妻のおにぎりの味
朝、目を覚まして隣を見ると、妻の小さな寝息。
どうやら昨日が最後の朝でなかったことにホッとする。
彼女もまぶたを揺らして目を覚まし、小さくおはようとつぶやいた。
健康診断で見つかった小さな白い影は彼女の命があとわずかだということを告げていた。
よかったのは点滴を付けて自宅で余生を送れる。
彼女の最期を看取れるんだ。
しかし本当によかったのか?
日に日に細くなっていく体。軽くなっていく体。
それを見なくてはならない。
気付かれないように笑って過ごすのだ。
「どうだ。調子は」
「今日はすごくいいみたい。治ったのかも」
「おいおい」
「うふふ」
「そうだといいけどな──」
彼女はベッドから足を下ろして立ち上がる。
一歩が小さい。ペンギンみたいだ。
一歩。一歩。一歩。
「今日は何か作るね」
「おいおい無理すんなよ」
「憶えていて──」
「ん?」
「欲しいからさ」
「ん……ああ、そうか」
彼女の味。キミの味かよ。
正直好きじゃ無かった。最初の頃はさ。
薄味で、見た目はいいけど中身がない味。
だけどな。
だんだん好きになったんだ。
なってたんだよ。
あの肉じゃがも、白い味噌汁も。
色の薄い昆布出汁のおでんも、新婚旅行で行ったスペインの名前の分からない鳥料理も。
「ああ、グラシアスチキン?」
「勝手な名前付けんなよ。前は違う名前でいってたぞ?」
「だって名前覚えてないんだもん」
「だもんじゃねぇ」
まったく。いつものことだ。
これがずっと続くと思ってたのに。
ああ、神様なぜです──!
どうして彼女を奪おうとするのです!
「なにがいい?」
「じゃ塩おにぎり」
「おにぎり? それでいいの?」
「好きなんだよ」
分かったといって、彼女はエプロンをつける。
背中の紐を結ぼうとして力が入らず、長時間格闘する前に背中に回ってしめてやる。
「えへ。グラシアス」
「うっせ。早く作って横になれ」
彼女は作ってくれた。小さな塩おにぎり三つ。
そばで倒れないように見守っていたが大丈夫だった。すぐにソファに移動して彼女が勧めるままに塩おにぎりを食べた。
「どう? おいしい?」
「最高。いつもの味だ」
──ウソをついた。なにがいつもの味だ。
なぜだかしょっぱいぞ?
くそう。薄味に慣れたから塩気に敏感だ。
それに鼻がつまって味が分からない。
こんなにも憶えていたいのに。
「何その顔ー! えへへ。可笑しい」
バカ。そんな時は見て見ない振りするもんだ。
分かってないな。
こんなにも長くいたのにさ。
俺だって。まだ分からないこと多いのに。