VS.色魔
そして現在。
「やっと会えたね、つまんない貞淑の友達」
「こちらの台詞です。煩悩から生まれた悪魔さん」
ピリピリした空気が肌に纏わり付く。こうして対峙するだけで、確信出来る。
人の身では届かない力。もはや自然災害といって差し支えない圧倒的な強者の風格。
――相手は、遙か上位の存在であると。
腕の中の少女は傷だらけで気絶している。
見覚えのある制服と顔。数日前に教会に来てすぐに帰った目隠れ女子、巴だ。
「その子、お友達が処女のまま妊娠しちゃったんだって。驚きだよね」
「貴方の仕業でしょう?」
「まぁね。で、突っかかってきたって訳。あたしは降りかかる火の粉を払っただけ。ま、正当防衛ってやつ? いやー日本には便利な言葉が多いね」
ケラケラと笑う姿は完全に十代後半の少女だが、当然一分の隙も無い。逃げの一手すら打てない状況に歯噛みしながら、会話を続ける。
「色欲の悪魔、で間違いありませんね?」
「そだよ~。畏怖と恐怖を込めてレヴィちゃんって呼んでよね」
「意外ですね。名を名乗るとは……」
「ん? ま、どうせ真名じゃ無いし、問題ないよん」
悪魔は本来、名を呼べる存在になることを極端に嫌う。俗称とはいえ、自分から名乗るとは思っていなかったフランチェスカは、少し動揺していた。それほどまでに、悪魔が名乗るという状況は彼女らの常識から逸脱した行為なのだ。
「一応聞いておきましょうか。何故こんなことを?」
「こんなこと? 心当たりがありすぎてよく分かんないなぁ。具体的に言ってくれない?」
爪の手入れをしながら鼻で笑うレヴィは、煽るような口調で返事を返す。
「何故今になって、大規模な搾取を行っているのか、ということです」
「搾取? ……ああ、搾精のこと? 本格的に、人がのさばる現世を覆そうかと思ってね、協力して貰ってるだけだよぉ。勿論対価として良い夢見せてあげてるでしょ? 心の奥の奥にある、人の願望ってやつをね」
頭に、あの淫夢の光景が思い浮かんだ。
心の奥の奥にある願望。それが本当なのだとしたら、フランチェスカも腹の底ではと、あの夢を突きつけられた気がして、頭に血が上った。
自分に限って、あんなことになれば良いと思っているわけが無いと否定したくなった。
「そんなわけッ――」
「――あるんだよね。押し込められていた欲望。自分でも自覚し得ない奥の奥。人は皆、充実している人こそ、どこかで台無しになりたがってる。破滅願望があるんだよ。勿論、貴方にも」
だが、レヴィはひたすらに突きつける。人の願望を。その根幹にある破滅への願望を。
錯覚だ。フランチェスカもそんなことは分かっている。それでも、見てしまったのだ。シスターとしてあるまじき淫行の記録。紛い物でも、見せられたのだ。
頭に浮かんだ風景を振り払うように頭を振り、声を荒げた。
「黙りなさ――」
「ハイ、余所見。ダメだよ、弱いんだからぁ」
耳元で囁かれた。
目を離したのはほんの一瞬。
されど、接近して攻撃をするのに十分すぎる時間。
眼前にはたおやかな、およそ攻撃力を感じない平手が迫っていた。
それでも、脳内に鳴り響く警鐘は止まらない。回避も防御も不可能で、未知数な攻撃を前に、フランチェスカは衝撃に備えることしか出来なかった。
レヴィの手が鼻先に触れた瞬間、弾き飛ばされた。
見えない力の本流。熱と爆風の無い衝撃だけの爆弾をノーガード零距離で受けて、ダメージが無いわけが無い。
「ぐっ、これは……」
なんとか受け身を取ったが、頭から血を垂らして地面に膝を付く。
視界がぼやけ、思考が定まらない。軽い脳震盪を起こしながらも、腕に抱いたままの護るべき存在と、滅殺しなければならない対象を交互に見る。
せめてこの子が起きてくれれば、逃げられる確率は格段に上がるのに。
そう歯噛みしても始まらないことは分かっている。闘うための準備はしてきたのだ。初撃を当てれなかったことと、この子がここに居ることは想定外だったが、一つや二つの想定外で下がっていては、レヴィには一生勝てないだろう。
「前に進むしか、道は無い」
唇を噛んで視界を制し、揺れる脳を気合いで諫め、刹那の内に取り出した二丁の銃を握る。
「やる気満々、ガンギマリじゃーん。いやーん、こわーい」
「はぁ、思ってもいないでしょう」
「やっぱりバレた? 当然恐怖なんて感情は無いけど、その目は嫌いだなぁ」
全てを見通す金の瞳を真っ直ぐに見つめられても、フランチェスカはただ笑った。
「それはもう。あなたがたを滅するために主からいただいた物ですから」
「ならその眼を刳り抜いて、光の無い世界にたたき落としてあげる!」
その言葉を皮切りに、開戦の火蓋が切って落とされた。
レヴィは大きく跳躍し、刹那の内に間合いを詰めた。眼で追えていても、人の脳の処理速度など容易く凌駕するレヴィは、確かに人という種を超越する存在であるのだろう。
されど、フランチェスカもまた、人外の域に足を踏み入れた人間だ。
その眼は確かにレヴィの姿を捉え、この位置、この角度、このタイミングで距離を詰めてくるであろうという推測まで立てて、ドンピシャに的中させた。
――ダダダッ、と響く銃声は、レヴィという生まれて間もない大悪魔の行動を読み切ったが故の結果である。一言で言うなら、レヴィが来るであろう位置に銃口を置いていた。
「ッ!」
見目麗しい顔が歪み、まるで戦闘機のバレルロールを彷彿とさせる空中機動を以て、放たれた銃弾を縫うように回避したレヴィはフランチェスカの背後を取った。
だが……
「は!? どんな直感してんのよ!?」
思わず声を荒げたレヴィに向けられる、本命の銃口が微塵の躊躇いも無く咆哮を上げた。
僅かな動揺を浮かべたレヴィに迫る銀の弾丸は、既にバレルロールで崩れていた体勢を更に崩すことで翼の皮膜を貫くだけに留まった。
フランチェスカは初撃で仕留め損なったことを憂う暇も無く、ウィンチェスターに次弾装填して照準を合わせる。
しかし、今度はフランチェスカが驚く番だった。
かなり軽く調整された引き金に触れる直前、死角から現れた角の生えた蛇がウィンチェスターに噛みつき、照準をずらされたのだ。そして、発砲。
「ひぃっ、危なっ!」
どうやら流れ弾は赤狐の近くのアスファルトに着弾したようだ。
とまれ、蛇はウィンチェスターに施された退魔の陣によって口内を灼かれ、地面でのたうちまわっているところを踏み潰されて消えた。
その内にレヴィは体勢を整えたようで、ビルの室外機に座ってこちらを見下していた。
ほんの数秒の攻防の内に、互いが互いの戦術的優位を理解した。
そして互いが、相手がもう少し成長した段階であれば死んでいたと、兜の緒を締め直す。
「その銃、硬いし、精度はいいし、嫌な雰囲気纏わせてるし、ずいぶん厄介なもの持ってるね」
「ええ、一〇〇〇挺に一挺と言われる〝ワン・オブ・ワン・サウザンド〟の中でトップの制度を誇った一挺に聖別を施し、呪術的穢れのオーラから守る為の装飾を彫った、この世でたった一挺の銃。〝ワン・オブ・ワン・ミリオン〟でございます」
フランチェスカが扱う銀の弾丸は、悪魔を滅する力はあれど非常に精度が悪い。聖水が溶け出す弾丸も同様だ。だからこそ、劣悪な弾丸を扱うための、ウィンチェスター〝ワン・オブ・ワン・ミリオン〟である。
なお、ハンドガンにはそこまでの精度はない。故に、超至近距離での射撃か、接射という二択のような一択でしか使えない銃だ。それ故のアタッチメントである。
「会話で時間を稼いでも、翼の穴は治らないものでしょう?」
「……バレバレ、か。まあいいけど」
レヴィは室外機から降りると、飛ぶことをやめ、完全に地面に足を着けた。
「貴方、エクソシストの割に銃に頼り切ってるよね。纏うオーラは澄み切った清流の如き〝聖〟のオーラなのに。殴ればいいのに、何でだろうね」
「ご想像にお任せします」
話は終わりだと、ウィンチェスターの銃口を向ける。
対してレヴィはクスクスと笑い、意地の悪い少女の表情を浮かべる。
「あは。それなら、もう逃れられないよ」
ドクン、と空間が脈動する。
レヴィのしなやかな肢体が、括れた身体が、水気を帯びて魅力を魅了の域へと押し上げる。
ドクンッ、と空間が淫気を孕む。
思考がドロドロに溶かされ、下腹部が発火しているのかと思うほどに疼き、熱を帯びる。
ドックンッ、と再度空間に波紋が広がる。
これが、本来の力。本来の戦闘。魅力的で破滅的な表情を浮かべるレヴィは、上気した頬を艶やかに撫で、鎖骨、胸、へそ、と自らの身体を淫靡に撫でていく。
「あたしの権能。|スピリットドミネーション《精神支配》から」
「あっ、ぐっ……はっ、はっ」
「あーでも職業柄なのか生まれつきなのか、発情に多少の耐性はあるみたいだねぇ。……ま、すぐに堕ちるでしょ」
甘かった。
上位存在とは、本来戦闘にすらならないからこそ封印するに至っていたのだ。
それでも、諦めるという選択肢など無い。諦めてしまえば、待つものは死ではなく、あの淫夢の様な淫行と欲望の世界だろうから。
だが、現実は残酷だ。絵物語のように覚醒し、聖のオーラの使い方が分かるわけでも無ければ、総量が増大する訳でもない。生存に至る可能性があるのは、今この手に握る二挺の銃と、この場にいる日本の怪異と、それを使役する少女。
フランチェスカは現状を見渡し、今この場で敗北しない条件と、そこへ至るために必要なものを理解した。故に、立ち上がった。
裂帛の気合いでも、培い続けてきた理性でも無い。ほんの些細な恐怖によって、フランチェスカは少しだけ顔を上げて、精一杯不敵な笑みを浮かべた。
「私は、快楽などには……くっ、屈しませんよ」
「あはっ、大丈夫? 脚がっくがくだよ? 生まれたての子鹿……というより強烈な媚薬を盛られた女の子みたいになってるけど。まあ実際そんな感じなんだけど」
「これは……た、だの、武者震い……ですが、なに、か?」
当然、ただの武者震いなどではない。
ただ抗っているだけだ。一度気を抜けば飲み込まれそうな快楽に。
立ち上がる為に力を入れるだけで、彼方へトリップしてしまいそうな脳への刺激に。
理性では無く、自分自身が変わってしまうという恐怖で律し、立ち上がっただけだ。
「へー、いいねいいね、それいいね。すごくいいよ! もっと頑張ってみなよ。ほらほら、あんよが上手、あんよが上手。鬼さんこちらっ、手の鳴る方へ!」
レヴィが手拍子を打つ度、空気の振動が波紋となって全身に刺激を打ち付けてくる。
何度も何度も、今すぐに蹲って身悶えたくなる衝動を撥ね除けながら、一歩ずつ着実に詰め寄る。ここまで来れば、目が覚めるような痛みですら、快楽と認識させられるだろう。だから、転ばないように、痛みを感じまいと、しっかりと地を踏みしめる。
「よぉくここまで来れたねぇ。せっかくだし、何かご褒美をあげないとね」
クスクスと嗜虐的な笑みを浮かべ、一歩踏み出した。いや、踏み出そうとした。
レヴィが近寄ろうと片足をあげた刹那、フランチェスカが深いスリットから手を引き抜いた。その速度足るや、弾丸の如し。そしてフランチェスカに握られたものは、弾丸の速度すらも軽く越えて、軌跡すら残さずに閃を走らせた。
鮮やかな赤い線が開き、逆再生したかのようにすぐに閉じる。
「は?」
レヴィの間抜けな声が、自身に起きた事を理解しようと、その眼で、頭で、身体で、思考を巡らせていた。
その一瞬の隙を逃さず、フランチェスカは脱兎の如く走り出した。
「今のは……ワイヤー? いや、鎖か? でもどこから。……っ! そういうことね」
脇目も振らずに走っているシスター服のスリットから、瑞々しい肉の脚と、だらりと垂れ下がった白いソックスを、レヴィの人外の眼は確認した。
そして、思考を終えたレヴィは追撃を下す。
「逃がさないよ」
「いえ、退かせていただきます」
レヴィにも余裕が無かったのだろう。
だからこそ、フランチェスカが走れている事に、疑問を浮かべなかった。浮かべることが出来なかった。
不意打ちは、一瞬で完治する傷を作るために放ったものでは無い。彼女の権能を破壊し、術を乱すために放った、故郷のシスターたちが何十年と祈祷を捧げて作った、極細の鎖だ。
聖水の退魔の力をそのままに、身に着けられる武器として昇華した逸品。
その名も〝プレアチェイン〟
いつもはソックスに通された細い金属の管に入っており、引き抜くと加速する。らしい。サムライソードの鞘走りがなんとか、打鞭術の技術がかんとかと説明はされたが、機構に冠してはあまり理解していないと言うのが本音だ。最大射程は五メートル程。当然、先端が最も早く、最も強力になる。
ちなみに、学園にいた巴の式神を滅したのが、まさにこの武器である。
動きは最小限に、されど悪魔に対する効果は絶大。これこそが、フランチェスカの奥の手。
目に見える驚異である銀の弾丸とウィンチェスター。その影から狙う致命の一撃。
「……まさか、権能が乱された!?」
ようやくその事実に気付き、追撃の手を変える。
だが、時間は十分稼いだ。既に巴のもとへと辿り着いていたフランチェスカは、彼女を担いで走り出していた。
「逃が、さないッ!」
レヴィが触手の様に長い毒蛇を繰り、逃げる背中に消しかける。……が。
「あかんでぇ!」
聖水の効力から立ち直った赤狐が、寸での所で攻撃を弾いた。
「あかんあかん。お嬢とこの姉ちゃんには手ぇ出させへんからな!」
「うっざ! おとなしく這いつくばってなって!」
「かっかっ、力は強大でも精神はひよっこやな!」
赤狐の尾が青白く変色する。まるで、尾の炎を内に宿していくかのように。
ニィと口が裂ける。その有様は、まさしくバケモノと呼ぶにふさわしいものだ。
「ハッ、私とやる気?」
「せや、やる気や。でもな、殴り合うだけが戦いじゃないんや。逃げたって、こっちの目的が達成できるのなら、それは勝ちなんや」
「……逃がさないよ?」
「いんや、逃げさせてもらう。古来より、人を騙すのは狐の得意分野やからな。〝玉藻・眩偽の陽炎〟」
色欲の権能とはまた違った、異質な空間が周囲を覆う。
この空間は、レヴィの五感と三半規管を奪い、果ては思考すらもぼやけさせる妖術。
狐に抓まれる。という言葉通りの現象を引き起こす、混乱特化のデバフ攻撃。
今レヴィの目には、逃走するフランチェスカの背中が、ハッキリと見えていた。
されど、それは幻術の類いであると瞬時に判断し、眼前に出していた手をだらりと下げた。
「逃げられたね。鬱陶しい。ホントに鬱陶しいワンちゃんだ。……でも、それ以上に鬱陶しいのは、あのエクソシストか」
事実、レヴィと赤狐との間に生じる実力の差は、簡単に覆せるようなものでは無い。
フランチェスカの削りと奥の手で身体に傷を付けられ、権能持ちの七大罪の悪魔であっても、数分間権能を行使出来なくなるような聖なる力を体内に送り込まれたことが取り逃した原因だろう。
「……ぐっ」
突如、レヴィがその場に蹲った。
「あいつ、やっぱりとんでもない爆弾だったね……力を、使いすぎた」
そんな呟きは、既に遠方へ逃げおおせているフランチェスカに届くわけが無い。
だが、不思議なことに、フランチェスカは何かを感じ取っていた。
曲がりくねった建物の死角でしかないその場所からでも、フランチェスカの特別な眼は、それを捉えて忘れようとはしなかった。
一瞬。ほんの一瞬。レヴィの姿がブレた気がした。およそ人と呼べるものでは無い、色欲の欠片も感じない、おぞましい混合生物の姿。
牛、羊、ガチョウ、毒蛇。そして、下半身を欠損した少女。
その少女がフランチェスカに手を伸ばし、
『助けて……』
と、泣きながら叫ぶ姿が、いつまで経っても頭から離れようとしない。
その時、フランチェスカの表情が僅かに強張った。
そして、静かに誓いを立てて呟いた。
「ええ、必ず」
近いと共に、フランチェスカは新たな武器を得た。
人外の領域に住む悪魔を祓うための、最も効果的な奥の手を。
「必ず、悪魔は祓います」