19.お嬢様はお仕事をがんばる
「あたしゃメアリー。この病院で働いて3年になる」
中年の看護人が、長い廊下をカツカツ歩きながらそう言った。
メアリーは後ろを歩くアリステアを振り返る。
「ところであんた、貴族サマなんだって?」
「ええ、アリステア・ウィンズベリーと申しますわ」
「珍しもの好きの貴族サマもいたもんだ。看護人なんて貧民街の飲んだくれがやる仕事さ。あたしもその1人だけどね。でもいいかい、ここじゃ貴族サマだろうが聖女サマだろうがそんな肩書きは一切通用しないよ」
「はい、覚悟しておりますわ」
メアリーはアリステアの顔をじろりと見る。
服装こそ看護服に着替えてはいたが、アリステアのシミひとつない肌や艷やかな銀髪は、他の看護人とは明らかに違う身分のものだった。
「ふん、どうせすぐに泣きごと言って逃げ出すのは目に見えてるけどね……」
アリステアは何も応えずただ前を見据えた。
メアリーはまた「ふん」と鼻を鳴らして、アリステアの顔から目をそらす。
「まあいいさ、ここんところ次々とランセル病患者が運び込まれて、こっちは猫の手も借りたいくらいなんだ。さあ、ここがあんたの持ち場だよ」
メアリーが病室の扉を開く。ひどく傷んだ木の扉。
そこは、ジェイコブの婚約者であるシェリーも収容されている大部屋だった。
強烈な糞便の匂いがアリステアの鼻を刺す。
「食事は1日2回、投薬は1日1回。クソ桶が溢れ返ったら地下の排水溝に流して床を掃除しな。あとは患者のワガママを適当に聞き流すこと。それがここでのあんたの仕事だ」
アリステアは自分より少し背の高いメアリーを見上げて眉根を寄せる。
「患者の皆様のお着替えは? それに、怪我をされている患者様もいらっしゃいますが、包帯の交換は?」
「必要ないよ、そんなもんは」
「ですが……」
「リネンが足りないんだよ。洗濯するヒマも清潔な水もない。浄化魔法の使い手は金持ちの病棟に付きっきりだ。もしあんたが使えるってんなら話は別だけどね」
アリステアはうつむいて「いえ……わたくしに魔法は」と唇を噛む。
「だったらキビキビ働くんだね。あたしらにできることはそれしかないんだ」
アリステアは「……わかりましたわ」と小さくうなずいた。
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改めて見渡してみれば、その病室はひどい有り様だった。
ベッドにはマットレスも毛布もなく、患者は木板の寝台にただ転がされている。
そればかりか患者の半数以上は手足を寝台に拘束されている。
寝台には穴が開いており、寝たまま垂れ流された排泄物が寝台の下の桶に溜まっている。
「あアぁァアぁ! ミサに、ミサに行かせてくれぇ~~ッ!」
「聖水を! 早くアタシに聖水を飲ませてちょうだいッ!」
「悪魔があァッ! 悪魔が近づいてくるよォ~~~~ッ!」
どうやら、この大部屋の患者のほとんどが医者の言うランセル病の患者――アリステアたちが疑う『聖水』の中毒患者たちのようだった。
何か叫びながら拘束具がちぎれそうなほど激しくもがいているのは、まだ元気のある患者たちだった。
暴れる元気のなくなった患者だけが拘束具を外されている。
窓際にいるシェリーもその1人だった。
「今朝ジェイコブが持ってきてくれたの……キレイでしょ?」
昨日より落ち着いた様子でそう言ったシェリーの目線の先には、一輪の花。
ボロボロのカーテンの隙間から差し込むわずかな光が、窓辺に置かれた花瓶を照らしていた。
「この花と私の命、どちらが先に枯れ果てるかしらね……」
震える声でシェリーがそう言うと、アリステアは彼女の肩をガシッとつかんでその瞳を覗き込んだ。
「絶対に死なせませんわ。あなたも、ここにいる皆様も」
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それからアリステアは、猛烈に働いた。
大部屋がある3階から地下1階まで、糞便の桶を抱えて何度も往復した。
徹底的に床やベッドを掃除し、我が物顔でうろついていたネズミたちを追い払った。
床ずれの患者の姿勢を変えて、市場から自費で購入した布を当てていった。
1階の炊事場から重い鍋を運び、患者たちに食事を行き渡らせた。
煮込んだ肉や野菜さえ食べられないほど弱った患者には、アリステアが具材を丁寧にすりつぶして少しずつ飲ませてやった。
それでも、錯乱した患者が
「去れ! 悪魔は今すぐここから立ち去れッ!」
と叫んでアリステアに食器を投げつけることもあった。
アリステアはとっさに結界を張って防御したが、結界に弾かれて割れた皿の破片がその患者の体に突き刺さった。
「ひぃあああああああッ! 痛い~~~~~ッ!」
「も、申し訳ありませんわ! わたくし、つい……ッ!」
アリステアは結界を解いて患者の傷を治療した。
皿の破片を取り除き、自費で購入した包帯を巻いていく。
その間、患者はフォークでアリステアの肩を突き刺し続けたが、アリステアは結界を張ることはなかった。
(救うべき人を結界で傷つけてしまうなんて、聖女として失格ですわ……!)
アリステアは血が噴き出る肩の痛みより、締め付けられるような胸の痛みに耐えかねて目に涙をにじませた。
たまたま巡回で通りがかった看護人メアリーが、その光景に目を丸くした。
「世の中にゃ、こんな貴族サマもいるんだね……」
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1週間後、シェリーの精神はひどく乱れた。
「聖水を~~ッ! 聖水を持って来いって言ってるのよォ~~~~ッ!」
喉を枯らしてそう叫び、落ち着かせようとするアリステアを何度も殴った。
弱りきった患者とは思えないほどの力の強さだった。
アリステアは結界を張らずにそれを耐えたが、思わず目を閉じてしまった。
その刹那、
「聖水を持って来ないなら死ねばいいのよッ!」
とシェリーは窓辺の花瓶でアリステアの頭を殴った。
――――バリィンッ!
花瓶は粉々に砕け散った。
アリステアは自分の体が柔らかな光に包まれていることに気が付いた。
(また、無意識に結界を張ってしまったのですわ……!)
ハッとしてアリステアは
「大丈夫ですか!」
とシェリーの身を案じるが、シェリーに花瓶の破片が刺さったりはしていないようだった。
アリステアが無傷であることに驚いたのか、シェリーは呆然としている。
「ふん、バカだね。花瓶なんか置いておくからそうなるんだ。イカれた患者の近くにそんなものを置いときゃ凶器にしかならないに決まってるよ」
巡回に来たメアリーがため息をついた。
「それにその花だって、とっくにしおれているじゃあないか。さっさと片しちまうんだね」
アリステアが慌てて結界をまとったまま「はい、今すぐ!」と床に散らばった花瓶の破片を集めて水を拭き取る。
しおれた花を手に取った時、
「こ、これは……!?」
アリステアは我が目を疑った。
そして、ベッドではシェリーが涙声で、
「ご、ごめんねぇ~~……! 悪魔が、悪魔がやらせたのよぉ……!」
と自分の暴力行為を嘆き悲しんでいた。
アリステアは優しく微笑み、
「もう大丈夫ですわ。わたくしは聖女。皆様をお救いすることが使命ですわ」
と言って柔らかな結界をまとったままシェリーを抱きしめた。
シェリーが驚いて目を丸くする。
「え……!? ど、どういうこと……!?」




