予兆
「綺麗な子だなぁ」
そう呟いた時、彼女がこちらを見た。確実に目が合っている。聞こえているはずはない。声に出ているか怪しいくらいの声量だった。それなのにこちらをみて、その端正な顔で、ガラス玉のような目でこちらを見ている。しかし何かが変だった。あの時見た彼女と何か違う。
彼女がふっと微笑んだ時、となりは初めて自分の足が止まっていることに気が付いた。慌てて歩き出す。もう横は見なかった。
電気の消えた教室に入り、水筒を手に取る。しかしうまく指に力が入らず落としてしまう。微かに震える指先を押さえつけるように左手を被せ、力をこめた。
校舎内から逃げるように外に出て皆と合流した。
もうとっくに授業を始めていた。そっと人の影に入り込み、いろはの隣へ立った。
「おそーい。」
不服そうに頬を膨らます。あざとい。他の女子がやっても何も感じないがいろはだけは特別だ。
「ごめん、観葉植物に見とれてた」
「そんな感受性豊かだったか!?」
あはは、と笑いながらも頭からは彼女が離れない。神様の全力を注いだように整った顔。消えそうなのに強く居る。まるで錯覚のような違和感を感じさせる人。
…でもたったそれだけだ。またきっと忘れるだろう。
私は部活にも入っていないのだから、関わる機会は万が一にもない。
そう考えたら今まで気にかかっていたのが馬鹿らしくなった。なんだ、それだけじゃないか。何をそんなに気にするのか。考えるのをやめよう。
「…り」
「となりってばぁ!」
「あ?」
「あ?じゃないよもう」
「もう皆帰ってるよ?」
「あぁ…うん」
確かに周りを見渡せばいろはととなり以外もう誰もいない。おかしい。たしか体育までは受けた。いや、ここに座っているということは、他の教科も受けたんだろうか。
「いろは、私は頭打ったりしてた?」
「…かもね。」
意味がわからない、というふうに目を逸らし、ため息をついていた。やっぱりかわいい。
「いろはは可愛いね。」
「んもう、いくよ!」
気にしてない風に荷物を持ち直して歩き出すが、その耳が赤く染まっている。照れてる。からかおうかと思ったが、やめておこう。
廊下に出ると、赤い西日が差していてオレンジ世界。まだ部活は始まっていないので、残っている生徒と言えばいろはととなりくらいだ。よく響く廊下に聞こえる話し声は2人だけ。あたたかく穏やかな時間がゆっくり流れていた。
「夏木先輩。」
この声が聞こえるまでは。