プロローグ2
少年と歌姫は出会う
少年は孤独で、少女も孤独だった。
お互いの孤独を補うように二人は寄り添う。
幸せな毎日が続く。少年は騎士となり、少女は歌姫となった。互いが互いを愛し、尊重し、想い合った。生涯を二人で生き抜くと誓い、手と手を取り合うことによって二人は孤独ではなくなった。
しかし、幸せは永くは続かない。
歌姫はその女神の如き容姿と、魔法じみた歌声によって魔神に見そめられた。
魔神。
いつ現れたのか、どのような存在かもわからない伝説。不定期に女を求め、要求が通らなければ災厄をまき散らす幻影。
公国直属の騎士と魔術師が現れ、少年と歌姫の繋いだ手を剣で切り裂く。歌姫は贄として連れられて行った。
どうして彼女なのか。女は他にも溢れている。彼女の如き美しさを持つ女も多くはないが、いる。それなのに、なぜ彼女が贄として連れられて行くのか。他の女ではいけないのか。
少年は公国に直訴した。何度も。数えるのが億劫になるくらいに。
公国からの回答は、魔神が選んだから。すべて同じ回答だった。
魔神の元への出立の日、少年は歌姫との接見を許された。歌姫は、出会った日と寸分も違わずに微笑んでいた。
私一人の犠牲で、貴方と、この国の人々が救われるのなら、運命を受け入れます。
その言葉を少年に残し、歌姫は騎士団と共に魔神の元へと旅立った。
救われるわけがない。この国の人間は彼女が犠牲になったことを当たり前のように受け入れるのだ。尊い生贄。それだけの言葉で。
救われるわけがない。自分のこの思いはどこに持っていけばいいのか。君がいなければ自分は救われない。もう他の誰かで孤独を埋めることなど出来ないのだ。
少年は何度も歌姫を取り戻そうと考えた。連れられて行く前なら取り戻せるかもしれない。しかし、そう考えるたびに脳に蘇る言葉。今はもういない両親の言葉。
騎士となり、この国の人々を愛し、救いなさい。
少年は歌姫を愛するのと同時に、国を愛し、民を愛した。
要求が通らなければ、魔神はその力を存分に奮ってこの国を滅ぼすだろう。過去の文献を調べ、少年は他の国でそれが実際にあったことを知っていた。魔神に逆らうのは世界に逆らうのと同義である。そう結論付ける学者は少なくなかった。
自分一人の我儘でこの国の人々の笑顔を奪ってしまっていいのか。だからといって彼女を犠牲にすればいいのか。九を救うために一を犠牲にするのか。それとも一を救うために九を犠牲にしてしまっていいのか。
疑問。葛藤。自己嫌悪。そして一つの答え。どちらも犠牲に出来ないのなら、両方を救ってしまえばいい。
傲慢にも、少年はそう思ってしまった。すなわち、魔神を倒す。胸に誓いを抱き少年はすべてを救うために旅立つ。
待っていてくれ、歌姫よ。すぐに向かう。
旅は熾烈を極めた。命のやり取りなどほとんどしたことのなかった少年は、あまりに無力だった。何度も傷つき、命を落としかけた。それでも彼女を、国を救うために立ち上がった。何体もの魔物を切り裂いた。時には、追手としてきた公国騎士をこの手に掛けた。
幾百もの魂を蹂躙しようとも彼女を、国を、民を救う。少年は妄執じみた誓いを胸に歩む。
何度この身を傷つけようとも、膝を屈そうとも我が心は折れることはない。もう二度と自分のように、辛い思いをさせない、と。
少年はある街で公国騎士団が長く滞在しているという情報を手に入れた。すなわち彼女がいる。恐らくは魔神も近くにいる。
少年は騎士団長と接触した。歌姫はどこだと問い詰めた。騎士団長は驚愕したようだが、残念そうに首を振る。歌姫はもう魔神の元へ行ってしまった。だから諦めろ、と。
それでも少年は諦めなかった。
ならば魔神の居場所を教えろ。魔神を倒し彼女を救う。
騎士団長は気の毒そうに顔を顰め、魔神の居場所を少年に教える。魔神はこの先の月の見えるままに進んでいったところにある孤城に居る、と。
少年はすぐに向かう。月を目標としながら。月を見ながら少年は、この日が彼女と出会って丁度二年になることを気付く。少年は一人、静かに笑う。彼女と出会った日に彼女を救う。これほどロマンに溢れ、運命的なものはない、と。
辿り着いた先は一つの孤城。辺りに広がるのは草原。これほどの城があれば、遠くからでも気付きそうなものを、少年は今の今まで気づくことができなかった。まるでたった今現れたかのような。まるで自分を招き入れるかのような。雲は不吉を歌うように月を隠した。
怖気づいても始まらない。少年はもう一度誓いを思い孤城へ乗り込む。
中は無人。魔物の一ついない。永遠にも似たような時間、ただひたすらに直進した。そして眼前に現れる扉。少年は直感的に思う。この先に魔神がいる。
扉を開けると、そこには王の広間。少年の仕える公国にも負けず劣らずの広さだった。その先に見える二つの人影。一つは玉座と思しきものに腰かけ、一つは玉座から少し離れた処に横たわるように倒れていた。
その時、雲に隠れていた月が姿を現し、二つの影を照らす。
瞬間、全身の血が沸騰した。喉はカラカラに乾き、眼球は内側から圧迫されるようにせり出す。横たわる影は歌姫だった。衣服は裂かれ、歌姫が魔神に汚されたこと嫌でも認識させられた。遠目に見ても生きているとは思えないほどに肌が青白かった。
魔神を殺せ。魔神を殺せ。魔神を殺せ!
誓いも何もかもが吹き飛ぶ。憎悪と殺意が体中に強烈な、甘美な毒として回る。体も、心も、魂までもがアレを消滅せよと少年に命令する。剣を握りしめ、即座に命令に従う。
―――――――――――――!!!!
自分でも何を叫んでいるのかわからないほどの声が出る。絶叫では生ぬるい。命を燃やすような叫びをあげながら魔神へ肉薄する。自分の持ちうるすべてを用いて、剣を振う。
しかし、剣は魔神に届かず、魔神のつまらなそうな腕の一振りで少年は広間の端へと吹き飛ばされた。剣を落とし、呼吸すら困難な中、魔神は少年に告げる。
興が削がれた。かわりに貴様の国を滅ぼす。
そう言って闇夜の中に消えていった。
少年は這いながら、名前を呼び掛けながら歌姫の元へ向かう。歌姫との距離は無限のように感じられた。いや、真実、歌姫との距離は無限に開いてしまっていた。
歌姫の全身が視界に入る所まで来た。見るに堪えない光景だった。歌姫の純潔は散らされ、その身に巡る血液を吸われて絶命していた。
ここにようやく悲しみが押し寄せてきた。もう、憎悪も殺意も存在しない。あるのは底なしの悲しみと後悔だけ。
なぜ自分はこんなにも無力なのか。もっと力があればあの魔神を殺すこともできたはずだ。いや、その前にもっと早く騎士団の元へ追いつき、彼女を救うことができたはずだ。そもそもなぜ自分はもっと早く彼女を救うと決めなかった。魔神の元へと連れられる前に、公国内にいる内に無理やり攫ってでも救いだし、他の国に逃げれば良かったではないか。
這いながら彼女との思い出を反芻する。
彼女はもう笑わない。
婚約の証として送った指輪を見て、嬉しそうに、幸福そうに微笑む彼女を見ることはもう出来ない。
彼女はもう喜ばない。
彼女の歌が人々に認められ、自分に抱きついて喜んだ彼女はもういない。
彼女はもう怒らない。
些細な意見の食い違いで口論になり、自分の主張が正しいのだとむくれる彼女を見ることはもう叶わない。
彼女はもう泣かない。
賊の討伐の際に負った怪我で自分が死にかけた時、彼女が流した涙を見ることはもうない。
彼女はもう拗ねたりしない。
非番の日に入った、城門の警備へと向かう時に、目も合わさずにいってらっしゃいと言った彼女はもう存在しない。
彼女はもう照れたりしない。
初めて口づけを交わし、愛を囁いた際に紅く頬を染める彼女を見ることはもう不可能になった。
彼女は、もう、歌わない。楽しそうに、幸せそうに、そしてちょっぴり泣きそうに歌う愛しい君。自分を魅了し、公国だけでなく、他の国々までもを魅了した彼女の歌声を聞くことは、もう二度とない。
そういえば、歌を歌っているときにどうして泣きそうな顔をするのかと尋ねたことがあった。
彼女は少し困ったように、照れているかのような顔で答えてくれた。
亡くなった両親を思い出すのです。私の歌をよく褒めてくれました。大好きで大事な人たちでした。歌を歌っていると両親の顔を思い出して、少し悲しくなってしまうのです。子供っぽいですよね。だから大人っぽく振舞っているんです。
まだ親離れできていないんでしょうか、と苦笑する彼女は年相応の少女に見え、愛しくて。気持ちの赴くままに抱きしめたことを思い出す。まだまだ明るく、人々が多くいる中での抱擁だったので、彼女はひどく慌てて恥ずかしがっていた。
少年は口元だけで笑った。
彼女と出会ってから二年。旅に約一年掛けた。彼女と共にいた時間は一年ほどしかない。けれども、少年の全生涯の思い出の9割は彼女と過ごしたものだった。
少年はようやく歌姫の元へと辿り着いた。魔神に汚されたというのに、その美しさは生きているときと全く違わなかった。
震える手で歌姫の頬に触れる。魔神から受けたダメージから震えているのか。それとも――――。
歌姫の頬はまだ微かに温もりがあった。本当に、本当に紙一重で間に合うことが出来なかったと悟る。ここにきてやっと少年の瞳から涙が流れ落ちた。
自分に泣く資格などない。彼女を救えず、恐らくは国を滅ぼした。魔神は公国を一夜にして滅ぼすだろう。すべてを救うと誓ったくせに、すべてを救えなかった。だから自分には泣く資格などない。
そう思っても涙は次から次へと溢れだす。最初は嗚咽を漏らすように。次第には声を上げて。叫ぶように。
―――――――――――――――――――!!!!!!!!!!
慟哭。
先ほど魔神へと向けた咆哮とは比較にならないほどの叫びをあげる。涙を流し、喉を潰し、血を吐きながら叫ぶ。それでも少年の中の激情は収まらない。それほどの慟哭だった。
朝日が昇る。無限にも刹那にも感じられる時間。少年は叫び続けた。喉は完全に潰れ、もう音を発することが出来なくなっていても。
朝日が照らす。少年と歌姫を。
朝日は皮肉にもすべてを祝福しているように思えた。
少年は叫びを終える。もう何も残ってはいない。歌姫も、国も、胸に刻み込んだ誓いさえも。
だから―――
少年は歌姫の亡骸を腕に立ち上がる。
何も残ってはいないのだから―――
歌姫を埋葬しなければならない。
この胸に新しく誓いを刻み込んでもいいだろう―――
景色の良い丘にでも埋葬すれば歌姫も不満はないだろう。
「世界を撃つ」
少年は小さく呟いた。