束の間の日常に増えた幸福
一章ラスト。
それは、曇天が過ぎ去った晴れ晴れしい放課後のこと。
ある者は部活動に勤しみ、ある者はそそくさと帰路につき、ある者は校舎内で駄弁り、またある者は学院併設の教会をたまり場にし、各々の時間を過ごす平和な放課後。
いつもなら静かな空気を醸す教会も、今日に限ってはきゃいきゃいと黄色い声が絶え間なく上がっていた。
曰く、可愛い。
曰く、持ち帰りたい。
曰く、妹にしたい。
初等部、中等部、高等学部、大学部の女性とたちが入り交じり、全ての人間が、同じ目的のものを思うがままに愛でていた。
「や、やめなさいよっ、そんなとこ、触んないでっ……」
思うがままに身体をイジられる、十歳前後であろう綺麗なツインテストロベリーブロンドの少女が、涙目になって数々の手を払い除けようと頑張っていた。
「シスター! この子、本当にシスターの妹なのですか!?」
「ええ、そうですよ」
「……本物の姉妹。う、羨ましい」
「頭撫でるな、お尻触るな、尻尾撫で回すなー!」
「きゃ、可愛い」
「この尻尾、不思議な感触。ねぇどこで買ったか教えてくださらない?」
「それにしても、どうやって着けていらっしゃるの? いや、お尻をガードしてる時点で気付いているんですけど……その、そう! 後学のために是非! 拝見させていただきたいのですが!」
「いいからやめろーっっっ!」
とうとうストレスが爆発したのか、ツインテールをぶおんぶおんと荒立て、少女は憤慨した。何故か一緒に憤慨する尻尾については誰も触れない。アレは何か、お尻の筋肉とかそんな関係でそういう風に動いているのだと、皆勘違いし、顔を赤らめていた。
「レヴィ。遊んでないで仕事をしてください」
教会に搬入される日用品を運ぶフランチェスカが、流し目を向ける。
呼ばれた通り、彼女の名はレヴィ。
数時間前までフランチェスカたちと殺し合いをしていた、色欲の悪魔そのものである。
「これが遊んでるように見えんの? なに? 老眼?」
「……何か?」
「イエ、ナンデモナイデス。オシゴトオシゴト」
フランチェスカの全く笑っていない笑顔に寒気を感じたレヴィは、足早に教会の扉を抜けて外に出て行く。
「まったく」
なぜ彼女が〝レヴィ〟と呼ばれているのか、そもそも何故生きているのか。
それを説明するには、あの決着の後まで時間を巻き戻さなければならないだろう。
◇
――ドパンッ!
曇天が覆う空の下、一発の銃声が轟き、レヴィの心臓を穿った。
「あ……かはっ」
肺の空気を全て吐き出し、尚も空気を取り込もうと喘ぐ姿は、もはや人とは呼べなかった。
生に執着し、生を渇望するその姿は、悪魔とも呼べなかった。
半端者。
彼女がレヴィとして生を受け、最初に押された烙印だ。
半端者故に身体を弄くられ、半端者故に何者にもなれず、ただ流された。
権能を移植されようとも、彼女はただ欲していた。
ありふれた〝普通〟を。
「わた、しは……あきらめない……」
けれど、彼女に与えられたのは、普通は愚か特別をも通り越した、超越だった。
「渇望、し続ける」
レヴィが腕に残る力で上体を起こし、フランチェスカを見上げる。
朽ち逝く身体で、敵意を剥き出しにした表情で、レヴィは嗤ってみせる。
「行き先が……地獄の、底であろうとも」
何もかも悟った顔は、敵意とは別の感情も宿っている気がした。
悪魔が死の淵で悟る感情に興味など無いフランチェスカだが、こと目の前の悪魔にだけは興味を示した。身体を弄くられ、悪魔にされようと、たった一人の肉親である彼女に。
「……でも、これがある意味普通なのかな? 生物として、全てに訪れる概念である死が私に迫っている。……最初の普通を与えてくれて、ありがとう」
レヴィが死の淵で発露した感情、それは感謝だった。
自らの最後を悟ったレヴィは、人間として、アンナ・サルバトーレとして、シスター・フランチェスカ・サルバトーレに感謝した。
「バイバイ、お姉ちゃん」
「貴方は、もう立派に人間です。人を慮り、感謝という感情がある貴方は」
フランチェスカはレヴィに優しく抱擁する。
ただただ無償の愛情を込めて。
「あははっ、悪く、ないかな……」
一筋の涙がフランチェスカの肩に落ち、レヴィの身体が強く発光する。
「お別れ、かな。もし生まれ変われるのなら、今度こそお姉ちゃんの側にいたいな」
「ええ、存分に扱き使ってあげましょう。私の教会で」
「楽しみだな。そんな未来が来ることを願ってるよ」
その言葉を皮切りに、レヴィに纏っていた光が弾けた。
悪魔の命の散り際にしては綺麗で幻想的な光景。悶えていた巴ですら口を紡ぎ、その光景を見入るように見ていた。
ゆっくり、ゆっくりと光が収束していき、やがて曇天と共にどこかへ散っていった。
「……あれ?」
間抜けな声が、晴れ間と共に訪れた。
声を発したのは、綺麗なストロベリーブロンドを垂らした、十歳前後の少女。
「……生きてる?」
自分の身体を見下ろし、手をぐっぱぐっぱして、感覚があることを確かめる。ペタペタと自分の胸を触って少し落ち込む。
「何を不思議そうにしているのですか?」
「……だって、お姉ちゃん! 生きてるんだよ……? 銀の弾丸で心臓を打ち抜かれて、私、消滅したはずなのに」
「私が撃ったのは心臓ではなく、心臓にとりついていた権能だけですよ?」
「……は?」
フランチェスカは、この戦闘を振り返って話すことにした。
まず最初に飲ませた聖水は、悪魔を滅するためのものでは無く、フランチェスカの目とリンクしてその身体を透過させるものだ。これによって権能の位置を正確にした。
その後の戦闘を殆ど巴に任せたのは、精神を研ぎ澄ませて銀の弾丸に聖のオーラを宿すため。もともと聖の性質を持つ銀の弾丸は、聖のオーラを注ぐことでその威力を底上げすることが出来る。
そして真名を言葉にして告げることで、動きを止める。
悪魔という存在は、名前を呼ばれる存在になることを恐れ、その真名をひた隠す。フランチェスカがアンナという名前を知れたのは、小さな偶然が積み重なった必然だ。
最後に動きが止まったレヴィの心臓にとりついた権能を撃ち抜く。
「以上。レヴィ、何か質問は」
「……なんで私生きてんの?」
「話を聞いていましたか? 話を聞かない子はメッですよ」
「いやいやいや、さっきの説明だと、権能を狙い撃ちしたとはいえ、銀の弾丸は私の身体を貫いたんでしょ? 身体にダメージがないのはおかしいじゃん」
「名を持つ悪魔に銀の弾丸なんて通じませんよ。それこそ心臓を打ち抜かない限り」
「腕飛ばされたのは?」
「権能を打ち抜いたときと同じ、聖のオーラを纏わせた弾丸だからです。繊細なオーラの操作ができないのでアクセルべた踏みですが、威力だけは高いでしょう?」
「羽も飛ばされたけど……」
「……五月蠅いですよ? アンナ」
「ひぎっ」
途中で面倒くさくなったフランチェスカが真名を言うと、レヴィは蹲った。
「権能を取り除いたところで悪魔であることに変わりありませんか。まあいいでしょう。私の下で働かせている内に徐々に浄化されていくでしょう」
「は、働くなんて聞いてない」
「扱き使う。そう言ったはずですが?」
「この姉嫌い!」
「何か? アン――」
「――分かったから! 名前呼ばないでぇっ!」
もうすっかり名前を呼ばれる恐怖を植え付けられたのか、レヴィはお腹を押さえていやいやと首を振っている。
「あら、終わったの?」
「あらあら、あなたは確か……」
下級悪魔に追われて撤退した筈のハシナウウクカムイがふわりと降り立ち、フランチェスカ、レヴィ、そして巴へと目を向ける。
「天狗は死んだのね。いろいろ聞きたいことはあるけれど、巴御前はなぜ寝たきりなの?」
「えっと……お構いなく……」
巴は目を逸らして追求を逃れようとする。
が、レヴィの目がキラリと光る。
「あの子、今感度ビンビンなのよ! ほら、足が痺れて動けない感じ。アレが全身を襲って、身を捩っても訪れるのは深い快感! あの子今動いたらぜっちょ――」
「――アンナ。お巫山戯はよしなさい」
「――ひぎぃ! ご、ごめんなさい……」
ふむ、と喉を鳴らしたハシナウウクカムイの目がキラリと光った。
「つまりつまりつまり!? 巴御前はもしかして、発情状態!?」
ビクッと巴の身体が揺れた。快感によるものでは無く、恐怖とか狩られる側の身震い的な意味で。
「そう! これは正に、常時、絶頂状態!」
「それは素敵! 今こそ、くんずほぐれつの痴態をぉぉっ!」
「や、やめろーっ」
巴が泣き叫んだ。狩りの女神は性格がドSらしい。というか、割と性におおらかな性格らしい。絡み合い嬌声を上げる二人を尻目に、フランチェスカは溜息を吐いた。
「合意の上でほどほどにするのなら、私は止めません」
「お姉ちゃん、面倒になっただけでしょ。そこはシスターとして止めないと」
「いえ、私は貴方の教育で手一杯なので」
「あれ、これ、やばいやつ……」
「しっかりと貴方を矯正して差し上げます。貞淑な淑女へと」
「や、やめろーっ」
「減点。言葉遣いも、ですね」
「いやーっ!」
性質の違う二人の悲鳴は、塔の頂上から大きく響いた。
正気に戻った人達がびくっとしたが、意識が混濁していたせいか、今まで自分がなにをしていたかという記憶を取り戻すことに躍起になり、響く声を覚えている者などいなかった。
◇
そんなこんなで時を戻して、教会。
激しい戦いから英気を休めることなく、フランチェスカは働き詰めていた。
「で? フランお姉様。仕事って言っても私はなにをすれば言いわけ?」
「教会の雑務ですね。まずは着替えましょうか。レヴィ用の服も来ましたし」
「服って、シスター服だよね? あんまり可愛くない」
「貴方は露出していたいだけでしょう?」
「人を露出魔みたいに……。まあその通りなんだけどさ」
権能を破壊したとはいえ、レヴィは心の底からサキュバスなのだ。
死にはしないだろうが、性を抑え続けるとどこかで暴発し、重度の発情を負うかもしれないと、連れ帰るときに聞かされた。
「まあ、文句は来てみてから受け付けましょうか」
「……? まあ着るけどさ」
更衣室……というか、レヴィにあてがった客室の一つに入り、出てきた。
フランチェスカと同じく、耐弾、耐刃性能の紺色シスター服というのには変わりはないが、細部には職人の細かい変更が施されている。
首は鎖骨が見える程度に開かれており、尻尾と翼の穴が開けられて、下半身には太腿を大きく晒すスリットが深く刻まれている。そしてアドリブなのかウィンプルには可愛らしい猫耳が着けられている。多分職人は日本人だ。いや、なんとなくだが。
「うん、これはこれでいいんじゃない? 少なくとも、フランお姉様のよりかは可愛いし」
「似合ってますが、少々露出が過ぎませんか?」
「柔軟な思考で受け止めてよ。サキュバスが発情して周囲に色香を撒き散らさない最低限って感じなんだから。……って言っても身体のラインぴったりなのは気持ち悪いけど。作ったの誰?」
ひらりとその場でターンして、シスター服の裾を翻すと、惜しげも無く、未熟ではあるものの、綺麗で傷一つ無い玉の肌の脚が晒される。キラリと決めポーズを取る姿なんかは、独特な衣装のアイドルのような風貌だ。
「……あまり激しく動かないように。下品です」
「そお? この学校女子校なんでしょ? じゃあべつにいいんじゃない?」
「それはそれ、これはこれ、です」
「まあ私も有象無象に見せびらかすつもりはないけど、純朴な男子が立ち上がれなくなるような自体にはならないからいいんじゃない? あ、勃ちあがるかもしれないけど」
「アンナ?」
「ひぎぃッ! じょ、冗談だってば。すて~い、お姉様、すて~い」
「はぁ……貴方という妹は……」
心労が増えた、と言わんばかりにフランチェスカは額に手を当て、くらりとした。
その後、その格好で教会に降りたレヴィは年上年下に係わらず愛でられ撫でられ、散々おもちゃにされながらも雑務を行い、日が暮れた頃、疲れ切った表情でフランチェスカの部屋を訪れた。
「なに、話って。流石に疲れたんだけど」
「いいから座りなさい」
「……言っておくけど、他の大罪の悪魔の居場所なんて分からないよ?」
「……そうですか」
シュンとしたフランチェスカを見て、レヴィが繕うように付け足した。
「でも、寄ってくるんじゃないかな」
「はい? それは、なぜ?」
「悪魔になったら分かるんだけど、悪魔って言うのはさ、強い波長に惹かれるんだよね。下級悪魔が上級悪魔に群れるように、強い波長に屈服するように出来てるわけ。で、今日の戦いで一瞬とはいえ、強化された私の権能を解き放ったわけだから、屈服しないまでも引き寄せられて、近くに来てる可能性は高いよ」
「つまり、大罪の悪魔と戦闘する度に……」
「うん。誘蛾灯の如く引き寄せられて、近くまで来るんじゃないかな」
「そうですか」
正直このままでは藁山の針だった。その情報を得ただけでも上々だろう。
次なる大悪魔との死闘は意外と近くに起こるかも知れないと、気合いを入れると同時に少し不安でもあった。
レヴィとの戦いに勝てたのは、偶然が重なった結果と言っていい。
結果だけ見ればフランチェスカはほぼ無傷で、巴の傷も大事には至っていない。それなりに楽な勝利だと言えるだろう。
それだけ、真名の判別は大悪魔との戦いにおいて、非常に重要な物になってくる。
アンナという名前が知れたのは、そもそもお腹の中にいた頃の彼女を視ていて、そして名付けたのがフランチェスカ自身だという偶然のおかげだ。最初に魂に刻まれた名前は、例え肉体が改変されようとも消えるものでは無い。
悪魔と人間は表裏一体。悪魔は人間にはなり得ないが、人間が悪魔になった事例は多々ある。エクソシストとしてそういう連中と対峙した事も一度や二度ではない。
真名を知らなければ勝てない。そんな風になってしまっては、元も子もない。
「修行というものをしてみましょうか」
「修行? 滝に打たれるやつ?」
「違いますよ。聖のオーラをコントロールする。そうしなければ、これから襲ってくる大罪の悪魔たちには敵わないでしょう」
「それ、私が噛ませ犬っぽくなってるんだけど」
むすっと唇を尖らせるレヴィはツインテールを振り乱して憤慨したが、次の瞬間には大口を開けて欠伸をした。
「ああ、そろそろ寝ましょうか。明日に響いてはいけません」
「うん。流石に疲れた」
振り返って扉に向かうレヴィの背中を、フランチェスカは呼び止めた。
「あ、レヴィ」
「んあ? なに?」
「おやすみなさい」
「……うん、おやすみ。フランお姉ちゃん」
扉は閉められ、森閑になる室内で、フランチェスカは衣服を脱いだ。
ベッドに転がり、軋む音を無視して天井を仰ぐ。
「ふふ、おやすみ、ですか」
どこか嬉しそうな彼女の微笑みを知る者はいないが、唯一、レヴィだけは、裸になってベッドに転がった後、お姉ちゃんもそう思っているのではないかと微笑みながら、微睡みに身を投じた。
家族を失ったはずの生き別れた姉妹は、再開し、同じ時を刻み始める。
あるいはそれが、運命的に噛み合う歯車であると言わんばかりに。
二人は噛み締めた。
変わってしまっても、断ち切ることなど出来ない〝家族〟という名の幸福を。