独り詩《ヒトリウタ》
もうすぐ朝7時を迎えようとしている住宅街。穏やかな朝日が目覚めだした家々を包む。深い、けれど心地よい静寂をガチャン、という自転車のスタンドを上げる音が破った。新しく買ったリュックを背負い直すと、神谷紘斗は思い切りペダルを踏み込んだ。顔にまだほんの少しひんやりとした風を受け、表には出さずとも清々しさに気分が上がる。紘斗は朝の道を走るのが好きだ。車も人もいない住宅街を走っていると、まるで世界を独占したような気分に浸れる。紘斗は地元の公立高校に通っている高校1年生だ。通学は自転車で片道20分ほどあるが、これが毎日のささやかな楽しみでもあるのでバスを使う気にはなれない。普段はまっすぐ学校に向かって他の生徒が来るまで静かな教室で趣味に没頭している。紘斗は小さい頃から作詞するのが好きだった。作詞と言っても曲を付けたり歌ってみたりもしないし、節を付けることすらしない。ただ思ったこと、感じたことを形を整えて書き綴っているだけだ。だが今日は無性に緑を見たくなり、少し回り道をして近くの公園に向かう。特別大きいわけでも面白い遊具があるわけでもないが、中にちょっとした林道があり、その中を走ると気持ちいいのだ。間もなく青々とした林が見えてきた。あえて回り込み、林に接している入り口から入る。さわさわという枝葉のそよぐ音、砂利道を走る振動、時折混じる虫や鳥の声。あまりのリラクゼーション効果に思わず吐息を漏らしそうになったその時、
「はあぁぁ~...」
不意に大きなため息が聞こえ、思わず自転車を止めた。もちろん今のは紘斗のものではない。見ると、すぐ側に設置されているベンチに人が座っていた。制服と身長から他の高校の生徒だと判断する。紘斗が声をかけるか無視をすべきか迷っていると、先に相手の男子生徒の方から話しかけられた。
「あ、ごめん。声大きかったよね」
「まあ、だいぶ」
紘斗はそこまで対人コミュニケーションが得意ではない。素っ気ない返事を返すと、相手は苦笑を漏らして言った。
「僕も人のこと言えないけど、ずいぶん早く行くんだね」
「人のいないこの静かな空気が好きだから」
「確かに。僕はこんなに早く出たのは初めてだけど、何か分かる気がするよ」
そう言って微笑んでみせる彼を見て、紘斗はああ、この人は自分と違う人種だなと思う。紘斗は世間話もそこそこに学校へ行こうと別れの挨拶を切りだそうとしたのだが、それより先に、ねえと呼び止められる。
「まだ時間ある?」
「まあ、あと50分くらいは」
「じゃあちょっと相談、というか愚痴を聞いてくれないかな」
そう言って彼は自分の隣をぽんぽんと叩いてみせる。紘斗は心の中で密かに嘆息した。こういう時、紘斗は相手の要求を断ることができないのだ。自分の性格に呆れながら、
「いいよ、それくらいなら」
とベンチに腰をおろす。彼はありがと、とお礼を言うと1つ深呼吸を挟んで話し始めた。
「僕には小さな頃から仲が良かった幼なじみが居たんだ。家も近くてよく一緒に遊んだりしてた。大きくなってからは学校では関わることも少なくなったけど、それでも放課後話さないことはなかった。」
そう語る彼の口元に浮かぶ笑みを見て、紘斗はああ、本当に仲良し同士だったのだろうと思う。何となくだが、雰囲気的にその幼なじみとは女子ではないだろうかという気がする。そんな紘斗の予想が正しかったことを続く彼の言葉が告げる。
「それで、その...僕は彼女を好ましく、思っていて」
顔を赤らめながらわざと遠回しな言い方をする姿に紘斗は思わず吹き出す。
「ちょっ、笑わないでよ」
「ご、ごめん。何か最初のイメージと違ったから」
紘斗が先を促すと、彼は拗ねたような表情をしながらも再び話し始めた。
「それで、高校生になったら彼女に気持ちを伝えようと思っていたんだけど、彼女の親が急に転勤になって。彼女も一緒に静岡に行っちゃったんだ」
「それでその子のことは諦めたの?」
「いや、まさか」
彼は首を左右に振ると目線を落として言った。
「向こうで誰かに先を越されるかもしれない。そうなる前に気持ちを伝えようと思った。でも...」
そこで紘斗は彼の困り果てたような顔を見た。
「ねえ、告白って電話とかアプリとかそんなものでしていいのかな?そういうのを使って僕の気持ちが軽いように見られたりするのが、怖くて」
彼は切実な目をして問いかけてきたが、当の紘斗の方は驚きのあまり固まってしまっていた。電話やアプリを使うと気持ちが軽く見られてしまうなどという発想は1度もしたことがなかった。紘斗たちの世代にとって、いつでもコミュニケーションがとれる端末があることは当たり前だった。事務的な連絡から友人との雑談まで何でもする、そういうものだ。そこに気持ちの重さなんて考えたことなんてない。でも、と紘斗は思う。彼は大切な人に大事なことを伝えようとしている。そしてそのことで一生懸命、真剣に悩んでいる。ならば自分もたかが一言と軽んじるわけにはいかない。
「そうだな...」
紘斗は考えた。考えて、ノートとシャーペンを取り出した。
「ちょっと待っててくれる?」
「え?う、うん」
彼は戸惑いながらも了承してくれた。紘斗はぎこちない微笑みで感謝の意を伝えると、筆を走らせだした。伝えたい。言葉の持つ力を、それがどんな形でも想いは色褪せないということを。紘斗は彼の真っ直ぐな恋心と自分の彼の背中を押したいという思いを言葉に乗せた。吟味し、練り上げ、詩を編み出していく。だんだんと気温が上がってきた頃紘斗はようやく詞を書き上げた。紘斗としてはだいぶ急いだほうだったが、彼は律儀に待っていてくれたようだ。
「あの、これ...読んでみて」
紘斗は申し訳なさ半分恥ずかしさ半分でおずおずとノートを差し出した。彼はノートの文字を読むと目を見開いた。
「これって...」
「これは僕の意見だけど、僕はそんなことはないと思う。電話だから言葉の重みがなくなるってこともないし、逆に直接伝えたらそれでいいってものでもない。大切なのはきっと、どれだけ気持ちを込めるかじゃないかな」
ノートに目を落とす彼に向かって話し続ける。どうか彼が行くべき道を見つけられるようにと、願って。
「どれだけその子のことを大事に思っているか、それを誠実に言葉に乗せればきっと想いは届く。僕はそう思う」
彼は黙って紘斗の言葉を聞いていたが、噛み締めるような間の後言った。
「そうか、僕の想い...そうだよね君の言う通りだ。」
彼は梢を仰ぐようにして言う。
「僕は彼女が好きだ。その気持ちには迷いも曇りもない。」
彼は憑き物が落ちたような顔で笑った。
「ありがとう、君のおかげで吹っ切れたよ。今日の放課後、電話で想いを伝えてみる。自分の気持ちを正直に言葉に乗せて」
「うん、頑張って」
そこでふと紘斗は疑問を口にする。
「ねえ、どうして僕にその話をしようと思ったの?」
「さあ、どうしてだろうね...朝早くにこんな所に来る人なら聞いてくれるかもしれないと思ったから、かな」
彼はベンチから立ち上がると放るようにリュックを背負った。
「すっかりこんな時間になっちゃったね。もう行くよ。もし振られたら、またここで慰めてね」
「...考えておく」
紘斗の返事にあはは、と笑うと彼は歩き出した。だが、少し行った所で立ち止まって振り返ると言った。
「君の詩、とても素敵だったよ」
その日の放課後、紘斗は家の自室で朝書いた詞を見返していた。誰かの感情を詩にしたのも、それを誰かに見せたのも初めてのことだったが、不思議と充足感に満ちていた。今一度ノートに目を落とす。
明け方の午前4時 今日も目が覚めてしまった
自由の翼捥がれて あの日々に想いを馳せる
あの雨 あの部屋 あの夕焼け
いつだって君が側に居た
知らぬ間に季節は流れて 僕の心はあの日のまま
腕を伸ばせば掴めた君の手が
今は こんなに遠くに
もし叶うなら今君がどんな夢を
見て いるのか知りたい
I left my heart behind at that time
I still love you...
昼下がりの公園 通り過ぎる子供たち
昔君と来た時は もっと美しかったはずなのに
あの声 あの髪 あの瞳
いつだって君は笑顔だった
新たな1歩を踏み出せず 僕の心はあの日のまま
腕を伸ばせば触れた君の頬が
今は こんなに遠くに
もし叶うなら今君が何を
感じて いるのか知りたい
I left my heart behind at that time
I still love you...
腕を伸ばせば掴めた君の手が
今は こんなに遠くに
もし叶うなら今君がどんな夢を
見て いるのか知りたい
腕を伸ばさず握りしめた僕の手も
今は こんなに大きく
もし叶うならあの日飲み込んだ
この言葉 伝えさせてほしい
I left my heart behind at that time
I still love you...
I only love you...
紘斗は朝付けていなかった題名を書き加える。詩の名は「Thing Left Behind 止まったままの時計」。紘斗はノートを閉じると部屋の電気を消した。