王国都市防衛戦(2)
「………来ないな」
既に北門以外は交戦している。ハーベスタの斥候からそのような報告を受けて、レイは不審そうに呟いた。
どこの場所も概ね心配はいらないという。最も被害が大きくなるだろうと心配された南門も快調に魔物を蹴散らしているそうだ。少なからず死者は出ているらしいが、それでもレイ達が到着するまでの一週間に比べれば、圧倒的に少ないらしい。
それもそうだろう。
南門に当たるのはバルドだ。レイの相棒であるあの男がいる限り、負けはまず有り得ない。他の門も被害は少ないらしい。魔物は少しずつ後退しているとも報告を受けている。
だからと言って彼等が油断をするとは思えない。今回はこちらが優勢だ。
しかし、この北門には魔物の一匹姿を現さない。鳥たちは平和そうに平原に降り立ち、戯れている。周りに魔物の気配がないのだろう。
どういう事だろうか。この一週間で魔物の襲撃が来ない日はなかったと言う。連日の疲れもある中、他の門の兵士たちは戦っている。
だが、今回の襲撃で北門には魔物が現れない。見渡す限りには平原が広がるばかり。
レイは無意識のうちに頭を掻き毟りそうになって、すんでの所でそれをやめた。レイはわからない事、頭にきた事があると、頭を掻き毟りそうになってしまう癖がついてしまったようだ。頭に当てられた手を下ろし、髪の毛を掻き毟らないよう腕を組んで考える事にした。
実質、狙うならこの北門が一番いい。兵の錬度も低いし、数も少ない。士気も低い。魔物にそれだけの知恵はないとわかっているが、レイはこの北門を捨て置いて他の門に群がるのはすこしおかしい気がしていた。
どこがおかしいとはわからない。
軍を編成している魔物達には必ず指揮官が存在している。その指揮官が一番脆い北門を狙わないのは不思議を通り越して不気味な感じすらしていた。
その指揮官も所詮は魔物、という言葉で片付けてしまう事も出来るが、それだけなのだろうか。
報告によれば、襲撃してきた魔物は総勢六千。南門に三千。西と東には千五百ずつ。これで魔物軍勢は全て仕掛けに来ている事が分かる。この北門を無意味に捨て置く必要はあるのだろうか。
レイは他の門に応援しに行こうと思ったが、以上の不審さにそれを止めた。
「なあ、指揮官さん。ここは暇だな」
ローワンは明らかにつまらなそうに口を開いた。憮然とした表情を隠そうともせず、地面にふんぞり返って座っている。手には懐に隠し持っていた短剣を持つ。他の門で交戦が始まったと聞いた時は、揚揚と立ち上がり、魔物の襲撃にいつでも対応できるように構えていたが、今ではそれも萎んでしまっている。
彼は手柄を立てるためにこの戦いをしたかったのだ。それなのに手柄を立てるどころか、その機会さえ訪れない事に苛立っていた。
「まあな。でも無駄に殺し合うよりいいだろ。戦わないでいいなら、戦わない方がいい」
「甘い事言ってるな。俺達は兵士だぜ。戦いたくなくても戦わなきゃいけないんだよ。……他の門に援護に行くってのはどうだ?どうせこの門には何も来ないだろ」
「駄目だ。万が一がある。もし、魔物が襲撃してきたらどうする。ここを素通りさせるつもりか?」
レイの言葉にローワンはむっと顔を顰める。戦いたい、というよりは手柄を立てたくてうずうずしているのだろう。先程、レイが考えていた事を提案してきたが、レイはもしもに備えて、それを却下した。
どちらにしても、他の門にはレイの信頼する仲間が一人、信用する仲間が二人いる。彼等がいるならば、壊滅的な打撃は受けないだろう。
今、必要とされているのは冷静な判断力。こういう時こそ無闇に動く事は出来ないのである。
「しかし、ここで手をこまねいて待っている、というのも芸がなくはありませんか?部隊を分割して他の門に援護に向かうといった行動を起こした方がいいと思いますが」
ヘイズには相変わらず気負った様子は見られない。自身の立場に不満を持っているといっても、それはあくまで一過性のもの。この戦いを乗り切れば、王国騎士団など辞めて、出世街道に乗り出せる。彼はそう思っている。
無責任ともとれるその言葉を受けて、ノックも同意した。
「そうっすよ。ここを守るのも必要っすけど、他の門も守らないといけないじゃないすか。実力的に今、一番きついのは東門じゃないすかね。東門に応援を送ったほうがいいと思うんすけど」
確かにノックの言う事には一理ある。南門には三千の魔物が群がっている。数的には互角だが、戦力的には圧倒的にこちらが勝っている。
西門は数的に勝っているため心配はいらない。
東門は数的に互角だが、戦力的には少し厳しいかもしれない。ジークがいるといっても兵の錬度は低い。応援の必要性を感じる。
しかし、レイは踏み込めないでいた。
どうも気に掛かるのだ。総力戦を仕掛けるなら、それこそこの北門に六千全てを注ぎ込んだ方がよっぽど効率がいい。もしそれが実現していたのなら、為す術もなく北門は破られていただろう。
だが、実際は魔物はこの北門を無視して他の門に当たっている。
「俺も援軍を送るべきだと思う」
レイが髪の毛を掻き毟りそうになり、それを必死で抑えていると聞き慣れない声が辺りに響いた。
この場にいる四人が声のした方へ視線を向ける。
声の主はビショップだった。そう言えば、ビショップは今まで一度も口を開いてはいなかった。
「何でそう思う?必要性は感じるけど、それでも送るべきってほどでもないと思うんだけど」
「いや、送るべきだ。今は大丈夫だが、東門の兵の錬度も低い。その内、東門は確実に苦戦を強いられる」
断固とした口調でビショップはレイに応援を送るよう提案する。その提案を切る事も出来るが、それをすると唯でさえ低い士気が更に低くなってしまいそうだった。
不審感と部隊長達の押しに挟まれながら、レイは悩む。
ここで少ない兵を送るべきか、士気を下げながらも現状の数を維持すべきか。どちらにしてもメリットはない。どちらを選択しても戦力ダウンは避けられない。
それならば、とレイは彼等の提案を呑む事にした。東門も援軍が来たら、被害は少なくなる。このままこの北門に敵が現われなかったら、レイの不安はただの杞憂に終わる。
「わかった。応援を送ろう。ヘイズ、弓兵を率いて東門に向ってくれ」
「わかりました」
レイは応援を送る事を決定したが、送るのはいなくなっても一番痛手の少ない弓兵だ。槍、剣、魔術は重要になってくる。この北門に当てられた弓兵は近接戦闘が出来るとは思えない。それなら、送るべきは弓兵だろう。
「おい、ちょっと待てよ!何でヘイズなんだよ!俺らを送るべきなんじゃねーのか!?」
ローワンは慌てたようにレイに食いつく。彼にとって手柄さえ立てられたら、他はどうでもいいのだ。例え、この北門に魔物の群れが現れても自身が東門の援護に向かっていれば、責を問われる事はない。
「魔術師は貴重な戦力だからそう簡単に動かせねぇよ。送るのは弓兵。これは指揮官としての決定事項だ」
「……くそっ!」
ローワンは怒りを隠そうともせず手に持った短剣を地面に叩き付けた。それは跳ね返って、ヘイズの足元まで転がって行く。
ヘイズは短剣を拾い、それをローワンに手渡して言った。
「残念でしたね。これで手柄を立てる事は叶わなくなりました。低能な貴方はここで指をくわえていてはどうですか」
ヘイズはローワンにそう言うと、こちらは一切無視して、弓兵を束ね、東門へと向かっていった。
ローワンは顔を紅潮させ、全身を小刻みに震わせながら、怒りに堪えていた。
ヘイズが援軍に向かってから数分立ったが、未だに魔物が現れる事はなかった。斥候からの報告で、他の門は順調に魔物を駆逐しているらしい。あと二、三十分もあれば、追い払う事は可能だと言う。
レイは釈然としない気持ちを抱きながらも、安堵していた。このまま戦うことなく、死者の一人も出すことなく済めば、御の字だからだ。
誰も死んでほしくないというレイの願いは本物だ。彼が切り捨てた者達にもそういう思いは持っていた。
「くそくそくそ!何でここには何も来ないんだよ!」
ローワンは怒りが収まりきらず、苛立ちを霧散させるかのように、悪態をつき、歩きまわっている。
レイは彼の気持ちが全く分からないというわけではないが、それでも何も起きない事を願っていた。
ノックはローワンをなだめようとしているが、苛立ちをぶつけらるのを嫌がってか、ローワンの近くでうろうろしている。それが更にローワンの気分を害している事に気付いてはいないようだった。
ビショップは相変わらずだ。腕を組み、目を瞑って立ち尽くしている。我関せずを貫いている。
北門の警備はガタガタだが、このままいけばそれでもいいか、とレイが考えた時である。作らせた物見櫓に上った斥候から声が上がった。
「魔物を確認!数は凡そ五百!こちらに向かって進軍中!」
やはり、そんな上手くいくはずはないか。
レイはそう思いながら斥候に質問をする。
「強力な魔物はいるか?」
「いえ、いません!視認できる限りでは、低級な魔物のみです!」
「そうか」
なら、焦る必要はない。十分に引きつけてから、叩けば済む。レイは特に構える事もなく、全部隊に指示を出そうとした時、ノックが目を丸くして、レイの目の前に立っていた。
「どうした?」
「ローワンさんが魔術師を引き連れていっちゃったみたいっす…」
「はあ!?」
レイは愕然とした。
魔術師部隊が前衛に向かうなど自殺行為である。
「何で止めなかった!?」
「と、止めたっすよ……でも無視して…」
レイは舌打ちして、すぐにノックに指示を出す。
「ノック!部隊を引き連れてすぐにローワンを連れ戻せ!」
「は、はい!」
ノックはすぐに部隊を引き連れて、ローワンを連れ戻しに向かう。レイは髪の毛を掻き毟りながら、それを見る。
ローワンの動向にはもっと意識を割くべきだった。こうなる事は予想できうる事だっただろう。
何故、自分は気を抜いていた。こんな事、レイにはあってはならない事なのに。レイが自己嫌悪に陥っていると、斥候から更なる報告を受けた。
「また、魔物を確認!数は……千!いや、千五百!?…どんどん増えていきます!!」
斥候は絶望したような悲壮な声を出す。
気付けば、辺りに鳥の一羽も見られなかった。
===
ローワンは魔術師を連れて、敵へと向かっていた。ここで少しでも手柄を立てれば、自分の功績は認められるだろう。
前方に見えるのは、低級な狼系の魔物。数が多かろうが、魔術でなら簡単に倒せる。
先程、ヘイズから受けた侮辱も許せない。
奴は後ろで、ただ弓を引くだけだが、自分は違う。魔術で敵を殲滅する。自分の部隊だけで、魔物を殲滅したと知ったら、奴はどう思うだろうか。
ローワンはヘイズの悔しそうな顔を想像しただけで笑みがこぼれた。
「止まれ!ここで少し魔物を引きつける!自分の魔術が届く範囲に来たら、ぶっ放せ!」
ローワン率いる魔術師部隊は立ち止り、魔術を行使するために精神を集中させる。魔術師が魔術を放つためには少なからず、精神集中の時間を要する。バルドは中級程度の魔術ならノータイムで放つ事が出来るが、一般の魔術師にそのような芸当は無理である。
そういう意味では、前衛に立つ魔術師など役に立たない。
そんな事はローワンにもわかっているはずなのに、魔物が中々現れない苛立ちや、ヘイズからの侮辱、功績を焦ったことにより、通常の判断能力を失っていた。
「隊長!魔物が増えていってます!」
ローワンも魔術を放つために精神を集中させていたが、隊員の一人の言葉で、彼は改めて前方を見た。魔物が多すぎる。五百程度ではない。もっとたくさんいる。
ローワンはそこで自身の過ちに気付いた。五百程度ならどうにかなると思っていたが、魔術師の中でもレベルの低いこの部隊では、五百も厳しいと当たり前の事に今更ながら気付いてしまった。
そこからのローワンは見ていられなかった。
「引け!引け!囲まれる前に逃げろ!」
誰よりも早く魔物に背を向けながら、ローワンは魔術師部隊に指示を出す。
しかし、魔術師とは本来運動が苦手な者がなる。そんな彼等が、狼の脚力から逃れられるだろうか。
無理に決まっている。
背を向けた魔術師たちに魔物は追いつくや否や、その首元に食らいつく。噛まれた魔術師は悲鳴を上げながら絶命した。
それが更なる混乱を招く。
誰もが後ろを振り返ることなく、襲われた仲間を助けることなく、逃げ出す。倒れていく、殺されていく、食われていく仲間達の姿が視界に入るたびに、狂ったように悲鳴を上げながら、逃げていく。
ローワンも彼等と同様な行動を取っていた。しかし、彼は早々に躓いて転んでしまっていた。
「おい!お前ら!俺を助けろ!隊長だぞ!」
転んだ時足を捻ってしまい、立ち上がることすら辛い。自分を無視して逃げていく隊員を見ながら、ローワンは泣きそうになった。
もう魔物共はローワンを囲んでいる。動けない獲物とわかっているのか、余裕を持って距離を狭めてきている。
ローワンは懐に持っていた短剣を手に立ちあがる。足首がずきずきと痛むが、今はそんな事を気にしている暇はない。
「どうした!?掛かって来いよ!俺が残らずぶち殺してやる!」
自分を鼓舞するようにローワンは声を張り上げる。
それと同時に目の前のハウンドドッグがローワン目掛けて飛びかかってきた。それをかわしながら、ローワンは短剣をハウンドドッグの首元に振り下げる。
ハウンドドッグの首は切断され、胴と首は分かれて着地した。
「は、ははは!どうだ!見たか!俺だって出来るんだ!舐めやがって!誰もわかってねーんだよ!」
殺された同胞を見て、魔物達は警戒したように立ち止った。それを見てローワンは更に声を張り上げる。
「何だ!?びびったか!?どうしたよ!掛かって来いよ!てめーらなんか怖くないんだよ!」
ローワンは前方の魔物に向かって歩いていく。魔物はローワンに怯えたのか少しずつ下がって行く。
「魔物でもびびるんだな!ははは!だっせ!てめーらはここで俺がっ」
そこまで言って、ローワンは地に倒れた。彼は何が起こったのか理解できなかった。後ろの首に痛みを感じる。そう言えば、自分は囲まれていた。後ろから噛みつかれたのか。
他人事のようにそう思いながら、彼は絶命した。
その死体に魔物達は、嬉しそうに食らいついた。
===
「ノック!魔術師部隊に生き残りは何人だ!?」
ノック率いる剣兵部隊が魔物を牽制しながら何とか連れ戻した魔術師の数は少なかった。残念ながら部隊長のローワンの姿は見られなかった。
「……三十人くらいっす」
「…わかった!お前はビショップと一緒に魔物を食い止めろ!」
「了解っす!」
貴重な魔術師を七割も失ってしまった。それに命からがら逃げのびてきた彼等はしばらく使いものにならないだろう。
かなり痛い。
援護が受けられない前衛はかなり厳しいだろう。斥候からの最終的な報告では魔物の数は凡そ三千。魔術師部隊を抜いて考えると、こちらの約四倍の数である。
レイは弓兵を援軍として送った事を後悔していた。士気の減退を無視してでも送るべきではなかった。そうすれば、ローワンが暴走して吶喊する事もなかっただろうし、ここまで追い込まれる事もなかっただろう。
既に斥候に援軍要請を頼んである。どこの門の部隊でもいいから、すぐにでもこちらに来てもらわないと、かなり厳しい。いや、はっきり言ってしまえば、まず突破される。
「立ち直った奴はすぐに前衛の援護に迎え!お前らを助けてくれた奴を見殺しにはするな!」
レイは魔術師達を叱咤しながら、これからの展開を考えた。
長くは持たない。ビショップ達、槍兵が魔物の波を抑えているが、如何せん数が多い。ビショップ率いる槍兵部隊の錬度は思った以上に高かった事はありがたいが、所詮は焼け石に水である。ノック達も奮闘しているが、兵士たちは少しずつ魔物に殺されていく。
諦めるつもりはさらさらなかったが、レイはこの場を捨て逃げようかという考えも浮かんでいた。
究極的に言ってしまえば、レイにとって王国が滅ぼうがどうしようが関係ないのである。確かに、レイにとってこのアルメリア王国という国は文献を多く残しているという点で滅んでは困る。
しかし、ただ困るだけで、別に滅んだ所で大した痛手でもないのだ。
文献を漁るだけなら他の国でも出来る。
レイの前方で奮戦している彼等を無視して、この場を逃げだせば命は助かる。
こんな所でレイは死にたくないと思っている。自身に打ち立てた誓いを見ず知らずの人間のために無碍にしたくはないのだ。
逃げてしまえば、もうあの三人には会う事が出来なくなる。レイにとってそれは非常に辛いことだ。だが、誓いと彼等、どちらを優先するかと問われたら、レイは誓いを選ぶだろう。
所詮は利用するために培った関係。その程度のもの。
レイは胸がちくりと痛むことを不思議に思う。彼等を貶めた事に異常なほど罪悪感を感じる。信頼すべき仲間。しかし、彼等とレイは人種が違う。
彼等は「持っている」人間。
レイは「持っていない」人間。いや、または「失くしてしまった」人間とも言える。
そういった線引きをしたはずなのに、彼等の事を未練がましく思ってしまう事に、レイは反吐が出る様な気持だった。
もちろん、自身に対してである。
彼等を利用し、捨てる事に罪悪感を感じるなど、レイのすることではない。レイという人間はどこまでも最低な人間でなければならない。
魔術師部隊の一人が立ち上がり、前衛の援護に向かう。それを見た他の魔術師達も次々と立ち上がり、援護をし始める。
先程まで死の恐怖に怯えていた者達が、その恐怖の根源に立ち向かっている。
誰もが助かりたい、死にたくない、逃げ出したいと思いながらも、魔物と対峙する。
仲間が殺されていく中、それでも諦めずに戦っている。
それは、いつかのレイに似ていた。
かつてのレイも死に怯えながら、命を失いかけながらも大切な人を守るために立ち上がった事があった。あの時の彼は、それでも、間に合わなかった。
けれど、彼等は違う。彼等はまだ間に合う。
「………そう、だよなぁ」
弱小と言われる王国騎士団の中でも更に弱い部隊。
そんな彼等が抗っている。絶対的な絶望の中、死を拒んでいる。周りが次々と命を落とし、食い散らかされていく中、涙を流し、抗っている。
死にたくないと。生き延びて大切な誰かに会いたいと。
守りたいと。愛するその人を危険に晒したくないと。
「……死にたくないし、死んでほしくないよなぁ」
だが、圧倒的な数の前ではそんな思いも塵と変わらない。兵士たちは命の灯を切らしていく。
そんな光景を見て、レイはかつての自身を蜃気楼の様に幻視した。
まだレイになる前の彼だ。あの時は誰にも死んでほしくないから、と言って無謀な挑戦をした。必死で頑張ってみたけれど、結果は―――
言うまでもないだろう。
そこでどうにかなっていればレイはレイにならなかった。
「本当に、不安定だ…」
レイは腰に差した刀を両方とも引き抜き、軽く素振りをする。
「別にこいつらがどうなろうが俺の知った事じゃないのに…」
レイは独善的で傲慢な人間だ。自身の利益にならない事を進んでやるような殊勝な人間ではない。
しかし、かつての、レイになる前のレイは違った。
レイは意識を集中させる。魔族と戦った時は魔術を使う前に戦闘不能にされてしまったが、今回は違う。
体は万全。精神はほどよく高揚し、冷静だ。
「まったく…あいつらのせいだな……後でからかいまくろ」
手始めにバルドのハゲを三連続ではたく事から。あの音を三連続で聞けば、それは素晴らしい気持ちになれるに違いない。
次にサーシャにバルドの事が好きかどうか、核心を突こう。白状するまで、どこまでも粘着にへばりつこう。
最後はジークホモ疑惑を徹底的に追求しよう。ジークがホモだったら。それはそれでまた面白い。
レイは悪態をつきながらも薄く笑った。その笑顔はいつものように人を小馬鹿にしたような笑い方ではなく、柔らかく、子供の様な笑みだった。
これからレイは死地に向かう。生き残る事が出来る可能性は低い。それでも援軍が到着するまで、持ち堪えてみせる。
レイがレイになる前、自身に、親に、そして―――に約束した事、民を守ると約束した事を、今ここで果たそう。
挿げ替えだと蔑まれてもいい。それでも、それでもかつての自分が戻ってきているのだ。
血に染まり、死に塗れ、薄汚くなったレイになる前の自分が誓った事を果たすのだ。
レイは口を開く。
それは自身の狂想の戒めをとく呪文。四段階に楔を打たれた、レイの持ちうる最強の武器。
その一段階目の楔を解き放つ。先にも述べたが、これは魔術と言う程のものではない。これを魔術を行使すると言うのなら、レイは常に魔術を行使しているようなものだ。あくまで魔力の運用。その中の一つの流れを止める。川の様に流れた魔力を遮断する事によって、赤い何かが染み出してくる。
レイにとっての最強の武器。
レイがこれを多用しないのは勿論理由がある。簡単に言えば反動が大きいのだ。楔を解くだけなら、実質的には傷を負う事はない。しかし、レイの狂想は彼の脳を犯す。
両刃の剣。この言葉に限る。
出来る限り使わない。
レイは二段階までしか楔を解いた事がない。三段階目は薄々予想はつくが、四段階目はまったく予想がつかない。
だが、今は一段階目の楔を解く。
状況を見て、変える。それだけだ。
「ロー」
一段階目、痛覚遮断。