彼女らの矜持
聖クオーレ女学院、本校舎一階。保健室。
気を失った巴とともにタクシーで帰ってきたフランチェスカは、病院では無く学院の施設に巴を運び込んでいた。
「あのなぁ、シスター。私は養護教諭であって医者ではないのだよ?」
溜息交じりに頭を掻く白衣の女性。
如月きらら。本名で自己紹介をすると確定で笑われていた過去を持つ本校の養護教諭。つまりは保健室の先生。下の名前で呼ぶと怒る。それはもう凄い剣幕で怒る。
それ故なのか、女の色香など知るかと言わんばかりに隈が残る鋭い目は、笑う者を射殺さんばかりに研ぎ澄まされており、ぼさっとした亜麻色の髪の毛は手入れなど不要とばかりに縦横無尽に跳ね上がっている。目鼻立ちは整っているのにどこか幼さを感じさせるのは、日本人特有の顔立ちだ。
そして、身体は豊満というよりかは、引き締まらなくてもいい場所まで引き締まっていて、かなりスレンダーだ。彼女曰く、昔はもっと太っていたが、ストレスと疲労で痩せてしまったらしい。
「ええ、存じております。勿論、特殊な経歴があることも」
「……理事長か。全くあの人は、人の秘密を守ろうとしたことなんて無いんじゃないかと思うことがある」
「信頼されている証拠なのではないですか?」
「信頼、ね。あの腹の底では何を考えているか分からないような男が、人に信頼するとは思えんがね。強いて言うならシスターの、職務への信頼だろう」
「私への?」
「ああ、秘密は漏らさないと信頼された上での暴露。必要なものは使えと言わんばかりのな。実際、懺悔を聞く経験も大いにあるのだろう? 私は、今回もその延長だと思っている」
そう言うと、きらr……如月は一つのベッドに視線を落とす。
ベッドの上には横たわった巴が包帯を巻かれて、今なお眠り続けていた。
「全く、どんなやんちゃをしたらこうなるんだか。左腕と右足、肋骨数本、複雑骨折。出血自体は少ないが、身体中の打ち身や打撲。この設備では綺麗に治るとは限らんぞ」
「では、病院に運んだ方がよろしかったですか?」
「……はぁ、それもなぁ。問題はあるだろうなぁ」
如月は掛け布団を捲りあげると、改めて巴の身体を見た。
全身傷だらけ。鞭で打たれたかのような傷跡や、焼きごてでも押し当てられたのかと思わせる火傷の跡。獣の歯形。その他にも裂傷、擦り傷、嫌な形の痣などまでエトセトラだ。
齢一七歳の少女の身体とは思えないほどに、生々しい戦闘を思わせる傷を帯びていた。
「まともな医者なら、虐待やいじめや体罰を想像するんじゃないか? 警察にも話すだろうし、この子の家のことを考えれば、最悪この子の命に関わる厄介なことになるのは想像に難くない。ここに運んでくれたことは感謝するよ、シスター」
「では、やはり」
「もう隠すこともないだろう。現代に生きるファンタジー。陰陽師の出身だ」
フランチェスカにとって、この異常な世界が現実である以上ファンタジーなどではないが、現実に生きるきらr……如月にとってはこれ以上ないファンタジーだろう。如月の目にも見える、巴の側について離れない赤狐がそれを物語っている。
「この職に就く前、特殊な子が来るかもしれないと言われてはいた。だが、せいぜい年端もいかぬ特殊部隊の工作員だとか、幼い頃から暗殺の訓練を受けてきた殺ししか知らない少女だとか、既に鬼籍に入っているはずの少女だとか、そんな風に思っていたんだが、これは何というか、ぶっ飛んだよ。現実と創作が分からなくなってきた」
きらr……如月の想像もかなりぶっ飛んで入るが、そこにツッコミを入れようとはしない。
ただ、そういう子たちを本当に見てきたのかは確かめたくなった。
「きら……如月先生は」
「呼びにくそうだな。下の名前意外だったら呼び方など何でも構わんよ」
「では、キラキラは」
「おい! キラキラはやめろ!」
「先程は何でも良いと……」
「常識の範囲内で、だ」
「ではキラリン……」
「シスターの常識的に、キラリンは普通なのか!?」
「……ぎりぎりアウト、ですかね」
「アウトじゃないか!」
フランチェスカとキラリンがコントのようなやり取りをしていると、ベッドの巴が「うぅ」と嗚咽を漏らした。起きたわけではないようだが、周りの影響で寝づらくなってしまったのかも知れない。
「自分ら、仲いいのは結構なんやが、ここは病室で病人がおんねんで。静かにせーや」
「あ、ああ、すまない。……狐に怒られた」
赤狐に怒られてキラリンはシュンとした。勝ち気な性格、というか豪胆で何も気にしなさそうな性格だが、ファンタジー相手に豪胆になるにはまだまだ慣れが必要らしい。
「ところでキラキラさん。先程の話に戻りますが」
「……はぁ、もういい。なんだ、何の話だ」
キラキラ呼びを受け入れたキラリン改めキラキラは、どうにでもなれとばかりに腕を組んでシスターの言葉を待った。
「先程の特殊な少女の話というのは実体験なのですか?」
「気にするのか? そこを。……まあ事実だ。私が軍にいた時代、そんな子たちと言葉を交わしたことがある。ほんの少し選択を変えていれば、助けられた命だった。少女兵のアマンダ、テロ組織に自分を売った少女ポリーナ、両親に死を偽装されて帰る場所も生きることさえも許されなくなった少女香織。誰も死ぬ事なんてなかったのに、助けられなかった」
震える手で、キラキラはたばこを取り出し、慣れた手つきで口に運んで火を付ける。……が、フランチェスカがそれを阻止した。
「校内は禁煙ですよ? 我慢出来ないのであれば、喫煙所に行かれてはどうですか? この子は私が見ておきますから」
「……はぁ、すまないな。少し外す」
重い足取りで部屋を後にしたキラキラを見送った後、赤狐が白けた眼で問いかけてきた。
「思ったより重い話で焦った、みたいな顔してるで、自分」
「いえいえ、そんなことは。まあでも、しばらくは帰ってこないでしょう。これなら心置きなく話せますね? 巴さん」
「……気付いていたんですね」
巴はパチッと目を開くと、スッと上体を起こした。赤狐がすかさず背に回り込み、即席のリクライニングシートを完成させる。つくづく出来たワンちゃんだと感心した。
自分の身体を見下ろした巴は、不思議そうに、巻かれた包帯などの治療された跡を見て、戸惑いがちに笑った。
「はは、こんな手厚く治療されたのは初めてです」
「女の子の肌は大切にしないといけませんよ」
「いいんです。どうせこの肌を見る人なんていないんですから。それに、ボクのこの傷は、この子たちの繋がりでもあるので、完治させるわけにもいきませんから」
「すまん、お嬢」
「君が謝ることじゃないよ、赤狐。これはボクに与えられた恩恵で、ボクが唯一誇れる物だ」
完治させるわけにはいかないとはどういうことか。そう聞こうとしたフランチェスカの言葉を遮って、巴は自分から理由を語り始めた。
「ボクたち陰陽師は、五歳を迎えると神様から術が配られます。ボクの術は、怪異やあやかしから受けた傷を身体に宿すことで、その者と心を通わせることが出来る“傷の絆”といいます。ちなみにこの噛み傷が赤狐のものです」
チラリと横腹にくっきりと残る噛み傷を指して、巴ははにかむ。赤狐はあまり思い出したくないことなのか、そっぽを向きながら項垂れている。
「仕方がないこととはいえ、身体に傷を作るのは女性として抵抗がありませんか?」
「最初は、そうでした。痛いだけだし、幼心でも、ボクの肌に傷が増えていくのは少々堪えてました。でも、歳と傷を重ねている内に、人に見られて恥ずかしい身体というより、この子たちとの絆が感じられる素敵な縁だと思えるようになっていました」
痛々しく生々しい傷の数に反して、巴はとても晴れやかな笑みを浮かべていた。
その表情を見て、フランチェスカも心が軽くなった気持ちになり、立ち上がって紙コップに紅茶を注いでいった。
「カップではないので格好は付きませんが、ティーブレイクといたしましょう」
「あ、ありがとうございます」
紙コップに口を付けたフランチェスカは、いつもよりも雑味が多い味わいに苦笑いを浮かべつつ、独り言ちるように共感した。
「なるほど、陰陽師の術は、私達エクソシストと通ずるものがありますね」
「というと?」
「人はこの世に生を受けた瞬間から、聖か穢れのオーラを分け与えられます。悪い意味でも差別的な発言でもありません。そして、穢れのオーラが多ければ多いほど、悪魔や怪異との親和性が高くなり、より鮮明に視えるようになる」
「要するに、生まれた時点で適性がある程度決まっているということですよね?」
「その通り。訓練などで押さえ込むことも出来ますし、高めることも出来る。一般的なシスターたちには、悪魔の類いは感知出来ません。それは、生来の聖のオーラを伸ばすか、穢れのオーラを押さえ込んでいるからです」
「では何故、シスターにはボクの式神や赤狐や、あの悪魔が視えていたんです?」
勿論、一般的なシスターに当てはまらないからだが、巴には特に濁す必要も無いため、ありのままを話すことにした。一度紅茶で喉を潤し、やや渋い味わいを舌で楽しみながら話し始める。
「それは私の眼が特別だから、としか言えませんね」
「眼、ですか?」
一度瞬きをして、しっかり、ハッキリと、目を開けた。
金色の、濁り一つ無い綺麗な瞳。見る者を惹き付ける、色欲の悪魔とは違った魅力を感じさせる力強い眼だ。目は口ほどにものを言う、と言うが、彼女の瞳は静謐で、その眼差しだけが歴戦の勇士を物語っていた。
ごくり、と無意識のままに巴が唾を飲む。
背後の赤狐も、「おぉ、こわ」と誰にも聞こえぬように独り言ちた。
「この瞳で、いろいろなものを視てきました。数多くの人の死も、それを凌駕するほどに多い悪魔たちの死に際も。主が何故この目を私に与えたのかは分かりかねますが、見て見ぬ振りをするな。そう言われた気がしてならないのです」
「……辛くなることはありませんか? 人とは違うものが視え、忌諱されることが」
巴とて年頃の女の子だ。傷のことや使命を受け入れていても、心のどこかでは普通の少女でいたいと思っているのが本音なのだろう。
普段弱音を吐かないと自負している巴ですら、口にしてから驚いた感情の吐露。それは巴に宿る穢れのオーラが、フランチェスカの聖のオーラに触れた影響か、全てを包み込んでくれる母のような存在に甘え、溺れたかっただけであろうか。
「辛いですよ。私とて、この瞳がなければ視なくていいものを視ずに済んだのですから。主は、ただ現実を突きつけてくる神様は、残酷で誰よりも慈悲がないのかもしれませんね」
普通の生活。それは望むべくも無い。どれだけ羨望し、焦がれ、枯れ果てても蘇る欲求を求めても、既に少女ではない彼女は、皮肉なことに、見えすぎる瞳でどうしても現実を視てしまう。
「ではなぜ、闘うのですか?」
「……神の信徒として、人として、愚かな行為とは分かっていますが、あえて言いましょう。これは復讐です。私から生活も、誇りも、幸せも、温もりも、夢も、無垢を構成していた全てを奪った彼の者たちへの復讐なのです」
五歳の誕生日。
全てが崩壊した瞬間を、一度たりとも、一瞬たりとも忘れたことはない。
褒められた動機ではないだろう。ともすれば咎められ、諭されるような動機だろう。それでもあの日の後悔が、フランチェスカの退路を断ち、強くなることを余儀なくした。闘うことを強制した。
そう、闘わなければ。そして、救わなければ。
「紅茶が冷めてしまいましたね。淹れ直しましょう」
自身の気分を転換するために、フランチェスカは一度立ち上がって紅茶を淹れ直す。余計な雑念が口から出ていったせいか、今度の紅茶には、渋みがなく、いつも淹れるものとは比べるべくもないのだが、それでも、美味しいと思わせた。
人と話すと楽になるとは、真っ事正しいことなのだろう。
「退かぬ、媚びぬ、省みぬ。シスターに逃走はあっても、敗北など決して無いのです」
「……シスター、日本のサブカルチャーにどっぷりと浸かってません?」
「ふふっ、日本の友人が教えてくれましたから」
どこぞの帝王のような事を口にしながら微笑む彼女の笑顔は、とても晴れやかだった。
反して、巴の表情は酷く硬く、ともすれば絶望と言い換えて差し支えない表情だった。
「……シスター。アレに勝てますか」
やがて、重々しく呟くように訊いてきた。
「ええ、勝てますとも」
一切の迷いもなく、淡々と答える。
「何故言い切れるんですか?」
追いすがるように再び訊いてくる。
「まだ死んでいないからです」
事実を事実のままに、ただ答える。
「でも、負けました」
至言だ。少なくとも、巴にとっては。
「考え方の相違ですね。私は逃げたのであって、負けたわけではありません」
フランチェスカはただ、価値観の違いだと、矜持の違いだと告げる。
「では逃げたのは何故ですか? 負けたからではないのですか?」
逃げたのだから、矜持など、プライドなどかなぐり捨てているのではないかと詰め寄る。
「私は、人生で一度しか負けませんよ。私にとって敗北とは、死ぬことですから」
これもまた矜持。これもまた誇り。
生涯において負けはないと言ってのける剛気は、師に叩き込まれた不屈の意志。
戦闘で戦略的な撤退はあれど、生き方において一歩も退く気はない。在り方において、一切の妥協など、考えるべくもない。
「私は、色欲の悪魔を倒します。貴方は、着いてきますか?」
「ボクは役に立ちませんよ。ボクの技は、ボクの術は通用しない。そんなことは分かっているんです。奴の気まぐれで人生を狂わされそうな友人さえ、ボクには救えない」
「ではただ見ていなさい。子どもは護られて斯くあるべきです」
責めているわけでもなければ、煽ってやる気を引き出そうとしているわけでもない。
自分をやれる人間だと思い込むのは大事だが、早死にの原因だ。
自分の臆病さを誇れるようになって一人前なのだと、フランチェスカは思っている。
故に、この言葉は善意から出た言葉だ。臆病を嘲る者こそ、危機を見抜けず、知らぬうちに堕ちるところまで堕ちてしまっている事がある。
「では、次に備えて準備をします。何かあれば、遠慮無く教会にいらしてくださいね。今度は、話を聞いて差し上げますから」
フランチェスカは立ち上がり、部屋を後にするが、扉に手を掛ける前に扉が開かれた。
「おおっと、どこに行くのかね?」
「目が覚めたようですし、そろそろおいとましようかと」
「そうか。ではな。また来たまえ」
「ええ、失礼致します」
フランチェスカの目算では、今のままでも勝率は七割と言ったところ。これを十割にする妙手でもないものかと思慮を巡らせながら、軽い足取りで教会へと帰るのだった。
◇
「今日はもう遅いし、帰るか? 帰るのが億劫だというのなら泊まっても構わんが、顎でコキ使うぞ。薄給な上に深夜労働なぞやってられんからな」
「帰ります」
「それが賢明だ」
保健室から追い出され、もとい、締め出され、もとい、つまみ出され、……とかく部屋から出て、既に暗くなった道を、巴は歩いていた。
「いいんか、お嬢。言わせたまんまで」
「ボクには分からないよ。人なんて軽く凌駕、いや、超越していると言っていい存在に敵う訳なんてないのに」
「……ふん、腑抜けたな、お嬢よ」
赤狐は呆れたかのような声音で呟いた。
「なに? 急に」
「あの戦いから二年と数ヶ月。全ての妖怪を従えて一時の全能感に浸されたお嬢は、研鑽を忘れ、驕り、果ては泣き言まで言うようになった。儂らを服従させたあの頃のお嬢は、もう死んでしもうたんやな」
「何が言いたいの?」
赤狐は巴と目を合わせようとしない。
まるで、上位存在が人など目に掛けないように。話はするものの、そこにはいないかのように扱っている。
「お嬢、腐ったな。何故に儂らはこんな雑魚にいいように服従させられたんや」
「……酷い言い草だ。それは挑発だよね?」
「玉藻の尾が一つ、赤狐。千年生きてここまで後悔したことはないで。人間に従ったのはいいが、従った人間が腑抜けで、間抜けで、真性の臆病ときた」
「赤狐、そのくらいにしてくれない?」
好き放題に言われていても、巴の雰囲気は変わらない。
ゆらゆらと揺らめく柳の葉のように、赤狐の言葉を受け流し、ただ前を向いて歩く巴。
その昔は研ぎ澄まされた刃のように鋭く尖っていたものだが、もはや見る影もない。
「……ふっ、お節介か」
だが、赤狐は薄く笑った。
切れ味が見えなくなったのは、隠すことを覚えたからだ。
自らの本当の切れ味を出すのは、きっと屈辱を噛み締めた後なのだろう。
そして巴は、死んでいてもおかしくない屈辱を噛み締めた。
もう彼女に、迷いはない。
「久しぶりに、抜いてみよう」
ここに、フランチェスカの勝利を確実にする少女が立ち上がった。