淫夢の噂
式神との戦闘から時は数時間進み、お昼頃のこと。
いつも通りというか、土曜日であるにも関わらず、教会には何人かの生徒が思い思いの時間を過ごしている。
その中で、やはりフランチェスカは生徒たちに囲まれていた。
よくある生徒からの相談事。基本的に教会に駐在し、生徒たちのカウンセリングもこなす彼女にとってはれっきとした職務であり、非日常の喧騒を忘れられる癒しの時間でもあった。
懺悔室などはないので、教会の片隅で。その生徒にとって言いにくいことであれば、教会の二階の空いている部屋で。
相談を受けるのは日課と呼べるくらいにはなっていた。バチカンの懺悔室に比べて、個々の生徒たちの悩みは可愛いものだ。
曰く、体重が増えた。
曰く、枝毛が見つかった。
曰く、婚約者がどうだとか、許嫁がああだとか。
大企業や財閥の令嬢然とした悩みだったり、一人の女の子としての悩みだったり、どれをとってもフランチェスカにとっては微笑ましい限りの内容なので、ほんわかとした雰囲気で聞きながら、一歩引いた立場から冷静かつ端的に解決策や問題の折衷案を提案できる。
生徒たちにしても、ほんわかと聞いてくれるところがウケが良いらしい。シリアスな悩みも話すだけで心が軽くなるのだとか。
そして時折、相談事のある生徒に引っ張られていく。
「シスター?」
「ああ、すみません。少し考え事をしておりました」
ほんわかとし過ぎてトリップしていたようだ。
目の前の中等部の制服を着た幼げで野暮ったい女生徒が、不思議そうに顔を覗き込んできて、少し心配そうにしていた。ちなみに、駅で話しかけてきた女生徒のアズサだ。
彼女はどこぞのお嬢様で結婚を決められた許嫁がいるらしく、度々男女関係などの相談を受けていた。まあ、フランチェスカに答えられることなどたかが知れているが。
「あの、お忙しいようでしたら、私は失礼しますが……」
「いえいえ、お気になさらず。確か、許嫁との関係が悪化したのでしたか?」
「悪化、というほどでもないのですが、その……私に心境の変化というか、彼以上に敬愛すべき物を見つけたというか……」
アズサは「勿論、彼のことはお慕いしておりますが」と付け加えた。
「敬愛すべき物、というのは他の殿方ではないのですよね?」
「はい。殿方……ではありません」
多分に何かを含ませたような口振りだが、フランチェスカは気が付かない。その敬愛の対象が、まさか自分だということには。
敬愛の対象さんはすこし悩むような唸りを上げた後、実にあっけらかんと言った。
「そうですね。焦らなくてもいいと思いますよ。人の気持ちも然り、物事には山と谷があるものですから」
「至言ですが、それでも、このまま誤解を解かずにいるのも……」
「でしたら、お話をすると良いでしょう。やましいことがないのなら、あなたが向ける敬愛を理解してもらえるように。互いが互いを尊重できる関係というのは、とても貴重な縁なのですから」
在りし日の、フランチェスカとレオナルドのように。
言葉にはしなかったが、幸せだった毎日を想い、慈愛に満ちた笑みを浮かべるフランチェスカ。その背後で、雲間から太陽がのぞき、窓を通して光が振り注ぐ。その場で言葉を交わす彼女等を祝福するが如く。
アズサから見たその姿は、まるで神様が遣わした後光を背負う天使のようであり、同時に手が届かない天上の存在のようにも見えた。
「はい……はいっ!」
感極まったように、アズサが胸の前で手を組み、膝を折った。それは正当な祈祷の所作。
今この瞬間、フランチェスカは敬愛の対象から崇拝の対象へと昇華された。
「では、私はこれで。本日はお話を聞いてくださり、誠にありがとうございました」
「いえ、こちらも職務ですし、生徒の皆さんと交流できるのは楽しいですから。またいつでもいらしてください」
綺麗にお辞儀をして出ていく背中を見送った後、フランチェスカは教会の長椅子に座って一息ついた。
楽しいとは言っても、長時間そうしていると疲れるもので、昼食を摂っていないこともあり、少々疲労の色が見て取れた。
式神との戦闘と生徒たちの相談相手は、徹夜明けの体には少々堪えたようだ。
室内とはいえ、春の陽気は容赦なく睡魔を送り込んできて、いけないと思いつつも、うとうとして、頭が縦に揺れる。
(まだ、職務が……)
超人的な身体能力を持つフランチェスカも、人としての軛には逆らえず、そのまま意識を落してしまった。
そして、不思議な夢を見た。
何かに手足を絡め取られ、身動きも抵抗も出来ず、為す術無く散る純潔の証。
鎖で繋がれ、尊厳さえも踏みにじられて、深く深く堕ちていく快楽の夢。
時折鏡に映るフランチェスカは、自分が知らない色の表情を浮かべ、祈りを捧げるときのようにそれの前に両膝を突き、神を見つめるような慕情の瞳を向けている。
夢では幸せだとは意識していなかったが、不幸だという感情も無かった。
貪り、貪られる欲望。
考えられないほどに歪んでしまった、愚かなる日常。
護るべき物をかなぐり捨て、醜い痴態を晒す色欲に塗れた夢。
シスターとしての矜持が崩れ去り、新たな価値観を植え付けられていた。自分が自分では無くなる夢現は、その後も続く。
まるで、家畜のような扱いだった。
けれど、家畜のような扱いを受け入れて恭順している姿が映し出される。
獣のように這い、与えられる欲望に媚び、恥を恥とも思わぬ屈辱恥辱を色香で紛らわし、夜の誘蛾灯のように肢体を艶めかしく働かせる。
酷く乱れた浅ましい行いの数々を、夢の奥底にいる幼いフランチェスカが冷え切った表情で見つめていた。見覚えのある顔だった、両親を、兄を、全てを失い、失意に暮れていた自分。
誰も彼もがフランチェスカの視界を避け、目も合わされず、本当に独りになったのだと理解した頃だ。
『辛気臭い顔してんな。まるでこの世の全ての絶望を味わったかのような目だ。まったく、これだからガキってのは、気に入らねぇんだ』
絶望の淵に佇むフランチェスカに、粗野で粗暴な声がかけられた。
『いいか? ガキ。他人が死のうが、自分以外の全人類がくたばろうが、自分さえ生きてれば勝ちなんだよ! 絶望なんてしてんじゃねぇ! 死んでから絶望しやがれクソッタレ!』
口が悪い女性だ。
それでも、悪夢は晴れた気がした。
今まで悪夢とすら認識出来なかった悪夢が、ボロボロと砕け散った。
これは暗示だ。
幼い頃、拾われ育てられた人に掛けられた暗示。
絶望を感じると発動する、強力無比な暗示。
この世に絶望など無いのだと、あの人は高らかに言った。言い切ったのだ。
粗野で粗暴。手荒で暴力的。凶悪とか凶暴とかそんな言葉が雑然と入り交じった、バイオレンスな存在。銃を持たせば一騎当千、料理をさせれば蛟竜毒蛇。
立てばスズラン、座ればホルティ、歩く姿はグロリオサ。なんて都々逸がうたわれるもの。ちなみに全て毒を持つ美しい花だ。
そろそろ、起きましょう。
案外明晰夢と理解できれば簡単に起きられるもので、目を閉じて意識を覚醒させていく。
「……ー、……たー?」
現実の身体が揺さぶられる感覚とともに、誰かの呼び声が聞こえる。
きっと教会の椅子でうたた寝をしている自分を、誰かが揺さぶり起こそうとしてくれているのだろう。揺さぶられれば揺さぶられるだけ、意識は覚醒していく。
そして、意識が覚醒する刹那。
「あーあ、せっかくいい夢見せてあげたのに」
欲に塗れていたフランチェスカが姿を変え、目を見張るほどの綺麗なストベリーブロンドの髪を携えた悪魔へと姿を変えた。悪魔の尻尾に悪魔の翼、下品に身をしならせるもどこか優雅な立ち居振る舞いが感じられる、不思議で異質な存在。
そして感じられる圧と箔。悪魔の中でも明らかな上位存在。
「あなたは……?」
「答える意味ある? どーせまた会うでしょ。近いうちに」
悪魔が言うと、その言葉を皮切りに急速に意識が覚醒していった。
「ター。……シスター、大丈夫ですか?」
「んぅ、…………はっ」
気が付くと二人の女生徒が心配そうにこちらをうかがっていた。
「失礼。昨日は遅かったもので。なにか相談事ですか?」
「いえ、ただ、うなされていたというか、悶えていらっしゃいましたが……」
「悶えて……? そういえば、何か夢を見ていたような……あら?」
その二人組はよく見れば、見覚えのある顔だった。
よく制服を着崩してフランチェスカに怒られる二人組。制服はきちんと着こまれていて、寝起きの一瞬だけでは気が付かなかった。
「今日はしっかり制服を着ているのですね。なんだか新鮮です。素敵ですよ。ミスひまりにミス柚希。このまま続けていきましょう」
「「あ、えっと……はい、がんばりましゅ」」
微笑みかけると、二人組は赤くなって縮こまってしまった。
本郷ひまり。明るく茶色っぽい髪を二つお団子纏めにした少女。IT企業の社長令嬢。
雲龍柚希。ボブカットの黒髪がよく似合うスレンダー少女。政治家の娘。
ちなみに二人とも中学部だ。
どこか嬉しそうな二人を尻目に立ち上がろうと体を起こすと、少しふらついて椅子に座り込んでしまった。
「あの、シスター? 体調が優れないのですか?」
「そういうわけではありませんが、身体が熱い気がします」
「熱は……なさそうですが、無理なさらず休まれた方がよろしいのでは」
ひまりと柚希は身を案じてくれているが、身体はどうということもない。強いて言えば少し空だが怠い……というか、火照っている様な気がする。
「あれではありませんか? あの、……ひ、卑猥な夢を見るという、【淫夢の噂】では?」
「淫夢の噂?」
「ご存じ在りませんか? SNSで結構話題になっているのですが……」
「そういうことには疎くて、詳しくお聞かせくださいますか?」
「は、はい!」
ひまりは手慣れた動作でタブレットをツイツイと操作し、水色の鳥があしらわれたアイコンをタップする。起動したアプリの中から目当てのものを見つけると、タブレットを差し出してきた。
♯淫夢の噂
そう検索された画面では、いろいろなアイコンが淫夢の噂について話している。
曰く、その夢を見た次の日は異常な身体の火照りから、劣情が止まなくなる。
曰く、男女関係なくその夢を見て、起きたときにはソロ活動の痕跡が寝具から見つかる。
曰く、同衾していた恋人が気絶するまで、無意識に回数を重ねる。
曰く、劣情が解消出来る人が居れば、見境無く襲いかかろうという欲求が膨れ上がる。
曰く、行為をしていないのに、妊娠する。
など、明らかに眉唾なものから、効果に差異はあれど、フランチェスカと似通った症状を引き起こしているものまである。主観的に見れば信憑性が高いものが多い様な気がした。
デマだと声高らかに論う人や、最近話題になっている行方不明事件、【悪魔の隠し事】との関連性を示唆しているものまである中、一つ気になることがあるとすれば……
「淫夢というのは、この地区でしか見られない現象、というわけですか」
幾百という投稿は全て付近の人間のものと思われるものであり、見たことが無いという人間は遠く離れた地の人のものだと断定出来る喋り口調、過去の投稿の投稿などがあった。
正確に言えば、先日フランチェスカが悪魔を滅した隣町が事の中心地になっており、その影響は徐々に拡散してきている。
更に画面をスクロールしていくと、とある人物像が散見していることに気が付いた。
『ピンク髪のめっちゃエロいグラマラスな女の人が夢に出てきた。やべぇ、学校休も』
『ストロベリーブロンドっていうのかな。髪だけで美しいと分かるぐらいの美人が夢にでた』
『ファンタジーで言うサキュバスが夢に出た。小さくて好みだったし、エロかった……』
『ピンク髪のダンディな人に抱かれる夢を見た。もしかして欲求不満?』
『夢に出たストベリーブロンドのショタインキュバス。……萌えた』
ストロベリーブロンド、サキュバス、インキュバス、見える容姿、性別は人それぞれ。
史実に出てくる様な淫魔要素のオンパレード。そこから導き出される答えは、恐らく、
「色欲の悪魔、ようやく尻尾を出しましたか」
七つの大罪が一柱。魔王と共に日本へ渡った、フランチェスカの標的の一つ。
フランチェスカは側の二人に悟られぬように、薄く薄く嗤っていた。
本来なら今からでも滅しに行きたいところだが、相手の居場所もわかっていないうえ、強さも桁外れだろう。そして現在進行形で卑猥なデバフ付きだ。敵う道理が無い。
圧倒的な準備不足で戦いに行くほど、フランチェスカも愚かではない。
しかも、明日は日曜日。教会では毎日曜の礼拝があるため、シスターとして教会から出る事は出来ない。となると、すべきことは情報収集の他には無いだろう。
フランチェスカは手元のタブレットに目を落とし、持ち主であるひまりにお願いをした。
「すみません。ミスひまり。このタブレットを一日お借り出来ますか?」
「え、あ、はい。そちらのは見る垢用の端末なので問題ありませんが……」
「みるあか……? あ、いえ、ではお借りしますね」
刹那、胸に抱くようにして持ったタブレットを見て、ひまりが大声を上げた。
「あっ! あ、あの、やっぱり、一つだけ条件が……」
「ええ、私に出来ることであれば、何でも致しますよ?」
「な、なんでも……、い、いえ、大したことは無いのです。ただ……」
盛大に顔を赤らめ、二つのお団子をゆさゆさしながら、やがて意を決したように、ひまりは叫ぶようにして言った。
「な、名前をっ、呼び捨てのしていただけないでしょうかっ」
「ちょっと、ひまり! シスターに失礼ですよっ!」
「柚希ちゃん、私はもう止まらない! 服装を乱すのももうやめる!」
「なっ……! あれは貴方が提案してきたことでしょう! シスターに怒られるからって。ようやく短いスカートに慣れてきたというのにっ、スースーする感覚に慣れてきたのにっ」
「……あれ? 柚希ちゃん、もしかしてハマっちゃった? 丈の短いスカートでタイツに包まれた綺麗な脚を晒すのにハマっちゃった? やーい不良娘ー」
「んなっ! ……もー! 帰る! 帰りますッ! さようなら!」
「冗談だよぉ、待ってよぉ」
「ニヤニヤしないっ」
暴走するひまりを止めようとして、乙女の密かなマイブームを晒されて被弾する柚希。みたいな構図の寸劇が繰り広げられた。本当に出口に向かってヅカヅカと帰ろうとした柚希を、ひまりが両腕で精一杯引き留めながらも冗談を口走っていることから、二人は本当に仲が良いのだろう。
「あのー……敬称無しで、ということですよね。問題ありませんから、喧嘩はおやめください。ひまり。それと、柚希も」
「「あひゅう……」」
卒倒擦する姿も似通っていて、姉妹のように仲良しで微笑ましい……ではなく。
フランチェスカは駆けよって、ひまりと柚希に手を伸ばす。
「大丈夫ですか? 頭から倒れたように見えましたが……」
「あ、凄いお力」
両手でそれぞれの手を握り、ぐいっと起き上がらせる。
想像以上の力に引っ張られたせいか、ひまりも柚希もキョトンとしていたが、すぐさまはっちゃけすぎたことを謝罪した。
「すみません、シスター。ひまりがはっちゃけすぎてしまって」
「すみません、シスター。柚希ちゃんが意外とむっつりで」
本当にそっくりな子たちだ。見ていて微笑ましい。
思えば、自分の記憶にはこうした〝仲の良い友達〟というのは居なかった気がする。青春の時分も勿論あったが、その殆どを祈祷と訓練に費やしていたから。
せっかくの機会だ。私もこの輪に足を踏み入れてみるのはどうだろうか。
「あの、私のことはシスターではなく、親しみを込めてフランとお呼びください」
「「それは恐れ多いです」」
「……そうですか」
マジトーンだ。フランチェスカはしゅんとした。
顔に出ない彼女の内心を察したわけではないだろうが、彼女たちには別の呼びたい名前があったようで、
「さすがにお名前を、それもあだ名のようなお名前で呼ぶのは恐れ多いことですが」
「で、ですが、もし許していただけるのなら」
柚希が、ひまりが、万感の思いを込めたような表情で、胸の前で手を組んだ。
「「お姉様と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」」
それはある意味、かなりの親しみを込めた呼び方だろう。
学院内でも先輩後輩の間柄ではお姉様と呼ぶし、憧憬と敬愛とほんのちょっとの心酔を込めて“シスター・フランチェスカ”と呼ばれるよりかは親しみ深い呼び名だろう。
「ええ、ぜひ」
フランチェスカは快く快諾し、キャッキャとはしゃぐひまりと柚希を見送った後、シスターとしての職務を終わらせて就寝した。
翌日はシスターとしての仕事を熟す傍ら、刹那の空き時間に情報収集に努めつつ平和な日常を送った。勿論、武器の準備や手入れは欠かさずに。
――そして、夜が明けた。






