第1章 第1話
「夕焼けの綺麗な村の医者」
──この村の夕焼けは、いつも美しい。 燃え上がるような茜色が空を覆い尽くし、やがて紫へと溶けていく頃、村の暮らしは少しずつ静けさを取り戻していく。
畑仕事を終えた農夫たちは、鍬を担ぎながら家路を辿り、土の匂いをまとった手を服で拭う。川辺では、洗濯をしていた女たちが湿った布を抱え、まだ水滴の残る袖を振るいながら帰り支度を始めている。子供たちは最後のひと遊びとばかりに走り回り、日が完全に落ちる前に、母親たちの「早く帰ってきなさい!」という声が響き渡る。
そんな村の日常の中で、ひときわ目を引く青年がいた。
首には一筆書きで描いた様な刺青をし、若い見た目に反し老人のような白髪を風になびかせ、ゆったりとした白衣を羽織った男。目元は柔らかくうっすらと微笑みを浮かべていて、どこか眠たげな印象すらある。まるでこの世のすべてが他人事のように、のんびりとした歩調で道を進んでいく。
──村で唯一の医者。 名を持たず、誰かから『怠惰』の名を与えられた者。
「先生、またうちの子が転んでしまって……」
戸口の前で、困ったような顔をした母親が、小さな男の子の手を引いて立っていた。
「また?」
医者は少し眉を上げて、視線を下げる。
男の子は、涙をこらえるように口をきゅっと結び、片方の膝に薄く血の滲んだ傷を作っていた。
「もー……毎回同じような傷ばっかりだね。もう少し落ち着いて遊びなよ〜」
言いながら、医者は診療所の中へと手招きする。
小さな木造の診療所は、村の人々にとって馴染み深い場所だった。高価な薬や最新の治療設備があるわけではないが、それでも村の誰もが頼りにしている。
医者は慣れた手つきで傷を消毒し、丁寧に薬を塗る。
「ひゃっ……!」
消毒液がしみたのか、男の子が小さく顔をしかめた。
「痛いよねえ、でもすぐ終わるからねー」
医者は軽く頭を撫でながら、絆創膏を貼る。そして、引き出しから棒付きキャンディーを取り出し、男の子の手に握らせた。
「ほら、よく頑張ったね」
「……!」
先ほどまで涙を浮かべていた男の子の顔がぱっと明るくなる。
「先生、ありがとう!」
「はいはい、もう転ばないように気をつけてね」
男の子はキャンディーを大事そうに握りしめながら、母親に手を引かれて帰っていった。
診療所の扉が閉じると、医者は小さく息をつき、椅子に腰を下ろす。
「まったく……僕の名前が『怠惰』なの、そろそろ訂正してもらえないかなあ……」
彼はそう誰に言うでもなくシズカ(呟きながら首の刺青を掻いて、ぼんやりと外を眺める。
──村の人々にとって、彼は 『怠惰』という名とは裏腹に、誰よりもよく働き、困った人には手を差し伸べ、病人には的確な治療を施す。そんな風に評価をしていた。そして、この村に彼がいることを、誰もが感謝していた。
「せんせー……」
医者が一息ついたのも束の間、またもや診療所の戸口から声がした。
振り向くと、そこにはいつもの顔があった。
あちこちにされた手当の痕、茶色い髪に、すこし色の薄い黒色の瞳。腕には何故かバンダナを括りつけている、まだ幼いのに、妙に達観したような雰囲気を持つ子供。
「おや、今日はどうしたの?」
「……お腹すいた」
「ええー……?」
子供は、壁に寄りかかるようにして立ち、ぼんやりとした目でこちらを見つめていた。
「……もしかして、朝から何も食べてないの?」
「昨日の夜から」
「あのねぇ………それはさすがにまずいよ」
医者はため息をつき、立ち上がる。
診療所の奥、薬棚の横に小さな棚がある。そこには、患者のために常備している干し肉やパンがしまわれていた。
「……しょうがないなあ」
棚から少し硬くなったパンを取り出し、木の皿に載せる。そして、村人からもらった蜂蜜を軽く塗り、子供の前に差し出した。
「ほら、あげる」
子供は一瞬ためらうような仕草を見せたが、やがて小さく頷き、パンを手に取った。
「……ありがとう」
「いいのいいの、こんなの医療でもなんでもないしさ」
医者は適当に手を振りながら、子供がパンをかじるのを見守る。
──この子も、もう何度ここへ来ただろう。
名前も家も持たない、村の外れで一人暮らしている子供。
気がつけば、いつもこの診療所にふらりと現れ、気が向けば話し、時にはただぼんやりと時間を過ごしていく。
「せんせー」
パンを食べ終えた子供が、ぽつりと呟く。
「ん?」
「……せんせーは、なんで『怠惰』って呼ばれてるのか?」
「それ、聞いちゃう?」
医者は少し困ったように笑った。
「うーん……さあねえ。なんでだと思う?」
「んー……全然怠けてないのに」
「だよねえ、僕もそう思うんだけど」
医者は肩をすくめ、窓の外を眺める。
夕焼けは、すっかり夜の色へと変わりつつあった。
「……まあ、理由なんてどうでもいいか。僕は僕で、君は君だ。それでいいんじゃない?」
子供はしばらく黙っていたが、やがて「そっか」と小さく呟いた。
「せんせー、今日はここにいてもいい?」
「……しょうがないなあ」
医者は小さく笑いながら、棚の上からもう一つの毛布を取り出した。
──こうして、夕焼け村の一日は静かに暮れていく。