2話
「勇者」
その子供は、名を持たなかった。
生まれたときから、ただ『勇者』とだけ呼ばれていた。特別な痣があるわけでも、何かしらの才能があるわけでもない。ただ、生まれた瞬間にそう呼ばれ、誰も疑うことなくそれを受け入れていた。
──なのに、村の人々は彼を特別な目で見ていた。
勇者は、その理由を知らない。知らされることもなかった。特別扱いをされているわけではない。むしろ、どこか遠巻きに扱われているような気さえした。
大人たちは、彼に優しく微笑みかけるが、どこか距離を取っていた。子供たちは一緒に遊んではくれるが、どこか遠慮がちだった。
「どうして、みんな俺を『勇者』って呼ぶんだ?」
幼い頃、母親にそう尋ねたことがある。だが、母は少し困ったように笑って、
「あなたは特別な子だからよ」
そう言ったきり、それ以上のことは教えてくれなかった。
──だが、ただ一つ分かることがあった。
村に住んでいる人の中で唯一、医者だけは彼を特別扱いしなかった。
「またここに来たの? 今日はどこで遊んできたのさ」
「村の広場! 友達と、川の近くの草むらで虫を捕まえたんだ!」
「で、また転んでケガしたんじゃないの?」
「うっ……」
バツが悪そうに俯く勇者を見て、医者はくすりと笑った。
「もうちょっと気をつけなよ。君、ここに来る回数、そろそろ村で一番じゃない?」
「そ、そんなことないぞ!」
言い返しながらも、勇者の頬が赤くなる。
村の人々は、どこか勇者を遠ざけるように接していた。まるで、彼に踏み込みすぎてはいけないとでもいうように。だが、医者や医者の周りにいる人だけは違った。
勇者にとって、この場所は、彼が唯一『普通の子供』でいられる場所だった。
「なー、せんせー、何してたんだ?」
勇者は背伸びをして、医者の机の上を覗き込む。そこには、散らばった書類と伏せられた写真立て、開きかけの本が無造作に置かれていた。
「仕事だよー」
医者はそう言いながら、机の下の小さな冷蔵庫を開けた。そこから冷えたオレンジジュースを取り出し、勇者の前にそっと置く。
「くれるのか!?」
目を輝かせる勇者の頭を、医者は優しく撫でた。
「他の子には内緒だよ」
「いただきまーす!」
勇者は両手でグラスを持ち、嬉しそうにジュースを飲む。冷たい液体が喉を滑り落ちる感覚が心地よくて、思わず目を細める。
だが、ふとグラスを傾けたまま、少し考え込むように首をかしげた。
「なー、せんせー。このジュースって、どこにあるんだ?」
「どうしたの急に」
医者はペンを動かしていた手を止め、勇者を見た。
「村のどこにもないのに、せんせーのとこに来たらあるんだもん」
少し寂しげな表情を浮かべる勇者に、医者は微笑んだ。
「これはね、食の国から取り寄せてるんだ」
「食の国?」
「この村から出たことないもんね。ここは夕焼け村──どこにも属さない小さな村だけど……周りには、たくさんの国があるんだよ」
そう言いながら、医者は指を一本一本折りながら説明を続ける。
「工事の国、芸術の国、娯楽の国、夜の国、食の国、そして医療の国と戦場の国。いろんな国があって、それぞれ違った文化や技術を持ってるんだ」
「……俺もいつか行ってみたい!」
勇者は目を輝かせながら言った。
村の外には、たくさんの世界が広がっている。彼がまだ見たことのないもの、知らないもの、触れたことのないもの。それらが、この村の外にあるのだと考えるだけで、胸が高鳴る。
そんな勇者の姿を見ながら、医者は優しく微笑んだ。
その微笑みの奥には、どこか遠いものを見つめるような寂しさが滲んでいた。だが、勇者はまだそれに気づくほど大人ではなかった。
「……せんせーは、どこかの国の生まれなの?」
ふと、勇者がそんなことを聞いた。
医者は、少しの間だけ沈黙した後、いつもの調子で軽く肩をすくめた。
「んー、それは秘密」
そして、何もなかったかのように、勇者の頭をぽんぽんと撫でる。
「なんだよ、それ! ずるいぞ!」
「先生は先生なのさ〜。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「むぅ……」
勇者は頬を膨らませたが、それ以上問い詰めることはしなかった。
医者が何かを隠していることは分かった。けれど、無理に聞くことではないと、なんとなく思ったのだ。
──夕焼けの空の下で、村の小さな診療所には、笑い声が響いていた。
その音は、どこか温かく、そしてほんの少しだけ切なかった。