名前を呼ばれて
ちょっと下が入ってます。
日はもう沈んでいた。頭上には満天の星空と三日月。辺りは静寂に包まれ、森は不気味にたたずむ。風は優しく吹いて、レイの火照った体を冷ます。
「女の子泣かしちゃったよ…」
レイは月を見上げながら、困っていた。
レイは後悔していた。サーシャに対して、キツい言動をとったことを悪いとも思ってなかったし、謝る気もなかった。その旨をサーシャに伝えると少し空気が重くなった。だから、重くなった空気を和らげようと振舞った所、サーシャが大泣きしてしまった。
まさか、泣くとは思ってなかったのである。レイは酷くうろたえ、今、思えば二十かそこらの女の子に言うことではないと気付いてしまった。なので、先程の言葉は即時撤回をすることにした。
「もう、泣きやめって。俺が悪かったから。な?ホント、サーシャには辛いことをさせたと思ってる。だから、泣きやんで。泣きやんでください」
「…ぅ、ひっく…っく」
サーシャはかれこれ十分程泣いている。先程から、このようにずっとなだめているのに一度も目を合わせてくれない。しかし、泣き始めの時よりは随分穏やかになってきたので、レイはもう一押しだと思った。
「いや、土下座でもなんでもするから。ホント、お願いします」
レイは自分でも情けない顔をしていると思った。女の子を泣かしたことなど殆どないのだ。ましてや、女の子とのお付き合いすら片手で数えることができるくらいなのである。こんな時にどう対応すればいいのかわからないのだ。
「…うっく、…ぃい」
「え?」
今、サーシャは、いい、と言わなかったか。これは、つまり、土下座でいいということだろうか。土下座でいいということは、土下座をしたら許してくれるという意味なのか。
レイはそう解釈してすぐに土下座をすることにした。女将さんに説教をくらう時の速さを軽く凌駕して。
「この通り!悪かった!」
女の子の涙の前では、男のプライドなど屁のようなものだ。
「レ、レイ!いい!土下座なんてしなくていい!」
しかし、帰ってきた言葉は、土下座をしなくていい、というもの。つまり、土下座程度では許すつもりはないということか。ならば、仕方ない。レイは自分の恥ずかしい秘密をばらして、相手に優越感を持ってもらうことにした。
「そうか、土下座で許すつもりはない、か…。なら、サーシャ、心して聞け!今から俺の恥ずかしい秘密をばらすぞ!俺はな……童貞だ!!」
こういうものは変に恥ずかしがるとよけいに恥ずかしくなるものなのだ。レイは堂々と、それこそ、自分の最も誇るべきことのように胸を張りながら宣言した。
「…どう、てい?」
「ああ!童貞だ!二十九歳にして童貞だ!恥ずかしいだろ!爆笑していいぞ!ふひひひひ!」
しかし、それでも恥ずかしい。自分のテンションを右斜め上に持っていき、その後に、斜め左上に斬りこむように持っていかなければ、自殺しかねない。
「レイ…。んなこと教えても…」
サーシャの治療を終え、男の治療を開始しているバルドが呆れながら言う。
「お前も笑っていいぜ!てか、むしろ笑え!ひひひひひひ!」
レイはバルドの言葉は無視した。自分でも意味のわからないことを言っているのはわかっている。しかし、ここまで来ては、もはや止めれないのだ。
「どうてい、とは何だ?」
だが、サーシャの言葉でレイは止まった。バルドも止まった。
「な、に…?」
「だから、どうてい、とは何だ」
心底不思議そうに言うサーシャ。
レイは驚愕した。この女は童貞を知らないというのか。いや、自分に気を遣って知らない振りをしているのだろう。この年の女性がその単語を知らないはずがない。しかし、知らないという可能性も否定できない。これはもう少し生々しく言ってみる必要がある。
「セックスしたことがないって意味なんだけど…」
この言い方ならサーシャも顔を赤らめる等の行動をするだろう。
「せっくす?何だ、それは」
今度こそレイは心臓が止まるかと思った。そして確信した。この女は無垢すぎる。
「…いや、いい。何でもない」
レイは何だか複雑な気分だった。ほっとしたような、何というか。この身に宿る全ての勇気を総動員しての告白だったのだ。秘密を知られなかったという点では良かったが、今も持て余すこの勇気はどこに持っていけばいいのか。
「何でもないことではない。どうていとは何だ。せっくすとは何だ」
「無理!僕の口からは恥ずかしくて言えない!サーシャは知らなくていい!というよりサーシャはそのままでいて!」
恥ずかしげもなく、破廉恥な言葉を連呼するサーシャに、レイは自分がとてつもなくいやらしいことをしている気分になったので顔を赤らめた。
「バルドもそう思うよな!?サーシャはこのままでいいよな!?な!?」
そして困った時のバルドである。レイは必死だった。
「お、おう。俺もサーシャは知らなくていいし、そのままでいいと思うぞ」
「む、そうか。すっきりしないが、バルド殿がそう言うのなら仕方ない」
レイはサーシャの言葉に安堵の息を吐いた。自分が性犯罪者になったような気がしていたのだ。レイはここでようやく肩の力を抜いた。
「それから、レイ」
「な、何ですか!?」
しかし、サーシャに呼びかけられ、また体に緊張が走る。
「すまなかった」
サーシャは言いながら頭を下げる。
「…は?」
レイは呆けてしまった。まさかサーシャが頭を下げるとは思っていなかったのである。
「自分がどれほど弱い存在か思い知った。恐怖に打ち克つことすらできない子供だった。それを認めることが出来ないほど愚かだった。しかし、レイはそれを教えてくれた。感謝している」
「…」
そう言うサーシャは頭を下げたまま。
「それに今まで、レイに酷いことを言った。馬鹿にしていた。だから、すまなかった。出来れば、許してもらいたい」
サーシャは真摯に、心から告げる。頭を下げ、自分が悪かったのだ、と。
「いやいやいや!サーシャが謝る必要ないって!頭上げて、頭!」
サーシャはゆっくりと、恐る恐る頭を上げる。母親に怒られた子供が機嫌を伺うように。
「全然気にしてないから!あれくらい言われ慣れてるから!」
「本当に、気にしていないのか?」
「ホントホント。俺の心は鋼より硬いんだぜ」
本当に、調子が狂う。
「そうか…。ありがとう、レイ」
そう言うサーシャの顔は、咲き誇った花よりも美しかった。
「あれ?てか、さっきから俺のこと名前で呼んでね?」
レイは先程から何となく違和感を感じていたのだが、その理由がわからなかった。しかしサーシャの最後の言葉で、それに気付いた。今までサーシャは自分のことを、貴様、とか、お前、と呼んでいたのだ。それがレイに変わっていた。
「さっきからそう言っていただろう」
照れくさそうに視線をそらすサーシャ。レイはその仕草がおもしろかったので、からかってみることにした。「つーことは、俺のこと認めてくれたってこと?」
当然その顔はにやついていた。
「違う。私はレイのことを認めたわけではない。確かに貴様は強い。しかし、普段の態度がふざけすぎている。貴様はもっと真面目になるべきだ」
レイとしては顔を赤らめて、恥ずかしがることを期待していたのだが、説教をくらってしまった。しかも途中から呼び方が、貴様、に戻っていた。
「だいたいな、いつもへらへらしているからいけないのだ。そんなことでは、周囲の人間に、誤解されるに決まっているだろう」
サーシャのお小言は続く。
しかし、レイは小さく笑った。それでいい。サーシャと自分の関係はこれくらいが丁度いい。レイがふざけて、サーシャが怒って。この関係が好ましい。
風は音を立てて吹き、周囲の木々がざわめくように歌い、虫達は楽しそうに鳴く。レイは自然が奏でる音楽に耳を傾けながらサーシャのお小言を聞き流していた。