銀のティースプーンを使う理由
【1 過去】
夢を見た。
夢の中の私はなんだか上等な服を着ていて、大勢の大人に頭を下げられていた。高そうなものに囲まれた派手な部屋の中を歩いて、1つの扉を開ける。
そこに誰かが倒れていた。
走って逃げたかったけど、夢の中ってどうしてもうまく走れない。だからすぐに捕まった。
それから先の展開はあまり思い出したくない。
「でも多分これ予知夢ってやつなんだと思う」
「……姉さんさ」
親愛なる「兄」は心底嫌そうに顔を歪めた。こちとらこんなに大真面目に話しているというのに。そんな顔をされる筋合いないんだけど。
「寝起きにそんな話聞かされる身にもなってもらえる?」
「寝起きだからこそだよ兄さん。分かるでしょ? なにごとも、心配事はすぐに共有しないと」
私たち2人の鉄則。鉄の掟。心配なことはすぐに共有する。そして全部2人で分け合う。決めたのは兄さんだ。
私はそれに則ったまで。夢を見て心配事が生まれたのだから、目が覚めてすぐに共有するのは正しいはず。そうだよね?
「……ま、いいよ。話してる間にはっきりしてきた」
目をしばたたかせ、兄さんは一度大きく伸びをした。それからぱっちり目を開ける。そうすればもう、いつもの兄だった。
「で、なんだって? 予知夢?」
「そう! この先の未来にこういうことが起こるっていう、それ!」
「だとしておかしいでしょ。だって夢の中の姉さん、話を聞く限りじゃあまるで貴族みたいじゃん」
「まるでっていうか、きっとそうだよ。それかもしかしたら王様だったかも」
「無茶言わないでよ。とにかく、だったらやっぱりそれは予知夢じゃない。僕らは貴族じゃないんだから」
貴族たちの服ってやつは、それはもうとんでもなく上等な布を使って作られているらしい。それ何に使うの? ってくらいの飾りがありとあらゆるところに付いている。きっととんでもない数のお金が必要なんだろう。
とにかく、そんな感じの服を夢の中の私は着ていた。
でも現実の私たちはというと、頭と腕を通すだけの袋みたいな服をもうずっと何年も被り続けている。
別にこの服だって、私たちからしたら十分に柔らかく、十分に丈夫な布で出来ているわけで、別になにも文句はない。
とはいえやっぱり貴族の服とは違うと思う。
「でもでも、絶対予知夢だと思うんだよ」
「……姉さんの言うことは信じたいけどね僕だって」
「でしょ? 私が兄さんに嘘吐くことなんてないじゃん」
「でもなぁ。だってそれがもし本当に予知夢だとするなら」
兄さんは一度言葉を区切った。ちょっと言いにくそうに目を泳がせる。
「姉さんは、これから貴族になるってことでしょ」
「そうなるっぽいね」
「それで、たくさんの人を従えて」
「あれが使用人って人達だったのかなぁ」
「誰かを殺そうとした罰で殺されるんでしょ」
そう。
夢の中で捕まった私は殺された。
どうやら貴族になった私は、見知らぬ誰かを殺そうとするらしい。その罰として、私の方が殺される。
「おかしいよね。せっかく貴族になったんだよ? 今後の人生安心して暮らせるぞーってなるはずなのに」
「姉さんならそうだろうね。その立場を手放さない様に全力になると思う」
「もちろん! よく分かってるね兄さん」
だからこそより不思議だ。
なんで私は殺されるのか。だって私ならそんなことするわけがない。
「それに、私が兄さんを死なせるわけないし」
夢の中で殺されたのは私だけじゃなかった。
私の前に、兄さんが殺されている。
ただの夢、現実とは何の関係もないってそう思うことも確かにできる。
でももし、万が一、これが本当に未来に起こる事だとしたら?
そんなことあっていいわけがない。
だから私はこの夢を予知夢だと思うことにした。最悪を想定して、絶対にこんな未来にならないようにするために。
「ま、僕らは生きるのも死ぬのも一緒だからね。姉さんが殺されるなら僕もでしょ」
「でもなぁ。見た限り貴族になってたのは私だけなんだよ。なのに兄さんが一緒になって殺されてるのが不思議で」
「は?」
わ、刺々しい声。
顔をあげれば兄さんは口をへの字にしていた。とっても不満ですって顔。それから大きな大きなため息をついて、イライラした様子で寝ぐせの付いた頭をかきむしった。
「あ~そういうことならもう今の全部無し」
「え!?」
「それは予知夢なんかじゃない。ただの夢。幻覚。ありえない!」
「なぁんでそんなこと言うの! 現実にしないようにするんじゃん!」
「なるわけない!」
「分かんないじゃぁん!」
2人して大声をあげた所で、2人してピタッて動きを止める。
それから同じようにドアまでにじり寄って、おそろいのポーズで聞き耳を立てた。
……静か。良かった、先生は起きてないみたいだ。
「危ない危ない。先生怒らせちゃうとこだった」
「流石にこんな真夜中には起きてないか。起こす可能性はあったけど」
「じゃあ起こしちゃうとこだった。それでも怒りそう~」
「怒るでしょ。何時だと思ってるの?」
「何時?」
「分からない。でも先生が寝て、起きる前ってことは確か」
「じゃあすっごい夜だ!」
しーっ、と兄さんが人差し指を立てる。慌てて口に手を当てて、こくこく、と何度も頷いた。
ゆっくり寝床まで戻る。もう寝る気なんてなくなっちゃったから、そのままシーツの上に膝を抱えて座り込んだ。兄さんも同じように座る。
「とにかく私、なにがなんでもあんな未来にしたくないの」
「だからなるわけないってば」
「それで考えたんだけどね」
「起こらないことの話なんて考えなくていいよ」
「そもそも貴族にならなきゃいいんじゃないかなって」
「……ふむ」
兄さんは顎にこぶしを当てて考え込んだ。
だってそうじゃない? 貴族になった私が誰かを殺そうとするんだから、じゃあ貴族にならなきゃいいじゃんね。
スタートを変えちゃえば、ルートも変わってゴールも変わる。そのはず。
「だとして、どうする?」
「どうって?」
「姉さんの予知夢じゃあ、姉さんはどうやって貴族になったの?」
「……分かんない!」
「それが分からなきゃ、今の僕らはどうしようもないよ。貴族にならないようにするって言ったって、じゃあなにをしなきゃいいのか分からないんだから」
言われてみればその通りだ。
先生に怒られないようにするには、先生に怒られたことをしなければいい。おやすみ時間の後には騒がない。他人の物を自分の物のように使わない。言われたことを後回しにしない。
でもじゃあ、貴族にならないようにするには?
うーん。思い出せない。なんなら思い出そうとするそばから記憶が薄れていく気までする。すごく大事なところなのに。
なんとかできないかなぁ。貴族にならないように、今できること。
「そうだ!」
「うわびっくりした。あんまり大声出しちゃだめだって」
「なにをしない、じゃなくて、するんだよ兄さん!」
「する?」
そうだそうだ。だって私たち、そうやってきたじゃん。
私たち、先生に怒られないようにするために、先生から徹底的に逃げるじゃん!
「貴族にならないために、先にちゃんとした身分を作っちゃうんだよ!」
そうと決まれば話は早い。ラッキーなことに今は真夜中。先生もぐっすり夢の中。
動くなら今! この瞬間!
「行こう兄さん! 窓開けて!」
「ちょ、ちょっと姉さん! 話が早すぎる!」
「大丈夫!」
ぎゅっ、と手を取って走り出す。開け放った窓の向こうへ、思い切り、ダイブ!
まんまるい兄さんの目に月が映っていた。きれいな、きれいな、月。
【2 過去】
夜の町をひたすら走る。
今しかないって思ったけど、やっぱりちょっと急ぎすぎたかもしれない。だって月が眩しすぎる。もし先生の目が覚めて私たちがいないことに気が付いたら、すぐに見つかっちゃうかもしれなかった。
だから早く、できるだけ遠くに行かなくちゃ。そうやってずっと走り続けていた。
「姉さん、ちょっと、ちょっと待って」
兄さんの言葉に足を止める。流石にちょっと走りすぎた、2人して息を整える。
「なぁに兄さん」
道の真ん中から少し外れ物陰に身を潜める。兄さんは真剣な表情でつないだ手に力を込めて言った。
「ここまで来ておいてなんだけど、身分を作るって具体的にどうするの」
「どう……」
「やっぱり、あんまり何も考えてないでしょ」
図星。とにかく先手を打って身分を手に入れちゃおう、とは思っていたけれど、じゃあ実際にどうするかは思いついていなかった。
「身分ってどこにあるのかな?」
「物みたいにその辺に転がってはいないよ」
「じゃあみんなどうやって手に入れてるの?」
「例えばだけど、それこそ貴族とか王様ってやつは基本的に生まれた時から貴族や王様だよね。そういうのが身分っていうんじゃない」
「先生とかは?」
「先生の身分は……なんだろう、そのまんま先生、教える人っていうのが身分、なのかなぁ」
なるほど。うんうん、と頷いてみたはいいけど、だからといって何も解決していない。むしろこうやって色々聞いてみると、ますますどうしたらいいか分かんなくなる。
「私たちは生まれも分かんないし誰かに何かを教えることもないし……あ、兄さんは私に色々教えてくれるけど、じゃあ兄さんの身分は先生?」
「それは違うでしょ」
「違うんだ」
「違うよ」
「そっかぁ」
「それに、だとしたら姉さんだって先生だよ」
「え、ほんと!?」
「うん」
兄さんは笑って頷いて、「でもそれは身分じゃないけどね」と続けた。
「先生ってさ、そもそも職業なんだよ」
「職業?」
私たちにとって先生は先生だ。生きる術を教えてくれる人で、呼び名が「先生」。だからあんまり考えたことなかったけど、どうやら「先生」とはあの人の名前ではなく、身分の名前らしい。
先生イコール身分で、先生イコール職業で、職業イコール身分。ってことは?
「私たちも職業を手に入れれば、身分も手に入る、ってことじゃない!?」
「そういうことだと思う」
スタートはこれで決まり。何かしらの職業を手に入れる。
それじゃあ次は、どの職業にするかだ。
「私たちって、なになら手に入るのかな? やっぱり先生?」
「どうだろう。こういうのってなにかしら証拠みたいなのがいるんじゃない?」
兄さんは空いている方の手で空中に四角を描く。
「あなたを先生と認めますみたいな紙とかさ」
「それどこで手に入るの?」
「分かんない。だから、別の職業にした方が良いと思う」
「なるほどなぁ」
別の職業かぁ。2人してうーんと考え込む。兄さんは顎に手を当てて、私は繋いだままなのをいいことに兄さんの手をにぎにぎ弄る。
別の職業といったって、正直全く思いつかない。なにせ私たちの世界には先生と他の子たちと、あと私たちしかいなかった。その中じゃあ職業に当てはまりそうなものなんて先生しかない。でもその先生になるのは難しくて……だめだ、思考が固まらない。
これまで他人を羨んだことはほとんどなかったけど、こればかりは貴族や王様が羨ましい。だって生まれた時から身分を持っている。私たちが今欲しくて欲しくてたまらないものを!
いいな、欲しいな。私たちの物にできないかなぁ。頭の中で計画書を作りかけていると、「そうだ」と兄さんの声。
「使用人はどう?」
「使用人?」
そういえば予知夢でも見た。貴族になった私の周りにいた人達。誰かに従って働く職業の人達だ。
でもどうして使用人?
「一番手っ取り早い。雇い主を選ばなきゃ使用人を募集している所なんて沢山あるからね」
「そうなんだ!」
「うん。先生の部屋で見たよ。使用人募集の紙、沢山あった」
さすが兄さん。私も一緒に見たのかもしれないけど、そんなのすっかり忘れていた。もしかしたら全く別の事に夢中だったのかもしれないけど。
とにかく、これで次も決まった。私たちは使用人の職業を手に入れる。
「でも大丈夫かな? 使用人って大人の人ばっかりっぽくない?」
少なくとも予知夢の中で見たのは大人の人ばかりだった。はたして私たちみたいな子どもでも雇ってくれるものなんだろうか。
そんな疑問に兄さんはなんてことないように、
「大丈夫だよ。能力さえあればある程度は重宝されるでしょ」
「そっか、そうだよね」
私は安心して胸を撫で下ろした。
それなら大丈夫だ。だって生きる術は先生に教えてもらった。怒られることも多かったけど、こればっかりは先生に感謝しなきゃならない。
ありがとう先生。教わったことを活かして私たちは使用人になるよ。
「じゃあ行こう! まずはどこに突撃しようか?」
尋ねると、兄さんは私の手を引いて歩き出した。どうやらそっちの方面に、使用人募集の当てがあるみたいだった。
【3 過去】
「今更なんだけど、紹介状とかあった方が良かったかもね」
「えっ、どこにあるの?」
「先生の部屋とか」
「うわ、だったら取ってこれたなぁ! まぁでもいいよ。だって兄さんが選んでくれた所でしょ」
どれくらい移動してきたか、もうすっかり分かんない。ただここが初めて来る場所だってことだけははっきり分かった。
だって、それはもうとんでもない道のりだった。初めての乗り物に乗って、物陰に隠れて、走って走ってまた乗り込んで、隠れて、それで辿り着いた。
大きな大きな門を見上げる。格子の左右にランプのついた柱があって、そこからながーく壁が続いている。すごく高いし、すごく丈夫。堅そうな鍵もついていて、警戒心ってやつが目に見えるみたいだった。
わざわざ兄さんが選んだってことは、この家なら雇ってもらえる可能性が高いってことなんだと思う。でも、なんでこの家なんだろう。
「なんでこの家なの?」
「これも先生の部屋で見たんだけど」
兄さんはそう前置きして、
「この家で一番偉い人が最近殺されたんだって」
「……そう、なんだ。あ、だからこんなに」
屋敷の雰囲気だけじゃない。この付近の町中もそうだった。なんだかずっと空気が重くて、ピリピリしてて、すれ違う人達はみんなどこか悲しそうな顔をしていたのだ。
「それで今は息子が一番偉い人を継いだらしいんだけど」
一番偉い人、とはつまり当主のことらしい。
突然の代替わりに家の中は慌ただしく、人手はあって困らないでしょというのが兄さんの考えだった。
「なぁるほど」
そういうことならこれだけ遠い所までやって来たのも納得だ。近場に片っ端から突っ込むよりも、可能性が高い所に絞る。そうやって冷静に物事を考えられるのは兄さんのすごい所の1つだと思う。
それじゃあ早速、と踏み出しかけて、ん? 首を捻る。
「兄さん兄さん」
「どうしたの姉さん」
「こういう時って、まずどうしたらいいのかな? 雇ってくださいって誰かにお願いするの?」
門の格子を掴む。やっぱり固い。これはなかなか、壊すのは骨が折れそうだ。
「そうだね。使用人は雇い主に従うものだから、雇い主になる人に頼むんだよ」
「雇い主になる人、って、誰?」
「今この家で一番偉い人。ようは、当主だね」
「当主ね!」
よし分かった! 私は兄さんと両手を繋ぐ。
「どっちが行く? 私行っていい?」
「いいよ」
「よーし!」
手を離して兄さんから少し距離を取る。兄さんは柱の前に背を向けて立った。
「行くよー!」
「待ってるよー」
軽く地面を蹴って駆ける。足のばねを意識して、うん、いつも通り。
ぴょんっとジャンプ。兄さんが身体の前で組んだ両手に足を乗っけて、もう一回、ジャンプ! 同時に兄さんが私を押し上げる!
うんと伸ばした手が柱の天面にかかる。ぐっと身体を押し上げて、しっかり腕でしがみついた。ここまで来れば大丈夫。あとはよじ登るだけ。
「おっけー、来ていいよー!」
登り切った柱の上から声をかける。兄さんは頷いて、さっき私が走り出した辺りの位置まで下がっていった。
できるだけ身を乗り出す。落ちない様にランプの付け根を掴みながら、もう片手を下に伸ばした。
兄さんが走ってくる。私より歩幅が狭いのは利き足で踏み込むための調整だ。
柱の手前で兄さんは跳びあがった。伸びてきた腕を、ちゃんと掴む。兄さんは柱の側面に両足をついて、そこを歩くみたいにじりじり上がってきた。
「とうちゃーく」
2人して柱の上でしゃがんで一息つく。
門からは石畳の道が続いている。その先に階段があって、上った所に大きなお屋敷が建っていた。
「当主、どこにいるんだろう。一番偉い人だし、一番大きい部屋かなぁ」
「日が出てる時間だし、起きてはいると思うけど」
「やっぱり当主もおやすみ時間に起こしたら怒るよね。起こさなくて済みそうでよかった~」
「雇われに来てるのに怒らせるわけにはいかないからね」
「そうなったら困っちゃうよ! 怒らせなくても済みそうでよかった~」
とか話していると、
「だっ誰だおまえたち!?」
大きな声。門の中、つまりは屋敷の敷地内からこちらを見上げて指差してくる人が居た。
あの人は、当主?
「当主じゃなさそうじゃない?」
「やっぱり? 私もそう思う」
多分あの人も使用人だ。着ている服装的にそう思う。あの人の服もすっごく丈夫そうだけど、当主って言うには派手じゃない。
「当主じゃないなら用はないね」
顔を背ける兄さんに私は軽く腕を叩く。
「ううん兄さん、用はあるよ」
「あるかな?」
「あるよ。だってほら、当主の場所を知ってるかも」
「おいなにをごちゃごちゃ言っている!」
と、使用人らしき人。こちらを睨みながら間合いをはかっている。
「子ども……いや、だからと言って」
「ねえ! 当主ってどこにいるの?」
すると彼は目を見開いた。一歩下がって腰を落とす。
あ。やらかした。
「やはり、おまえ達」
「違う違う! 私たち殺しに来たんじゃなくて」
「姉さん、こういう時は敬語を使わないと」
「兄さんごめん、もうそういう問題じゃないかも!」
慌てて兄さんの手を取って立ち上がる。あぁもう、失敗した! 最初にちゃんと目的を言わなきゃだった! こんなピリピリした中で最初に当主の場所なんて聞くものならそりゃ勘違いもされてしまう。
「あのあのあの本当に違くって! 雇ってもらいに来たの!」
「雇ってもらいに来たんです」
「募集を見て!」
「見たんです」
「募集?」
眉を顰める使用人さん。
「それなら紹介状を出してもらおうか」
「あー、えっと。渡されてないの。うっかりうっかり」
「紹介者は? 家名を聞こう」
「なんだったかなぁ。名前を聞くほど仲良くなくて」
そう言って頬をかく。ちらっと見下ろして様子を見ると、使用人さんは明らかに不信がっているようだった。うーん、せめて「先生」って言っておくべきだったかなぁ。
こうなったら仕方ない。ここまで来て逃げるわけにもいかないし。
「兄さん」
と、小声で話しかける。
「うん」
「捕まる前に当主にお願いしよう」
「分かった」
顔を見合わせて頷き合う。せーの、の合図で飛び降りようとしたその時、使用人さんの油断のない表情が崩れた。
「……おまえ達、一度身柄を拘束する! 降りてこい」
「拘束? そんなぁ。雇ってくれないの?」
「本当に雇用が目的なら従えるはずだ。早く!」
彼は取りつくろっているようだけど、目線がわずかにうろついている。焦っているような早口も気になった。
何かを気にしてる? いったいなにを……待って。これか?
私たちの背後、門の外から、何やら音が聞こえてきた。
「困ったなぁ、どうしよう」と首を捻るふりをして、ちらっと音の方に目をやってみる。
「姉さん」
小声の兄さん。兄さんも気付いたみたいだ。
間違いない。これはエンジン音だ。そして答え合わせのように、道の向こうから車が近付いてくる。
「おい早くしろ! 従わないのなら、子どもだろうが容赦しない」
どうしよう。どっちだ。どっちがいい? 一瞬考えて、答えはすぐ決まった。
兄さんはというと一つ咳払いして、トントンと爪先で柱を叩いた。そうだよね、私もそれが良いと思う。冷静な兄さんも同じ考えだっていうならもうなんにも問題ない。
「くそっ、悪く思うなよ」
使用人さんが上着の内側に手を入れ、なにかを探る。それが取り出されるより早く、私たちは深く深く息を吸って
「私たちを!」「僕たちを!」
「雇ってー!!」「雇って下さーい!!」
使用人さんはギョッと肩をはねさせた。背後で着実に近づいてきていた車の音が止まる。小さく「坊ちゃん、注意なさってください」って声がした。
やっぱりそうだ。あの車にはこの家の当主が乗っている。前方の運転手と後ろの幌に隠されて姿は見えないけど、間違いない。そして、止まったってことは私たちの叫びが聞こえたってことだ。
ここまでは目論見通り。叫んだ内容まで聞こえててくれればもっと良いけど、流石にちょっと厳しいかもな。でも問題ない。
そこに当主がいて、止まって様子を伺っている。だから今もう一度叫べば、ある程度は聞き取ってくれるはずだ。
使用人さんに従って降りたとして、私たちが雇われに来ていることを彼が伝えてくれる保証はない。だからより確実に私たちの存在が当主に伝わる手段を取ったのだ。
さてもう一度、と息を吸いかけて、
「なにものだ!」「侵入者か!?」「捕まえろ!」
そう口々に言いながら大勢の足音が迫ってくる。まずい、そっか。あんなに大声を出したんだし、届いてほしくない所まで届いていても当然だ。急がなきゃ!
「私たちー!! 雇ってほしいだけでー!!」
「おっ、おまえ達! 一度黙って降りてこい!」
「じゃあ雇ってもらえるのー!!?」
「大声を出すな!」
そんなやり取りをしている間にも人は集まってくる。気が付けば門の周りはすっかり使用人さん達に囲まれていた。
「観念しろ!」「命が惜しければ投降しろ」「どこのものだ!」
色んな言葉が飛び交ってすっごく騒がしい。もう私たちの声なんて聞こえたもんじゃないと思う。
どうだろう、当主に私たちの思いは伝わっているのかな。念の為、もう一度くらい叫んでおこう。
「雇ってくださーい!!」
兄さんに続こうと口を開けた、その時。
集まった人達の1人がこちらに銃を向けている。
それに気が付いた時にはもうパシュ、と音がして、隣で兄さんがよろめいた。
『4 現在』
ほうきを使っていると、昔読んだ絵本を思い出す。
魔法使いの大冒険。ほうきに跨って空を飛ぶ。すごく楽しそうで憧れだった。
だから、できないって分かっていても試さずにはいられなかった。ほうきに跨って、軽くジャンプ。当然そのまますぐ着地してしまって、不満に頬を膨らませている間に、掃除の手が止まっているのを見つけられよく怒られた。
「ココさん!」
呼びかけられて振り返る。室内から窓越しに、使用人仲間がこちらを見下ろしていた。
「坊ちゃんが呼んでます。この後執務室まで来てください」
「はい、ただいま」
「それと、掃除道具で空を飛ぼうとするな、とも」
「う、はい」
「分かりました?」
「はい!」
ぴっと背筋を伸ばす。それから片足を上げ、跨いでいたほうきを取り出した。
使用人仲間はそれを見届け窓を閉める。メイドキャップのリボンを翻して去っていった。
ふう、と一息。息苦しさに首を覆う襟を一撫でした。いや、それより私も早く行かなくては。
最後に足元を一掃き。そうして中庭を後にする。
はた、と見下ろした先に汚れが見えた。中に入る前にはたいてしまわないと、これまた怒られる。
クラシカルなロングエプロンドレスの柔らかい裾を摘まみ上げ、撫でるようにはたいた。
堅いドアを軽くノック。
「ココです」
「入れ」
ドアを引く。入室すると、3人分の視線がこちらを向いた。
デスクに1人。その前に2人。
よく分からないけれど、一旦誤魔化しの、一礼。
「フレデリック様、この者は……」
「別件だ」
デスクに坐するのは我らが主人。正面の2人のうち、1人は見知った使用人仲間だ。彼は合点したと頷き、片手をもう1人に向けた。
「ココさん。後程使用人間でまた紹介いたしますが、彼は新人のコロです」
「コロと申します。よろしくお願いいたします」
深くお辞儀する新人に、こちらももう一度礼をする。数拍置いて顔をあげた。
ばちっ。新人と目が合った。と、思ったらすぐに逸らされる。なんなんだ。
「それではフレデリック様、失礼いたします」
2人は主人にことわり、部屋を後にした。ドアが静かに閉まる。かと思うと、正面のデスクから即座に声が飛んできた。
「ココ、書類の整理を頼みたい」
「お任せください」
主人は書類にペンを走らせている。近づく私に一瞬だけ顔をあげて、またすぐ視線を落とした。
「坊ちゃん?」
「なんだ」
デスクの上に散らばった書類を集める。手袋越しでは1枚1枚拾うのが難しい。デスクの端まで紙を滑らせて、掴む。
「あまり根を詰めすぎませんように」
「おまえに言われなくても分かってる」
なんともつれない返事。この主人はまったく、いつもこうだ。
ちら、と横から視線だけで顔を覗き込む。昨日は何時間寝たか、ちゃんと分かってるのかな。
「ココ。おい、ココ!」
「あ、はい。どうされました?」
「どうされましたじゃない。手が止まってる」
「あぁ、申し訳ございません坊ちゃん」
慌てて書類整理を再開させた。分類ごとに振り分けて置いていく。
坊ちゃんはじとりとこちらを見上げ、これ見よがしにため息を吐いた。
「そんな調子じゃ困るな」
「ご心配痛み入ります」
「……ふん」
頭だけで礼をする。坊ちゃんは不機嫌そうに書類に向き直った。
「体調が悪いなら無理をするな」。今の台詞の坊ちゃん翻訳である。坊ちゃんはよく言葉選びを間違えるので、どうにも真意が伝わりにくい。
「この後はどうなってる」
「婚約者様とのお茶会ですね。リクエストのクッキー缶の準備が整っております」
「そうか」
「美味しかったですよ」
「おまえ……どこに主人のものを堪能する使用人がいる」
「まさか。感想を言ったまでです」
「それを堪能と……あぁ、もういい」
再びのため息。どうやら会話より仕事を進める方に集中することにしたようだ。
『5 現在』
我が主人の屋敷には広い広い中庭庭園がある。初めて見た時には広すぎて絶対に迷子になってしまうと思ったものだけれど、坊ちゃんによるとこの世の庭園の中では寧ろ小さいほうらしい。
レンガで整備された小道を進んでいくと、中央にたどり着くようになっている。中央には真っ白なガゼボが建っていて、2人の逢瀬はそこで行われるのが定番となっていた。
「フレデリック様!」
小道の先にガゼボが見えてくると、明るい声があがった。
愛らしいご令嬢がガゼボ備え付けのチェアに座り、こちらに手を振っている。坊ちゃんは軽く手をあげ返した。
「待たせてすまない」
「いえ、わたくしが早く来てしまったのです。フレデリック様に会うのが楽しみで」
「あ、あぁ」
それから手持ち無沙汰に上げた手をうろつかせ、
「も、もっとゆっくり来ても良かったのに」
……一瞬、空気がかたまった。婚約者様の傍に控えていた使用人仲間が「なんてことを言うんだ」と言いたげな目を向ける。それからすぐにバレないうちに目を伏せた。
こっそり婚約者様の方も盗み見ると、彼女は楽し気に笑っていた。坊ちゃんの悪癖に慣れているのか、それとも言葉通りに受け取ったうえで気にしていないのか。分からないけれど、機嫌を損ねた様子ではないようだ。
坊ちゃんは自らチェアを引き婚約者様の向かいに腰掛けた。私は使用人仲間の方まで向かう。先程私を呼びに来た彼女だ。
使用人仲間はサービングカートを携えていた。カートの上にはティーセット一式と綺麗な缶、それから見慣れない小さな箱が乗っている。
「茶葉はわたくしが持参したものを出してもらおうと思うのですが、よろしいですか?」
「あぁ、構わない」
なるほど、見慣れないのも当然だった。
使用人仲間は箱から茶葉を取り出し、お茶の準備を始める。私は隣の缶を手に取った。
綺麗な装飾がされた缶の蓋を開ける。中身はぎっしりと詰まったクッキーだ。缶の高さから少し下がる位置で統一されたクッキーの束。その見た目が最後に見た時から変わっていないのを確認して、皿に取り分ける。
「フレデリック様、ちゃんと寝ていらっしゃいますか?」
「ああ、まぁ、それなりに……」
婚約者様はじっ、と坊ちゃんを見つめ、小首を傾げて尋ねた。その目を見ていられない、と坊ちゃんは視線を泳がせる。そんな坊ちゃんに眉根を寄せ、婚約者様が人差し指を立てた。
「それなりじゃいけませんよ。お忙しいとは思いますけれど、お体も大事になさってください。まずは良く寝て。ね?」
「……うん」
「そのお返事。こういう時のフレデリック様は絶対聞いて下さらない意地悪なフレデリック様だわ。分かってるんですからね」
「弱ったな……きみに言われると何も言い返せない」
「ふふ」
嬉しそうに口元を抑えて笑う。そうして婚約者様はそのお顔をこちらに向けた。
「ねぇ、あなたもそう思うでしょう?」
「私ですか?」
急に話を振られて驚いた。思わず聞き返す。
「あなたもフレデリック様はもっと休むべきだと思うわよね?」
ちらりと坊ちゃんを見れば、鋭い目つきで睨まれた。余計なことを言うなよ、とでも言いたいのかもしれない。
クッキー皿をティーテーブルに置きながら考える。
「私はフレデリック様にお仕えする身ですので、なんとも……」
「もう、遠慮なんてしなくていいのよ。わたくしが促したんだから」
「なぁ、その辺に」
「フレデリック様はちょっと待っていて。今わたくしがこの子とお話してるのよ」
めっ、と指を立てられ坊ちゃんは困り顔で口を噤んだ。こういう坊ちゃんが見られるのは彼女の前だけなので、なんともレアな場面である。
「私ではフレデリック様に言い聞かせられませんので、どうかお嬢様から」
そう告げると、彼女は大きな目を瞬かせた。
「……あっ、違うのよ。ごめんなさい、そういう意味じゃなくて」
「いえ、私こそ差し出がましい真似を」
頭を下げる。頭上から鈴が鳴るような笑い声がした。
「今更あなた達に嫉妬なんてしないわよ。幼い頃からフレデリック様に仕えてるんですものね」
「フレデリック様には感謝が尽きません」
「こんな献身的な従者がいるんですから、この子たちのためにもご自分を大切になさってね?」
「……分かったよ。元より無理はしてないんだ、本当に」
「えぇ、信じます」
坊ちゃんは渋々といった様子で頷いた。上機嫌の婚約者様に、所在なさげに首元をかく。
タイミングよくお茶ができたようだった。使用人仲間がカップにお茶を注いでいく。フルーティな香りがふわりと漂う。オレンジ色の液体をくるりと銀のスプーンでひと混ぜし、2人の前に置いた。
「少し、自惚れかもしれませんけれど」
婚約者様はカップを手に取りながら、
「わたくしとの時間がフレデリック様にとって憩いの時になれていたら、と思うんです」
「あ、あぁ」
「今くらいは色々なことを忘れて、自然体でいらっしゃってくださいね」
柔らかく微笑む。坊ちゃんは小さく笑い返してお茶に口を付けた。
「お口に合えば嬉しいです。……どうかしら?」
「……良い茶葉だ。この辺りのものじゃないな」
「えぇ、馴染みの商会に取り寄せてもらっているんです。我が家のお茶のいくつかはわたくしが選んでいるの」
さり気なく茶葉の小箱を見る。表記された銘柄は……確かに、他国で今話題になっている物だった。婚約者様は情報通らしい。
「お姉さまも、わたくしの選ぶ物を好んでくださっているのよ。だからフレデリック様にも、と思って」
「仲が良いんだな」
「え? あ、お姉さまですか?」
「もちろん」と婚約者様。
「だってずっと一緒ですもの。お姉さまが我が家の当主になってからはやっぱり忙しいみたいで、中々これまで通りとはいきませんけれど」
彼女は悲し気に眉を下げ、頬に手を当てた。
「だからちょっとだけ、あなた達が羨ましいわ」
あなた達?
見れば、婚約者様の目線は私の方を見ている。
「ほら、わたくし達と違ってあなた達は、ずっと傍にいるじゃない」
「それは、使用人だからな。きみ達とは違う」
「でも、ずっと一緒に育ってきたのでしょう? ふふ、兄弟みたいなものじゃありませんか?」
それはきっと彼女にとってはなんてことない、雑談の一部分だっただろう。
でも、私はその言葉に少しだけ動揺して――それを坊ちゃんに見抜かれたようだった。
「滅多なことを言わないでくれ」
「あら。申し訳ございません、お気分を害してしまいましたか……?」
「いや。だが線引きは大事だ。使用人に対して兄弟のようには扱えない」
「仰る通りです」
婚約者様は頷いて、何事もなかったかのようにカップを傾けた。
それからは、婚約者同士の楽しい茶会。
『6 現在』
ハタキ片手に廊下を歩む。
婚約者様に釘を刺されて以降、坊ちゃんは寝る時間がちゃんと増えた。大変良いことである。ただ安心したのも束の間、ここ数日、また少しずついつも通りの睡眠時間に戻っていっているようだ。まったく、最初だけなんだから。
さてさて、主人にちゃんと寝てもらうにはどうしたものか。唸りながら歩いていると、進む先から向かってくる人影が見えた。
「ココさん!」
彼は確か、この間紹介された新人だ。糊の効いた真新しいスーツが目に眩しい。
彼は少しだけ早足で距離を詰めると、会えて良かった、と呟く。
「どうされました?」
尋ねると、彼は笑みを浮かべ隣に並んできた。そのまま歩き出す。いいのかな、そっち、あなたが歩いてきた方向だけれど。
「ココさんにお会いしたくて」
「私に?」
ふむ、なにかしら用事でもあるのだろうか。それにしては彼は立ち止まってゆっくり話す気配もなく、続けて質問を返してくる。
「ココさんは今からどちらに?」
「お部屋の清掃です。休憩室に向かおうかと」
「ではお手伝いします!」
思いがけない言葉に彼の方を向く。同じ目線の高さでばっちりと目があってしまった。
まずい。慌てて、されど自然に顔を正面に向き直す。
「いやいや、そんな……ご自分のお仕事は?」
「任せられたものは一段落しましたので」
「そう、ですか」
「はい!」
はつらつとした返事に、断る理由を探すのを諦めた。本人が良いなら良いんだろう。駄目だったとして、怒られるのは彼の方だ。
曖昧に頷くと、彼は目を輝かせた。なにが嬉しいのかガッツポーズまでして、随分と上機嫌な様子。それから、顔だけでこちらを覗き込んできた。
「ココさん、この機会に色々聞いても良いですか?」
「はい?」
「ココさんは住み込みで働いてらっしゃるんですか?」
今の「はい」は「なぜそんなことを?」という意味の、疑問形の「はい」だったのだけれど、どうも肯定の「はい」と捉えられてしまったらしい。
きかれたことに答えないわけもいかず、「ええと」と口を開いた。
「そうですね。住み込みです」
「そうなんだ、僕は違うんです。毎日家から来てて」
「そういう方もいらっしゃいますね」
「僕、こういうお屋敷で働く方って、みんな住み込みなんだと思ってました。だから荷物まとめて準備してたんですよ。すぐ荷解きする羽目になりましたけど」
「それは……」
正直、ちょっと分かる。私もこうして坊ちゃんにお仕えするようになるまではそう思っていた。
実際は全く持ってそんなことはなく、この屋敷においてはむしろ、彼のように自宅から通ってくる人の方が多い。
「住み込みってどうですか?」
「どう……というのは」
「あ、えっと、大変じゃないですか? ほら、フレデリック様ってずっとお仕事してらっしゃるから。住み込みだと、その間もずっと一緒に働いてるんですよね?」
どうやら坊ちゃんは、日も浅い新人からですら働き詰めだと思われているらしい。ひっそり息を吐く。このことを伝えたら、流石の坊ちゃんもちょっとは改めてくれるだろうか。
……無理かもしれない。当の坊ちゃんは今この瞬間も膨大な書類やデータと睨めっこを続けている。きっと、あれが片付かない限りは意地でもデスクから離れない。
「ま、でも、そんなこともないですよ」
「え?」
「住み込みと言ったって、日がな一日お傍で働くわけではありませんから。自由な時間もいただいておりますし」
もちろん呼び出されれば話は別だ。緊急の仕事ができる時もある。
けれど大変だと思うことは特にこれと言って思いつかなかった。強いて言うならば、身体に気を付けてほしいという助言を聞き入れられないことくらい。
すると彼は一つ瞬いて、笑みを深めた。
「それ、ココさんにも自由な時間があるってことですよね」
「それはもちろん」
「じゃあ今度、その自由な時間にお会いしませんか?」
「えぇ?」
当然今の「えぇ」は「一体何を言っているの?」という意味の、困惑の「えぇ」だったのだけれど、これも彼には肯定と捉えられてしまったようだった。
その証拠に、新人は「約束ですよ」と眩しい笑顔を振りまいた。
うぅん。もしかしたら、喋りすぎてしまったのかもしれない。
『7 現在』
「随分コロさんと仲が良いようで」
にこやかに告げられた言葉に、自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
シーツの山を抱え直しながら答える。
「そうですか?」
「傍目から見ると、かなり」
「うぅん……」
「ですが、その様子だと彼が一方的に懐いているといった感じでしょうか」
使用人仲間は同じくらいの量のシーツを持ちながら、器用に肩をすくめた。
「もし気になるようでしたら、私から一言いいますよ」
「ありがとうございます。ですが今のところは大丈夫です」
「それなら良かった」
彼は新人を紹介した立場だからか、どうにもこちらを気にかけているようだった。
とはいえ、現状は特に気になる所は無い。と、言うより、仲が良いと思われていることすら今知ったくらいだ。自分の中では、彼との関係は他の使用人仲間と変わらない。鬱陶しいとか不快とか、そういう感情を持つ隙すら無かった。
「彼、誰にでもあんな感じではないのですか?」
「確かに人当たりはいいですが、誰にでもと言われると……ココさんへの態度と比べると、大分違うように見えますね」
「そんなに?」
「ええ。彼は熱心に仕事のことを聞いてくれますけれど、同じくらい熱心にあなたのことも聞いてきます。私のことなんて全然聞いてくれないのに」
「はぁ」
「好きなものも空き時間も、私ならなんでも答えるのに」
はぁ、とため息を吐かれても、なんとも言い難い。というのも本当にまったく心当たりがないからだ。
彼の言うことを信じるならば、どうやら私はあの新人に懐かれているらしい。
どうして?
「なにかしたかなぁ……」
「困っているのを助けたとか? 私もしてますけれど」
「いや、私はしてないですね」
「お話が盛り上がったとか。私もそのつもりですけれど」
「特に……他の皆さんと変わらなかったと思います」
考えれば考えるほど分からない。シーツに顔を預けて、なにかなかったかと記憶を漁る。
あ、そういえば。
「そういえば、初対面の時」
「初対面。あぁ、フレデリック様の執務室で一足先にお会いしましたね」
「あの時に目があった気がします。すぐ逸らされましたが」
「……なるほど。それは確かに、私じゃだめかもしれませんね」
そう言うと使用人仲間はしたり顔で頷いた。
なに、なんだ。なにを知ってる?
「なんですか?」
「いやぁ。私からはなんとも」
「そこまで仰ったのにですか?」
「あまりこのようなことを他人の口から言うのは憚られますよ。それに、私は彼ではないので、真実は分かりかねますし」
彼は結局、納得したことをこちらに話すつもりはないらしい。それきり口を噤んでしまった。
結局なんだったんだろうか。首を傾げてもまったく思い当たらなかった。
ま、いいか。なんでも。何の問題もないことをいつまでも考えなくたっていい。
そうやって私の興味が無くなったことに気が付いたのか、使用人仲間はくつくつと喉の奥で笑った。
「ご自分のことに鈍いですね、ココさんは」
「と、言いますと……?」
「他人から向けられる目というか感情というか、そういったものの話ですよ」
その時、ガランガラン! と大きな音が響いた。同時に大声。「申し訳ありません!」。
目だけで音の方を見る。丁度坊ちゃんの執務室の辺りだ。
「大丈夫でしょうか」
「あとで確認します」
「えぇ、お願いします。……あ、それ」
立ち止まって事の発生源を向いていた使用人仲間は、私の言葉に振り返った。そして「それ」と掌をこちらに向けてくる。
「それ?」
「なにか物音がすると目だけで反応するじゃないですか。それ、コロさんもよくやっていますよ」
「へぇ……」
「ココさんからうつったのかもしれませんね。それか、元からか」
彼はそこで言葉を止めた。何かに気が付いたように、二、三度大きく頷く。
「あぁ、その可能性もありましたね」
「さっきからなんなんですか……?」
「ココさんは確か、20歳くらいでしたっけ」
「はい」
「コロさんも同じ年代ですよ」
21、いや22だったかな? と首を捻る。それから目を細めた。
「もしかしたら、昔馴染みかもしれませんね」
実の所私は彼の話をなんとなくで聞き流していた。けれどその中で、1つの単語が引っ掛かる。
だとしたら、彼は……。
「昔の知り合いに会いたくてずっと探していた、とか。これなら心当たりありますか?」
使用人仲間は続けてそう言った。考え込んだ私をどう受け取ったのか、微笑ましいものを見るような目を向けてくる。適当に笑って誤魔化した。
『8 現在』
坊ちゃんはほどほどに忙しくなるとまず、娯楽に興じる時間を無くす。坊ちゃんが自由に色々と楽しめる時間は元々既に少ないけれど、それを完全にゼロにして、その分を仕事につぎ込んでいくのだ。
それからやるべきことが増えていく度に、生きるのに必要最低限の時間以外を全て仕事に費やすようになる。
必要最低限とはつまり、これだけの時間は寝ないといけないなとか、これだけの栄養は摂らないといけないなとか、そういう話だ。必要以上に寝るならその時間に仕事、必要以上に食べるならその時間に仕事。そういうことらしい。
「坊ちゃんまたお食事の量を減らされたんですか……」
呆れた声で呟くと、使用人仲間は困ったような顔で頷いた。
たちが悪いことに、坊ちゃんは出された食事を残すことはしない。彼自身が食材の無駄を嫌うのだ。だからこういう時、坊ちゃんは事前に根回しをしかけている。
「コックさんも困ったものです。坊ちゃんのことを甘やかして、言うこと聞いちゃうんですから」
ため息と共に使用人仲間がエプロンドレスの腰に手を当てる。やれやれ、と首を振った。
この家のコックは、坊ちゃんがまだ当主になる前から勤めている古株である。坊ちゃんの成長をずっと側で見てきた。そして、どうにも彼に甘い。
「折角の食事を残したくない、簡易的なものにしてほしい」。そう申し訳なさげに願われれば、そのまま叶えてしまうのだ。
「まったく食べないよりはまだマシとはいえ、このままではよくありませんよね」
そう言うと彼女は何度も頷いて、
「まぁ、今日は私が傍付きなので。様子を見てなんとかしてみます」
「お願いします」
「ココさんは、今日はもう終わりですよね? おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ひらりと手を振って、ドアの向こうに消えていった。私は踵を返す。
彼女の言う通り、今日はもうやることがない。他の使用人仲間達も続々と仕事を終え、通いの者達は帰路につく時間だった。私も各所の戸締りさえ確認してしまえば後は自由な時間だ。
とはいえ特に今したいこともない。そういう時はさっさと寝るに限った。
ひとつひとつ、廊下の窓を確認していく。外はすっかり真っ暗だ。自分の顔が反射して見える。そこに、別の人物が映り込んだ。
「ココさん」
「コロさん? もうお帰りになる時間では」
彼は通いの使用人のはず。それなのになぜ、と目を丸くした。
「すみません、さっきの話聞いちゃって」
「さっき、というと」
「ココさん、今日はこの後空いてるんですよね?」
その話か。頷いて肯定する。
新人は何かを言おうと口を開きかける。けれどそれを飲み込み、内緒話をするように口に手をかざした。
「話したいことがあって」
「話したいこと」
「あ、あんまり大声では」
「なるほど」
小さく頷いて、彼と同じように手を口元に添える。
「で、なんですか?」
「……すみません、今はちょっと」
どうやらよほど人に聞かれたくないことらしい。彼は身を屈めて上目遣いに私を見た。
「ココさんにならお話できるな、と思ったので」
今夜、明かりが消えたら裏門の前で。
そう言い残し、彼はぺこりと頭を下げた。
裏門、その名の通り屋敷の裏手に位置する門だ。基本的には使われず、たまに物資の運搬等に使っている。当然、夜にひと気はない。
そこまで人払いをして話さなければならないこととは、いったい。私は息を吐いて時を待った。
今夜は月が雲で隠れている。
こんな真っ暗闇の中で裏門まで辿り着いたというのに、そこには誰の姿もなかった。
呼んでおいて、彼はなにをしているのだろう。キャップごしに頭をかく。冷える時期ではないとはいえ、こんな時間にあまり外に居たくもなかった。
全く予想外の待ちぼうけだけれど、だとしたら持ってきたほうきが役に立つ。私は手持ち無沙汰に足元を掃き始めた。
「ココさん、すみません!」
少しして、新人が小走りで駆け寄ってきた。
「お待たせしました」
「いえ。なにかございましたか」
「その……やることがありまして」
仕事かなにかだろうか。自分の分が終わったからと私の仕事を手伝おうとする彼にしては珍しい。
それはともかく、さっそく本題だ。
「それで、話したいこととは」
彼は指で頬をかきながら、
「えーっと、あの。ココさんは……働いて、長いんですよね」
「えぇ」
「どのくらい?」
「どうでしょう。あまり正確には」
正確には8年だ。12歳の時から8年間、この屋敷で働いている。
「そうですか……この家の皆さんは、いい人ばかりですよね」
「そうですね、私もそう思います」
「ずっとこの家で働いている人ばかりだから、新人なんて中々受け入れられないんじゃないかって思ってたんですけど。皆さん優しくて、色々教えてくれるし」
頷きで返す。
先程からまるで話が見えない。わざわざこんなところで話さなければならない内容かな、これ。
「でも」
と、新人は真剣な表情で言った。
「その中でもココさんは、特別な存在です」
「と、特別?」
「はい。初めて会った時に、ビビッと来たんです。電流が走ったみたいでした」
「電流が走ったら危ないと思いますけど」
「これって運命じゃないかって思うんです」
「運命!?」
ぎょっと目を見開く。ほうきを握り締める私に、彼が一歩近づいた。
「僕らって、どこかで会ったことあると思いませんか?」
返事をしようとした、その瞬間。
銃声。
「なっ、なんだ!?」
「うわっ」
強い力で引き寄せられる。どうやら新人に肩を抱かれたようだった。抱き合う形で密着する。
彼は私を庇ったつもりらしい。目と鼻の位置で「大丈夫でしたか?」などと聞いてくる。
「今の、銃声ですよ。ココさん、僕から離れないでください」
「え?」
「なにかあったら危ないですから!」
「でも、坊ちゃんが」
屋敷の中には坊ちゃんがいる。使用人としては主人の安全を確認するべきのはずだ。
けれど彼は眉根を寄せて言った。
「残念ですけど、フレデリック様はきっと、もう……」
心底辛いです、とでも言いたげに目を伏せる。そんな。口から漏れ出た呟きに、彼の歯ぎしりが重なった。
「だからせめて、ココさんだけでも。僕が守りますから」
肩を抱く力が強くなる。全く離す気のない強さに思わず顔を顰めた。
どうやら彼は1つ勘違いをしているようだ。
ほうきの柄を掴みなおす。そのまま、力を込めて、思い切り
「どうかこのまま、そぶぐぁっ!?」
目の前の顎に向かって突き上げた。
ガツン、と確かな手ごたえ。拘束が緩む。ふらつく身体に追い打ちをかけるべく振り上げた脚はしかし、空を切った。
僅かに早く、彼はその場を飛び退いていた。意識を落とすつもりで不意打ちをかけたというのに、見上げた根性である。
普段自分の身長についてはなにも思わないけれど、こういう時ばかりは坊ちゃんの高身長があればと思ってしまう。脚の長さがもう少し長ければ、今の一撃は確実にこいつを仕留めていた。
足と足の間。そこに爪先が入っていれば、いかにど根性でも気を保ってはいられない。自分もそうだからこそ、よく分かる。
「な、なに、が」
震える身体をなんとか支えるようにして彼が呻いた。なにが起こったかよく分かっていない、そんな目でこちらを睨む。
私はそれを冷ややかに見返して、ほうきを横一文字に持ち構えた。
「他人に許可なく触れるのはおやめになるべきかと」
「そっ……いや、おまえ、まさか」
地面を蹴る。一足飛びに肉薄し、眼前に迫った身体に獲物を突き出した。
が、甲高い音と共に手が止まる。金属と金属の鍔迫り合い音。
「ほうきに仕込み、やっぱり」
反動を活かして一度引く。跳ぶように距離を取って、改めて獲物を一振り。
ほうきの柄に刀剣の刀身。この仕込み杖ならぬ仕込みほうきが私の獲物である。
「おまえ、護衛か……!」
対して相手はナイフを構えていた。あの瞬間咄嗟に取り出して、仕込みほうきを受け止めたらしい。
その反応速度。主人の死を確信したような先程の態度。物音に対して目だけで探るのは、いつでも動けるようにするためだ。
「あなた、暗殺者ですね」
彼はにやりと笑う。
「気付いてたのか」
「確信はしておりませんでしたよ」
「どうりでガードが固いわけだ。取り入ったつもりだったのに、中々情報を吐かないから」
「取り入った? あんな古典的な口説き文句しか出てこないのに?」
確かに使用人仲間達の間では、彼に好印象を抱いている者も多かった。けれど、少なくとも私は取り入られていたつもりはまったくない。
「だが、肝心なところで詰めが甘かったな」
「……」
「監視のつもりでノコノコ呼び出しに応じたんだろうが、暗殺者が1人だけだと思ったら大間違いだ。おかげでこっちはちゃんと仕事をこなさせてもらったよ」
先程の銃声を思い出す。あれはこいつの仲間のものだろう。いつかは知らないけれどこいつは事前に仲間を手引きしておいて、坊ちゃんを襲わせた。
ここに私を呼び出した理由は恐らく2つ。1つは単純に、坊ちゃんの周りから人払いをするため。そしてもう1つ。
「もうここに用は無い。さっさとずらからせてもらう」
「逃がしませんよ。証拠が必要ですから」
「証拠?」
「私がこの暗殺計画に関わっていないという証拠です」
「……ちっ」
忌々し気な舌打ちに確信した。
やっぱり。こいつは私を坊ちゃん暗殺計画の協力者に仕立て上げる気だ。仲間を手引きした罪を私に被せ、自分はとんずらするつもりなのだ。
私が護衛だったことは想定外だろうけれど、坊ちゃんの暗殺さえできてしまえば彼らの目的は達成だ。私と争う必要性はない。彼ら暗殺者側の勝利はもう決まっていて、あとは隙を見て脱出するだけ。
私側はそうはいかない。主人を殺された身として、暗殺に関与した人物を誰1人として逃がすわけにはいかないのだ。
コロという人物が今この時間この場所にいた証拠なんて、どうせ残していないだろう。ここで彼を逃がしてしまえば、疑われるのは住み込みの使用人。その中でも坊ちゃんの死亡推定時刻にアリバイがない人物。つまりは私だ。そうなったらとても困る。だから私はこいつを確実に捕らえて、自分の身の潔白を示す証拠として提示しなければならない。
ただ、それらは全て、坊ちゃんの暗殺ができていれば、の話である。
こいつはずっと1つ勘違いをしている。
坊ちゃんは死んでいない。
今この瞬間、坊ちゃんの傍には護衛がついているのだから。
護衛が1人だけだと思ったら大間違いだ。
ま、そんなことわざわざ教えてやる義理はないか。どっちにしろやることは変わらない。こいつが暗殺者である以上、ここで次の芽を潰す。
一歩、相手が僅かに後退った。そこに片手の物を放り投げる。
ほうきの穂の部分だ。本来地面を掃くものだけれど、こと仕込みほうきにおいては鞘の役割も果たす。先程の抜刀の際引き抜いて、そのまま持っておいていた。
とはいえそれ自体に攻撃力はほとんどない。目的は別にある。私は飛んでいく穂と共に駆け出した。
暗殺者は冷静に、穂をあっさりと叩き落とした。前に出した手にはしっかりとナイフが握られている。
「そんな目くらましっ」
仕込みほうきの刃を受け止めるように伸ばされた腕、その手首に近い部分を狙って回し蹴り。確かに何かを砕く感触がした。
「ぐっ」
ロングスカートが大きく広がって視界を奪う。動きにくいこの服装もこういう場面においては十分な武器だ。この隙に仕込みほうきを一度離し、反転、逆手に持ち直す。
着地。ぐっと足に体重をかける。柄の先に左手を添え、仕込みほうきを相手の腹目がけて押し出した。
喉を絞るような掠れ声が吐き出される。見上げた先で、彼の目からゆっくり光が消えていく。そのまま身体から力が抜けた。重力に逆らえずにくず折れる。こちらに寄りかかられかけたので、腹を突いたままだった仕込みほうきで押し返す。
砂埃を立てながら、暗殺者は背から地面に倒れた。
「ふう……」
息を吐く。気絶した。はず。念の為少しの間様子を見たが動く気配はなかった。
それなら目が覚める前にさっさと無力化してしまおう。利き腕の手首は使えないだろうけれど、用心に越したことはない。武器になりそうなものは全部はぎ取って身柄を拘束する。なにせ逃げられては困るのだ。
事件が起きた時、何がどう判断されるかはその時になってみないと分からない。いつ自分たちが疑われるか分からないのだから、身の潔白を証明できる物を用意しておくこと。これは「姉さん」が決めた鉄の掟だ。
だからこんな使いにくい仕込みほうきなんて物を使って、わざわざ生け捕りなんて方法を取っている。
このほうきに仕込まれているのは普通の刃じゃない。もしこれが真剣だとしたら、腹に突き刺した時点で「僕」は2人の鉄則を破ってしまっている。
この刃はすでに潰されているのだ。切れ味を殺され、先端の尖りを固められて、とにかく殴打に特化した形に直された。
本物の刃物で一思いに憂いを絶ってしまった方が良いと思うのだけれど、姉さんはそれを良しとしない。刃物を持っていては、いざ自分たちが疑われた時に不利だから、らしい。
僕としては、疑われようが疑われなかろうが、正直どちらでもいい。どうせ行く先は姉さんと同じなのだから。
でもこれは、その姉さんが僕と生きるために考えた鉄則で、だったら僕はそれに則るまでだ。
あぁ、いけない。姉さんのことを考えていたから、つい「私」から「僕」に戻ってしまっていた。
この服を着ている限り、人目のある所ではきちんと使用人であらなければならない。丁寧な口調、精錬された仕草。
「失礼いたします」
一声かけて、暗殺者の上体を起こす。当然返事は無かった。
武器を隠せそうなありとあらゆる所を探る。ジャケットの裏、袖口、ポケット、ズボンの裾。口の中も見てやりたいが、流石に起きそうなので一度後回し。ベルトは直接的な武器ではないけれど念の為外しておく。そうすれば次は拘束だ。
それにしても、力の抜けた人間の身体というものはなんとも重い。それでも両腕を抱えて一緒くたに背中に回し、たところで気付いた。縄がない。鎖もない。
はぁ、とため息を吐いて、仕方がなく頭からキャップを外す。長いリボンの部分を使って、前腕から手までをぐるぐると縛り上げた。これでよし。坊ちゃんには「またか……」とため息を吐かれるかもしれないけれど、ま、なにも問題はない。
立ち上がり、地面に落とされたほうきの穂を拾い上げる。問題なのはこっちの方だ。鞘のこれが壊れてしまっては刀身をしまえない。
確認すると、うん、大丈夫そうだ。刀身を滑らせ鞘に納めた。こうしてしまえばどこからどう見てもよくある外用のほうきである。
蹴りを入れた際にこいつが落としたナイフを回収して、こちらはすっかり片付いた。
さて、姉さんは生きているだろうか。
【9 現在】
時は少し戻る。
「ハチ」
呼びかけに顔をあげると、坊ちゃんが眉間に皺を寄せながらこっちを見ていた。
「どうしました?」
「どうしました、じゃない。いつまでモップ掛けしているつもりだ」
「確かに、そろそろ休憩の時間ですね。お茶淹れますよ」
「そういう意味じゃ」
モップをソファの背に立てかけて、傍に用意しておいたサービングカートを引き寄せる。
この部屋の中央にはローテーブルがあって、もっぱら休憩や応接に使われている。いつものようにそこにティーセットを準備して、茶葉の缶を開いた。坊ちゃんお気に入りのお茶だ。そうやってさっさと用意を進めていれば、なんか物言いたげだった坊ちゃんも何も言わずペンを進め出していた。
お茶を淹れるのも慣れたものだ。時間きっかりにポットを持ち上げて、カップに注ぐ。薄い黄色に色付いた綺麗なお茶。よしよし、満足。
大きく頷いてデスクの方を振り返る。坊ちゃんは書類仕事に集中しているようだった。
うーん。冷めないうちに飲んでもらいたいのに。別に冷めたって美味しいけど、どうせなら淹れたてを美味しく堪能してほしい。
「坊ちゃん、お茶はいりましたよ」
「あぁ」
「坊ちゃん」
「うん」
「ぼーっちゃん」
とうとう返事が無くなった。はぁ。仕方がないなぁ。
わざと音を立ててソファに座り込む。ぼふっ。柔らかいエプロンドレスの裾がふわって舞って、それを押さえつけるみたいに膝に肘を立てて頬杖をついた。
「ハチ……」
ちらっと顔をあげた坊ちゃんが渋い表情でつぶやく。にんまり笑いかけると、もっと皺が濃くなった。
「私、丁度休憩したかったんですよ。坊ちゃんも一緒にどうです?」
「まだ、これが」
「むしろそれで終わるんでしょ? じゃあ尚更ですよ。今しか一緒に休憩できないじゃないですか。一旦お茶飲んで、そしたらもうひと踏ん張りしましょーよ」
坊ちゃんは目を閉じて、眉間の辺りを揉んだ。それから少し黙って、音もたてずにペンを置いた。ふふん。粘り勝ちである。
立ち上がってカップとソーサラーを手にした。カートの上のティースプーンも忘れずに持っていく。鈍く光る銀食器は大事な大事な仕事道具だ。丁寧な手入れが欠かせない。
「はい坊ちゃん。淹れたてですよー」
空いたスペースにお茶一式を置く。書類をざっと横に置きながら、坊ちゃんは呆れた様子でちらとこちらを見上げた。
「なんです?」
「私はいつからおまえの口調を注意しなくなったんだったかな……」
「あは、やだなぁ坊ちゃん。これでも大分使用人らしくなったつもりですよ。それに、外じゃあ私は基本喋んないんですから。なぁんにも問題ないです」
ね? 首を傾げてみせると、大きな大きなため息と共に首を振られた。
銀のティースプーンでお茶をくるりと混ぜる。そうして坊ちゃんの方に差し出せば、すぐにカップの取っ手に指がかかった。一口。
「……おいしい」
「良かった!」
坊ちゃんは基本的には素直な人だ。それから真面目な人。
ただ常に肩ひじを張っているので、威厳のあることを言おうとしてしまう。そのせいで上手く真意が伝わらないこともまぁしばしば。
きっとこれは、若くして当主を務める坊ちゃんにとっての処世術なんだろう。理解はできる。とはいえそれで誤解を生んでしまったら元も子もないよなぁ、とも思うけど。
とにかく、そんな人だからこそ飾らないシンプルな感想が出てくると、引き出した側としてはやっぱり嬉しい。得意気に鼻を伸ばしたりなんかしちゃったり。
足取りも軽く傍を離れ、再びポットを手に取った。カートの上で余りのカップにお茶を注ぐ。ティースプーンでくるり。カップを持ち上げ口元に寄せると、ほんのりと落ち着いた香りが鼻をくすぐった。
「おい、少しは落ち着いたらどうだ」
「え? あー、へへ。癖で」
なにかと思えば、立ったままお茶を飲んだことを咎められたようだ。確かに使用人としてはお行儀が良くなかったかもしれない。ちょっと反省。
でも多分これは直らないと思うんだよな。直せない、というか。状況に応じて今は腰を落ち着ける時、今は気を張る時って切り替えられればいいんだけど、私はほら、不器用なので。一度ついた癖は中々抜けないものなのだ。坊ちゃんには申し訳ない気持ちである。とはいえ外でこんな風にしっかりとした飲食をすることはないので、これも許容範囲内、ということに、なったらいいなぁ。駄目かなぁ。
もう一度カップに口を付けて、部屋をぐるりと見渡す。今、何時くらいなんだろう。せっかくの休憩だし、なにか食べたっていいんじゃない?
「坊ちゃん何か食べます? 甘い物とか!」
「おまえが食べたいだけじゃないのか」
そう思ったけど坊ちゃんは乗り気じゃなさそうだ。と、いうことは、今はもうすっごい夜らしい。
この時間に坊ちゃんは食事をしない。健康のためとかなんとか。自分の健康に気をつかってくれるのは嬉しいけど、だったらお仕事の方もなんとかして、寝る時間を作ってほしいものである。直接的には言いにくいけど。
なにせ坊ちゃんの頑張りは全部責任感から来ている。慕ってくれる民のため、養うべき使用人のため。自分のために頑張ってくれている人に「そんなに頑張らなくていいよ」とは中々言いにくい。
だからといって、じゃあ坊ちゃんに思うがままずっと仕事をさせれば、きっとあっさり身体を壊す。
現に今坊ちゃんはすっかり睡眠と食事の優先順位を下げちゃってるし。そんな坊ちゃんを見れば、「寝ろ」「休め」「根を詰めるな」と心配を口にしたくなる気持ちもそりゃ分かる。
というか、実際身体を壊されたら困るのだ。そのままもしものことがあったりしたらもっと困る。
だから私は、坊ちゃんが休みやすいように、ちょっと捻った形で休息をすすめるのが常になっていた。
「実は、コックさんにおすすめのヨーグルトの食べ方を聞いたんですよ。坊ちゃんも試してみません?」
「私はいい。そっちで勝手にやっていろ」
「それが、美味しく食べられる期限ってやつがあって」
坊ちゃんが一緒に食べてくれたら助かるんですけど。そう頼めば、坊ちゃんは困った表情でペンを持つ手をうろつかせた。あ、いつの間にかお仕事再開してる。
お仕事の邪魔をしたいわけじゃない。安心させるように、軽い調子で続けた。
「大丈夫ですよ。ヨーグルトってある程度は夜食べても平気らしいから。成分表、見ます?」
「はぁ……いや、いい。知っている」
「ですよねぇ」
小さく笑う。
「じゃあ、ヨーグルト用意してもらいま」
コンコンコン。
もらいましょうか、と言うのを遮るように、ノックの音がした。
坊ちゃんと一瞬顔を見合わせる。お互いに首を振った。突然の来客、どちらも心当たりはない。
ここは坊ちゃんの執務室だ。この部屋に入るにはまず名乗って、坊ちゃんの許しを得なきゃいけない。だから動かず、ノックの主が名乗るのを待っていた。
でも、ドアの向こうからは何も聞こえない。
「……誰だ」
しびれを切らした坊ちゃんが呼びかける。
ドアが開いた。
その隙間から、なにか見える。黒く鉄臭い穴。
それを認識した瞬間、私は身を屈め、ローテーブルを下からかち上げた。
ガァン!
鈍い高音。縦に立ち上がったローテーブル、その堅い天面に何かがぶち当たった。
それを遮蔽にしゃがみこみ、床に散らばったティーセットの中から目当ての物を握り込む。それからサッと素早く顔を出した。
少しだけ開いたドアの隙間、そこに黒い筒のようなものが差し込まれている。それ目がけて握りこぶしを伸ばし、人差し指の上に乗せた物、角砂糖に似せた鉛玉を、親指で押し弾く!
ピッ、と飛んだ角砂糖もどきが筒――銃に命中する。銃口がぶれ軌道がずれた。と、同時に飛び出す。低い姿勢で右に飛び、ソファを蹴って左に振って、バッとドアに迫った。
ちらと見えた人影を逃さぬように手を伸ばす。掴んだ。首。そのまま勢い任せにドアを破り体重をかけ、廊下の床へ引き倒した。
「坊ちゃん無事ですか!」
知らない男だ。血走った目で片手に握った銃を向けようとしてきたので、飛び出す時に逆手でひっつかんだモップの柄で手ごと殴りつける。怯んだところを柄の先で捉え、その手を床に縫い付けた。
「無事、だ」
「良かった!」
部屋から確かに坊ちゃんの声がして、ほっと胸を撫で下ろす。
その時、視界の端で動くものが見えた。
「そのままっ」
首を拘束する私の腕を掴まんと、男の自由な片手が伸びてくる。
私はパッと手を離した。素早くモップを両手で掴む。私の全部をモップに預けた。モップを軸にバランスを取って、勢いよく左足を蹴り上げる!
「隠れててっ、くださいね!」
ガツン! 思いっきり入った足が男の側頭部を揺らす。男は声をあげる間もなく意識を落としていった。
くるっ、と身を翻し着地する。ついでに足元に転がっていた銃を拾い上げた。
改めて見下ろしてみても、やっぱり見覚えがない。と、いうことは、この人は今日この日のためだけに侵入してきた部外者だ。こんな物騒な物まで持ち込んじゃって、一体どこから入り込んだんだろう。
と、そんなことしてる場合じゃなかった。まだ仲間がいるかもしれない。こんな廊下のど真ん中で突っ立っていては、狙ってくれと言っているようなものだ。
「失礼、ごめんね」
一言呟いて男の脇から肩を抱え、ずるずると引きずり部屋に戻る。全部入ったら、ドアを一蹴り。お行儀が悪いけど、今はどうか許してほしい。
バタン、と音がしてドアが閉まった。男を部屋の隅まで連れていく。えーっと、この辺に……あった。鎖。あとロープ。チェストから取り出して、手首にかしゃんと枷をはめた。
あとは武器という武器をはぎ取ってしまえば一旦良し。多分こういうところに、あ、マガジンポーチ。あーあーナイフも。危ない危ない、刃物と近接戦になってたかもしれないんだ。早めに気絶させておいてよかった。
それからそれから、と取り出せるものを取り出せるだけ取り出して、最後に足首をロープで括りつけた。
さて、できるだけ早くやったつもりだけど、果たしてこの間外はどうなってることやら。
男が見えるようにしながらドアの前まで移動して、そっと聞き耳を立てる。
……静か。
これは、どっち?
男に仲間はいないのか。仲間はいたけど対処されたのか。
それとも、私がもう坊ちゃんを守る理由がなくなってしまったのか。
そんなことあっていいわけがない。ないけれど、その時は。
コツ、と足音がした。
聞き慣れた靴の音。どんどん近づいてきて、ドアの前で止まった。
「死んでない?」
と、声をかける。
「死んでないよ」
そう返ってきた。
「そこにいる?」
「いるよー!」
答えてドアを開ける。満面の笑みで「兄さん」を迎え入れた。
【10 過去】
足場の狭い柱の上。周囲には大声で呼びよせてしまった大勢の使用人さんたちがいる。そんな中。
パシュ、と音がして、隣で兄さんがよろめく。
「兄さん!」
咄嗟に腕を伸ばす。間一髪、手首の辺りを掴むことができた。でも崩れたバランスはもとに戻らず、私たちは2人して空中に投げ出された。「危ない!」と声がする。
ぐっ、と兄さんを抱き寄せる。残った足で柱を蹴った。勢いをつけて、そのままくるんっと一回転。兄さんを抱っこする形で着地した。
「兄さん平気? 死んでない?」
「死んでないよ。ありがとう」
「良かった~」
ほっと一息。兄さんを下ろす。
でもおかしいな。今の発砲、明らかに威嚇だったのに。弾だって天面ギリギリの側面に当たってた。なのになんで兄さんは落ちちゃったんだろう。
「おい! 落ちたぞ! 捕まえろ!」
「げ、まずい」
首を傾げる暇もなく、使用人さん達が門を開け一斉に向かってくる。
うーん。これは流石に、潮時かも。あれだけ叫んでも当主に伝わった感じはないし、これ以上粘って捕まっても大変だ。
「兄さん、逃げよう!」と手をつなぐ。その時。
「みんな、いい」
と、声がした。
驚いたのはその声が高かったことだ。だって当主って一番偉い人で、確かに息子に代替わりしたらしいけど、それでも勝手に大人の人だと思っていた。
大人の人の声は低い。特に男の人は。最初に見つかった使用人さんも私たちよりかなり低い声をしているし、周りに集まってきた人達も男の人はやっぱり声が低い。女の人だって私たちと比べるとちょっと低い気がする。
だからその中で突然私たちと変わらないくらいの高さの声がして、しかもそれによって周りの使用人さん達が一斉に動きを止めたものだから、私は思わず兄さんの手を強く握ってしまった。
「ですが」
とためらう使用人さんに、また高い声がする。
「そこの2人、雇ってほしいのか」
話しかけられた! ハッとして何度も頷く。
「そう、そうなの! 雇ってほしい!」
「雇ってほしいです」
「絶対役に立つから! ね?」
「役に立ちます」
私たちが喋るたびに使用人さん達がピリついていくのが分かった。
さぁどうなる。当主に受け入れられなかったらもう本当にしょうがない。そうなった時には、と頭の中で逃走ルートを考えていると、
「分かった。まず話を聞こう」
「ほんと!」
「坊ちゃん!」
やった! 喜ぶ私に使用人さんの悲鳴のような声が重なる。
「ただし、なにも出来ないように腕を縛る。話を聞くのはそれからだ。いいな?」
「……いい!」
一瞬だけためらって、頷いた。もしものことを考えると絶対に自由な方が良い。でもせっかくのチャンスだ。これを逃すわけにはいかない。
いいよね? と兄さんを見れば、兄さんも頷いた。
当主の指示で使用人さんが1人歩み寄る。最初に会った人だ。
「少しでも不審な真似をしたら、分かってるな」
ぎろり、と彼は私たちを睨み、ロープで手首を縛っていく。なんだか居心地が悪くて首をすくめた。
「本当に雇ってもらいたいだけなのに」
「信用できないな」
「ちゃんと下りたじゃん!」
「あれは下りたとは言わないし、だったら初めから降りなさい」
使用人さんはたんたんと言い、複雑そうに顔をしかめる。
「まったく、坊ちゃんも人がよいお方だ……」
私が言うのもなんだけど、それに関しては本当にそうだと思う。
私、兄さんと縛り終え、使用人さんはそのまま私たちの後ろに立った。門を背にして使用人さんと私たち、それから少し離れた所に数人と、さらに離れた所の車を取り囲むように大勢が位置する。
「それで」
と当主。
「雇ってほしいと言うが、おまえ達はなにができる」
「生きる術! 孤児院で学んだの」
「生きるためにできるようになれ、と教えられました」
「私たちが孤児院を出て生きていけるように」
「具体的には?」
例えば、そうだなぁ。
「私は体術が得意。剣も振れるけど、自分の身一つの方が思いっきり行けるかなぁ」
「僕は剣の方が好きです。返り血をできるだけ浴びないように立ち回れます」
「あ、それ良いセールスポイントだなぁ」
大きく頷く。私はちょっと苦手で、よく訓練用の血のりを全身に浴びては先生に怒られる前にとんずらしていた。
「でもでも、私は銃も使えるよ。あと指でも撃てる!」
「それ僕はできないです。だからできることを増やすためにも僕ら2人セットで雇った方が良いと思いますよ」
「あ、銃自体は使えますけど」と兄さんは続ける。
「あとはー……あ、忍び込むルートを探せる!」
「毒にも耐性があります」
「ある程度その辺りにある物を武器に代用できる!」
「逆に壊し方も分かります」
「それからー」
といくつも例を挙げていると、
「ちょっと待て」
と当主が口を挟む。
「なに?」
「おまえ達はそれを、孤児院で学んだ?」
「うん」「はい」
頷くと、なんだか辺りはちょっと変な空気になっていた。背後で使用人さんがごくりと唾を飲み込む。
……もしかして、なにかおかしなことを言っちゃったのかもしれない。
でも思い当たらない。どれ? 私が返り血避けが苦手なことがバレたのかな。それとも人の持ち物だろうが自分の物として武器にしていたことの方? 確かにどっちも先生には大目玉を食らったものだけど。
「つまりおまえ達は」
当主はどこか上擦った声で
「私の護衛になりたいというわけか」
護衛。護衛か。それってつまり、
「護衛って使用人?」
「分類としては」
「じゃあそう!」
「そうです」
こくこく、と何度も頷く。
「分かった」
「えっ」
「坊ちゃん?」
使用人さんがありえない、と声をあげた。でも当主はそれには返事をせず、よく通る声で言った。
「おまえ達2人を雇おう」
「ほ」
言葉の意味を理解するのに数秒かかる。ぱち、と瞬きして、兄さんと顔を見合わせる。
「ほんとに!?」
「あぁ雇おう。今日からおまえ達はうちの使用人だ」
「坊ちゃん!」
今度こそ使用人さんは泣きそうな声で叫んだ。でもそれどころじゃない。だって私たち、使用人になったんだ!
「やったー! 兄さん聞いた!? 使用人になれたよ!」
「うん聞いた。上手くいって良かった」
これで私たちは職業を手に入れた。ってことは、身分も手に入れたってことだ。私は使用人って身分になったから、これでもう予知夢みたいに貴族になることはない。貴族にならないから、見知らぬあの人を殺すこともない! 兄さんが殺されることも、ない!
「やったやったやったー! 兄さんありがとー!」
「わっ、ちょっ、姉さん!」
兄さんの両手を取ってくるくる回る。兄さんはされるがままに私に振り回されていた。
そんな私たちの横で、使用人さんはギリ、と歯ぎしりし、当主に声をあげた。
「坊ちゃん! なぜこんな者達を雇うなどと……今のお聞きになったでしょう!」
「ああ聞いた。聞いた上で、雇うと決めた」
「なぜ! こいつらの言う孤児院は」
彼は一度言葉を詰まらせる。そこに当主が、
「だからだ」
「だから?」
「そもそもこいつらが私を殺しに来たのなら、もうとっくに襲われている。だがその素振りもないどころか、自分達の手の内を晒してきた」
それはもちろん、当然だ。だって私たちは本当に雇ってもらいにきただけなんだから。
「母も父も亡き今、この地を守れるのは私しかいない。そんな私が倒れるわけにはいかないんだ」
「……ですが」
「だから、使えるものは全部使う。そいつらが本当に役に立つなら雇って損はない」
使用人さんは苦しそうに、
「本当に、役に立ちますか」
「先程門の上に立っていたのを見た。2人だけであそこまで上る技術があるということだ。下りた時も同様で、少なくとも体術に自信があるというのは嘘ではないだろう」
「それに」と当主は続ける。
「どうやら縄抜けもできるらしい」
使用人さんがバッとこちらを振り向く。私たちは両手を繋いでくるりと回り、その手をゆらゆらと揺らして見せた。
ゆっくりと車が門をくぐる。それに続いて、私たちも正式に敷地内へと足を踏み入れた。
石畳の道を進む。一足先に車は階段の下まで辿り着いて、幌が閉じられる所だった。
そういえば、これでようやく当主の姿が見える。
声からしてなんとなく予想はつく。はたして車から降りてきたのは、私たちと変わらない――何なら少し小さいくらいの背丈の子どもだった。
彼は同乗していた使用人を連れ立って階段を上がっていく。
「おまえ達」
その途中でこちらを振り返った。
「一度身なりを整えろ。それから執務室まで来い。いいな」
「はい」
「……あ、うん!」
頷くと当主は階段に向き直り、そのまま足を進めていく。
「と、いうことだ。まずは湯浴みをして、それから着替えを用意する」
と使用人さん。彼はこのまま私たちの世話を任されたらしく、まずはついてこい、と歩き出した。
階段を上がり屋敷を目の前にすると、ますます大きい建物だ。思わず呆けていると、使用人さんから「早く入るぞ」と声が飛んだ。
両開きの扉を開けて中へ入る。この部屋は……なんだろう、部屋? 廊下? 分からないけどすっごく広い。目の前にまた階段がある。その先を見上げていくと、天井から吊り下がったシャンデリアに目がやかれた。
「まぶしっ」
「姉さん、直接見ちゃだめだよ」
「こっちだ」
連れられて廊下を進む。初めて見るものばかりだ。なんだか高そうに見える。それに派手。孤児院にはこんなものなかった。
そのはずなのに、なぜだか全部見覚えがある気がする。
「ここがご当主様の執務室。あとでまた来るが、場所だけ覚えておくように」
使用人さんが手で示したドアがタイミング良く開いた。中から別の使用人さんが出てきて、2人で会釈を交わす。
その開いたドアの隙間から、室内の様子が見えた。
中に当主がいる。彼はデスクに座っていた。
そのはずなのに、一瞬彼が成長した姿で床に倒れ伏している光景が見えた。
強烈な既視感。
当主の顔を見た時。屋敷の中を歩いている時。執務室の中を覗いた時。
それぞれで感じた既視感が一気に結びつく。
あぁ、ここは。彼は。
「おい、なにしてる!」
ハッと気付けば使用人さんは少し先へ行っていた。兄さんが不思議そうに私の顔を覗いている。
「行こう!」
兄さんの手を握り締め、駆け足で使用人さんの後を追った。
【11 過去】
「やっぱりこれ予知夢なんだと思う」
「……姉さんさぁ」
親愛なる兄、兼、これからの使用人仲間は心底呆れたように眉を下げた。
「そういうことならもっと早く言ってよ」
「だって顔見えなかったんだもん!」
「だとして、気付いたならすぐ言って」
「使用人さんが居たからさぁ……」
でも、鉄の掟を破りかけたのは事実だ。しょげた顔で「ごめんなさい」を言えば、兄さんは「いいよ」と返した。
「で、なんだって? つまり」
「この家が夢で見た家で、あの当主が夢で見た人なの」
「ってことは、姉さんが貴族になってたら、いずれあの人を殺そうとしてたってことか」
「そうっぽい。おかしなことにね」
兄さんは「ふぅん」と呟く。袖を通したシャツの襟を引っ張ったりなんかして、なんだか興味が薄そうだ。
「兄さんさぁ」
「なに? あ、姉さん。サスペンダーの紐、ねじれてるよ」
「あ、ありがとー」
背中側からねじれを直してくれる。私は邪魔しない様にピッと背筋を伸ばして立った。
襟付きシャツとサスペンダー付きの短いズボン。これが私たちに支給された着替えである。
これまで着ていた服だって、十分柔らかくて十分丈夫だと思っていた。ただそれもこの服を触るまで。今となっては、あの袋には戻れない。
……じゃなくて!
「兄さんさぁ、予知夢の話題に興味なさすぎない?」
身分を手に入れることに関してはむしろ兄さんも積極的だったのに。どうして予知夢の話をすると、こんなにどうでもよさそうなんだろう。
「そりゃそうでしょ。だって現実じゃないし」
「まだ、ね?」
「まだとかの話ですらない。それに、だから貴族にならないようにこうして使用人になったんでしょ。じゃあ何も問題ないじゃん」
まぁ、確かにそれはそうだ。
私は貴族にならなかった。こうして使用人になったし、当主を殺す理由もない。だから罰として私たちが殺されることも、もうない。
「……本当に?」
本当にそうかな。だってさぁ、当主がどうして命を狙われていたのか、私は分かんないんだよ。
もしかしたら、私が貴族にならなくたって彼は命を狙われるのかもしれない。そしたら、そしたらさぁ。
それ、私たちのせいにされないかな?
何度か、他の子たちがしたことでなぜか私たちが怒られたことがある。私たちはなぁんにもしてないのに、「どうせおまえたちだろ」って。
それと同じ。
当主の命を狙ったのは他の誰かなのに、なぜか私たちが疑われて、やってもいないことで殺される。そんなことになったら、せっかくこうして先回りしたことが全部無駄になっちゃう。そんなの困る。
私の心配事を聞いた兄さんは、
「だったら」
と前置きし、なんてことないように言った。
「やめとく?」
「……兄さんが連れて来てくれたのに?」
「別にどこだって良いんだよ。それより、やめるなら今じゃない? 今なら逃げられる」
今、部屋の中には私たち2人しかいない。ドアの外で使用人さんが待っているけど、この部屋から抜け出すルートはたくさんあった。
やめておくべきなのだろうか。当主からできる限り距離を取って、手が届かないくらい遠い場所まで行って、そうすれば何かがあっても私たちは疑われないで済むのかな。
「いや、やめない」
違う。そうじゃない。
私たち、先生に怒られないようにするために、先生から徹底的に逃げてきた。それはつまり、嫌な事を避けるために先手を打つってことだ。
この場合、絶対避けたい嫌な事は、兄さんが死ぬこと。当主が死んで、私たちが疑われて、それで殺される。
それを避けるためには、スタートを変えればいい。
「兄さん。私たちで当主を守ろう!」
「守る?」
「当主が死ななければいいんだよ!」
当主が死ななければ、私たちが疑われることもない。そうすれば兄さんも死なない。
これだ。これ以上ないくらいの最善策。なんならこの家にたどり着いてよかったって思うくらい!
「ま、僕は姉さんと一緒ならなんだっていいよ」
「よーし決まり!」
手を取り合って部屋を出る。使用人さんに連れられて執務室までやってきた。
ドアを開け、中に入る。
床にはふわふわした絨毯。その先のデスクに当主が座っている。
私たちはその目の前まで進んで、
「あのね、さっき私たち、使用人にしてほしいって言ったでしょ」
「おいっ」
と使用人さん。当主はそれを片手で制した。
「なんだ、今更雇われに来たのは嘘だとでも言うのか」
「ううん、雇われに来たのは本当。でも使用人じゃなくて、あなたを守らせてほしいの」
そう言うと、当主と使用人さんは揃って変な顔をした。
「初めからそのつもりだったわけでは無い、と?」
「さっきは使用人って言ったでしょ。それとも使用人でもあなたを守れる?」
「……そういえば、聞きそびれていたが、一体どこで我が家のことを知った?」
「孤児院です」
と兄さん。
「孤児院の先生の部屋で」
「だからさ、使用人って、戦う職業なんでしょ? そうじゃなくて、守る職業になりたいなって」
当主は納得したように小さく頷いた。
「良いだろう。先の質問に答えると、使用人の職に就きながら守ることは出来る」
「そうなんだ! じゃあ使用人でもいいなぁ、せっかくだし。ね、兄さん」
「そうだね。どうせなら最初に目指してた職業にしておこうか姉さん」
「……その、兄さん姉さんというのはなんなんだ。おまえ達に名前はないのか?」
兄さんは左手を上げる。
「僕がココです」
私は右手を上げた。
「私がハチ」
これが、私たちが孤児院で呼ばれていた名前である。でもそれは人に付けられた名前で、私たちはお互いがお互いを呼ぶ呼び名として「兄さん」「姉さん」と言い合っている。それだけだった。
『12 現在』
「フレデリック様、大分顔色がよくなられましたね」
ガゼボの下で、婚約者様が坊ちゃんの顔を覗き込むようにして言った。
それを横目に、箱からスコーンを出して皿に取り分けていく。さり気なく箱の角度をずらす。スコーン1つ分の箱の空きスペースが婚約者様に見えないように。
「あぁ。仕事も片付いてきたから」
「良かった! 倒れていらっしゃらないかどうか、心配だったんですからね」
婚約者様は顔を綻ばせる。それから私の方を見て、
「あなた達が付いているとは、思っていてもね」
そして眉を下げた。
「実はね、前は今更嫉妬なんてしないって言ったけど、実はちょっとだけ不安なんです」
「なにを」
「彼女たちはずっとフレデリック様の傍にいられるでしょう? わたくしはそうはいきませんもの」
ちら、と彼女は上目遣いに坊ちゃんを見た。哀れを誘うような潤んだ瞳が揺れる。
「それに、ね。好き合っている人と一緒になりたいって言われたら、わたくし、きっと止められませんもの……フレデリック様のお心を大事にしてほしいから」
坊ちゃんは彼女に手を伸ばしかけ、止めた。誤魔化すように咳払い。
「……婚約者のきみが、そんなことでどうする」
「そう、ですよね。わたくし、フレデリック様の婚約者ですものね」
婚約者様は嬉し気に微笑んだ。坊ちゃんが胸を撫で下ろす。
丁度お茶ができた。隣で準備していた使用人仲間がカップにお茶を注いでいく。スモーキーな香りが舞う。濃い紅色の液体をくるりと銀のスプーンでひと混ぜし、2人の前に置いた。
「以前わたくしが持参したお茶、お気に召していただけましたか?」
「あぁ。すでに無くなってしまった」
「まぁ! それではまた次回お持ちいたしますね!」
両手を合わせて首を傾げる。婚約者様はそのまま夢見るように呟いた。
「こうしてあなたの身近にわたくしの存在を置いておければいいのですけれど。まずは形から、なんて、子どもっぽいでしょうか」
彼女は目線をサービングカートに向ける。
「ねぇ、次はティーセットなんてどうでしょう? わたくしお気に入りの、かわいらしい陶器のスプーンがあるんです」
「……そこまでしなくたっていい」
「まぁ。ふふ」
それからしばらく茶会を楽しんで、婚約者様は帰っていった。彼女が迎えの車で敷地を出たとスーツの使用人仲間から報告を受ける。
「食えない人だねぇ」
テーブルを拭きながら、お茶を準備した使用人仲間――姉さんがそう言った。
「ハチ」
と坊ちゃんが咎める。
「分かって言ってるのかな、あれ」
「ココまで……」
「どうだろね。五分五分? 本当に言葉通りの可能性もぜーんぜんある。坊ちゃんに自分のお気に入りを使ってもらいたいだけ」
姉さんは肩をすくめた。
そうは言うけれど、銀のスプーンを使っている理由を分かったうえで陶器に変えてほしいと言っているのなら、彼女は中々に食わせ物だ。彼女のことはこれまで、ただ坊ちゃんのことを好いている令嬢だとばかり思っていた。少し評価を改めなければならないかもしれない。
「お菓子を持ってこられる可能性もあるね」
「あー、直接的にね。どうします坊ちゃん? 先に手を打ちますか? まぁ私たちは嬉しいですけどね、つまめるし」
坊ちゃんは渋い表情で僕らを見て、小さく息を吐いた。
「手を打つ必要はない」
「わ、じゃあつまんでいいってことですね」
「彼女の前ではするな」
「もちろん!」
やったね兄さん、と姉さんがガッツポーズを見せる。僕は頷いて、でもそうなると、一度開封されていることを誤魔化すのが大変だなぁと考えた。
「ところで坊ちゃん、お仕事は一段落したんですよね?」
と姉さんが尋ねる。
「今度の視察前にやるべきものは一通り終わらせた」
「じゃあ今日はささっと寝られますね。良かった~」
これで坊ちゃんが仕事につぎ込んできたものを取り戻すことができる。適度な睡眠と適度な食事。娯楽を楽しめるようになるかは分からないけれど、身体を壊す心配は一先ず大丈夫そうだ。
坊ちゃんには良く寝ていただかないと困る。姉さんがそれを望むからだ。
「坊ちゃんに亡くなられるわけにはいきません」
「私たちが疑われちゃいますからね」
「……その予知夢とやら、まだ信じているのか」
雇われてから少し経った頃、なぜ使用人になりたかったのかを聞かれたことがある。それに対し、姉さんはあっさりと自分の予知夢のことを話した。
予知夢を現実にしないため使用人になりたかった。そう言われた幼い坊ちゃんの「……そうか」という返事がどうにも不満気だったのを覚えている。
自分が死ぬことを予言されたのだ、そうなるのも無理はない。だが彼が不満だったのはそこではないらしかった。
両親が殺された以上、自分も命を狙われる可能性は考えていた、と坊ちゃんは言う。なるほどそこは姉さんの懸念通りだ。
ただ、「自分の未来を予知夢なんていう非科学的なことで決められるのが納得いかない」とのことだった。
「でもでも、絶対予知夢なんですもん」
「ハチはともかく、ココもか?」
「僕は信じておりませんよ」
「ふーんだ。何を言われようと絶対予知夢だもーん」
「子どもか……」
つん、とした顔でティーセットを片付ける姉さんを坊ちゃんは半眼で睨みつけた。
姉さんはずっと予知夢を信じ続けている。夢の内容が現実にならないよう先回りし続けた結果が今だ。
僕は予知夢を信じていない。姉さんが見たらしい内容なんて絶対に現実にならないからだ。
ただ、これまで使用人として仕える中で、思ったことがある。
これは何度か坊ちゃんに降りかかる死を振り払ってきたことで気が付いたことなのだけれど、僕たちの育った孤児院はどうやらまともじゃなかったらしい。
孤児院で僕らは生きる術を学んだ。それは的確に骨を砕く蹴り方だったり、指だけで弾を撃つ方法だったり、返り血を浴びずに剣を振るう流れとか、銃そのものを扱う方法とか。とにかくそういったものが僕らにとっての「生きる術」だった。
親のいない子どもを育てる施設とは、生きる術を学ぶ場所である。
生きる術とは、文字通り戦う技術である。
すなわち、孤児院とは戦う技術を学ぶ場所だ、と。
この世の全ての孤児院とはそういうものなのだと思っていたけれど、どうやらあの場所が異端で異質で異常なだけらしかった。
なぜそのことに気が付いたかというと、簡単だ。坊ちゃんに近づいてきた暗殺者の動きが僕らそっくりだったからである。
恐らく僕らのいた孤児院は暗殺者を養成する場所だったのだろう。
それに気が付いた上で僕らが雇われた時のことを思い返すと、中々とんでもない大博打に勝っていたものだと思う。堂々と「自分たちは暗殺者です」と言っているようなものだ。あればかりは坊ちゃんの覚悟に助けられた。
そうして僕らが暗殺者として育てられていたことに気が付くと、姉さんの予知夢に一つの可能性が浮かび上がる。
先日のコロの件。彼はこの屋敷に新人使用人として潜入し、坊ちゃんの命を狙っていた。
姉さんの予知夢とは、これと同じだったんじゃないだろうか。
姉さんは暗殺のため、偽の身分として貴族になりすましていた。あれが予知夢なのだとしたらきっと、いや間違いなくそうだ。だってそうじゃなきゃ姉さんが僕から離れて生きるわけがない。
「ま、どっちでもいいよ。僕らは生きるのも死ぬのも一緒なんだから。予知夢だろうがそうじゃなかろうが、やることは同じだし」
「予知夢だけどね?」
律儀に姉さんがツッコミを入れる。そんな僕らに坊ちゃんはこめかみを押さえ、それはそれは深いため息を吐いた。
「本当に疲れてきた……」
「わ、大変。ずっと仕事でしたもんねぇ」
「今日はもうこの後休んで」
と言いかけて、坊ちゃんは動きを止める。
「いやだめだ。サインが必要な書類を思い出した。部屋に戻る」
音を立てて立ち上がる坊ちゃんに、姉さんは「はぁい」と言いサービングカートを押した。僕は頭を下げそれに続く。
「こういう時、ほうきで空を飛べたらひとっとびなのにねぇ」
「だから子どもか」
「兄さん、あとで練習しよう!」
坊ちゃんが眉間に皺を寄せる。そういえばつい最近1人で練習していたところを見つかったんだった。仕事中だったとはいえ、姉さんに注意をさせるなんて、坊ちゃんも酷い人だ。
ほうきで飛ぶ練習をして先生に怒られた回数は、僕より姉さんの方が多いのだから。