第三章 五月二十三日~進展
翌日五月二十三日金曜日早朝、閑静な住宅街の一角に、一台の乗用車が停車していた。見たところは普通の路上駐車のように見えたが、問題はその運転席と助手席にスーツ姿の二人組の男が乗っている事である。
二人は車の中から、密かに近くの家を見張っていた。そしてしばらくすると、その家の中からセーラー服を着た女子高生が周囲をキョロキョロと見回しながら出てきた。それを見て、助手席の男が運転席の男に声をかける。
「おい」
「えぇ」
言葉の応酬は短かったが、両者ともそれで意思疎通ができたようだった。二人は車を降りると、そのまま少女を尾行し始める。少女の方も辺りを警戒してはいるようだが、いかんせん二人の尾行がうまいためか、自分がつけられている事に気付く様子はない。
やがて少女は、住宅街の一角にあるゴミ捨て場に到着した。そして、この時だけはさらに慎重に周囲を見回した後、鞄の中から小さな紙袋を取り出してカラス避けのネットの下のゴミ袋の一つに素早くねじ込み、そのまま何食わぬ顔でその場を去ろうとする。
だが、それと同時に、いきなり尾行していた男二人がゴミ捨て場に近づき、少女の前に立ちふさがった。突然の出来事に少女の表情が真っ青になる中、男のうちの一人が今しがた少女の捨てた紙袋を回収して中身を確認する。そして、確認した男が黙って頷くのを見て、もう一人の男がポケットから警察手帳を取り出して少女に見せた。
「警察の者です。英彩高校の朝海涼香さん、ですよね?」
そう聞かれて、少女……朝海涼香はすでに体を小さく震わせている。だが、もう一方の男はそんな彼女の様子を無視するように、紙袋の中を見せた。
「君、今これを捨てたよね? これが何なのか、説明してもらえるかな?」
紙袋の中……そこには細かく砕かれた葉っぱのようなものがパック分けされて入れられており、見る人間が見ればそれが何なのかは一目瞭然だった。だが、涼香は振り絞るような声で苦し紛れの反論をする。
「その……庭掃除した時のゴミで……」
「ただのゴミをこんなに丁寧にパック詰めして、なおかつこんな朝早くにゴミ捨て場に捨てる……自分でも変だと思わないかな?」
そんな中、紙袋を回収した刑事が何かを取り出した。それは麻薬などの試薬キットで、刑事は涼香に対して宣告する。
「今からこの葉っぱを試薬の中に入れます。普通の葉っぱだったら色は変化しない。でも、色が変化したら……」
そう言って、刑事は躊躇する事なく葉っぱを試薬の中に入れた。軽く振ると、試薬の色が変わる。それでもう充分だった。
「決定的だな」
そして、刑事は涼香に対して宣告した。
「朝海涼香、君を大麻所持の容疑で現行犯逮捕する」
その言葉に、涼香はガタガタと体を大きく震わせながら、その場に崩れ落ちてしまったのだった……。
「榊原さんの予想通りでした」
その日の午後、品川署の小会議室に案内された榊原に斎藤警部が開口一番そう言った。
「やっぱり麻薬か」
「えぇ。榊原さんに言われて昨日から最寄り所轄署の少年課と生活安全課の人間が朝海涼香の周辺捜査を行っていたんですが、多分怖くなったんでしょうね、今朝になって不用心にも自分からゴミ捨て場に大麻を捨てに行って、それを尾行中の刑事に目撃されて現行犯逮捕されました。正直、逮捕するには証拠が足りなかったので長期間の内偵が必要かもしれないというのが所轄署側の見解だったんですが、結果的には相手側が自滅する形になってスピード逮捕となりました。自分の学校の警備員が殺されかけていつ学校に警察の捜査が入るかわからない状況で、手元に大麻を置いておくのが怖くなったようです。証拠を押さえられた形になったので、本人も素直に罪を認めています。今、尿検査も行っていますが、使用の痕跡があったのでおそらく陽性反応が出るでしょう」
「入手経路は?」
「そっちは現在調査中です」
そこまで言って、斎藤は改めて榊原に尋ねた。
「なぜ、彼女が麻薬をしていると?」
「スリの被害に遭った時の彼女の反応を見ればそう疑いたくもなる。あれだけかたくなに他人に財布の中身を見られるのを恐れるような態度を取っていたという事は、おそらく財布の中に他人……特に警察関係者に見られるとまずいものがあったという事だろう。高校生という彼女の身分と、それが財布に入るくらいの大きさである事から考えるなら、候補として考えられるのは煙草か薬物だ」
「確かに、そんなものが入っている財布をスリに盗まれたり、警察官に確認されたりしたら彼女自身が身の破滅ですね」
「直江が不審に思ったのもある意味当然だ。特にあいつは元々少年課の刑事。この手の事案にはかなり慣れていたはずだから、彼女の態度からその可能性を考えたとしても全く不思議ではない。となれば、個人的にこの件を調べていた可能性は充分にありうる。実際、直江は事件前日に英彩高校の校門辺りをうろついていたようだが、これは朝海涼香の態度を不審に思って独断で探りに来たと考えれば説明がつく」
「麻薬をやっていた側からすれば、事件をほじくり返そうとする直江警部補の存在は目の上のたん瘤ですね」
「あぁ。すなわち……動機が生まれる」
そこで榊原は斎藤を見やった。
「直江殺害時刻における朝海涼香のアリバイは?」
「聞いてみましたが、自宅に一人でいてアリバイらしいアリバイはないと証言しています。彼女の両親は共働きで、証人らしい証人もいないのが実情です。ただ、彼女の家を家宅捜索しましたが、大麻使用の痕跡は少なからず見つかったものの、殺害の証拠となる凶器や血痕などは発見されていない状態です。……榊原さんは、彼女が犯人だと考えているんですか?」
「その可能性がないとは言えないが、あの学校で大麻をしていたのが朝海涼香一人だけだったとは限らない。他にも大麻を使用していた人間がいた場合、そいつにも直江警部補に対する動機が成立するはずだ」
「現在、それに関しても学校内での内定調査を進めています。ひとまず、朝海涼香と特に交流があった美術部員に対する取り調べを強化していますが、もしかしたら捜査対象者がさらに増える可能性もあります」
と、その時、新庄警部補が息を切らせて飛び込んできた。
「警部! 警察病院からです! 大科武夫さんの意識が戻ったそうです!」
その知らせに、二人はその場で立ち上がり、すぐに警察病院に行く準備を始めたのだった。
それから一時間後、榊原と斎藤が警察病院の病室に入ると、大科はベッドに寝転んだままぼんやりとした様子で天井を見上げていた。そして、榊原がベッドの傍に行くと、大科はその視線を榊原の方へと向けた。
「あぁ……榊原……俺は……どうなったんだ……」
どこかぼんやりとした口調で尋ねる大科に対し、榊原はしっかりとした口調で答えた。
「太ももを刺された。命に別状はないが、ついさっきまで意識を失っていた。あれからもう二日経過している」
「……そうか……俺は直江を刺した奴を追いかけて……直江はどうなった?」
当然の問いに対し、榊原は少しためらった後、黙って首を振った。
「そうか……悔しいな……俺が傍にいながら……」
大科は顔を歪ませてそう言った。だが、時間がない。榊原は心を鬼にして質問に移った。
「悪いが、いくつか聞きたい事がある。話を聞いてもいいか?」
「……あぁ、もちろん。……お前が調べているなら心強い」
大科は小さく頷いた。
「辛いだろうから手早く済ます。あの時、私が勘定を引き受けて君らが店を出た後、店の外で一体何があったんだ?」
その問いに、大科は少し黙って頭の中を整理しているようだったが、やがて思い出しながらではあるがポツポツ語り始めた。
「店を出てお前を待っている間、この後どこか二次会に行かないかという話になった。いい店を知らないかという話になって、結局直江が知っていたラーメン屋に行こうという事になった」
「その店の名前は?」
「……わからない。直江は単に『近所に美味いラーメン屋がある』としか言わなかったし、それにその後すぐにそれどころではなくなった」
「というと?」
「店のすぐ近くを若い女の子が歩いていた。一見大学生に見えたが、その顔に見覚えがあった。俺が守衛をしている英彩高校の生徒の一人に似ていたんだ。すぐに深夜徘徊を疑って、直江にもその事を話した。あいつも現職警官だけあって本当に深夜徘徊なら見逃せないと思ったらしく、二人でその子に声をかける事にしたんだが、向こうもどうやらいつも校門で顔を見る守衛が目の前にいるのに気づいたらしくてな。引き返そうとしたから反射的に追いかけようとしたら……いきなりレインコートを着た誰かが俺たちの前に立ちふさがった」
いよいよ事件の話になり、傍らに控える斎藤達の顔に緊張が浮かぶ。が、榊原はあえて淡々とした口調で質問を続けた。
「そいつの顔はわかるか?」
「わからない。フードをかぶっていてそもそも見えづらかったし、マスクとサングラスもしていて人相もわからなかった。悪いが、男か女かもわからない」
「……わかった。それで?」
「いきなり立ちふさがられて何事かと思ったら、急に向こうがくぐもった声で『直江慎之助だな?』と聞いてきた。直江が『そうだ』と答えたら、いきなりあいつは直江に向かって正面から体当たりするような仕草を見せて、直後に直江の口から『ウッ』といううめき声が聞こえてそのまま地面に崩れ落ちた。何が起こったのかわからなくて倒れた直江を見たら、地面にじわじわと血が流れてきて、俺は直江が今の奴に刺されたと直感した」
生々しい証言に全員が息を飲む。
「それから?」
「相手はすぐにその場から逃げようとして、その前に俺と直江で声をかけようとしていた女の子が血を流して倒れる直江を見て悲鳴を上げた。俺は咄嗟に犯人に追いすがって少し行ったところでもみあいになったんだが、その途中で太ももに鋭い痛みを感じてその場に崩れ落ちてしまって……気が付いたらこうして病院のベッドの上にいた。覚えているのはそれだけだ」
榊原は少し何か考え込んだ後、いくつか追加の質問を加えた。
「お前から見て犯人の心当たりは?」
「ない。俺だって直江と飲むのは半年ぶりくらいだったからな。ただ、狙いが俺じゃなくて直江の方だったっていうのは犯人の言動を見れば何となくわかる」
「一応聞くが、直江とお前は互いの境遇を知っていたのか?」
「……何でそんな事を聞くのかはわからないが、答えは『知っていた』だ。完全に没交渉になったお前と違って、さっき言ったように、半年ほど前に一度飲んではいるからな。その時に互いの近況は話していた」
つまり、直江は大科が英彩高校に勤務している事を知った上で事件前日に英彩高校を訪れた事になる。その日はたまたま大科がいなかったので結局校門を見張っただけで帰ったのだろうが、本当は大科に会って直接朝海涼香についての話を聞こうとしていたのかもしれない。
「そうか……なら次に、お前たちが声をかけようとしていた少女はこの子で間違いないか?」
榊原はそう言って西平靖奈の写真を見せる。案の定、大科は小さく頷いた。
「あぁ。校門にある守衛の詰所の前を通るのをよく見る。遅刻ギリギリに来る事が多くて、青野さんがよく怒っていたから顔を覚えていた。やっぱり深夜徘徊だったのか?」
「そうだ。最初は大学生だと言っていたが、少し問い詰めたらすぐに白状した。深夜徘徊の件については警察がしっかり灸をすえたが、事件の重要参考人だから今も捜査本部近くのホテルに滞在してもらっている。本人はかなりショックを受けているようだがな」
「そうか……これを機に反省してくれるとありがたいんだがな」
大科は小さく息を吐く。一方、榊原は続いて先刻逮捕された朝海涼香の写真を見せた。
「彼女に心当たりは?」
「……確か、美術部の部長をしている子じゃないか?」
「知っているのか?」
「あぁ。各部活動の部長は教室の鍵の貸し借りや文化祭南下の警備の打ち合わせ何かがあるから顔を合わせているんだ。で、この子が何か?」
「ついさっき、別件で逮捕された」
簡潔ではあるが唐突な言葉に大科は呆気にとられる。
「逮捕、だと?」
「容疑は大麻所持及び使用。今、尿検査を行っているが、おそらく陽性反応が出るはずだ」
「そんな……」
「……この朝海涼香という少女は事件の二日前に通学途中の地下鉄車両内でスリに遭っていて、それをたまたま目撃した通勤途中の直江が犯人を現行犯逮捕。その際にすられた彼女の財布をその場で直接返還している。だが、その際の彼女の態度を不審に思い、すられた財布の中に何か人に見られたくないものがあるのではないかと疑惑を抱いたようだ」
予想外の話に大科は絶句している。
「これは想像だが、もしかしたらあの日、直江がお前の飲み会の誘いに乗ったのは、この件について同校の守衛であるお前にさりげなく探りを入れるつもりだったかもしれない。実際、事件の前日のお前が休んでいた日に、直江が英彩高校の校門近くにいたのをお前の同僚の青野さんが目撃している」
「本当か?」
「あぁ。もしかしたら、事件前日の時点でお前に直接会ってこの一件について話をしようとしていたのかもしれない。で、翌日に都合よくお前から飲み会の誘いがあって、渡りに船とばかりにこれに乗った」
「……確かにそう考えると辻褄が合うな。しかし……あの子が大麻とは」
大科は深く息を吐いてベッドに身を沈めた。
「……他に何か聞きたい事はあるか?」
「いや、今のところはこれで充分だ」
「そうか……榊原」
「何だ?」
「あいつの敵、取れるか?」
短い質問だった。が、榊原は間髪入れずに答える。
「もちろんだ」
「……なら、後は任せた」
「あぁ、任された。お前はしっかり養生しろ。ここからは私の仕事だ」
「……期待しておこう」
その言葉に頷くと、榊原は病室を出ていく。そして、後に続いた斎藤が病室のドアを閉めたところで、不意に榊原はこう言った。
「斎藤、橋本に伝えてほしい」
「何ですか?」
そして榊原は告げる。
「今の証言で犯人がわかった。ついては、一つ調べてほしい事がある、と」
「犯人がわかったというのは本当か?」
榊原が捜査本部に帰ると、待ち構えていた橋本がそう尋ねた。
「あぁ。ひとまず、犯人を特定するための材料はそろったと考える」
「一体、誰だ?」
「それを言う前に、もう一つ補強しておきたい事がある。さっき電話で頼んだ事は?」
「あぁ、もちろん調べた」
そう言うと、橋本は背後に控えていた円城警部補が緊張した様子で報告書を読み上げた。
「直江警部補の経歴を調べた結果、気になる事案が一つ見つかりました。世田谷署少年課時代の事案です」
そう前置きしてから円城は詳細を述べる。
「今から八年前の二〇〇〇年、仕事で繁華街を見回っていた直江警部補があるビルの裏路地で挙動不審な様子を見せる少年を発見し、職質をしようとしたのですが気付いた少年が逃亡したためこれを追跡。ところが数分後、追跡を振り切れない事に焦った少年は幹線道路に飛び出してしまい、直後に走行してきたトラックにはねられて即死しました。少年の遺体を解剖した結果体内から覚醒剤が検出され、ポケットからも覚醒剤入りのアンプルを発見。この事から少年は覚醒剤使用の発覚を恐れて逃亡したとされ、追跡を行った直江警部補の行動自体に違法性はないとされたのですが……結果的に直江警部補の追跡で少年が死亡してしまったのは間違いないためかなり問題となり、最終的に直江警部補が世田谷署少年課から荒川中央署地域課に異動する原因の一つとなっています」
「その件で死亡した少年の関係者は調べましたか?」
榊原の問いに、円城は頷いた。
「さすがにそれは調べています。死亡したのは白田雅也という高校生ですが、彼の関係者に今回の事件に関係した人間は存在せず、また遺族などのアリバイもすべて確認されていますので、彼らが今回の事件に関与した可能性は限りなく低いと思われます」
それを聞いて、榊原は静かに頷いた。
「そうか……。ありがとうございます。これで何とかなりそうです」
そう言うと円城に対して何か頼み事をした上で、榊原は橋本の方を振り返って告げる。
「橋本、悪いが今から言う事件の関係者たちを明日ここに集められないか?」
「できなくはないが……一体、何をするつもりだ?」
橋本の問いに対し、榊原は小さく笑いながらこう言った。
「たいしたことじゃない。容疑者たちの前で、ちょっとした論理学の講義をするだけだ。……『真相』というテーマの、な」
そう言いきった榊原の目には、すでにこの事件の真相がはっきり見えているようだった……。