18.お嬢様は就職を決意する
ジェイコブの婚約者シェリーは、病院の大部屋にいた。
看護人の手が足りていないのだろう。
いたるところから患者のうめき声が聞こえ、糞便の匂いが立ち込めていた。
「ねえ、ジェイコブ……早く『聖水』を持ってきてよ……!」
粗末な木のベッドに横たわるシェリーは痩せこけて骨と皮だけのようだった。
顔も土気色で目は落ちくぼみ、唇はカサカサに乾いている。
「シェリー、目を覚ますんだ。あれは『聖水』なんかじゃあない。人をダメにしてしまう魔薬なんだよ。君はあの神父に騙されていたんだ」
ジェイコブがそう言った途端、弱りきっているようにしか見えなかったシェリーがガバッと上体を起こしてジェイコブにつかみかかる。
「神父様がそんなことするわけないじゃない! あの『聖水』が魔薬なわけないじゃない! どうしてそんなこと言うの! 悪魔にそそのかされたの!? 悪魔に耳を貸したのね、ジェイコブ! ならば今すぐに立ち去りなさいッ!」
シェリーは折れそうなほど細い腕で、何度もジェイコブの胸を殴りつけた。
金切り声で「悪魔め、去れ!」と繰り返しながら。
港湾作業で鍛えられたジェイコブの体はビクともしなかったが、その顔は今にも泣き出しそうに口元が震えていた。
「いつも、この調子なんだ。ごめんよ、こんなところを見せてしまって……」
うつむいてそう言うジェイコブに、アリステアもヒナも静かに首を振った。
それからアリステアは穏やかに微笑んで言った。
「何も遠慮することはありませんわ。困っている方をお救いするのが、聖女の務めですから」
その目線の先でジェイコブに殴りかかっていたシェリーは唐突に陶酔の表情を見せて独りつぶやいた。
「ああ……。早く、早くミサに行きたいわ……! それで私は救われるんだから……!」
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「魔薬ぅ? 知識も何もない素人が、憶測でモノを言うんじゃないよ。私の所見ではね、あれは感染症の一種だよ」
アリステアとヒナ、ジェイコブの3人に医者はそう言った。
でっぷり太った医者が座る椅子は軋んで今にも壊れそうだ。
「ランセル病と言ってね、ずいぶん昔には不治の病とされていた病気なんだ。今は特効薬があるから治せるけどね。また最近、増えてきているんだ。人から人には感染しないが、鶏からは死体でも感染する。あの患者は飲食店で働いてたんだろ? だったら鶏を調理する機会も多かっただろう。それで感染したんだよ」
ジェイコブが医者に食い下がる。
「確かにシェリーは酒場で働いていましたが、料理人じゃなくて給仕人です。生の鶏肉に触る機会はほとんどなかったはず。それに、本当にその店で感染したのならシェリーだけじゃなく料理人だって感染しているはずだ。でも、あの店でああなったのはシェリーだけじゃないですか」
医者がジェイコブに人差し指を突きつけて言う。
「だから、素人が憶測でモノを語りなさんな。医学っていうのは難しいものなんだ。いろいろなケースがあるさ。とにかく、彼女はランセル病。この病院の院長であるこのワシ、フリードランド医師が自ら診断したんだ。間違いなどあろうはずがないじゃないか。しかし、幸運なことに特効薬の投与を継続すれば治る。いい薬だよ? 多少、高くつくがね」
それから医者は、下からじろりとジェイコブを睨みつける。
「そういえば、今月分の治療費は遅れずにちゃんと払ってくれるんだろうね?」
「そ、それは、もちろん……」
「だったら、いいんだがね。話は以上だ。私も忙しいのでね。ほら、さっさと帰った帰った」
医者は、虫でも払うような仕草で3人を追い出した。
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「お嬢様。ここから先は、別行動にしましょう」
病院を出てジェイコブと別れたあと、ヒナはアリステアにそう言った。
「別行動? どうしてですの?」
「……私に少し考えが。ただこれは、私1人の方が動きやすいんです」
「なるほど……それなら、わたくしも1人で動きますわね」
「お嬢様が? 何をするんです?」
「また明日、あの病院に行くのですわ」
ヒナは一瞬きょとんとしたが、慌ててアリステアに詰め寄る。
「いやいや、ダメですよ!? いくらあの医者が怪しいからって強引に解決しようとしても! こういうのはちゃんと論理的にやらないと! いつもみたいに怒ってスケバン出してドーンじゃ解決になりませんからね!?」
アリステアがムスッと頬を膨らませる。
「心外ですわ、ヒナ。わたくしを猛獣か何かのように言って」
「お嬢様の中にいるんですよ、猛獣が!」
「失礼ですわね。そもそもわたくしは、あのお医者様に何かをしようというのではなくて、あの病院で働かせて頂けるようにお願いしに行くだけですわ」
ヒナは少し考えてからニヤリと笑う。
「はは~ん、潜入捜査ですか。なかなか考えましたね」
アリステアは「潜入捜査?」と首をかしげる。
「わたくしは、ただ働くだけですわよ?」
「え、なんで突然。ジェイコブさんの件はどうするんです?」
「その真相を探るために、ヒナは1人で動くのですわよね?」
ヒナは戸惑いながらも「ま、まあそうですが」とうなずく。
「それなら、それはヒナに任せますわ。わたくしはヒナを信頼していますもの。それに、この件では真相を探るよりもやらなければいけないことがありますわ」
「え、真相を探るよりも? 何ですか、それ?」
「シェリーさんを癒すことですわ。真相を明らかにしても彼女が死んでしまっては何の意味もありません。ですからわたくしは誰よりシェリーさんのおそばにいるために、病院で働かせて頂くのですわ」
そしてアリステアは「それに」と付け加える。
「他にも怪我や病気でお困りの患者さんもたくさんいましたし、お医者様も看護人の皆様もお忙しそうでしたので」
「……でもお嬢様って、治癒魔法とか浄化魔法とか使えませんよね?」
「使えませんわ」
「じゃ、じゃあ何の仕事するんですか」
「何でもですわ。掃除でも雑用でも何でも。あのお忙しい病院なら、わたくしにもきっとお手伝いできることがありますわ」
ヒナは苦笑いをして「そ、そうですか……」とつぶやく。
アリステアはグッと拳を握りしめて笑顔を見せる。
「怪我人や病人の皆様のために無償で奉仕する! これこそが聖女の本来の務めですわ! もう誰にも『殺戮少女』とは言わせませんわ!」
いや『殺戮少女』は今のお嬢様の話ではなく――という言葉をヒナは飲み込み、アリステアを宿屋のベッドに寝かせたあとで夜の闇へと消えていった。




