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直江事件  作者: 奥田光治
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第二章 五月二十二日~捜査

 翌日五月二十二日木曜日正午頃、最寄りの品川署の会議室に「品川繁華街現職警官殺害事件」と書かれた捜査本部が設立され、数百人単位の捜査員が導入された。何しろ現職警官の殺害事件という事で上層部の気合の入れ方も尋常ではなく、名目上の最高責任者に刑事部長の田村元信警視監、実際の捜査責任者として捜査一課長の橋本隆一警視正と品川署署長の二名、実際の捜査の指揮を斎藤警部が行うという布陣が結成された。

 捜査員全員が緊張する中、斎藤の合図で事件についての報告が開始され、捜査員たち……斎藤の部下である新庄警部補をはじめとする捜査一課の刑事たちや品川署刑事課の円城警部補、それに本庁から急遽派遣されて来た警視庁刑事部鑑識課の鑑識官らがそれぞれ立て続けに情報を報告していく。

「えー、昨日午後九時十一分、品川区××の繁華街にある居酒屋『飲兵衛』品川店において、店側から『店の前で男性が刺された』との通報があり、警察官が駆け付けたところ男性二名が血を流して倒れているのが発見されました。被害者は警視庁荒川中央署地域課係長の直江慎之助警部補と、私立英彩高校守衛で元警視庁巡査部長の大科武夫。直江警部補はほぼ即死状態で、大科氏は太ももを刺されて意識不明の重傷であり、現在集中治療を受けています」

「被害者は事件当夜、友人数名でこの居酒屋で午後七時頃から飲んでいました。参加したのは直江警部補と大科氏の他、私立探偵で元警視庁刑事部警部補の榊原恵一氏の三名。三人は警察学校の同期で、大科氏と榊原氏の二名はすでに警察を退職しており、直江警部補のみが現職でした。飲み会の経緯は私立探偵の榊原氏が大科氏の勤務する英彩高校で起こったいたずら電話事件への対処を依頼され、その際に大科氏と再会し、直江警部補を誘って飲み会になったというものです。直江警部補は勤務が午後五時までで翌日が休暇だったためこの誘いに応じ、現場の居酒屋に集まって先述したように午後七時から飲み始めています」

「事件は午後九時過ぎ、三人が居酒屋を出るときに起こりました。三人の中で榊原氏がレジでの支払いを請け負い、直江警部補と大科氏は先に店から出て榊原氏を待っていたのですが、そこで何者かに襲撃されたという事です。事件は当時現場近くを深夜徘徊していた女子高生・西平靖奈によって目撃されていますが、それによれば二人が店を出て立っていたところにどこからか黒いレインコートを着た人物が二人の前に立ちふさがり、数秒後にいきなり持っていた刃物で直江警部補の腹部を刺したとの事です。直江警部補はその場に倒れ犯人は逃走を図りますが、大科氏が即座にそれを追いかけ数メートル先で格闘となり、もみ合う中で刃物が大科氏の太ももに刺さって大科氏も倒れ、犯人はその隙に近くの裏路地に入って逃亡したとの事です。この西平靖奈については大科氏が勤務する英彩高校の生徒である事が判明したため、現在事件に関係あるかどうかを調査中です」

「犯人の人定については現在不明。西平靖奈の証言では犯人は黒のレインコートをかぶっており、しかも背中越しの目撃だったため顔等は見ておらず、男女の区別もわかっていません。身長については被害者との対比などから目撃証言により一七〇センチ前後と思われますが、目撃者である西平靖奈の記憶自体がやや混乱気味である上に、仮に証言が正しくても靴などで底上げも可能なため、あまり過信はできないと思われます」

「解剖の結果、被害者の直江警部補は腹部を正面から深く刺されており、臓器損傷及び大量出血に伴う急性ショックでほぼ即死と断定されました。死亡推定時刻は昨日午後九時前後で、目撃証言などからもこれは間違いないでしょう。血中からアルコールが検出されていますが飲み会直後だった事を考えれば妥当な数字で、その値から考えるとほろ酔い程度で泥酔状態だったとは言えず、刺された時点でもふらつく事なく自己判断が充分に可能な状態だったと考えて間違いありません」

「逃亡ルートや逃亡先については不明。近隣防犯カメラにもそれらしい人物は映っておらず、引き続き捜査が必要と考えます。また、犯行時着ていた返り血のついたレインコートや凶器の刃物も発見されていません」

「犯人が真っ先に直江警部補を刺している点、直江警部補を刺した後すぐに逃亡を図った点などから、あくまで犯人の目的は直江警部補の殺害であり、大科氏への殺人未遂は逃亡を邪魔された事に対する反撃だと考えるのが妥当でしょう」

 現職警官が殺害されたというだけでも大事件だが、関係者の中に警察内部でも未だその名を知られる名探偵・榊原恵一の名前が出るにあたってこれが尋常でない事件であるという事は明らかであり、捜査員たちは皆が皆険しい表情を浮かべている。

「被害者の直江警部補の経歴は?」

「出身地は東京都北区。都内の明正大学文学部卒業後の一九八九年に警視庁に入庁し、警察学校卒業後に板橋南署地域課に配属。交番勤務を経て同署交通安全課に異動した後、一九九四年に世田谷署少年課に異動。一九九五年に昇進試験を経て巡査部長に昇進した後に、二〇〇〇年に現在の荒川中央署地域課に異動。二〇〇五年に警部補昇進試験を受けて昇進し、二〇〇六年から現在に至るまで同署地域課係長を勤めています。結婚歴はなく独身で、現在は荒川区内にある警察寮在住です」

「直江警部補が恨まれるような事象は?」

「何しろ警察官ですからその手の恨みはいくらでも買っており、これについては今後精査が必要かと」

「荒川中央署から何か言う事はあるか?」

 そう斎藤に聞かれて、事件を受けて直江の配属先である荒川中央署から急遽派遣されてきた同署刑事課所属の九重晴也ここのえはるや警部補と永村花咲里ながむらかざり巡査部長の二人が立ち上がる。三十代半ばで落ち着いた雰囲気である係長の九重と、丸眼鏡をかけた二十代半ばの新人でこの雰囲気にガチガチに緊張した様子の永村というコンビではあるが、同じ署の警官が殺されたという事で憤りを感じているらしく、特に九重からは静かな怒りが伝わって来た。

「直江警部補が係長を勤める地域課所属の署員の話では、彼はいたって真面目な人柄で、職場における人間関係で特に問題になるような事はなかったとの事です。また、実際に我々も署内で直江警部補に関する悪い噂を聞いた事はありません」

「直江警部補の机、及び自宅の捜索は?」

 その問いには鑑識の圷が答えた。

「それについては現在本庁鑑識課が行っています。結果がわかるまで少し時間を頂きたく思います」

「そうか……。目撃者・西平靖奈に対する聴取はどうなっている?」

 これには新庄が立ち上がった。

「彼女については事件の直接的な目撃者であると同時に未成年者による深夜徘徊の疑いがありますので、現在補導した上で任意で取り調べを行っています。両親にも連絡した上で、念のために両親の許可を得た上でこの近くのホテルに滞在してもらっている状態です。よほどショックだったのか、取り調べにも素直に応じています」

 そう言うと、新庄は今朝になって改めて行われた彼女に対する取り調べの様子を話し始めた……。


 品川署の取調室で行われた西平靖奈の取り調べは新庄が担当した。靖奈は昨日の派手な服装から、連絡を受けた両親が慌てて持ってきた学校の制服に着替えていたが、目の前で人が殺傷されたショックが抜け切れていないらしく、未だに青ざめた表情を浮かべていた。

「昨日はよく眠れたかい?」

 最初に新庄がそう話しかけると、靖奈は小さく体を震わせながら黙って首を横に振った。無理もない話ではあるが、しかし新庄は立場上、彼女に対して厳しい態度を取らざるを得なかった。

「君は事件の目撃者でもあるが、同時に未成年にもかかわらず深夜の繁華街を徘徊していた事実で補導されている身でもある。この件については後々少年課からも話を聞きたいという事だ。だが、その前に私からも聞いておきたい。繁華街での深夜徘徊……つまり夜遊びは今回が初めてなのかな?」

 その問いに対し、靖奈は少し黙り込んでいたが、やがて新庄の視線に耐えきれなくなったのか力なく首を横に振った。

「では、今までどれくらい?」

「……週に二~三回くらい、です」

「結構な頻度だね。家の人は心配していなかったのかい?」

「……パパもママも、仕事が忙しくて帰ってこない日が多いから……あの人たちはアタシよりも仕事や世間体が大切なの」

 確かに、昨日やって来た靖奈の両親も、彼女を心配しているというよりも、彼女が事件に巻き込まれて自分たちの世間体が悪くなることを気にしているようだった。すでに親子間の仲はかなり冷え切っているようである。

「服はどこで着替えたんだい?」

「……学校に行く途中に、品川駅のコインロッカーに預けておくんです。帰るときに取り出して、品川駅のトイレで着替えてから制服と鞄はコインロッカーに預けていました」

「それで、昨日も学校が終わってから品川の繁華街に繰り出した?」

「はい」

「誰と一緒に?」

 新庄の何気ない問いに靖奈は肩を震わせた。

「え……?」

「君一人で当てもなく繁華街をうろついていたとは思えないからね。誰か相手がいたんじゃないか?」

「それは……」

 一瞬取り繕おうとした靖奈だったが、新庄の真剣な目を見て誤魔化すのは無理だと悟ったようだった。

「……一緒によく遊んでいる男友達がいます」

「名前は?」

「……言いたくありません」

 靖奈はそう言って口を閉ざした。気にならないといえば嘘になるが、新庄はこの件については少年課に任せる事にして、ひとまず事件の話を優先する事にした。

「わかった。では事件の話を聞こう。あの時、君は一人で現場となった店の前を歩いていた」

「はい」

「相手の男友達はどうした?」

「……その少し前に別れて、アタシは駅に向かう途中だったんです。そしたら、あの店の前で学校の警備員のおじさんの顔が見えて……向こうもアタシに気付いたみたいだったから、アタシ、どうしたらいいのかわからなくなって……」

 どうやら大科は、彼女が自分の学校の生徒である事に気付いていたようである。

「その後、その警備員のおじさんはどうした?」

「一緒にいた男の人と一緒に、アタシの方にやって来ようとしました。アタシの正体がばれてると思ったから、咄嗟に逃げようとしたんです」

「だが、その時事件が起こった」

「はい……」

「事件の様子を教えてくれないかな?」

「……いきなり、レインコートを着た人が警備員のおじさんたちの前に立ちふさがって……そしたら警備員のおじさんと一緒にいた人がそのまま地面に倒れたんです。すぐに地面に血が流れ始めて、あ、アタシ……何が起こったのかわからなくなって、思わず叫んで……」

「警備員のおじさんの方は?」

「コートの人はそのまま逃げ始めたからすぐに追いかけたんだけど、少し先でもみ合ったと思ったらさっきの人と同じように崩れ落ちたんです。足から、ち……血が……流れていました。どうする事もできなくて呆然としていたら、店から出てきた別のおじさんがアタシに駆け寄って来て……」

 それはおそらく榊原の事だろう。

「話を戻すけど、レインコートを着た人……犯人について何かわかる事はあるかな?」

「わ、わかりません! アタシからは背中しか見えなかったし、結局顔は一度も見ていないんです」

「事件前にその人物に気付いたりなんかは?」

「……そんなに辺りを気にしてなかったし、警備員のおじさんに気付かれてそれだけでパニックになっていたから……アタシ……もう、何が何だか……」

 そう言うと、彼女は嗚咽を漏らし始め、それ以上の取り調べは不可能となってしまったのだった……。


「……と、会議で出た情報はそんな感じだ。どうだ、現段階で何かわかるか?」

 捜査会議終了から一時間後、捜査本部がある会議室の隣にある小会議室で、この部屋に待機していた人物……すなわち、私立探偵の榊原恵一は事件の情報が書かれた資料をジッと読みふけっていた。そんな榊原の様子を、資料を持ってきた人物……すなわち榊原のかつての同僚である捜査一課長の橋本隆一警視正は真剣な表情で見つめている。やがて、榊原は資料から顔を上げると小さく首を振った。

「……事件の基本的な情報については理解できた。だが、これだけではまだ情報不足だな。正直、今の段階では何とも言えない」

「お前の推理力でも無理か?」

「何度も言うが、私だって万能じゃない。推理するには情報が必要だが、その情報がまだそろっていないと言っているだけだ」

「ならば、これからどうするつもりだ?」

 橋本の問いに、榊原は少し考えてからこう言った。

「いくつか話を聞きたい場所がある。直江の勤務先だった荒川中央署と事件の起こった居酒屋、それに大科の勤務先だった英彩高校だ。そこで相談なんだが、荒川中央署と居酒屋の人間に話を聞く許可がほしい。こればかりは橋本の許可がないとできないからな。どうだ?」

「そうだな……」

 橋本は一瞬考え込んだが、すぐに首を縦に振った。

「わかった。ちょうど荒川中央署の刑事課からも応援が来ているから、彼らに案内させよう。英彩高校の方は?」

「そっちは私に考えがあるから問題ない。あと、大科の意識が戻ったら知らせてほしい。何しろあいつは西平靖奈と違って目の前で犯行を目撃し、犯人と直接やりあっているからな。できるなら直接話を聞きたいが、それが無理ならせめてどんな話をしていたかを後で教えてくれると助かる」

「いいだろう」

 橋本が頷くと、榊原は椅子から立ち上がって呟いた。

「事件を解決できるかどうか……全てはここからの調査次第だ」


 それから三十分後、榊原は荒川中央署刑事課の九重、永村両刑事と共にパトカーで荒川中央署に向かっていた。助手席に座る永村花咲里巡査部長は緊張した様子で何度もチラチラとバックミラー越しに榊原の方を見やっている。

「そう何度も見られるといささか居心地が悪いんですがね」

「あ、いえ、すみません! まさか、あの榊原さんと一緒に捜査できる日が来るなんて思わなかったもので……」

 榊原の言葉に、花咲里は慌てたようにそう言いつくろった。

「私の事を知っているんですか?」

「もちろんです! 先輩方から何度もその武勇伝は聞いていますし、刑事時代に解決された事件の捜査記録に添付された写真で何度もそのご尊顔を拝見させて頂きました」

 そう言われて、榊原は何とも複雑そうな顔を浮かべる。

「どうも私の顔が独り歩きしているようですね」

「それだけ榊原さんの名前は今でも警察内部で重い意味を持っているという事ですよ。私も今回、一緒に捜査ができて光栄に思っています」

 運転する九重警部補がそう言い添えた。これ以上この話を続けると藪蛇になりそうだったので、榊原は話を切り上げて本題に入った。

「捜査会議での報告は見ました。その上でもう一度聞きますが、被害者……直江警部補について何か知っている事はありますか? 本当に些細な事でもいいんですが」

 そう聞かれて、まず助手席の花咲里が申し訳なさそうに頭を下げた。

「すみません。そもそも私、直江警部補の事をよく知らないんです」

「同じ署の人間なのに、ですか?」

 その問いに答えたのは九重だった。

「いえ、実は彼女はつい昨日うちの刑事課に異動して来たばかりの人間なんですよ。それが着任早々、慣れないうちからこんな大事件の担当をする事になったわけでして……」

「あぁ、そういう事ですか」

 榊原は納得したように頷き、今度は九重に尋ねた。

「では、九重警部補が最後に直江警部補に会ったのはいつですか?」

「そうですね……そもそも課が違いますからあまり会う事もないんですが、一昨日に自販機コーナーの所でばったり会ったのが最後ですね」

「その時の彼の様子はどうでしたか?」

「別に普通だったと思いますよ。十分くらい立ち話をしましたけど、特におかしなことは言っていなかったと思います」

「そうですか……」

 そんな話をしているうちに、パトカーは荒川区にある荒川中央署に到着した。九重たちの先導に中に入ると、そのまま直江のデスクがある地域課のオフィスに直行する。部屋の中では鑑識職員たちがうろついており、正面の係長席……すなわち直江の席の辺りを熱心に調べている様子だった。榊原たちはそれを遠目に見ている地域課の職員の所へ近づいた。

「どうなってる?」

「あ、九重警部補! お疲れ様です」

 九重に声をかけられて、一番前にいた警官が敬礼する。九重は榊原に彼を紹介した。

「地域課で直江警部補の部下をしていた武蔵野彦光むさしのひこみつ巡査部長です。その隣にいるのは坂室恵津子さかむろえつこ巡査部長で、永村君と同じく、昨日この署に異動して来たばかりの新人です」

 そう言われて、隣のショートヘアの婦人警官も緊張した様子で敬礼した。

「二人とも、こちらは私立探偵の榊原恵一さん。今回、この事件の捜査に協力してもらっているんだが、少し話を聞かせてもらっても構わないか?」

「は、はぁ……探偵、ですか」

 武蔵野は不思議そうに榊原を見やるが、恵津子の方は榊原を知っているようだった。

「あの、榊原さんって、元伝説の刑事で今は名探偵と呼ばれているあの?」

「坂室君、知っているのか?」

 武蔵野の問いに恵津子は深く頷く。

「はい。前にいた部署で噂は聞いた事があります」

「なら話は早い。頼めるか?」

 九重の頼みに、二人は戸惑いながらも頷いてくれた。それを受けて榊原が質問を始める。

「時間もないので手早く済ませます。まず、事件当日、退庁するまでの直江警部補の行動について話してください」

「そうですね……係長はデスクワーク中心なので、あの日もずっと机で仕事をしていたはずです。朝に彼女……坂室君の異動挨拶と紹介があったんですが、それ以外はいつもと変わらない業務内容だったと思います」

「では坂室巡査部長、その日初めて会ったあなたから見た直江警部補の印象はどうでしたか?」

 そう聞かれて、恵津子は少し逡巡したようだが、やがて緊張した様子で答えた。

「率直に言って、どこか疲れて覇気がないように見えました。仕事はしっかりしているみたいでしたけど……」

「そうですか……事件当日、直江警部補が退庁したのは何時頃ですか?」

 一応、大科が彼に電話して飲み会に誘った時に榊原も大科の前にいたが、果たして武蔵野たちはその時間を答えた。

「午後五時くらいだったと思います。係長は基本的に何もなければ定時退庁する人だったので」

「あなた方はそのまま残った?」

「えぇ。ただ、坂室君は初登庁日だった事もあったので六時くらいには帰らせました。私も七時頃には退庁しています」

 榊原は質問の切り口を変える。

「退庁の少し前に直江警部補が電話をしていませんでしたか?」

「電話……あぁ、そういえば携帯電話で何か話しながらデスクでメモをしていましたね。何の話なのかはわかりませんでしたけど」

 念のために直江のデスクを確認させてもらうと、確かにパソコンのすぐそばのメモ用紙に『大科・榊原と飲み会 午後七時~ 飲兵衛品川店』と簡単なメモが書かれているのが確認できた。

「生前の直江が言った通りか」

 そう呟いてから、榊原は再度質問に移る。

「直江警部補に恨みを抱く人間に心当たりは?」

「さぁ、どうでしょう。我々も警察官ですから恨みを買う事はあると思いますが、直江警部補は現場に出ない内勤の警察官でしたからね。そこまで恨みを抱かれるかと言えば……」

「心当たりはないという事ですか?」

「そう……なりますね」

 武蔵野はそう答える。

「では、ここ数日の直江警部補の言動や態度に、何か変わった事はありませんでしたか?」

「うーん、いつも通りデスクワークをしているだけだったようにも思いますが……」

 と、そこで急に武蔵野は何かを思い出したように手を打った。

「あ、そうだ。確か三日前にちょっと事件がありました」

「事件と言うと?」

「いや、別に直江警部補にとって不名誉な話じゃないんです。ただ、直江警部補が通勤途中の電車でスリを捕まえたらしくって、その後処理で少しごたごたして。警部補も『犯人を捕まえたのは数年ぶりの話だ』とか言っていました」

「スリ……」

 少し気になる話だった。

「その事件について詳しく教えてもらえますか?」

「はぁ、構いませんが……事件を処理したのはうちじゃなくて刑事課ですから、九重警部補の方が詳しいのではないかと……」

 榊原が振り返ると九重警部補はバツが悪そうに咳払いしながら答えた。

「確かに、そのスリの件なら三日前にうちに回って来て報告書を書きましたよ。被疑者は秋田参平あきたさんぺい。スリの常習犯で、地下鉄の車内で女子高生にスリを働いていたところを直江警部補に見つかり、窃盗容疑で現行犯逮捕されています。何なら、報告書をお見せしましょうか?」

「頼みます」

 九重は一度その場を離れると、すぐに書類の束をもって戻って来た。それが事件の数日前に直江が犯人を逮捕したスリ事件の報告書だった。榊原は書類を受け取ると一枚一枚丁寧に確認していくが、やがてその目がある一ヶ所で止まった。

「これは……」

 その場所……この窃盗事件の被害者の欄にはこう書かれていた。

朝海涼香あさうみすずか 私立英彩高校三年生』

「またここで英彩高校の名前が出てくるか。こうも続くと気になる話だ」

 ひとまずそれについては記憶の片隅にとどめ、榊原はさらに報告書を精読していく。捕まった秋田参平は電車内におけるスリの常習犯だったらしく、いかにも会社員風のスーツを着込んで満員電車の中で通勤客のポケットや荷物からスリをするというのが手口だった。報告書によれば、直江は署への出勤途中に秋田が被害者の女子高生・朝海涼香のスカートのポケットから財布を盗んだのを目撃し、その場で現行犯逮捕。秋田のポケットからは証拠となる涼香の財布が見つかり、その他にも多数の財布が発見されたという。

「財布の大半は持ち主の元に返還されたが、最終的に革財布一つの持ち主を特定できず、その革財布は現在もこの荒川中央署に保管されている、か。財布の中身は現金十万円と小銭が少々で、運転免許証や各種カード類などは一切なし。財布の表面に付着していた指紋にも前歴はない。……ふむ」

 榊原はそう言いながら九重に質問する。

「この秋田という男の身柄は?」

「ここの留置所にぶち込んであります。現行犯である上に証拠もはっきりしているので、今日東京地検に送検して勾留請求しているところです」

 一般的に、逮捕された被疑者は逮捕から四十八時間以内に送検するかどうかが決定され、送検された場合はそこから二十四時間以内に拘置所へ勾留。その後最大二十日間(十日間の勾留+一度の延長で合計二十日間)の勾留期間の間に検察官が起訴か不起訴かの判断を下すという刑事手続きの流れをたどる。ただ、現実の法実務では勾留も拘置所ではなく警察の留置所で行われており、取り調べも検察官ではなく引き続き警察が担当。この合計二十三日間が容疑者を取り調べるための警察の持ち時間と認識されている事が多い(なお、検察官が最終的に起訴の判断を下した時点で被疑者の身柄は留置所から拘置所へと移される)。九重が今言ったのは、今日は秋田が逮捕されてから三日目であり、証拠もはっきりしているので検察官に送検した上で十日間の勾留請求を行っているという意味である。従って秋田の身柄は今もまだこの荒川中央署の留置所にあるという事だ。

「……この事件について、直江警部補が何か言っていた事はありませんか?」

「さぁ、そう言われましても……榊原さんは、このスリが今回の事件に関係していると思っているんですか?」

「そこまではまだ何とも。ただ、今は関係ありそうなことは全て調べるべきだと思っているだけです」

 榊原はそう言って武蔵野の言葉をかわす。と、その時、不意に九重が何か思い出したような声を上げた。

「そう言えば……」

「何か?」

「いえ、さっき直江警部補と最後に会ったのは一昨日に自販機の前で立ち話をした時が最後だったといいましたが……その時に直江警部補が変な事を聞いてきたんです」

「と言うと?」

「それが……『被害者の女子高生の素行に不審な点はないか』と。もちろん、そんなものがない事は報告書を書いたときに調べましたから、そう答えましたが」

 榊原の目が少し険しくなる。

「つまり、直江警部補は被疑者ではなく被害者の方を怪しんでいた?」

「えぇ」

「なぜそんな事を考えたのか、理由を言っていませんでしたか?」

「さぁ……すぐに『自分の気のせいだったかもしれない』と言って話題を打ち切ってしまったので、詳しくは何とも」

 榊原は少し考えた後、こう尋ねた。

「そのスリ事件が通報されたのは当然どこかの駅ですよね?」

「もちろん」

「その駅がどこか、教えてもらえますか?」

 その問いは、榊原の琴線に何か触れるものがあった事を明確に示していたのだった……。


 ……さて、それと同じ頃、都内にある英彩高校の前で、別の学校のセーラー服を着た女子高生がジッと校門から出てくる生徒たちを見つめていた。その少女は、榊原の自称助手としてよく榊原の事務所に入り浸っている、都立立山高校ミステリー研究会部長の女子高生・深町瑞穂ふかまちみずほであった。ちょうど時間は下校時間帯で、校門周辺には帰宅する生徒と部活動をしている生徒が入り混じっている状態である。

 彼女は校門の前でしばらくそんな生徒たちを見ていたが、やがて校舎の中から学校の制服を着たセミロングの女子生徒が出てくるのを見つけると、大きく手を振った。

「あ、小仲井先輩! こっちです!」

 そう言われて、相手も瑞穂を見つけたらしく二人は校門前で合流した。

「ごめんね、生徒会の仕事がやっと終わったの。それより、この間はあの探偵さんを紹介してもらってありがとうね。おかげで助かったわ」

「いやいや、先生なら当然ですよ」

 瑞穂と話している少女……小仲井英香こなかいえいかは瑞穂が中学時代に所属していた陸上部の先輩で、同時に現在この英彩高校の生徒会長をしている人物だった。そして彼女こそが、後輩である瑞穂に紹介してもらってあの殺害予告電話の解決を依頼した人物でもあった。

 生憎瑞穂はその日用事があって同行できなかったが、榊原がちゃんと犯人を突き止めたであろうことは疑いもしていなかった。とはいえ、今日になってその榊原から「事件解決後に別件の殺人事件に巻き込まれてそっちの捜査をしている」という電話を受けた時はさすがに驚いたし、さらにそれに続けて「自分の代わりに英彩高校への聞き込みをしてほしい」と頼まれた時はさらに驚く事になった。

 そう、今日瑞穂がここに来たのは、榊原に代わって事件についての聞き込みをするためだったのである。そのために、殺害予告電話事件の依頼者である小仲井と待ち合わせをし、こうして合流を果たした次第である。榊原も、自分が行くより同じ高校生の瑞穂の方が話を聞きやすいと判断したようだった。

「でも、今朝から学校は大騒ぎよ。守衛の大科さんが殺人事件に巻き込まれて意識不明の重傷になって、しかも深夜徘徊していたうちの学校の生徒が事件の目撃者になって警察に事情を聴かれているらしいから。それに聞いた話だと榊原さんも事件現場に居合わせたらしいじゃない」

「はい。先生から聞いた話だと、大科さんとは警察学校時代の同期だそうで、昨日の依頼の時に偶然再会して一緒に飲もうという話になったんだそうです。で、そこで事件に巻き込まれて……今、先生は警察と一緒にこの事件の捜査をしています。だから、私もそれに協力しているんです」

「……なるほど、瑞穂が急に会いたいって言ってきたのはそれが理由なのね。それに、確かに大科さんも『昔警察官だった』みたいな事を言っていたし……」

「大科さんと話した事があるんですか?」

 瑞穂がすかさず聞くと、英香は肯定した。

「えぇ。私、こう見えても生徒会長だから、イベントとかの警備の折衝で守衛の人とも話をしたりするの。大科さんとはその時に何度か話したわ」

「どんな印象の人なんですか?」

「気さくで明るいムードの人だけど、仕事に誇りを持っているって感じかな。登下校の時も生徒によく挨拶してくれていたし、悪い人じゃないのは確かね。青野さんとは大違い」

「青野さん?」

 初めて聞く名前に瑞穂が聞き返す

「あぁ、大科さんとコンビを組んでいるもう一人の守衛さんよ。青野康友あおのやすともさんっていうんだけど、こっちは怒りっぽくって苦手にしている人も多いみたいよ。ほら、今もあそこにいるわ」

 そう言って英香が示す校門横の守衛室の方を見ると、確かにそこの窓から気難しそうな表情でジッと校門から出ていく生徒たちを見ている五十代前後の守衛の姿が見えた。あれが青野という守衛なのだろう。大科がいない現状では彼一人が守衛の仕事をせざるを得ず、気が立っているようだ。

 彼には後で話を聞く必要があると心の片隅にとどめて置いた上で、次に瑞穂は現場で身柄を拘束された目撃者……西平靖奈の事に話を移した。

「事件の日に深夜徘徊していた生徒の事は知っていますか?」

「生徒会長として知る権利があると思ったから、先生から名前だけ教えてもらったわ。三年の西平靖奈さん、よね?」

「そうです」

「正直、あまり評判が良くないわね。普段から素行が悪くて、学校をさぼったり遅刻したりして来る事も多いみたいよ。特に守衛の青野さんはよく怒っているみたいだったわ」

「大科さんは?」

「どうかな……。基本的に怒っていたのは青野さんの方だったみたいだし、顔はともかく名前まで知っていたかどうかは本人に聞いてみないと……」

 どうも要領を得ない答えだったので、瑞穂は質問の切り口を変えてみる事にした。

「彼女、事件のすぐ後には『佐久島花美』という偽名を名乗っていたそうなんですけど、この名前に心当たりはありますか?」

 駄目元での質問だったのだが、意外にも英香は何か心当たりがあるようだった。

「佐久島さんならよく知ってるわよ。うちの三年生で私の友達だから」

「本当ですか?」

「えぇ。将棋部の部長さんで、かなり強いのよ。私も趣味でそこそこできるつもりだけど、佐久島さんに勝てた事は一度もないわね」

「その佐久島さんと西平さんの間に何か繋がりがあるんですか?」

「さぁ、どうかしら。少なくとも私はそんな話を佐久島さん自身から聞いた事はないけど……。ただ、佐久島さんは何度か校内新聞で取り上げられた事もあってうちの生徒の間では有名だから、西平さんが名前を知っていた可能性はあるわ。本当の所はわからないけど」

「その佐久島さんに話を聞く事はできますか?」

 その問いに、小仲井は首を振った。

「それがたちの悪い風邪を引いたらしくって三日くらい前から学校を休んでいるの。ちょっと心配しているんだけど……」

「そうですか……」

 と、そんな時、不意に瑞穂の携帯が鳴った。英香に断って確認するとそれは榊原からのメールで、そこには追加で「朝海涼香」という生徒の事を調べてほしい旨が書かれていた。瑞穂は少し戸惑ったが、聞かないわけにもいかないのでやむなく英香に問いかける。

「えっと……朝海涼香っていう人を知りませんか? ここの生徒らしいんですけど……」

 瑞穂の唐突な問いに英香は不思議そうな顔を浮かべる。

「突然どうしたの?」

「いえ、ちょっと……知らなかったらいいんですけど……」

 だが、それに対する英香の答えはまたしても意外なものだった。

「朝海さんなら私と同じクラスの子よ。美術部の部長で、自己主張の少ないおとなしい子っていうイメージだけど……彼女が何か?」

「その朝海さんが三日前の登校途中に地下鉄でスリの被害に遭ったらしいんですけど、その話は知っていますか?」

 瑞穂の言葉に、しかし英香は困惑した表情を浮かべた。

「いいえ、そんな話は初耳よ」

「犯人はその場で捕まって、盗まれた財布もすぐに返って来たから話していなかったのかもしれません。ただ、その時そのスリを捕まえたのが今回の殺人事件で殺された人らしいんです」

「え? それ、本当なの?」

「そうみたいです。あの、彼女について他に何か知っている事はありませんか?」

「さぁ……同じクラスだけど別に仲がいいってわけでもないし……」

 英香はそう言って考え込んだが、不意に昇降口の方を見て声を上げた。

「あ、噂をすれば、ちょうど出てきたみたいよ」

 瑞穂もそちらを見やると、ちょうど一人の女生徒が昇降口から出てきて下校しようとしているところだった。長髪の美人ではあるが、どことなく気が弱そうな印象を瑞穂は受けた。彼女……朝海涼香はそのまま瑞穂たちの横をすれ違うと、ゆっくりとした足取りで校門から出ていった。

「彼女の友達か知り合いはいませんか?」

「うーん……あまり人づきあいが得意な子じゃないみたいだけど、同じ美術部の部員とは仲良くやっているみたいよ。よく一緒に話しているのを見たりもするから」

「そうですか……」

 何とも曖昧な話だったが、何しろ瑞穂自身もいきなりの話で何を聞くべきなのかいまひとつわからないので、ひとまず彼女についての突っ込みはここで終わらせる事にした。

 最後に、瑞穂は守衛所にいる青野守衛に話を聞く事にした。かなり気難しそうだったので話を聞いてくれるか心配したが、英香が何事か話すと、不承不承という風ではあったが瑞穂との会話に応じてくれた。

「あいつの……大科の容体はどうなんだ? 上の連中は曖昧な事しか言ってくれなくてな。協力するのはいいが、まずはそれを教えてくれ」

 開口一番、青野は瑞穂に対してぶっきらぼうにそう言った。答えないと話が進みそうになかったので、瑞穂はやむなく状況を告げる。

「私も先生に聞いただけですけど、命の危機は脱したけど、まだ意識が戻らないそうです。足の怪我がかなりひどくて……意識が戻っても復帰までにはかなりかかるみたいですね」

「……そうか」

 短くそう言って、青野は改めて瑞穂に質問を促した。どうやら話を聞いてくれそうなので、瑞穂は早速事件の事についていくつか質問する。

「あの、大科さんはどういう人でしたか?」

「守衛としての仕事はちゃんとやっていた。ここに来た当時は失敗も多かったが、ここ最近は手際よく仕事をこなせるようになっていたな。ま、あのお気楽な性格だけは俺は苦手だったがな。とはいえ、殺されそうになるほど恨まれていたっていう話は聞いた事はない」

「大科さんが元々警察関係者だったという事は?」

「知っている。だが、あいつは自分の過去をあまり話そうとしなかったし、俺も聞こうとは思わなかった。そんな事、この仕事には何の関係もないからな」

「……西平靖奈さんの事について、何か知っていますか?」

 そう聞くと、青野は額に筋を浮かべて吐き捨てた。

「あの馬鹿野郎が。日頃からあれだけ注意されておきながら、懲りずに繁華街に繰り出して事件に巻き込まれたそうじゃないか。こう言ったら何だが、ある意味自業自得だ。これで少しは反省してほしいものだ」

「はぁ……」

「で、あの子のことだって? 普段から遅刻だの何だのでよく注意していたよ。この間だってな……」

 それからしばらく彼女に対する愚痴を散々聞かされたが、どうも新しい情報はなさそうだった。しばらく愚痴を聞いた後で続いて瑞穂は朝海涼香の事についても聞いてみたが、こちらも美術部の部長という事は知っていたが、あまり接点がないのか知っているのはその程度でしかないようだった。もっとも、遅刻や校則違反をして目立つようなタイプではなさそうなので、これはやむを得ないかもしれなかった。

 最後に瑞穂は、榊原から送られて来た直江の写真を見せてみた事があるか尋ねた。これも駄目元で聞いた質問だったのだが、青野の反応は意外なものだった。

「……見た事がある」

「えっ?」

「確か、事件の前の日だった。校門から出てくる生徒たちを物陰から見張っていてな。不審者かと思って声をかけたら警察手帳を見せられて、それで彼が警察官だと知った。もっとも何を調べているかまでは教えてもらえなかったが……結局そのまま帰って行ったよ」

「あの、大科さんは何か反応しなかったんですか?」

 榊原の話だと二人は事件当日の飲み会で久しぶりに会った事になっていたので不自然に思ったのだが、これに対する青野の解答は簡単だった。

「大科? あいつならあの日は休養日で出勤していなかったよ。おかげで俺一人に業務が集中して忙しかったのを覚えている。もっとも、俺の休養日には大科の方が忙しくなるからおあいこだが」

 つまり、事件前日に直江がこの学校を訪れた際、大科はこの場にいなかった事になる。要するにすれ違いが発生したわけだ。ただ、直江が、大科がここで守衛をしている事を知った上で訪れたのかどうかについては、さすがに瑞穂の立場からは判然としなかった。これについてはあとで榊原の方からアプローチしてもらう他ないだろう。

「ありがとうございました」

「もういいのか?」

「はい。色々知りたい事はわかったと思います」

 瑞穂は頭を下げる。それを見て、青野は咳払いして言った。

「あー、深町さん、と言ったかな?」

「はい」

「君は、あいつが刺された事件の調査に協力しているんだったな?」

「そうです」

「そうか……なら、情報を提供した見返りに、一つ頼みを聞いてくれるか?」

 首をかしげる瑞穂に対し、青野はこう言った。

「もし、今後事件の真相がわかったら、それを直接俺にも教えてほしい。上から曖昧な情報ばかり下ろされるのはうんざりなんでな。ちゃんと納得のいく説明ってやつを聞いてみたいのよ」

「はぁ……」

 瑞穂は曖昧にそう言うと、少し考えた末にこう答えた。

「……約束はできません。けど、話すだけは話してみます」

「それで構わない。悪いな」

 と、そこで横で聞いていた英香が口を挟んだ。

「あ、じゃあその時は、私もその場に同席したいな。生徒会長として、事件がどうなったのか知っておく必要があるし。いいですよね、青野さん」

「……好きにしろ」

 青野が吐き捨て、期待するように瑞穂を見やる英香に、瑞穂はこう約束するのが精一杯だった。

「何度も言うように、約束はできません。話すだけは話してみますけど、期待しないでください。この事件については、私もどちらかと言えば部外者の側面が強いので……」

 そう言ってから、瑞穂は思わず天を仰いだのだった。


『……そんな感じです』

「そうか……。ありがとう、助かったよ」

『いえいえ。先生の役に立てて嬉しいです』

 午後七時頃、榊原は携帯で瑞穂からの連絡を受けていた。

『先生、私にできるのはここまでです。今回、私は外野みたいですし』

「すまないね。ただ、今回のこれはいつもと違って私自身の事件でもある。だから、今回に限っては君をあまり積極的に介入させるわけにはいかない。それはわかってほしい」

『わかっています。ただ、事件が解決したら、どんな事件だったか教えてくださいね。それくらいは許されてもいいと思いますけど』

「わかった。期待せずに待っていてくれ。あぁそれと、青野さんと小仲井君の要請については、現段階では前向きに検討はさせてもらう、とだけ伝えておいてほしい」

『はーい。じゃあ、無理だけはしないでください』

 その言葉を最後に通話が切れる。もう一度彼女に感謝の念を送ってから、榊原は改めて目の前に意識を集中させた。

「さてと……」

 そこは昨日榊原が飲んだ居酒屋……すなわち事件現場そのものだった。さすがに昨日の今日なので店は休業となっているが、休業中でも仕事があるのか店の中に店員がいるのが見える。

「そう……見えてしまうのが問題だな……」

 この居酒屋は道路に面した部分が大きな窓になっていて、店内……特に客席の様子が外からでもわかるようになっている。店内に開放感を持たせて客が気軽に入りやすいようにするという配慮からこうなっているようなのだが、言い換えれば店内に入らずとも外から中の様子を観察できるという事に他ならなかった。さすがにレジのある玄関部分や厨房などは見えないが、実際、こうやって外から見ていても店内を歩く店員の様子はわかるし、昨日榊原たちが飲んでいた席も充分外から視認できる場所にあった。

「つまり、外からでも私たちの存在を把握できる、という事か」

 あまりいい情報とは言えなかった。実際、ついさっきまで居酒屋の店員たちにも改めて話を聞いていたのだが、榊原たちが店内に入ってから出るまでの間に店内にいた客は全員あらかじめ予約をしたグループばかりで、不審な人物が店内に出入りしたという事実はないようだった。また、念のために事件当時の店員の所在についても確認したが、さすがに掻き入れ時の居酒屋だけあって全員が人目のつく場所にいたか複数人で行動していたらしく、アリバイがない人間は皆無。すなわち、居酒屋の関係者が直江を刺した犯人である可能性は低いと言わざるを得なかった。

「さて、どうしたものか……」

 あの後、榊原はここに来る前に何人かの関係者に話を聞いていた。まず話を聞いたのは、他ならぬ勾留中のスリの被疑者・秋田参平自身だった。面会は留置所の面会施設で行われ、なぜいきなり見知らぬ男に呼び出されたのか皆目見当がつかないままの秋田に、榊原が一方的に質問するという形となった。

「捕まった時の様子を話してほしい」

「へ? 何でだよ、全部調書に書いてあるだろ」

「生の話を聞きたいだけだ」

「まぁ、話せっていうなら話すけど……と言っても、大した話じゃねぇぜ。いつも通り電車の車内でスリをしていたら、どっかの女子高生のポケットから財布をすり捕ろうとした時にいきなり手を掴まれてよ。そのまま床に抑え込まれて……逃げる間もなかったなぁ。後で刑事だって聞いてがっくりきたね。まさか刑事の目の前でスリをしちまうなんて……俺もヤキが回ったもんだ」

「盗んだ財布は?」

「全部没収されたよ。そのまま駅員室に連れていかれて御用だ」

「……最後に女子高生のポケットから財布をすろうとしたと言ったな?」

「あぁ」

「その時の彼女の反応でおかしな事はなかったか?」

「おかしな事? ……さぁな。俺が興味あったのは財布であってその女じゃねぇからな。第一、その刑事が俺を取り押さえるまで、彼女はすられていた事にも気づいてなかったと思うぜ」

「じゃあ、スリが発覚した後は?」

「発覚した後ねぇ……わからねぇな。こっちはそれどころじゃなくて、その女の事なんか構っていられなかったから」

 そこまで行って、秋田は不意にこう言い添えた。

「あ、でも……捕まったすぐ後に反射的に一瞬彼女の顔を見たが、その顔がどことなく顔面蒼白だったのが印象的だったな」

「顔面蒼白……」

「あぁ、普通スリにすられた時の標的の反応は『怒り』か『驚き』だ。顔面蒼白って事は『恐怖』だろ? スリの被害に遭ってあからさまに『恐怖』の表情っていうのは、あまり見た事がねぇから少し気になった」

「なるほどね」

次に話を聞いたのは、三日前のスリ事件の際にその場に居合わせた駅員だった。榊原としては報告書の中の話だけではなく、実際にその場にいた人間の話も聞いておきたかったのである。わざわざ駅まで赴いて来た榊原に、その若い駅員は親切に答えてくれた。

「あぁ、あの時の事はよく覚えていますよ。乗り合わせた刑事さんがスリを捕まえてくださったんです」

「被害者の中に女子高生がいませんでしたか?」

「いましたよ。犯人から取り返した財布を刑事さんが返してあげていました」

「その時、何か変わった事はありませんでしたか?」

 そう言われて、駅員は少し考えていたが、やがてこう答えた。

「そう言われれば、少し変だったかもしれません」

「どういう意味ですか?」

「いえ、刑事さんが財布を差し出した時、その女子高生の方が慌てた様子でひったくるように財布を受け取っていたんです。しかも、その後刑事さんが親切に中を確認してはどうかと聞いたんですが、彼女は確認もせずに『大丈夫です』とだけ言ってそのまま財布をしまってしまいました。助けてくれたのにあんまりな態度だったので、何となく覚えていました」

 確かに、彼女の態度はただのスリの被害者にしてはどこか妙だった。

「しかも彼女、その後『遅刻しそうだから』と言い張って、被害届を書く事も躊躇したんです。まぁ、さすがにそれは刑事さんに説得されて渋々書いていましたけど……今どきの子っていうのはあんな感じなんですかね?」

 どうやらこれが、直江が朝海涼香に感じた不審な点のようである。確かに、この態度では不審に思うなと言う方に無理がある。そして、榊原はこの話を聞いた瞬間、直江が具体的に何を考えたのかおおよその推察がついていた。

「あまり愉快な話ではなさそうだがな……」

 榊原は居酒屋を眺めながらポツリとそんな事を呟くと、携帯を取り出してどこかに電話をかけた。相手は橋本一課長である。

「橋本か? 榊原だ。一つ頼みたい事があるんだが……」

 事件は、新たな局面を迎えようとしているようだった……。

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