現代の悪魔と修道女
人々がごった返す駅の中に、一際目立つ女性が立っていた。
立っているだけで老若男女問わず数多の視線を集め、そしてそれを自覚していない。表情はどこか気怠げながら、纏う雰囲気はまるで歴戦の軍人そのもの。
抜群のプロポーションに、絵物語の中から出てきたような異国情緒のある顔立ち、凜とした立ち姿、金糸のような滑らかな金髪に、ほぅと誰かが嘆息を吐く。
遠目で男たちが彼女を見ながら、または指を指しながらひそひそと話し合うところを見ると、ナンパ一歩手前というところだが、この状態でかれこれ十分ほどが経過していた。
それでも誰も声をかけないのは……
――彼女が、修道服を着ているからに他ならない。
仮に彼女が私服なら、こぞって声をかけ、ナンパ地獄にさらされ、辻斬りならぬ辻告白をする者が後を絶たないだろうが、いかんせん修道服だ。それも日本の駅で。
コスプレとかで無ければ完全にお仕事シスターさんだ。声をかけるには少々難易度が高い。
声をかける心構えの仕方が分からない。そもそも声をかけていいのかすらわからない。
そんな周囲の注目を集めているシスターが、ふと視線を走らせる。
「……はぁ、ここもですか」
シスターは、駅の中で唯一誰もいないスペースへと目を向けた。人の進路の真ん中であるはずなのに、そこは誰も通らず避けて歩いている。
そして誰もが、その事実に気付いていない。少しの疑念すら抱いていない。
奇妙な光景に唯一気づいていたシスターが、腹部をさすりながら冷たい声で呟く。
「界を跨いだ哀れな者が、紛れ込んだようですね」
独り言ちて、見るからにヴィンテージ物のトランクを片手に歩き出す。
人の知覚に存在しない空間に足を踏み入れたと同時、まるでモーゼが海を割ったかの如く人の波が割れ、シスターに道を作っていた。
割れてできた道を、線をなぞるかのように進んでいく。駅を抜け、路地を通り、人通りが少なく見通しが悪いビル群の狭い路地に辿り着いた。ビルとビルの間にある、幅が二メートルほどしか無い細い路地だ。
「ひどい臭気ですね。まったく、これだから悪魔という存在は度し難い」
呟くと、十字を切る仕草をしてからシスターは躊躇いなく小道に足を踏み入れる。
コツ、コツ、と不気味なほどに反響する足音。空気はまるで粘性を持っているかのようにべっとりと纏わり付き、一歩一歩不快感が増していく。
進めども出口の見えない路地を淀みない足取りで進んでいくと、やがて倒れている人が見えた。
首から夥しいほどの血を流し、目は窪んでいる。まるで、血を吸われ、何日も放置されたかのような、特異な異質さを感じさせる死体だった。
「げひゃひゃ、上玉だぁ。生命力に満ちてやがるぜぇ……」
そんな、卑下た声が聞こえた。
視線を向けると、赤い粘液に覆われ、人の頭蓋をお面の様に被ったコウモリのような奇妙な物体がいた。生き物とは言い難い奇妙な体で空を飛び、シスターを見下している。
コウモリは頭上をくるくると旋回し、何が面白いのか、時折「げひゃげひゃ」と下品な笑い声を上げる。伝わってくるのは、どう殺そうかという下衆な思考。
明らかにこの世ならざる者。明らかに魔を体現するナニカ。
こういう存在に出会った人間は、身体を弄ばれ、死すら生温いと思わせるほどの、醜く悲惨な未来を幻視し絶望するのだろう。側の死体のようになるのかと。
ただし、そこに一つだけ注釈を付けるとすれば。
――普通の人間であれば、の話だ。
「界を跨いだ哀れな者よ」
絶望など微塵も映していない真っ直ぐな瞳が、コウモリを捉える。
「貴方の容姿から察するに、既に幾人かの罪なき人を殺し、喰らったのでしょう」
「げひゃ……?」
ゾッと寒気がするほどの冷淡で凍て刺す様な声に、コウモリの本能が警鐘を上げ、ガタガタと無意識に身体を震わせる。この女を捕らえたのでは無く、自分がこの女に捉えられているのだと気付いたときには、既に狩られる側なのだと理解した後だった。
「排除します。異界の侵略者よ」
右手に、大仰な装飾の入った白いウィンチェスター銃。
左手に、ストライクフェイスが付いた白いハンドガン。
およそシスターには似つかわしくない武装だった。
いつの間に、どこから、コウモリはそんなことを考える間もなく逃走を選択した。脇目も振らず、自分の最高速を持って、異界へ逃げ込もうと翼を羽ばたかせる。
自分の最高速が、人如きに捕らえられるわけが無いという自負もあったのだろう。
「あらあら、人を喰らっておいて、逃げられると思っておいでですか?」
しかし、コウモリはその声を聞いた。自分の真横からだ。振り向くと同時、ハンドガンから弾が三発発射される。
部分的に赤い粘液が飛び散ったものの、コウモリはすぐに再生し、再び羽ばたく。
「げひゃ……! 無、駄、だぁぁアアアッ!」
弾丸は粘性の体内に取り込まれ、溶けていた。
「ええ、知っていますとも」
むしろそれが狙いなのだと、シスターは言外に呟く。
刹那、溶け出した弾丸の中から無色の液体が漏れ出し、コウモリが痙攣して地に落ちる。
力無く横たわり、眼だけをぎょろぎょろと動かす様は、まるで死にかけのラットの様。
「聖水、だと……!? 貴様、まさか……」
シスターは死に体のコウモリの側に立ち、手慣れた手つきでウィンチェスター銃をコッキングして、ゆっくりと銃口を当てる。
「知っているぞ……! 貴様、教会の聖女、フランチェスカ・サルバトーレ……だな。西洋のエクソシストが、なぜこんな所にッ!」
コウモリの問いには答えず、スッと目を細めた。
「貴方こそ、日本の悪魔ではないですね。やはり、七大罪がこの国に逃げたというのは正しい情報だったわけですか。そうですか。徒労ではないようで安心いたしました」
「げひゃ、そうかそうか、聖女自ら追ってきたのか……げひゃひゃ、これは愉快、だ」
「貴方のような木っ端悪魔に居場所を聞いても無意味でしょう」
「ああ、そうだな。せいぜい貴様が来るのを、地獄で楽しみにしているぜぇぇぇ!」
一拍。
弾ける銃声、甲高く、確かな力強さを以て、圧倒的な暴力の音が響く。
ウィンチェスター銃から放たれた弾丸は、コウモリの中心を射貫き、穴を穿つ。
「げひゃ……銀の、弾丸」
穿たれた穴が燃えるように広がっていき、コウモリはやがて塵となった。
コウモリの存在が消えたと同時、路地は何も無かったかのように元の長さに戻る。
「さて、学校に戻りましょう。あまり長く開けていては、職を失ってしまいます」
シスター改め、フランチェスカもまた、何事も無かったかのように踵を返し、駅へ向かう。
なぜ、彼女がこんな非日常を送っているのか。
「あの日に私の人生は壊れ、早幾年。気付けばこんな歳ですか……」
フランチェスカは帰路の電車に乗り、流れる平和な景色を見送りながら、次第にうとうととし始め、眠りについた。
そして、過去の日常と、自身と家族に降り注いだ理不尽を、夢に見た。
毎週日曜投稿で頑張りまっす。