊みたいに見えた。



 次の日から、僕が学校に行っている間に、姉は色んなことをしてくれた。

 掃除に洗濯に料理。

 布団や椅子なんかも運ばれ、ボロボロの小屋は、どんどん家らしくなっていく。


 姉のセーラー服は余程汚れが酷かったのか、赤茶から薄茶へ、薄茶から黄色へと染みを残したまま、物干し竿に揺れ続けていた。

 あと何回雨で洗われたら、元の白へ戻るのだろう。

 お母さんとお父さんになったのだから、もう学校へ行く必要なんてないのかもしれないな。

 何日も同じ生活が続く中で、僕は次第に何も疑問を抱かぬようになっていった。



 降り続く雨が、鋭い日差しへ変わった頃。幸福なままごとは、突如終わりを迎えた。

 通っていた小学校に、どこかの施設の大人が来て、僕を強引に『保護』したからだ。

 色々と訊かれたけれど、僕は何も答えなかった。

 これ以上壊されないようにと、ただ、心の戸を必死に押さえ続けていた。


 姉も、僕とは別のどこかへ『保護』されたらしい。

 どうして一緒に居られないのか。その答えは、同級生達から浴びた『親殺しの弟』という雑音で、簡単に知ることが出来た。



 情状酌量とやらが適用され、少年院でほんの数年を過ごした姉。放り出されるとすぐに、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされたあの小屋で、自分の人生に終止符を打ってしまった。


 大人はいつだって残酷だ。

 僕らを苦しめた両親も、僕らを助けたと勘違いしている善人ぶった他人も。

 もしあの時、無理矢理なんかじゃなく、ままごとを自分達のタイミングで終わらせることが出来ていたなら。きっとこんな風には壊れなかったはずだ。



 あれから数十年。

 残酷な大人になった今、僕は雨の音を聴きながら、大きな鍋に湯を沸かす。

 トマト、もやし、餅に豆腐……つゆは茶色ければいい。

 そしてあの日と同じように、キノコをむしる。姉の分までいっぱいむしる。


 とんすいによそい、しばらくはふはふとやるが、途中で何度も嘔吐いてしまう。

 それでも何とか飲み込んで、震える箸で次のえのきをつまむ。


 いつかもう一度、これを全部食べきることが出来たなら……


「もうおしまいにしようか」と、二人で優しい戸をひらける。

 手を繋いで、真っ白な赤ん坊へ戻れる。


 そんな気がするんだ。



ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
読ませていただきました。 戻れない家。 血に染まったセーラ服。 途中まで読んでいて、おそらくそうなんだろなと思っていた結末でしたが、切ないですね。 回避不可だったのかなあ。 そうなる前に、誰が気づい…
つらい……。 でもきいちゃんは大人になれたんですね。 お姉ちゃんはどんな思いであの期間を過ごしていたのだろう、そう思うと何とも言えない気持ちになります。 直接的に書いていないのに様々なアイテムの描写で…
もう、一行目を読んだだけで★5でした。 前半を読んだだけで★10ぐらいつけたくなってしまいました。 相変わらずの文章力オバケっぷりに、読みながら何度、色んな声を上げてしまったか……。 はっきり書い…
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