第二話 いつかの話(2)
昔の話。何処かの村で滞在した話。今では、思いだすことすらなくなっていた、そんな話。
全国行脚ならぬ大陸行脚をしていた。国から国。街から街。村から村。転々と旅をしていた。
旅の目的は一つ。己を鍛えるため。鍛える意味は一つ。ただ強くなるため。
幼い意思は誰にも理解されず、孤独を生きる。努力が足らないなら、手を伸ばし続ける事をやめない。前を見据えて生きる事を辛いと思う事はない。脇目も振らずに走り続けることだけを、価値があると思っていた。
立ち寄った村に立ち寄らなければならなかった訳ではない。食料が尽き、疲労が溜まり、傷ついた体を休める為に、偶然通りかかった村に滞在する事になっただけ。
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寂れた村だ。一番初めに思った事はそれだけだった。
人間と亜人が共存しているという点で、悪い村だとは思わない。しかし、亜人がいるせいで他の村、街に敬遠されているのは目に見えて理解できた。
木で出来た家屋は所々に穴が開き、商店らしき物も見られない。外を出歩く村人はいないが、少なくとも活気にあふれる者はいないと確信できた。
ふらついた体を必死に引き摺って村の中を歩き続ける。無謀にも魔物の群れに突っ込んでいった代償がそれ。死ぬ気で、と言うよりは、死ぬつもりで。だけど絶対に死にたくはなく、足掻いている。
背に負う剣が重い。捨ててしまいたい。だけど手放したくない。
血液が脳に回らず、茫洋とした意識の中、立ち止まってしまえばいいと思っていた。
少しだけ隆起した地面に足を取られる。体を支えることすら出来ずに倒れ込む。地面にぶつかる痛みは感じない。うつ伏せに倒れたまま視界に入りこんだ足に意識を割く余裕はなかった。
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目が覚めた時、見上げる先には、知らない天井があった。
覚醒しきらない頭で意味もなく起き上がる。
「っつぅ」
お腹の辺りに痛みが走る。体を見回すと、包帯に巻かれた体が見えた。
「目が覚めた?」
聞いた事もない声が横から浴びせかけられる。距離が近い。
「……」
自身が置かれた状況を理解できず、固まってしまう。掛けられた声に反応を返す事も出来ずに体に巻かれた包帯を見続ける。
「おーい、だいじょぶ?」
不意に横から顔をのぞかせる存在がいた。髪の毛が勢いで揺れていた。
「っ!…いっつ」
驚いて構えそうになってしまう。しかし、全身に傷を負っているため、碌に構えることすらできない。痛みが先行して、意識は途切れ掛けてしまう。
「全身に怪我を負ってるんだから無理しちゃダメ」
聞くともなく言葉を聞いて、痛みに耐える。これ程の怪我は負った事がない。慣れない痛みに自身を形成させている何かを維持できない。
ある程度痛みが引いて来た所で現状を把握する余裕が出てきた。
記憶の限りでは、この村に辿り着いた所で倒れてしまったようだ。
「君が、助けてくれたのか?」
「そだよ。もう、全身ぼろぼろ!何がどうなって、何をしたらああなっちゃうの?」
最後に見た足の持ち主は寝ているベッドの横に座る少女らしい。
「ん、大した事はしてないよ。魔物に襲われて命からがら逃げ出して来たんだ。それと、ありがとう。治療をしてくれて」
「んー?気にしなくていいよ。困ってる人がいたら助けなさいって言われてるしね」
朗らかに笑う少女に感謝の言葉は通じていない。
思わず目を細めてしまう。その綺麗な思想に眩しさすら感じてしまう。体の痛みより、心の痛みの方が辛い。
少女は目を細めた事を怪訝に思ったのか首を傾げた。
「どったの?どこか痛い?」
「いや、上手く治療されてるよ。特に痛みは感じない」
実際、上手く治療されている。あれだけの怪我を負ったのに、動かさなければ、然程の痛みは感じない。
「そっかー。回復系の魔術は苦手だったから、上手く効くか不安だったんだけどなー。君がそう言うなら自信持ってもいいかな」
やはり、目を細めてしまう。少女の笑顔は綺麗すぎる。
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少女の提案、と言うよりはごり押しで、しばらくの間、少女の家で厄介になる事になった。
落ち着いて少女の部屋を眺めまわすと、これもかなり傷んでいる。最低限、雨風が防げるように修理は為されているものの、それでも人が住むには適していない。机と椅子、ベッド、調理場らしきものがあるだけで他には存在しない。
「やっぱり悪いよ。俺が床で寝る」
「いいっていいって。怪我人は黙って治療されてろー。気を遣われると逆に気を遣っちゃうから大人しくしててよ」
料理や狩りの手伝いを申し出たのだが、怪我を心配されてそれは叶わない。それなら、と床で寝る事を提案しても、少女は突っぱねる。
「君みたいな人は珍しいから。何だか優遇したくなっちゃうんだよなー」
言われた意味が呑み込めず、反応を返せない。
少女はそれを見て、にはは、と笑った。特徴的な耳を触りながら笑っている。
「そういう反応だよ。もう不思議でしょうがないってやつ。今までいろんな人に会ってきたけど、この村でも割と大切にされてるけど、君は特別かな。ほんっと、珍しいよ」
珍獣でも見るかのような目で見られ、居心地が悪くなってしまう。しばらく感じなかった人の暖かみを知る。
良くない事だ。そんなものを感じていい人間ではないはずなのに。
「今日はもう寝よ。そだね、明日から少しずつ手伝ってもらうから。だからそんな顔しない」
少女の言った事は的を射てはいなかったが、優しく諭す様な言い方だった。
翌日に少女に頼まれた事は簡単な事だった。村の一角に存在する宿屋に行って、食材を貰ってきて欲しいと頼まれた。
「…ここか」
お世辞にも宿屋とは言い難い。外装は所々剥げて、打ち捨てられた館のようだ。
宿屋らしきものの前で躊躇っていても意味はない。すぐに中へ入る事にした。
「いらっしゃい」
中は外よりはまともだが、それでも宿屋として機能できないほど寂れていた。
カウンターに腰掛けている女性が気だるげに挨拶をする。
「すいません。食材をわけていただきたいのですが…」
頼まれたものは、芋類。芋は長く持つし、調理の幅もそれ程狭くない。硬い土でも栽培することが可能だ。
「あんた、誰?見知らぬ人間に食材を渡すほどお人よしじゃないよ、私は」
「あ、いや…頼まれたんです。村の外れに住む少女に」
訝しげな顔をされたが、少女の紹介で、と告げると、一転、女性はぱっと顔を変えた。
「あー、あんたかい。あの子の家で厄介になってるのは。悪いね、冷たく応えて」
「いえ…」
「ちょっと待ってなよ。すぐに持ってくる」
女性が奥に引っ込むと、何かを物色する様な音がした。ついで何かが倒れる音。割れる音。
女性が戻ってきた時、女性は埃に塗れていた。
「けほ……はいよ。これで全部だ」
「ありがとうございます……あの、大丈夫ですか?すごい音がしましたけど」
貰った食材が埃に塗れていても、水で流せば関係ない。それより、奥で何かが壊れる音がしたほうが気がかりだった。
「…大丈夫、って言いたいところだけど…あんまり大丈夫じゃないかね」
「…片付けの手伝い、しましょうか?」
「いいよいいよ!あんた、怪我してんだろ?そんな事させちゃ、私があの子に叱られちまう」
「…でも」
「気にすんな!私を手伝うなら…」
女性はそこで区切る。意味深に微笑み、こちらを見る。
「あの子の手助け、してやんなよ」
そして、からかうように見えた微笑みを、また違った笑みに変えた。
「いい子だろ?あの子。よく頑張ってる。自分じゃあ、まだまだ受け入れられていないと思ってるかもしれないけど、私たちは全員、受け入れてるよ。その事も伝えてある。けど、やっぱり、少し距離が開くんだよ」
寂しそうな笑みを張り付けたまま、女性は話し続ける。口を挟む事はしないし、出来なかったし、しようとも思わなかった。
「でも、あんたは違う。あの子が楽しそうに、って言ったら、不謹慎か。あんたは怪我してんのに。でも、あの子の何の陰りもない笑顔を見たのは初めてだったよ」
あれほど天真爛漫に笑っていた少女が、陰りを含んだ笑みをこぼすのだろうか。その旨を女性に伝えたら、女性は嬉しそうに目を細めた。
「そうかい。やっぱり、あんたは特別だよ。……怪我が治ったらどうするんだい?」
「…俺は……旅の途中なんです」
「その旅はどうしても続けなきゃならないのかい?」
「はい」
これだけは譲れない。多くのモノを斬り捨てても、旅を止める事はない。
「……そうかい。ま、あんたが決める事だ。私からは何も言えないさ。けど」
女性が力強く肩を握る。怪我をしていない所とは言え、かなりの強さで握られている。思わず顔をしかめてしまった。
「あの子を悲しませるような事はするなよ。もししたら…」
「したら…?」
するつもりなどないが、女性のあまりの声色に先が気になってしまう。
「殺す、かもね」
茶化した言い方ではあったが、顔は笑っていなかった。
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「ごくろー。怪我はだいじょぶ?」
「ああ、大丈夫だよ」
戻ると、少女が満面の笑みで迎えてくれた。やはり、あの女性が言った事が信じられない。少女の笑顔にはなんの陰りも見られない。
「ささっとご飯作るから、大人しくしてなよー。手伝わなくてもいいからね」
手伝おう、と口を開きかけた所で、少女から念を押された。口を開けて固まった顔が面白かったのか、少女は楽しそうに笑う。
「あはははー。変な顔ー。君は面白いねー」
楽しそうに笑う少女に、何の疑いを持つ事も出来なかった。
「ふいー…食った食った。お腹一杯だー!」
わー、と手を上げて伸びをする。行儀は悪いが、注意する気は起きなかった。
「んじゃ、やる事もないし、寝ますか!おやすみー」
そして、床に敷かれた布の上にごろんと横になる。数秒と経たずに寝息が聞こえてきた事に、少しだけ笑ってしまった。
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少女との日々は楽しいと言わざるを得なかった。少女はよく話したし、よく笑った。どうでもいい話で、遅くまで寝る事を禁止された時もあった。
何度も手伝うと申し出たが、断られ、喧嘩まがいの事もしてしまった。少女が悲しそうに目を伏せ、宿屋まで走っていった時は本気で冷や汗をかいた。
ある程度、怪我が治り、体を動かしても殆ど痛みを感じなくなってからは、少女の家事を手伝う事になった。狩りにも出かけたし、村の近くで出た魔物を追い払う事もあった。
楽しいと感じる度に、心は軋みを上げる。齟齬が生じている。こんな所で立ち止まっていていいわけがないのに、離れていく事を惜しいと思ってしまう。
生じた齟齬を無視しているつもりはない。いつかは旅立つのだが、タイミングが掴めない。ずるずると引き摺って良い事などないと、経験として知っているのに、動く事が出来ない。
胸の中に宿る強固な意思が揺らいでいる訳ではない。ただ、体が万全になるまで動かないほうがいいと、言い訳しているのだ。
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その日は少女が隣町まで所用があるとの事で、一人で軽い鍛錬をしていた。既に怪我は治っている。これなら剣を振るう事になんの障害もない。振るう剣が冴えている、とまでは言わないし、言えない。才能など欠片も存在しないと知っている。一般人に毛が生えたような剣捌きしか出来ない。それでも、もう体は万全だった。
今日、少女が帰ってきたら、伝えよう。村から発つ、と。
少女がどのような顔をするかはわからない。悲しそうな顔をするのだろうか。だが、斬り捨てる時は斬り捨てなければならない。それくらいの強さを欲している。
少しずつ激しさを増していく。振るう剣は音を立てて、振るわれる。薙ぎ払い、突き、両断。何度か本気で振るうが、体に痛みはない。
「……ふう」
休憩を挟んでいる時だった。それが起こったのは。
最初、それを見た時、体が硬直した。恐れている訳ではない。珍しい事でもない。しかし、何故、この村に、という考えを振り払う事が出来なかった。ありふれた事に疑問を抱いても、答えはありふれた事だから、としか言いようがない。
「…クソっ!」
硬直した体をすぐに動かして、目的に走って行く。
「逃げてください!ここは俺が何とかします!」
魔物の襲撃。既に何人かの村人が殺されている。
襲撃してきた魔物は多くはない。四体。それだけ。しかし、個体の力が強かった。
オーガ。丸太の様に太い手足から繰り出される攻撃は早くない。早くないが、膂力が尋常ではない。当たれば、ザクロの様にはじけて、血を撒き散らすだろう。
落ち着いて見切れば、攻撃は当たらない。しかし、全てを避け斬るには数が多い。
両手で握った剣で、少しずつ痛手を負わしていく。振り下ろされた一撃を横っ跳びで避け、背中に回り込み、斬りつける。皮膚も固く、持っている剣、持っている力では、大したダメージにはならない。すぐに距離を取り、囲まれない様に動き回る。
オーガは決して速くない。そう思っても、すぐ横で振り下ろされる拳に、心臓が縮むような思いを何度もしていた。地面には大きな穴が開いている。全てオーガが開けたものだ。あれだけの力では剣で受け切る事も叶わない。避け続ける事が前提となっている。
一瞬の隙を見計らって、一体のオーガの目を突き潰す。悲鳴の様なものを上げて、仰け反るオーガの顔にもう一度、剣を突き立てる。少しだけ抵抗を感じたが、剣はオーガの顔を貫通した。
「はあ…はあ…っ」
やっと一体。数分かそこらの戦闘だが、疲労は激しかった。肉体的にも追い詰められ、精神的にも追い詰められている。オーガが開けた穴に足を取られない様に、村人達に意識が行かない様に動き回る事は予想以上に辛かった。
同胞を殺されたオーガはより激しく、攻勢の手を進めてきた。髪の毛をかすり、鼻先を横切り、いつ直撃してもおかしくはなかった。
「―――っ!」
オーガの動向ばかりに目が行ってしまったのか、地面の穴に足を取られてしまう。振り下ろされた拳を避けきれそうにない。
思わず目を瞑り、剣で防御をしてしまう。
衝撃。腕を根元から引きちぎられるかのような衝撃を感じる。一瞬の痛みの後は、感覚がなくなった。どこかで剣が落ちる様な音がした。
直撃は避けたが、腕の事で前後不覚になってしまっていた。慌てて目を開けると、そこには大きく腕を振り上げたオーガの姿。
また目を瞑ってしまう。諦めてしまう。誓いを守れずに、死んでしまう。
その時だった。少女の声が聞こえたのは。
「お前らー!何やってんだー!」
少女の声が聞こえた事で、慌てて目を開ける。
「あ、危ない!来る……え?」
少女に目を向けた。向けたはずだった。
しかし、そこにいるのは少女ではない。魔物。いや、魔物ではない。特徴的な耳がある。人間には存在しない、犬の様な耳。
「がるるるる…」
ワーウルフの様な姿をした何かが立っていた。白銀の毛並み。ふさふさの手足に、ふさふさの尻尾。長い髪の毛はそのままで、犬の耳もそのまま。狼の様な顔立ちをした少女だった何か。
オーガは拳を振り下ろさず、少女に意識を向ける。三体共、こちらに意識を割かず少女に進んでいく。
「がおー!」
少女は速い動きでオーガに迫って行く。構えたオーガ達の内の一体を殴りつける。顔をガードされていたために、腹を狙ったその一撃は、オーガに負担を掛ける。下ろされた腕から除くオーガの顔を殴りつけ、昏倒させる。そして、そのまま口を上顎と下顎を掴み、引き裂く。
断末魔の叫びを上げる暇さえなく、オーガは絶命した。
しかし、有効だったのは最初の不意打ち気味た攻撃だけ。一体のオーガを殺した隙を突かれ、少女はオーガの拳を食らってしまう。
吹き飛んだ体を立てなおそうとしているが、足はふらついている。
「……クソ」
動けない事が恨めしかった。どうやら、足を挫いていたらしい。まともに立ち上がることすら難しい。右手首は折れているかのような痛みを訴えている。
「きゃいんっ」
また、オーガの一撃を食らう。少女の体はもうぼろぼろだ。不自然に腫れあがった左腕を庇いながら戦っているが、長くは持たない。裂傷を負っているらしく、体毛には血が染み出してきている。
「うー!仕方がない!ねえ!君!」
突然、少女が話しかけてきた。
「悪いんだけどさ!この後、君に頼みたい事があるんだ!聞いてくれる!?」
頷く。断れる訳がない。
「いいよ!何でも聞く!なに!?」
「終わってから言う!絶対の絶対に守ってよ!拒否権は認めないから!約束だよ!」
「わかってる!絶対に断らない!約束する!」
犬耳をぴくりと動かして、少女は一言呟いたような気がした。距離が遠くはっきりと見えなかったが、良かった、と言っているように見えた。
===
「よーし!じゃあ、全力でいっちゃうぞ!覚悟しろよ、お前ら!」
その言葉を境に、少女の動きが一変した。目にも止まらぬ速さで跳躍したかと思うと、オーガの首を捩じ切っていた。
「――――!」
先程とは全く違う雄叫びをあげる。本物のワーウルフが上げるような遠吠え。少女の残滓は面影もない。
捩じ切った首を握りつぶし、少女は笑った様な気がした。
「……」
何なのだ、アレは。アレでは、まるで、魔物そのものではないか。そんな思いが頭を巡る。
少女だったモノがまた跳躍したかと思うと、今度は爪で、オーガの体を引き裂いていた。胴体から真っ二つにされたオーガの血飛沫を、気にすることなく、少女は浴びていた。
硬直。先程とは違う意味での硬直。恐怖すら抱いている。
少女はゆっくりとこちらに向かってくる。血に塗れた姿で気にする事無く。
「ド、ドウ?コ、レガ……ワタシ、ノ…ホ、ホントノ、スガタ」
目の前で膝を着き、項垂れる。言葉を返す事も出来ない。
「コ、ワイ?ソ…ダヨネ。ワタシ……ハ、ア、アジンダ、カラ」
亜人。彼女の頭に生えている、特徴的な犬の耳を見れば、それは容易に理解できていた。亜人だからと言って、何が悪い訳でもない。むしろ逆だ。亜人の方が、人間より綺麗とさえ言えてしまう。彼等は純粋に生きている。人間とは違う。
無論、少女もそうだった。亜人だからとか、関係なかった。
少女の体は傷だらけだ。村を守り、役に立たない男まで守ってくれた。
亜人の血を使って。人間であることをやめて。
震える様に腕を抱いて。抑える様に体を抱きしめて。
「ゴ、ゴメ……モ、ムリ……コココ、コロ、シテ…モ、モウ、ガガマン、デキ……」
牙を剥き出しにして。今にも人を食い殺そうとして。
「ヤクソク……マ、マモッテ…ネ……ダ、ダレモ、ココ、コロ、コロ、シタク…ナイ」
涙を流して。誰も殺したくないなんて。
懐から小太刀を取る。使いにくい、と敬遠していた物だ。
「ウン……キミハ…トク、べベツ」
剣を取りに行くことすらままならない。これで片を付けるしかない。
「タ、タノ、タノシ…カッタ…」
「……」
謝罪の言葉は出てこない。少女がそんなことは望んでいない様な気がしたから。
だから―――
「ありがとう」
呟いた言葉が少女に伝わったかどうかはわからない。しかし、最後に少女が呟いた言葉は確かに理解できた。声に出ていなくとも、理解くらいできた。
「なにが…ありがとう、だよ」
震える声は文句を言う様で。そんな些細な抵抗なんて意味がないとわかっていても抵抗をするしかなかった。
「どうにか…出来なかったのかよ…!」
迷う素振りも見せずに殺して、言える事ではない。でも、殺さなければ殺されていたのかもしれない。村人も殺されていたのかもしれない。
こんな所で死にたくはない。絶対に誓いを果たすまでは死ねない。
「何で…クソっ!何で…」
聞いた事もない。亜人が魔物の様な姿になるなんて。
「何で…力も、知識も…何もないんだよ!」
もし、力があれば。少女は死ななくて済んだのかもしれない。
もし、知識があれば。少女を戻す方法があったのかもしれない。
無意識の内に拳を地面に打ち付ける。罅が入っていようが、骨が折れていようが、関係ない。今、何かに逃げなければ―――
「う…ぐ…っ」
泣いていい訳がない。あの時と同じだ。何も出来ずに後悔だけして。あの時こうしていれば。たらればの話ばかりだ。
「うあ…うぅ…っ」
滲んでいく景色が憎らしく思えてくる。弱さが露呈する。
強くなりたい。誰よりも強くなりたい。世界を撃つためにも。誰かを守れるようになるためにも。
少女だったモノを抱きしめる。心の中では何度も謝っている。
すまない。すまない。すまない。俺がもっと強ければ。そんな事ばかり。
絶対に強くなる。手を伸ばし続ける。誓いを果たすためには、止まれない。けれども、脇見をするくらいは―――
===
見上げた月は先程と位置が変わっていないように感じた。
レイの周りにはおぞましい魔物の死骸。両手に握られた刀には血が付着している。小太刀を軽く上げて、月に照らしだす。赤と白銀。二種の色に染まる小太刀に対して、特別な感傷が胸に浮かぶ。
「……大して強くなかったな、こいつら」
紛らわす様に呟く。レイの周りに転がる死骸は少なくない。レイが弱くはないと言っても、これだけの数を無傷で乗り切る事は不可能だ。
「動きもとろいし、柔らかいし」
見た目の悪さ以外は何ら脅威にはならなかった。流れ出ていた液体も、レイの体にかかっているが、何も起きていない。
「血の色も赤なんだな。気持ち悪」
狼系統の魔物の血の色も赤色だが、他の魔物は血の色が違う。様々な色をしている。今、レイの近くに転がっている魔物の血の色は赤色だ。
「脇見…しちゃいけないだろ。……何か…最近、本当におかしいな」
思い出す事もなくなっていた。なのに思い出してしまった。レイの記憶の奥底で眠っていた出来事。若い時、誰かを殺した悲しい話。
しかし、レイにとっては悲しい話ではない。所詮、力のない男が何も出来なかっただけの事。ありふれている話だ。
レイは小太刀を見やる。ミノタウロスの角を溶け込ませた、レイの相棒。この小太刀は付き合いが一番長い。太刀よりも、バルドよりも。色々な記憶が眠っている。色々な血で染まっている。
「あーあ…俺なんか、死ねば良かったのに」
呟く言葉は口だけで。絶対に死にたくなどない。
ただ、あの時。原初の出来事。あの時に死んでいれば―――
これほど、死にたくないとは思わなかっただろう。