隠微な香りと陰陽少女
「どこか、雰囲気が変わりましたか?」
隣町の駅へ到着し、フランチェスカが言葉を漏らした。
決定的に何かが変わったとは断言出来ないが、何か異質な空気が紛れ込んでいるかのような、界を跨いだときとはまた違った奇妙な感覚に陥っていた。
町を歩く人達はどこか虚ろで、生気を感じない足取りだ。
「ねえ、おねーさん。今暇?」
改札を出た途端、声を掛けられた。
時代錯誤にも程がある、いかにもヤンキーといった感じの三人組だ。
「いえ、私は職務中ですので、暇ではありません」
「そんな堅いこと言わずにさぁ……こっち来いって!」
くすんだ金髪の男は、フランチェスカの腕を強引に取って人通りの少ない道へ歩こうとするが、ふわりと宙に浮いた感覚を覚えた後、一歩も踏み出すことなく駅の天井を見上げていた。
「……は?」
「職務中と言ったはずです。ではこれで」
感情を感じさせない冷淡な声で言い放ち、修道服を翻して立ち去ろうとする。
「待てよ」
なにをされたか分からぬまま仰向けになっていた男が、懐からナイフを取り出した。それに呼応するようにもう二人の男もナイフを抜く。
抜き身の刃を向けられたフランチェスカは、全く動じず、むしろ冷ややかな目を向けた後、周囲に視線を走らせた。駅構内は静寂に静まりかえっている。まるで自分達など存在していないかのように、駅員も他の人も、こちらに目を向けることは無かった。
「……ふむ。では何故この方々は」
フランチェスカが考察を行っていると、男は躊躇すること無くナイフを振るった。
完全に素人の動きだが、心の枷は無いように感じた。どこか暴走気味に目を血走らせながら執拗にナイフを振るってくる。どうやら人殺しすら厭わない構えのようだ。
三本のナイフを捌きながら、再び周囲に視線を走らせる。
よくよく見ると、あちこちでナンパが横行しているのが見て取れた。目の前の男三人ほど暴走している人が居ないのは、誘われている側もどこか乗り気なせいだろう。
知性どころか、理性すら感じられない。感じられるのはひたすらに真っ直ぐな煩悩のみ。
「色欲の悪魔の仕業で間違いありませんね。夢だけでなく、現実にまで影響を及ぼすことが出来るということはかなり力を溜め込んでいる様子。となれば、ますます急がなければ」
急ぐならば、取り急ぎこの三人組を戦闘不能に、いや、行動不能にしなければならない。
フランチェスカはスッと目を細めた。
「ふっ」
ナイフを大振りしてくる男の懐に入り込み、肘鉄をみぞおちに放つ。
男は喘ぐように嗚咽を吐き、その場に蹲って悶えている。どうやら痛覚はあるようだ。
仲間がやられたのも何のその。二人目の男がナイフを突き出しながら突進してきた。
「次」
その男の手首を取り、捻る。男はナイフを落とし、さらに空いた手で羽交い締めにしようと襲いかかってくるが、関節を捻るとあまりの痛みに身を捩ることしか出来なくなっていた。
間髪入れず、もう一人のやたら滅多にナイフを振り回した最後の一人が血走った目で襲いかかってきたが、関節をきめてる男を蹴飛ばしてぶつけ、横転させる。
後は首筋に加減した蹴りを入れて、二人の男の意識を刈り取った。
ついでに腹を押さえて蹲っていた男も気絶させ、ようやく喧噪は止んだ。
あっという間に男たちを行動不能にしたフランチェスカの衣服には、一切の乱れが無い。衣服すら乱さない最小限の動きだけで制圧したのだ。
「ふぅ、さあ急ぎましょうか。人を暴走させるほどのこの淫気を放出している淫魔は、この町のどこかにいるはず。これ以上被害を出さぬ為にも、手早く済まさないと」
倒れている男たちや駅の中をさして気にする様子もなく街に出て、移ろう人々を尻目にこつこつと歩みを進める。平日昼間の繁華街だが人通りは多く、されど、この中のどれだけの人間が正気を保てているのだろうか。
目が虚ろであったり、血走っていたり、おぞましいほどに愉悦を浮かべていたり。
何も知らない正気の人間が見れば、ここが犯罪の温床、犯罪の坩堝であると決めつけるのに、そう時間は掛からないだろう。
ドス黒くてどこかピンク色の混じった卑猥な瘴気が、濃い方へ、濃い方へと、誘われるように進んでいき、繁華街を出てビル群に出た。ビル群の路地を通り、隠れ家感溢れる喫茶店を横切り、辿り着いたのは廃ビルだった。
廃ビルを前に静かに佇むその姿は、ただ独り世界から浮いた存在のようで、まるで一作の絵画の如き、完成された美しさを漂わせていた。
――ベチャ。
その完成された作品を無為に絵の具で汚すが如く、風景に歪みが生じた。
汚れとしてビルの屋上から降ってきたのは、鬼火や狐火と呼ばれるような青白い火の玉……を尾に宿した狐。紛うこと無き狐だ。赤い文様が浮かんでいるが、狐だ。猫くらいの大きさの狐だ。
「お嬢! あかんで! この赤狐無しでけったいなバケモンと闘うなんか無茶や! おとなしく宗家に援軍要請した方が無難や!」
喋った。
狐が、流暢な関西弁で……。
「日本の、それも現代の怪異とは一線を画すバケモンや! これ相手に鬼遣らいなんて無謀。それこそ平安時代レベルの怪異に勝てるわけないぞ!」
自分のことを赤狐と呼んだ狐の言葉を証明するが如く、ビルの屋上からは次々と奇天烈な日本の怪異たちが弾き飛ばされて落ちてくる。
本日の天気。晴れ時々怪異。……と、そんなことを言っている場合ではない。
「あの」
「どぅわっ! なんや姉ちゃんどっから入ってきた!?」
赤狐は飛び起きて、人間臭い動きで驚いている。
「っと、そんなこと言ってる場合やあらへん! はよここから逃げんと巻き込まれんで。……って、姉ちゃん、儂のこと見えてんのか?」
「はい。それはもうバッチリと」
「……日本の者や無いな。あのバケモンのお仲間っちゅうわけか!」
刹那、赤狐が肥大化し、大型犬くらいの大きさに成ってフランチェスカに牙を剥く。尾っぽの炎が分裂していき、衛星のように赤狐の周りを漂い始めた。
「恐らく、貴方が言っているバケモノの仲間では無いのですが、話を聞く気はありませんよね。邪魔をするなら、私が滅、して差し上げましょう」
「ほざけ! 焔円舞!」
赤狐が雄叫びを上げると、衛星のように廻っていた青白い炎がフランチェスカに襲いかかった。多角的でいやらしい方向から迫ってくる炎群を軽いステップで躱し、時には手で払い落とす。
「阿呆が、触ったな」
「あら?」
炎を払い落とした手が、じくじくと痛む。
火傷では無く、呪術的な能力のようで、触ってしまうと何らかの能力が発動するのだろう。
「それは目印や。お前はもう、儂の攻撃を躱せへんで」
「おしゃべりな狐ですね。動物の口は、おしゃべりをするためについている物なのですか?」
「随分と余裕やんけ。お前の命には王手がかかっとる事を忘れん方がええぞ」
「それはもう。この程度の呪詛であれば、私でも簡単に直せますから」
腕を振り払うと、手に施された呪いの証は消え、何も無かったかのようにキメ細やかで傷一つ無い、美しい手があるのみ。
「どういう手品や? お前からは特別な力なんぞ感じん。……ハッ、人間とは言え、あのバケモンのお仲間っちゅうっわけやな。しゃーない。噛み殺すか」
「まあ物騒。どうせ無駄ですので、一芸でもしてみては? 犬っころ」
「儂は狐や! 犬畜生と同じにすんな!」
「似たようなものでしょう?」
「殺すッ!」
赤狐の姿がブレた。
その踏み込みはコンクリートの地面すら割り、ギリギリまで引き絞られた弓矢のような速度で襲い来る。しかし、相手はフランチェスカである。
実に微細な初期動作から軌道と速度を予想し、余裕を持って躱すことが可能である。
だが、敵もまた、ただの狐ではない。
地面から炎の枷が飛び出し、フランチェスカを拘束する。
死角からの知覚外の攻撃に、超人的な反応速度を以て対応するが、赤狐は既に目の前まで肉薄していた。
(――避けられないっ)
赤狐がシスター服諸共足首に噛みついた瞬間、ドパンッ、と一つの破裂音が響いた。
「ガッ」
ストライクフェイスの付いた白いハンドガンから放たれた弾丸が命中し、赤狐は苦悶の声を漏らしてすぐに距離を取った。命中しただけで、貫通はしなかったようだ。
「なんやけったいな得物持っとるな。ここは日本やぞ」
「存じておりますとも。そして、勝負は既に決しました」
「何を血迷ったことを……」
疑問を浮かべる赤狐の身体がビクッと痙攣した。
「なんでや、弾丸は弾いた。……儂の身体に、何が起こっとる?」
「答えはこれですよ」
フランチェスカはヒラヒラとシスター服の裾を靡かせる。そこにはハッキリと噛まれた跡が残っており、少しだけ湿っていた。
「貴方は、直接口に含んでしまったのですよ。衣服に仕込まれた聖水を」
「聖水やとっ!? そんなモンなんでバケモンの仲間が……」
「話を聞かなかったのは貴方の方ですからね。私はむしろあなたたちの仲間、いえ、目的を同じくする者なのですから」
本当に焦っている者ほど、他人の声は聞き流しやすい。
赤狐はその典型だった。だから話を聞かざるを得ない状況まで追い込んだ。それだけだ。
ここまで意思疎通が図れる怪異というのも珍しく、フランチェスカとて情報が欲しい。これから身命を賭して闘う相手の情報が。
「さあ、話してください。あなたたちが闘っていた悪魔のことを」
「はっ、儂はバカなことをしとったんやな。まあいい。……あいつは、正真正銘のバケモンや――」
続く言葉は無かった。フランチェスカと赤狐は同時にピクッと反応し、瞬時に動いた。
廃ビルの屋上から、明らかに自由落下ではない速度で人が落ちてくる。フランチェスカがその人物を受け止め、反動を殺してどうにかキャッチし、上空から迫ってくる触手のような追撃を、赤狐が青白い炎でなんとか払い除ける。
「あっれ~、絶対殺したと思ったのに、生きてるよ」
ゾクッと背筋に嫌な寒気が走った。
ビルの屋上からゆっくり落ちてくるその存在に。
ストロベリーブロンドのツインテールに、鋭く尖った八重歯。背中では悪魔の翼がはためき、悪魔の尻尾が瑞々しい太腿に巻き付いている。身体を一部のみ隠す露出の激しい姿。ある意味フランチェスカはと完全に対極に位置する存在が、降り立った。
◇
時を少し遡る。
身長の高が高く、目元の隠れた黒髪の女性が足早に町を歩いていた。
淫靡な空気に顔をしかめながら、人混みを避け、路地を通り、廃ビルへと辿り着いていた。目的は勿論、この空気を沈静化させること。
「七々扇のお嬢が直接動くから何かと思えば、確かにけったいな気配やな」
「油断してらダメだよ、赤狐。相手はこちらにとっては未知の存在。恐らく、日本の怪異なんて比べものにならないくらい強い」
場違いなほどの透き通るようなクールな声が、傍らの狐を窘める。
目元が隠れるほどの前髪の奥からチラリと覗かせる紅い瞳には、緊張と自信と使命感が宿っている。女子高生にしては高い身長と、学院の制服に身を包んでもハッキリと分かる凹凸がある身体。
日本のエクソシスト、陰陽師の名家である加茂家の分家に名を連ねる七々扇家の次代当主。
七々扇巴。聖クオーレ女学院に在学する生徒であり、日本各地の怪異が暴れないよう監視する立場にある子だ。当然監視している地区に異変があれば、その異変を除去しなければならない。
「ただでさえ怪異たちの学院外での活動が活発になってるのに、こんなバケモノまで現れるなんて、絶対にあの人の影響だよね。ホントに嫌になってくる」
「なんや? 学校に来たっちゅう修道女か? 原因は判然とせんから保留って宗家には言っとらんかったか?」
「そうだけど、もう確信に変わってる。ボクが調査のために出していた式神が、教会付近で祓われたもの。早朝からあんなところにいるのは、だいたい一人に絞られるでしょ」
「まあ、その姉ちゃんが根源的な原因なんやったら縛って終いや。そうじゃないなら厄介事が増えるだけ。判断はお嬢に任せるけどな」
「今は目の前のことに集中、かな」
廃ビルの階段を上がり、屋上の錆び付いた扉を開けると、そこには少女がいた。
桃色の髪、露出過多な服装、創作物のような羽と尾。びっくりするほどの美貌。
――ああ、悪魔だ。
「あかん、あかんで、嬢ちゃん、こいつだけはあかん!」
「何をそんなに焦ってるのさ」
「あかん……。あれは、ほんまもんのバケモンや」
フランチェスカのように、一目見て相手の力量を測れるほどの実戦経験は巴には無い。
ただ、赤狐は一〇〇〇年の時を生きる妖狐。そんな彼がここまで怯えるほどの何かが、目の前の存在にはあるのだ。
「あら、こんな可愛い美少女を前にバケモノだなんて、失礼な狐だこと」
「可愛い美少女は、自分のことを可愛いなんて言わないんじゃ無い?」
「なによ、あんたも美少女は自分の美貌に気付いてちゃいけないとか言う派?」
ぶー垂れる姿すら可愛らしく、どこか妖艶。見惚れてしまいそうになるのを堪えて、目を逸らす巴は、自分の失態を後悔した。既に戦闘は始まっているのだ。戦闘中に空いてから目を離すなど、愚の骨頂。
再び悪魔の方を向いたとき、巴は心臓が凍るような錯覚を覚えた。
目が合ったのだ、怪しく嗤うマゼンタの瞳と。
まるで、心の中を見透かされたかのような射通す視線。実際に巴の内心などお見通しであろう。されど、隙を突かずともいつでもやれると言わんばかりに微動だにしない彼女に、巴の頭に血が上った。
「あかん! 逃げぇ! お嬢!」
横から赤狐が巴を吹き飛ばした。
刹那、先程まで居た場所に触手のようなものが通り過ぎた。
「おろ? なかなか優秀なワンちゃんだねぇ」
「お嬢! 儂が時間稼ぐから、はよ逃げて宗家に援軍頼め!」
「アレ相手に逃げ切れると思わないんだけど?」
巴が懐から札を数枚取り出すと、腕を含む周囲の空間が歪む。
「――顕現せよ、流浪の夜叉」
ズズズ、と赤い肌の手が浮き出てくる。
長い鼻、葉のうちわ。それは正に絵巻や御伽草紙の天狗そのもの。
「久しいのうお嬢。崇徳の天狗を呼ぶとは、切羽詰まっとるようじゃのう」
「ケッ、流刑の天皇が流浪の夜叉とは、腹立たしい」
「お? 玉藻の分身体か、久しいのう。相変わらずお嬢にべったりか」
「じゃかしい。お前とやりあっとる時間は無い」
「ああ、分かっとるぞ。平安の世と引けを取らんほどの妖気の質。ちとやばいのう」
夜叉天狗の崇徳は顎に生やした白髭を擦りながら、冷や汗と苦言を漏らした。
「二人とも、いがみ合うのは後にしてね」
「そんな暇は無いじゃろ」
「崇徳、お嬢を逃がすぞ」
「無論、命に代えても、じゃな」
赤狐が尾の炎を飛ばし、崇徳がうちわを仰ぐ。
風は切れ味を持ち、束になり、やがて竜巻に成長する。そこに炎が纏わりつき、やがて逃れられない暴威、火炎旋風となる。
「ハッハー! まだまだ鈍っとらんのう」
「阿呆か! わざわざ視界を閉ざしてどないすんねん!」
「いがみ合うのは後にしてって言ったでしょ!」
火炎旋風に飲まれた悪魔の姿は全く見えない。それどころか、些細な気配すらも……。
「へぇ、日本の怪異も捨てたもんじゃ無いね」
背後から、脳が震えるような甘美な声が聞こえた。
「おじょ――」
ドッ! と凄まじい衝撃が赤狐を襲い、廃ビルの一角を盛大に壊して地上に落ちた。
「冗談キツいのう」
触手に貫かれた天狗が、ギチギチと音を立てて無数の触手に飲み込まれ、消滅した。
独り残った巴はなんとか距離を取って攻撃を回避したが、額には汗が滲み苦悶の表情を浮かべていた。
「ちっ、来い!」
再び札を取り出し、怪異を召喚するが、崇徳のような存在感のある怪異はいない。単なる寄せ集めの烏合の衆だ。
そして言葉通りに、一瞬で弾き飛ばされ、姿を消したりビルから落ちていった。
「さてさて可愛いお嬢さん? 何でここに来たのかな?」
「いまさら会話なんて、どういうつもり?」
「……何をそんなに警戒してるのよ。ちょっとしたお話じゃない」
こつこつと音を鳴らし、悪魔が歩いて近づいてくる。
巴にしてみれば、それは破滅の足音だった。話だけで済むはずが無いのだ。
なぜなら、目の前の悪魔は……
「そうやって、ボクも妊娠させるつもりなんでしょ?」
「およ、そのことを知ってるのは……ああ、あの子のお友達かぁ。バレてるなら仕方ないか」
ゾッとした。
冷たい眼だ。遊び相手が遊ぶ価値のない者だったと見切りを付けた圧倒的強者は、当然興味を失い遊ぶのを止める。
そして待っているのは、蹂躙だ。
「処女の子が急に孕んで絶望する姿が好きなんだけど、君は多分絶望なんてしないよね。だからさ……」
刹那、足首に触手上の何かが巻き付き、強力な力に引っ張られる。
「死んで」
廃ビルの一角に激突し、巴の意識は飛んだ。
あまりに呆気なく、あまりに理不尽な力。
未熟で平凡な少女には、無謀だったのだ。異界の上位存在に挑むなど。
巴は力なくビルの屋上から落下した。