第四章 五月二十四日~論理
その日……すなわち事件から三日が経過した二〇〇八年五月二十四日土曜日。品川署の第二会議室に、榊原の要請で事件関係者が一堂に会していた。
具体的には、直江の直属の部下である武蔵野彦光と坂室恵津子の両巡査部長。その横にはふてくされた表情の目撃者の西平靖奈がおり、さらにその横には先日大麻所持の容疑で逮捕された朝海涼香が手錠をかけた姿も見える。涼香については逮捕されたショックですでに憔悴しきった表情を浮かべていたが、そのすぐ傍には「真相がわかったので以前の約束通りそれをお伝えする」と榊原から言われてやって来た大科の同僚でもある守衛の青野康友の姿もあり、その隣にはその場に同席する事を希望していた小仲井英香が今さらながら不安そうな表情で控えていた。靖奈と涼香はなぜ生徒会長がこの場にいるのかわからないという風で、英香はと言うと彼女たちに対して複雑そうな視線を向けている。
そして彼らを見張るかのように、捜査一課長の橋本を筆頭に、斎藤や新庄と言った捜査一課の捜査員や九重と花咲里という荒川中央署刑事課側の捜査員らも勢ぞろいしている。ただ、昨日榊原に何事かを頼まれていた品川署の円城警部補だけはこの場に姿がなく、それがまた何か得体の知れない雰囲気をこの場に醸し出していた。
そして、そんな彼らの正面に立つ形で、私立探偵の榊原恵一がその場の全員を見つめていた。何かはわからない。だが、この場で事件を終結に導く何かが起ころうとしている……捜査員を含めた誰もがその予感に緊張し、榊原の話が始まるのを待っていた。
「……さて、どうやらそろったようですね」
その言葉に、その場の空気が一気に張り詰める。が、榊原はそれに動じることなく表向きは平坦な口調で続けた。
「ここに集まっていただいた方々は、私も含めて先日品川区の居酒屋前で発生した現職警官殺害事件の関係者と目されている方々です。事件では私の友人である荒川中央署の直江慎之助警部補が殺され、幸い意識は戻ったものの同じく友人の大科武夫君も重傷を負っています。私は探偵として自身が巻き込まれた事件を解決する責務があると思いますし、何より友人二人を私の目と鼻の先で死傷させた犯人を許す事はできません。そこで、私は警察にも協力して頂いた上で自分なりに事件を調べ、考察し、その結果事件の真相に達するに至りました。今日はこの場で、事件に関係した皆さんにその真相を明らかにし、この前代未聞の事件を終わらせたいと思います」
「たった三日で……犯人が……わかったんですか?」
坂室恵津子巡査部長が信じられないと言わんばかりに呻くが、榊原はその言葉に対してしっかり頷いた。
「そのつもりです。今回、私は誰が犯人なのか明らかにするにあたって、徹底した論理的思考の積み重ねから犯人を考察する事にしました。今からいかなる論理で犯人の特定に至ったのか……それをお話しましょう」
そう言うや否や、榊原は早速己の構築した推理を語り始めた。
「さて、唐突ではありますが、物事を解析するための論理的思考を行うにあたっては、その論理の出発点となる『前提条件』……論理学的に言うなら『命題』が必須となります。そして今回、私はこの事件の犯人を特定する論理を構築するために、ある『二つの事実』を前提条件として設定する事にしました」
榊原はそう言うと正面のホワイトボードに二つの『事実』を書いた。それは以下のようなものだった。
命題1 『犯人が、被害者たち三人が居酒屋で飲む事を知って待ち伏せをしていた事実』
命題2 『犯人が被害者を刺す直前に「直江慎之助だな?」と確認をしている事実』
それを書き終えると、どういう事かわからず首をひねっている聴衆に対して榊原は言葉を続けた。
「第一の命題は事件直後からすでにわかっていたものです。しかし、これだけではある程度犯人の条件を絞る事はできても、特定するまでには至りません。ですが、昨日大科の意識が戻って事件当時の事を証言した事により、第二の命題が明らかになりました。そしてその時点で、私はこの事件の犯人を一人に絞る事ができたのです」
「何を言っているのか……」
青野が呻くように呟くが、榊原は気にする様子もなく先に進む。
「ポイントになるのは、この二つの命題から事件について……もっと言えば犯人についてどのような事が推察できるのかという事です。では早速一つずつ見ていく事にしましょう」
そう言うと、榊原はいよいよ本格的な推理に入り始めた。
「まず、今回の犯行が突発的なものではなく直江警部補を狙った計画的な犯行である事に疑う余地はありません。犯人はレインコートを着るなどして正体を隠す工作をした上に、居酒屋から直江警部補が出てくるのを待ち伏せして襲撃しています。また、犯行の状況からも犯人の狙いはあくまで直江警部補一人であり、大科は犯人を捕まえようとした際の反撃で重傷を負ったと考えるのが妥当です。ところが、これが計画犯罪だと仮定した場合、ある点において一つ不可思議な事実があります。すなわち、犯行の前提となっているこの飲み会が、事件当日の夕方に英彩高校における大科と私の再会に伴って『突発的に発生した』ものだという点です」
榊原は一度聴衆を見回してからこう続けた。
「繰り返し言いますが、この飲み会は以前から計画されていた物ではなく、あくまであの日の夕方に直江警部補と何の関係もないところでその場のノリで突然決定したものです。もちろん犯人がこの飲み会の存在や、ましてそれに直江警部補が参加するなどという事を事前に知る事は絶対にできません。しかし、この事件の犯人は明らかに私たち三人があの居酒屋で飲み会をする事を知っていた上で待ち伏せし、計画的に直江警部補を殺害しています。ここからわかる犯人の条件……それは『我々三人が居酒屋で飲み会をする事を知っていた人物』です。では、これに当てはまる人物は誰がいるのか?」
その問いに、榊原は誰かが何かを言う前に自分で答える。
「先程も言ったように、今回の飲み会は私と大科が英彩高校の敷地内で偶然再会し、そこで大科の提案で飲み会の実施が決定して直江警部補に連絡を取って行われたものです。だとするなら、第三者がこの飲み会の実施を事前に察知できる状況は限られています。すなわち、『英彩高校の敷地内で私と大科の会話を聞いていた場合』か、『大科から飲み会実施の連絡を受けた直江警部補自身が職場でその事を話した場合』です。また、当然ながら予約の連絡を受けた居酒屋の人間も三人が飲み会をする事は知っていなくてはおかしいでしょう。ここからこの第一の命題に当てはまる人間が『英彩高校の関係者』『荒川中央署の関係者』『事件のあった居酒屋の関係者』のいずれかであるところまでは絞り込めます」
そこで一度言葉を切り、その場の反応を確認した上で榊原は次のステップに移った。
「ですが、第一の命題だけでは絞り込めるのはここまで。私も事件後すぐにここまでは思い至りましたが、それ以上が続かなかった。ところが、大科の意識が戻って第二の命題が明らかになった事により状況が変わりました。第一の命題でここまで絞った所にあの第二の命題が加わった事で、犯人の条件が一気に狭まる事になったのです」
「私にはよくわからないが、どういう事だ?」
橋本の問いに、榊原はこの場ではあくまで敬語で答える。
「ポイントは、計画的に直江警部補を狙っていた犯人がわざわざ犯行前に『直江慎之助だな?』と本人かどうかの確認を行っているという点です。一見見過ごしかねない些細な点ですが、冷静に考えればこれは奇妙な行動であると言わざるを得ません。というのも、標的が最初から決まっているのならば、相手が現職警官である以上、わざわざ犯行前に名前を確認するという行為はあまりにもリスクが大きすぎるからです。何しろすでにレインコートにマスクという全身を隠した怪しすぎる格好なのですから姿を見せただけでも警戒されかねず、被害者の前に堂々と姿を見せて名前を聞くなどという事をするくらいなら、居酒屋から出た瞬間にでも物陰から不意打ちして殺した方が手っ取り早く、かつ確実なのは明白です。にもかかわらず、今回犯人は特にメリットがないにもかかわらず、相手に警戒されて計画が失敗するリスクを負ってまで直江警部補の前に堂々と立ち、名前を確認してから被害者を殺害しています。これはどう考えても殺人犯の思考としては異常すぎる行動です」
榊原に指摘されて、室内が少しざわめいた。確かに、言われてみれば「犯行前に名前を確認する」という犯人の行動は不自然以外の何物でもない。そして、榊原はその不自然な犯人の行動を説明する推理を進めた。
「では、犯人はなぜこんなリスクが高くて無駄にしか思えないような行動をしたのでしょうか? 私の探偵としての持論の中に『自分の人生がかかっている以上、計画的犯行において犯人は無駄な事をしない。仮に一見無駄に見えるような行為があったとしても、そこには必ず必然がある』というものがあります。これに当てはめるなら、この一見無駄かつリスクが大きい『相手の名前を確認する』という行為にも何らかの『必然』が存在した事になります。ならばその『必然』とは何なのか? 最初から標的として狙っている以上犯人は標的の顔を知っていなければならない。しかし、そうなれば名前を聞くという行為に矛盾が発生してしまう。なので、私はここで発想を逆転させる事にしました。すなわち……」
直後、榊原は衝撃的な『論理』を告げた。
「犯人は直江警部補を計画的に狙っておきながら、実はそもそも直江警部補の顔を知らなかった。だからこそ、犯人は居酒屋から二人の人間……直江警部補と大科が出てきた時点でどちらが自身の狙っている直江警部補なのかわからず、リスクを冒してでもわざわざ二人の前に立ってどちらが直江警部補なのかを確認せざるを得なかった。これが『犯行前に名前を確認する』という一見矛盾した犯人の行動から、私のたどり着いた論理的な結論です」
「なっ……」
この発言に、主に警察関係者を中心に絶句する者が続出した。理屈はわかるし、他に考えようがないのも頭では理解できる。だが、犯人が標的の顔を知らないまま犯行に至ったという状況に頭がついていけないのも事実だった。
だが、榊原は止まらない。
「そしてさらに、この論理をさらに突き詰めていくと犯人についてさらなる情報を得る事ができます。それはすなわち、『犯人は標的の直江警部補の顔を知らなかったが、同時に大科の顔も知らなかった』という事実です」
「ど、どうしてそうなるんですか!」
西平靖奈が悲鳴を上げるように叫ぶが、榊原はあくまで冷静にそれに答えた。
「いいですか。仮に犯人が大科の顔を知っていたとするなら、それこそ二人の前に立って名前の確認をする必要性が全くなくなってしまうんです。というのも、居酒屋の前に立っているのが直江警部補と大科の二人だった以上、大科の顔を知っていたとすれば犯人はどちらの人間が大科なのか判断できる事になり、それはすなわち、残るもう一人が自身の標的である直江警部補であると簡単に判別できる事にもつながってしまうんです。そうなれば名前を聞く必要は一切ありません。単に大科とは違う方の人間に問答無用で襲い掛かればいいだけの話なんですからね!」
「ちょ、ちょっと待て!」
と、ここで橋本が榊原を止めた。
「話の腰を追って悪いが、今の推理には一つ抜け穴がある」
「何でしょうか?」
「その場にもう一人いた人間……つまりレジで精算をしていたお前の存在を忘れているという事だ。今までの論理だと、犯人は直江警部補の顔は知らなかったとしても、少なくとも直江警部補が三人で飲み会をしていた事は知っていたはずだ。もしそうなら、仮に犯人が大科の顔を知っていたとしても、もう一人が直江警部補だと即座に特定する事は難しい。なぜなら飲み会に参加していたのが三人で、店の前に姿を見せたのが二人だった以上、大科以外のもう一人が直江警部補と榊原のどちらなのか判断ができないはずだからだ。それなら犯人が大科の顔を知っていたとしても、犯行前に直江警部補の名前を確認した事に矛盾は発生しない」
だが、この橋本の反論に対し、榊原は小さく微笑んで応じた。
「さすが橋本一課長。ですが、その疑問に対する答えは解決済みです」
「何だと?」
「橋本一課長の言ったように確かにこのままだと論理に矛盾が発生してしまいます。しかし、実はこれを解決する論理もまた存在するのです」
「それは一体……」
「単純な話です。すなわち、『犯人は直江警部補と大科の顔は知らなかったが、もう一人の参加者である榊原恵一の顔は知っていた』という場合です」
「何だって?」
少しずつ複雑化していく論理に橋本が呻くように言う。
「犯人の立場に立ってみましょう。もし、犯人が私の顔を知らなかったとすれば、あの時点で犯人は『三人のうちレジで会計をしている人間が直江警部補である可能性』を排除できない事になってしまいます。そしてこの場合、犯人が表に二人しか出ていない状態で犯行を決行する事は絶対にあり得ません。なぜなら万が一レジで精算をしている人間が直江警部補だった場合、外に二人しかいない状態で名前を聞くなどという行為は空振りというか完全に自殺行為になってしまうからです。その可能性がある以上、もし犯人が三人全員の顔を知らなかったとした場合、犯人が犯行を決行して名前を確認するのは『レジで精算をしている人間が店を出て三人になった瞬間』しかあり得ません。にもかかわらず、犯人は今回の犯行で店の外に二人しか出ていない時点で犯行を決行しました。なぜか? それはすなわち、犯人はレジで精算をしている人間が直江警部補ではないという確証を持っていた……言い換えればレジで精算をしているのが私で、外に出た二人が私以外の二人であると知っていた事を示すんですよ」
榊原は一度息をついてさらに推理を続ける。
「そもそもの話、いくらなんでも犯人が三人全員の顔を知らなかったという可能性はないと思っていました。というのも、犯人が全員の顔を知らなかったとしたら、たとえ三人があの居酒屋で飲み会をしている事を知っていたとしても、そもそも居酒屋にいるどのグループが標的なのかという事までわからなくなってしまうからです。すなわち、犯人が三人のうち少なくとも一人の顔を知っていて、居酒屋にいるどのグループが標的なのか把握していたのは確実と言えるでしょう。先程までの論理からすでに犯人が直江警部補と大科の顔を知らなかった事は証明されていますので、犯人が知っていた可能性として挙げられるのは私以外存在しないという事になります」
「な、なるほど……」
今度こそ橋本も納得する。
「以上から、第一の命題に続いて犯人の条件がさらに絞り込まれました。すなわちその条件は『三人が飲み会で現場の居酒屋を利用している事を知っていながら、直江と大科の顔は知らず、それでいながら私の顔は知っていた人間』です。さて、そのような人間が存在するのでしょうか?」
榊原は一つずつ検証していく。
「先程私が第一の命題から犯人の可能性があるとしたのは『英彩高校の関係者』『荒川中央署の関係者』『事件のあった居酒屋の関係者』の三つです。しかし、『犯人は大科の顔を知らない』という条件から『英彩高校の関係者』が犯人である可能性は除外できます。なぜなら英彩高校の守衛であり毎日登校時にその顔を見ているであろう高校の関係者が大科の顔を知らないという事はあり得ないからです。また、これとは逆に『荒川中央署の関係者』も犯人から除外されます。当たり前ですが、署の関係者が同じ署に勤務している直江警部補の顔を知らないという可能性は考えにくいからです」
「なら、犯人は居酒屋の関係者……」
ところが、斎藤のこの呟きに異を唱えたのは他ならぬ榊原だった。
「しかしながら、実は論理を突き詰めるとそれさえも否定されてしまうのです。というのも、問題の飲み会にあたって居酒屋に予約の電話をしたのは大科で、店に到着した後も最後のレジの清算を除けば大科が幹事として店側に対応しているからです。つまり居酒屋側は『少なくともこのグループにおける幹事が大科である事』は知っていたはずで、ここから先程の『犯人は大科の顔を知らない』という条件が抵触し、居酒屋の人間も犯人候補から除外されるのです。そもそもの話、実際に居酒屋の店員に話を聞いたところ、事件発生当時に店にいた全ての店員の所在がはっきりしていたようですので、その点からも彼らが犯人である可能性は考えなくてもいいと判断します」
「おいおい、容疑者がいなくなってしまったぞ!」
橋本が呆れたような声を出す。が、もちろん榊原はこの程度では動じない。
「そう、つまりこの論理はまだ不十分なのです。従って、我々はこの論理をさらに突き詰め、『原則』から外れた『例外』を探っていく必要があるのです」
「まだ先があるのか……」
再び緊張が高まった所で、榊原は推理を次の段階に移した。
「ここでポイントになるのは、『犯人が直江警部補の顔を知らなかったにもかかわらず、直江警部補が大科や私と一緒に飲み会に参加する事を知っていた』点です。犯人はいつ、この飲み会に直江警部補が参加するのを知ったのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
「状況を整理しましょう。前提条件として、何度も言うように犯人は標的である直江警部補の顔を知りません。つまり犯人が仮に『我々が直江警部補と飲み会をしている』という情報を知らなかったとした場合、私たちのグループの飲み会に直江警部補が参加しているかどうかを確認するのは不可能という事になります。まぁ、我々は互いの名前を言いながら会話をしていたので居酒屋内部で我々の会話を聞いていれば直江警部補が面子にいる事を知るのは可能かもしれませんが、それができる居酒屋関係者が犯人でない事は先程証明した通りであり、なおかつ当日の客は全て事前に予約した人間ばかりで、不審な人間はいなかったというのが居酒屋の店員の証言です。つまり、犯人は居酒屋の中には入っておらず、居酒屋の外から窓越しに我々の姿を確認したとしか考えられません。その状況で『我々が直江警部補と飲み会をしている』という情報なしに『標的の直江慎之助』が飲み会に参加している事を外から見ただけで確実に判断し、他人かもしれない状況で殺害に打って出るのは無理がありすぎます」
榊原は淡々と言葉を紡ぎ出す。
「直江警部補の顔を知らない犯人が、彼が私たちの飲み会に参加している事を把握できる条件はただ一つ。すなわち、『大科が直江警部補に電話して飲み会に誘った事』を知っている場合です。大科は電話口で私が飲み会に参加する事も言っており、すでに述べたようにあの居酒屋は外からでも客席を見る事ができる構造になっていました。となれば、直江警部補が我々の飲み会に参加する情報さえ知っていれば、居酒屋の外から唯一顔を知っている私がいるグループを確認する事で直江警部補の顔を知らずとも標的を絞り込めます。つまり、犯人は大科と直江警部補が電話で飲み会の打ち合わせをしていた事を知っていた人間という事になり、これに該当するのは大科が電話をしていた『英彩高校の関係者』か、直江警部補がその電話を受けた『荒川中央署の関係者』しかあり得ません」
「い、いや、しかし、その二つの可能性は先程否定されたはずでは?」
武蔵野が遠慮がちにそう言うと、榊原は小さく頷いた。
「そう、この可能性は先程の『直江警部補と大科の顔を知らない故に、犯人は英彩高校と荒川中央署の関係者ではありえない』という論理と矛盾します。しかしここまでの論理が間違っているとも思えない。従って、この論理に修正を加える必要があるのです」
「修正?」
「すなわち、『犯人は英彩高校もしくは荒川中央署の関係者であったにもかかわらず、直江警部補と大科の顔を知らない人物だった』。これが新たに紡ぎ出された犯人を特定するための条件となります。そしてさらに、ここにもう一つの条件が付与されるのです」
「ま、まだ何か?」
武蔵野の問いに、榊原はさらなる論理を展開した。
「先程までの論理から、犯人は大科と直江警部補が電話で居酒屋での飲み会の打ち合わせをしている事を知っていた事になります。ところがこの光景を直接見ていたとすれば、見ている以上犯人は大科と直江警部補のいずれかの顔を知っていなければならないはずなのです。しかし実際は、犯人は両者の顔を知らなかった。つまり犯人は電話の内容を知りながらも二人の顔は知らないという不思議な状況に陥っているわけです。これを成立させる条件は二つ。一つは両者の携帯を犯人が盗聴していたというケースですが、これは技術的にも不可能と言っていいでしょうし、携帯を調べられたら一発で露見する事を犯人がするとは思えません。となれば、可能性はもう一つ。『犯人が電話の一件を知ったのは、直接的にではなく間接的伝聞からだった』というものです」
「間接的……伝聞……」
「平たく言えば『誰かに聞いた』、もしくは『その情報が何かに書いてあった』といったあたりですかね」
そう言ってから、榊原はさらに踏み込む。
「ここから改めて、『英彩高校の関係者』が犯人である可能性は再度否定されます。英彩高校の関係者が間接的に今までの情報を得ようとすれば、『大科が電話していた事が生徒の間なりで噂になっていてそれを聞いた』『大科が残したメモなりを読んだ』のいずれかになりますが、前者の場合は『学校の守衛が友人と飲み会に行く旨を電話で約束していた』などという何の面白みもない噂が具体的な友人や居酒屋の名前付きで流れること自体に無理があり、後者にいたってはそもそも大科がメモなど書いていない事は私自身が目の前で確認しています。よってこの可能性を考えるとすれば『荒川中央署の関係者』の筋しかあり得ません。こちらの場合は不本意ながら私がそれなりに名の知れた元警察関係者である事もあって、『直江警部補があの榊原元刑事と飲み会に行く話をしていた』という噂話が流れる事は否定できませんから」
そこで榊原は声のトーンを落とす。
「ただし、この場合でも一つ疑問が発生します。それは、犯人が我々の行く居酒屋の名前まで知っていたという点です。いくら先程のような噂話が流れたとしても、具体的な居酒屋の名前までが噂で流れる事は普通はないからです。つまり、噂話なりを聞いて犯人が犯行を決断した可能性はこれで完全に否定される。ならば残る可能性は一つしかあり得ません。犯人は、荒川中央署で直江警部補が大科から電話を受けた際に残した『メモ』を読んで情報を知ったという場合です。そして実際に、荒川中央署地域課にある直江警部補のデスクからはこのメモが発見されており、そこには私と大科の名前、さらに具体的な居酒屋の名前まで記されていました。犯人がこのメモを見た事は確実です」
今度は逆に榊原は一気に声を張り上げる。
「では、このメモを見る事ができ、なおかつ先程までの条件に当てはまる人間は誰なのか? 先程も言ったようにこのメモは直江警部補のデスクの上から見つかっており、すなわち犯人は直江のデスクに自然に近づける人間でなければならず、それはすなわち荒川中央署を訪れた一般人などではなく、荒川中央署に所属する警察関係者であると言わざるを得ません。しかし、何度も言いますように犯人は直江警部補の顔を知らないわけで、これは『荒川中央署の人間であれば直江警部補の顔を知っているはず』という条件に矛盾します。そして、この矛盾を解決する条件は一つしかありえないのです!」
「ちょ、ちょっと待て! まさか……」
橋本の顔色が変わり、全員の視線が室内にいる『ある人物』へ向いた。そんな中、榊原は淡々とした口調でこう締めくくる。
「以上が、今回先の二つの命題から私が導き出した論理的帰結です。そしてすでに皆さんおわかりのように、この論理に当てはまる人間はこの部屋の中にたった一人しか存在しません。ゆえに、その人物がこの事件の真犯人です」
そう言うと、榊原はおもむろにジッと『その人物』の方を見やり、ゆっくりと『その人物』の前に歩んでいくと、椅子に座って両手を握りしめながら何かに耐えるようにしている『その人物』を見下ろすように睨んで宣告した。
「さて、今までの推理、何か間違っているかね? あの日、事もあろうに私の目と鼻の先で直江慎之助警部補を殺害し、大科武夫に重傷を負わせた真犯人の……」
そして、榊原はその名を告げる。
「荒川中央署刑事課、永村花咲里巡査部長!」
その瞬間、真犯人……永村花咲里は途方に暮れたような表情で榊原を見上げた。が、榊原は容赦なく告発を続ける。
「一見虫も殺せぬ風を装った君こそが、この世間を揺るがした警官殺害事件の真犯人だ! 反論があるなら聞こうか!」
それは、現職の女性刑事とかつての伝説の刑事による論理の一騎打ちが始まった瞬間だった……。
「何で……何で私が犯人になっちゃうんですか!」
涙を浮かべながら必死にすがるような視線を向ける花咲里に対し、榊原は一切の感情を交えないような口調で告げる。
「何でも何も、君なら先程までの犯人の条件に全て合致するからだ」
「意味がわかりません!」
「今まで示してきた論理における犯人像を整理すると、『犯人は直江警部補のデスクに近づける荒川中央署の人間でありながら直江警部補の顔を知らず、大科の顔も知らないが私の顔は知っている人間』というものになる。まず、君は以前から私の顔は知っていたな? 最初に会った時に『探偵としての功績を知っている。写真で何度もご尊顔を拝見した』と言っていたはずだからな。同時に、何のつながりもない大科の顔を知らないのは自明の話だ」
「そんなの……そんなの私一人だけの話じゃありません!」
「あぁ、そうだ。だが君は同時に荒川中央署の関係者でもあり、すなわち直江警部補のデスクに近づいて例のメモを読むチャンスが存在する」
「それこそ署の人間だったら誰でもできる話です!」
「忘れるなよ。さっきの条件には『犯人は直江警部補の顔を知らない』という条件が付くはずだ。すでに言及したように荒川中央署の人間が同じ署に勤務する管理職の顔を知らないというのは考えづらい。が、これには一つ例外がある。すなわち、『犯人が事件当日に人事異動で荒川中央署に来たばかりで、まだ直江警部補に会った事がなかった』場合だ」
そう言ってから、榊原は隣に座る九重警部補に尋ねる。
「九重警部補、あなた方の話では事件当日荒川中央署には二人の人事異動者がいたそうですね?」
「え、えぇ。永村巡査部長と、もう一人はそこにいる地域課の坂室巡査部長ですが……」
「しかし、坂室巡査部長の所属は地域課。すなわち、地域課の係長だった直江警部補の顔は異動当日の挨拶の段階で確実に見ているはずで、直江警部補の顔を知らない事は考えにくい。よって彼女は犯人の条件に合致しないので犯人ではありえません。残るは一人、事件当日に荒川中央署に異動してきたものの、地域課ではなく刑事課だったため地域課の管理職である直江警部補の顔を知る機会がなかった人物……すなわち、永村巡査部長、君だけだ!」
と、ここで花咲里は椅子から立ち上がって必死に反論した。
「待ってください! さっきの話なら犯人は直江警部補のデスクのメモを読んだんですよね? 会った事もない人のデスクがどれかなんてわかるはずが……」
「普通の一般職員ならともかく、直江警部補は地域課の係長だった! ならば、そのデスクがどこにあるのかは本人がいなくとも簡単にわかるはずだ!」
間髪入れずに反論を封じられて花咲里が詰まる。すかさずそこに榊原は畳みかけた。
「一連の犯行を再現するとこうなる。君はかねてから直江警部補に対する何らかの動機を持っていた。そして異動当日のあの日、異動後の挨拶や手続きなどが終わってひと段落したところで実際に直江警部補の顔を見に地域課に行ったんだろう。何度も言うように君はこの時点では直江警部補の顔を知らなかった可能性が高い。いずれ殺す相手を確認しておきたいと思ったのは当然だ。だが、この時すでに直江警部補は退庁して席にはいなかった。その代り、君はそのデスクに残されたメモから直江警部補が私や大科と飲みに出かけた事を知った。そして、その時君の頭にある考えが浮かんだはずだ。これは直江警部補を殺す千載一遇のチャンスだと」
「千載一遇って……」
「自分の顔を知られないまま直江警部補を殺害できるチャンスだという事だ!」
榊原の剣幕に花咲里は思わずたじろぐ。
「相手は警察関係者。殺害時に自分の顔を知られていたら、自分の名前を断末魔に叫ばれたり、そうでなくとも何らかの痕跡を残されたりしてしまう可能性がある。また捜査においても顔見知りの犯行を疑うのは当然で、それは刑事課所属の君自身がよくわかっているはずだ。ところが、直江警部補がどこにいるのかを一方的に知っているこの状況下では、相手に自分の身元を知られる事なく犯行を行う事ができ、なおかつ捜査においても顔見知りでないがゆえに少しでも容疑から逃れる事ができる。何より、君自身が刑事課の人間だから事と次第によっては捜査本部の内側から捜査方針を捻じ曲げる事もできるという算段もあったんだろう。次の日以降になって顔を知られてからではこのアドバンテージは使えない。ゆえに、君は急遽予定を変更してあの日あの場所で直江警部補を殺害する事にした!」
「違います!」
花咲里は拳を握りしめながら絶叫した。が、榊原は一切動じる様子がない。
「では、聞こう。あの日、あの時間における君のアリバイは?」
「それは……ありませんけど……でも、それだけで私が犯人だなんて!」
「心当たりがない、と?」
「当然です!」
「……では、君の家を家宅捜索するといったらどうする?」
その言葉に花咲里はビクリと肩を震わせた。
「事件発生の翌朝には捜査本部が召集され、君もそこにずっと缶詰めになっている。その間、一度も家には帰宅していないはずで、そうなると君の自宅に決定的な証拠が残っている可能性がある」
「証拠品……」
「犯行当時に来ていた血染めのレインコート、それに血のついたナイフだ。発生から半日も経たないうちに捜査本部に召集されている以上、それを処分する時間的余裕がなかったのは明白。せいぜい、自宅に放り込んでおく事しかできなかったのではないかね?」
その言葉に花咲里の顔が歪む。
「無実だというなら家宅捜索をしても構わないはず。そこにいる橋本一課長が一声かければ、裁判所に令状請求すること自体は簡単だ。おそらく、この状況では裁判所もそれを認めるだろう」
「……どうなんだね? 永村君。反論があるなら今ここで聞くが」
橋本が静かに、しかし鋭い目で問いかける。が、花咲里は歯を食いしばって答えない。その反応がすべてだった。橋本はため息をつきながら言う。
「よろしい。私の責任で永村花咲里巡査部長の自宅に対する家宅捜索令状を裁判所に請求しよう。九重警部補、確か彼女は……」
「えぇ、独身ですので警視庁の女子寮に……」
「……まさか警視庁の女子寮に家宅捜索を入れる事になるとはな。そこから凶器が見つかったとなれば批判は免れられないが……こうなった以上、それはやむを得ない」
と、ここで花咲里が振り絞るように言った。
「待って……待ってください……」
「何だ?」
「仮に……仮に私の家から何かが見つかったとしても、それが犯行を立証する証拠になるというのは早計じゃないですか?」
榊原の眉が小さく動く。
「どういう事だね?」
「犯人が私に罪を着せるために、証拠を私の部屋に投げ込んだ可能性だってあるじゃないですか! それなら私の部屋から証拠が出たとしても犯人とは言えないはずです!」
おそらく、自分で言っていて苦しい言い訳だとはわかっているのだろうが、それでも花咲里は罪を逃れるために命懸けで反論する。が、榊原もそれを正面から受け止めて冷静に切り返す。
「つまり、犯人は罪を逃れるためにわざわざ警備が厳重な警察の女子寮に侵入し、他の怪しい容疑者を全てスルーして、どういうわけか表向き事件とは全く関係がない君の自室に証拠を放り込んだ、と。……君は、本気でそんな主張をするつもりなのかね?」
「なかったとは言えないじゃないですか! 少しでも可能性がある以上、頭から切り捨てる事はできないはずです!」
「こちらが提示した可能性を否定しておきながら、君がそれを言うかね」
「刑事として当然の主張です!」
「残念だが、事ここに至って、君に刑事を名乗る資格はない!」
二人による激しい言葉の応酬が続くが、すでにそんな言い訳をしている時点で、他の面々の彼女に対する疑いは増すばかりである。が、彼女はあくまでも必死だった。
「そ、それに……一番肝心な事を証明していません」
「それは?」
「動機ですよ! 何で私が会った事もない直江警部補を殺さないといけないんですか! それを説明してくれない限り、私は納得できません!」
その反撃を、榊原は真っ向から迎え撃つ。
「動機……ここに至ってそれを私が調べていないとでも思ったのかね?」
「……」
「私は、根拠もなく人を犯人扱いするような事はしない。しているからには、それ相応の根拠があるという事だ」
「あなたに何が……」
「事の発端は、直江警部が地域課に異動する事になった二〇〇〇年の事件。違うか?」
その一言に、花咲里の顔がいよいよ蒼ざめた。
「今から八年前、当時世田谷署少年課に所属していた直江警部補は繁華街をパトロール中に覚醒剤を使用していた少年を発見。これを追跡していたところ、慌てた少年が幹線道路に飛び出してそこにやって来たトラックにはねられて死亡するという事態に発展した。追跡行動自体に違法性はなかったものの、やはり警察官の追跡で被疑者が死亡したという事実は問題となり、結局直江警部補は程なくして大規模警察署の世田谷署少年課から中堅署である荒川中央署の地域課に異動する頃になった。実質的な左遷、といってもいいだろう。だが、この一件に対して直江警部補に殺意を抱いた人間がいたのは確かだと思う」
その言葉に、花咲里は必死に反論した。
「まさかとは思いますけど、私がその死んだ少年に関係しているとでもいうつもりなんですか? だったら調べてください! 私、覚醒剤を使うような少年に知り合いなんかいません!」
「言われなくとも調べてある。結果、問題の事故で亡くなった白田雅也という少年の関係者に君の名前は存在しなかった」
「だったら、私に動機なんか……」
「ただし!」
榊原は鋭く花咲里の言葉を遮りながら続ける。
「私は問題の事故の関係者が亡くなった白田という少年だけだと言ったつもりはない」
「え……」
「白田雅也は直江警部補の追跡が原因で車道に飛び出して事故死した。となれば、この事故には白田と直江警部補以外にもう一つ……『事故を起こしたトラック』という関係者が存在するはずだ」
その指摘に、誰もが息を飲んだ。橋本が緊張した様子で代表して尋ねる。
「榊原、お前は彼女が白田をはねたトラックの関係者だというつもりなのか?」
「そうなりますね」
だが、これに対して花咲里は顔を蒼くしながらも必死に反論した。
「何を言っているんですか? 私の親戚や友人にそんな事故を起こした人間なんか存在しませんし、大体さっき聞いた事件の話が本当なら、白田という少年が事故で死んだのは言ってしまえば自業自得です。その状況ならトラック側だって完全な被害者で、普通の事故と違って運転手に何らかの責任が負わされるとも思えません。どう考えても動機につながるはずが……」
「私がいつ、その関係者が『トラックの運転手』だなんて言ったかね?」
榊原は静かに反論した。
「……どういう意味ですか?」
「事故を起こしたトラックの運転手についてもすでに調査済みだ。その結果、運転手の関係者中に君の名前は確認できなかったし、また状況が状況だけに運転手側に事故の責任が発生する事もなく、現在も彼は同じ会社でトラック運転手を続けていた。だが大切なのはそこではなく、事故を起こした『トラック』がその時何を運んでいたのかという点だ」
と、そこで会議室のドアが開き、今までこの場にいなかった円城が緊張した様子で顔を出した。そして、みんなの前で先日榊原から頼まれていた事についての報告を読み上げた。
「榊原さんに言われてこの件についてはすでに調べてあります。問題の事故を起こしたトラックは『ハヤブサ運送』という会社の所有するもので、当時の積荷記録を確認させてもらった結果、事故当日に問題のトラックが運んでいた物が判明しました。事故当日、問題のトラックは品評会に出展するための彫刻を運んでいたようです」
「彫刻?」
予想外の品物にその場がどよめく。が、ただ一人、花咲里の表情だけが明らかに蒼くなっていた。
「『有藤澄人』という当時美大生だった若手彫刻家の作品で、出展先は日本の彫刻界で最も権威のある品評会だったそうです。実際、美大生ながら当時から彼の作品に対する評価はかなり高く、出展さえできれば受賞は間違いないとの前評判だったそうです」
「出展さえできれば、という事は……」
橋本の言葉に、榊原が後を受けて答えた。
「もう皆さん予想はつくと思いますが、品評会会場に運ぶ途中でこの彫刻を運んでいたトラックは直江警部補が追跡していた白田雅也にぶつかる事故を起こし、その際の衝撃で荷台にあった彫刻が横転。修復不可能なほどに破損してしまったそうです。もちろんこれは運送中の事故ですからハヤブサ運送側は莫大な弁償金を支払ったそうですが、失ったものは金銭で何とかなるような代物ではありませんでした。結局、作品を品評会に出す事ができなかった有藤澄人は落選。しかも、当時の有藤澄人は余命を宣告されるほどの難しい病に倒れていて、自分の持てるすべてをこの作品と品評会に注ぎ込んでいたそうです。人生の最後に最高の作品を作り、その作品で最高の賞を受賞する事で自分の生きた証を残したい……当時の友人たちに話を聞くと、最後の力を振り絞って作品を製作していた彼がそんな事を話しているのを聞いたそうです」
「だが……せっかく完成させたその作品は、白田の起こした事故で破損し、結局彼は品評会で賞を取る事はできなかった」
橋本の表情が重苦しくなる。
「有藤澄人の落胆ぶりはかなりのものだったそうです。受賞を逃した事は元より、自分が残る力を全て振り絞って作った作品が修復不可能なほどに壊れてしまったのだから無理はありません。彼は人生の最後に、自分の生きた証を残せなくなってしまったんです。そのショックのせいかはわかりませんが、有藤澄人は事故から数週間後に病状が急激に悪化し、それからわずか二ヶ月で鬼籍に入っています」
そう言うと、榊原は改めて花咲里の方を睨んで続けた。
「さて、この事実が判明した時点で、私はこの有藤澄人という若き彫刻家の周囲を調べた。事故の結果、有藤澄人は人生の最後の希望を潰され、絶望のまま死んでいった。となれば、彼の関係者にはこの事故を起こした人間に対する深い恨みが残るはずだ。だが、肝心の白田自身は事故で死んでいるし、トラックの運転手もいきなり飛び出してきた白田を避ける事は事実上不可能でこちらを恨むのは筋違いだ。となれば、有藤澄人の関係者の恨みの矛先が向くのはただ一人。白田が幹線道路に飛び出す原因を作った直江警部補という事になる。その上で、だ。有藤澄人の家族について調べた結果、彼は小さい頃に両親を事故で亡くし、その後妹と二人で暮らしていた事がわかった。事故当時高校生で、この時は『有藤花咲里』という名前だったその有藤の妹こそが……」
「やめてください!」
直後、花咲里が絶叫した。そして全員が見つめる中、涙を流しながらかすれた声でいう。
「やめて……ください……」
そしてその場に崩れ落ちる。誰も言葉を発さない。ただ、黙って彼女を見つめている。
「……これ以上、続ける意味はないと思うが……まだ抵抗するかね?」
そんな中で発せられた榊原のその言葉に、花咲里は泣きながら力なく首を振る。その瞬間、この事件がついに終焉を迎えた事を、この場の誰もが悟っていたのだった……。
同日、警視庁は本人が自供したという理由で荒川中央署刑事課の永村花咲里巡査部長を任意同行し、本人の自宅である警視庁女子寮を家宅捜索した結果、犯行に使用したと思しき血のついたレインコートと包丁を発見。付着した血痕が被害者二名のものと一致した事から正式に逮捕状を請求し、同日の夕方には正式に逮捕となった。世間を騒がせた現職警官殺害事件は、まさかの同じ現職警官が犯人だったという事で世間に衝撃を与え、マスコミは一斉にこの事実を報道した。
逮捕後、花咲里は素直に犯行を認め、動機がかつて直江警部補の追跡によって発生した事故が原因で絶望のままに死ぬ事になった兄・有藤澄人の復讐である事も自供した。というより、彼女が警察官になったのも、全ての元凶である直江警部補に復讐するためだったのである。そのためだけに彼女は高校卒業後、名字を母方のものに変更した上で大学に進学する事もなく高卒で警察官採用試験を受け、見事に採用を勝ち取っていた。
ただし、この事故については当時の警視庁側も必要以上の情報公開をしなかったため(というより直江警部補は法律上なんら違法行為をしたわけではないので公開できなかったという方が正しい)、彼女にわかっていたのは「その刑事が当時世田谷署少年課に所属していた事」だけだった。ゆえにいざ警視庁に入庁してもその職員の多さゆえに対象の人間が今どこにいるのかを調べるのは難しく、何とか最近になって当時の捜査記録からその刑事の名前が「直江慎之助」である事までは掴めたものの、日々の業務の忙しさもあってそれ以上がわからず復讐を諦めかけていたのだという。
だから、異動先の所轄署の地域課の係長の名前が「直江慎之助」である事を知ったときには心底驚き、そしてこれが最初で最後のチャンスであると自分を奮い立たせたらしい。その後は概ね榊原の推理通りで、標的の顔を確認しに地域課に出向いたところメモから直江が榊原たちと飲みに行った事を知り、顔をまだ知られていないこの段階で直江を殺す事を決意。犯行に至ったという流れであった。
「……一つ、聞きたい事がある」
全てを聞き終えた後、取り調べを担当した斎藤警部は、疲れ切った表情で取調室の正面を見据える花咲里に対しておもむろにそう問いかけた。
「君は少なくともメモを読んだ段階で、問題の飲み会に榊原さんが参加する事は知っていたはずだ。そして、君は榊原恵一という男がかつて警視庁伝説の刑事と呼ばれ、今も数々の事件を解決する名探偵である事も知っていたはず。ならば、その榊原さんの目の前で殺人事件を起こせば、彼が探偵としての威信をかけて捜査に介入する事は充分予測できたはずだ。そのリスクがあるにもかかわらず、なぜ君は犯行をやめなかった? なぜ榊原さんに真っ向から挑戦するような無謀な事をした?」
それに対する花咲里の答えは簡単だった。
「単純な話です。私は、あの人……榊原恵一が警察内部でいわれるほどの『名探偵』だと信じ切れなかったんです」
「ん?」
「確かに先輩からいくつか武勇伝は聞きましたし、関係した事件の捜査記録もいくつか読みましたけど、正直ピンときませんでした。見せてもらった顔写真も、何というかごく普通の何でもない平凡なサラリーマンみたいな感じで、こんな人が今でも警察関係者の間で伝説になっている人だとは思えなかったんです。それは事件の後で実際に会ってみてもそうで、あの時点では完全に侮ってしまっていました。何より……」
「何より?」
「……直江警部補と同期の人間だとわかった時点で、私の頭の中では榊原という人の評価が一気に下がってしまったんです。直江の友人なら、彼もまた私が憎んでも飽き足りない直江と同類の人間に違いないって。そんな人間が相手なら私は充分に騙しきる自信がありましたし、逆にそれだけ警察に信用されているなら彼を誤った推理に誘導する事で罪を逃れるための補強工作ができるかもしれないと……今思うと、そんな馬鹿な事を考えていたんです」
もちろん、見た目と違って榊原がそんな小細工に引っかかるような凡人でない事は斎藤がよくわかっていた。大抵の場合、犯罪者の多くは榊原の一見地味でさえない風貌に騙されて油断し、気付いた時には手遅れになっている事が多いのである。
「それで、実際にあの人と対峙し、追い詰められた感想は?」
その問いに、花咲里は虚ろな表情で呟くだけだった。
「……人は見かけによらないというのは本当なんですね……。あんな……犯人の私でも予想できない論理で追い詰めてくるなんて……正直、生きた心地が全くしなかったし、最大の敵を見かけと印象で判断して過小評価してしまった自分の甘さと愚かさを嫌というほど味わう羽目になりました……。そもそも……直江を刺す前に言ったたった一言から私にまで到達してしまうなんて、そんなの想定できるはずがないじゃないですか……」
「まぁ、その点は間違いないだろうね。私としても、絶対に敵には回したくない人だ」
斎藤がそんな感想を言うと、ここで花咲里はどこか遠くを見ながらこんな事を言った。
「もしも……もしもあの事故の時、白田を追いかけていたのが直江じゃなくてあの人だったら……私の人生も大きく変わっていたのかもしれませんね……そう思いませんか?」
「……それは言っても仕方がない事だ。本当に……残念だよ」
そう言うと斎藤は、道を踏み外してしまった目の前の元後輩に向かって、小さくため息をついたのだった……。