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3/3

真実

「……で、行く当てもないからここに転がり込んできたと」

午前十一時という、ここでは未だ客足が短い食堂のテーブル席の一角で、アレッタは対面に座している二人組に嘆息した。店内はまばらだが客もいる。これから忙しくなるという時間帯によく来てくれたものだとカイルへとジト目を送った。

「ここならそうそう追っては来ないだろうと思ったんだ」

カイルは若干申し訳なさげに、かつ言い訳がましく言った。

バンクサイド側ながら、テムズ川沿いに位置するこの食堂『川のせせらぎ亭』は小綺麗な二階建て建築になっている。この攫ってしまった少女の身元引き受け人も汚らしい場所から捜索するだろうし、ここには情報収集にしか来ないだろうとカイルは思ったのだ。

「……考えが浅はかだね。他に匿う場所を思いつかなかったと正直に言えば良いのでは」

「ただ最適な場所を選んだ結果だ」

染色ギルドは臭すぎて少女が耐えきれないだろうし、バンクサイドではここか自宅しか居場所がない。しかし自宅のオンボロ家屋というのも少女にはキツイだろうという判断であった。そこでカイルははたと気付く。

「そいうや君の名前はなんて言うんだ?」

この娘の名前を自分はまだ知らない。

「私は、エステル。ウィルトシャー伯爵の長女。とても賢い、はず」

「やはり貴族か……!」

カイルは声を荒げる。アレッタはへぇと興味深そうに頷いた後、席を立った。料理を運びに来るのだろう。

「あんな馬車に乗っているわけだし、貴族だろうとは思っていたが……」

そこまで高い爵位の子女だとは思わなかったとカイルは嘆息した。

「君を出来るだけ安全にロンドン塔近くまで送り届ける事は出来る。飯を食ったらそこまで送ろう」

「っいや!」

エステルは拒絶の反応を示す。

「なんでだ、そのほうが安全だろ」

「……私が生きていると、たくさんの人が死んでしまう」

エステルは細々と消え入りそうな声で呟いた。

それはさっきも言っていたとカイルは思い出す。

「どうやら訳ありのようだね……」

出来上がったホヤホヤの料理を両手にアレッタが戻ってきた。アレッタはテーブルに料理を二つ、カイルとエステルの手前に置くと、自身は水の入ったカップを片手にテーブルの上に座った。

「これ……なに?」

エステルが自分の前に置かれた料理を見下ろす。ドーム状に覆っている物体はジャガイモだろうか、それをフォークで押し上げると、ピーマンのヘタや硬くなっていそうなアスパラ、細切れの肉片、虫食いのされたキャベツが油の上に浮いているかのように敷かれていた。

「シェパードパイさ。他の料理で使えない部分を寄せ集めて炒めたり焼いたりしたものの上にドーム状に仕上げたジャガイモを置いたのさ」

どこらへんがパイなのだろう……ジャガイモドームか、とエステルは首を傾げつつフォークで一部を刺して上げる。

「腐ってる……」

フォークに刺さったキノコを見つめて呟く。

「いや腐ってないさ。カビていたのを丹念に洗って消炭直前レベルまで焼いたからね」

それは客に出して良いものなのか? そう感じながらエステルはシェパードパイをまじまじと見つめる。油で炒めたものに他の油で味を整え、さらに油で揚げたジャガイモを乗せる……油の三段重ねじゃないか。

「一口食ってみたまえよ。カイル君が毎日食べにくるほどの好物なんだぞ」

「安くて多いのがこれしかないからだ。たまに他の物も注文しているだろうが」

カイルが言い返す。それからエステルのほうを申し訳なさそうに見つめ、

「悪いな、ここの主人も俺が何を食べるか分かってるからいつものように運んだようだ。いらないなら代わりに貰うぞ」

「……いい、食べてみる」

そう言ってエステルは今まで食べた事ないような形をした物を恐る恐る口に運ぶ。すると、

「……おいしい」

ジャガイモのカリッとしつつもホクホクとした噛み応えと様々な味を油で包んだ味わい。屋敷では味わった事のないような味覚に思わず純粋な賞賛を呟いていた。

「口に合ったようでなにより」

アレッタが笑みを浮かべた。

「あんたなに客様の前でテーブルの上に座ってんだい! シバクよ!」

突然、アレッタの行儀を見ていた女将が厨房の方から怒鳴ってきた。アレッタはびっくりしてすぐさまカイルの隣に腰掛けた。

「お前って奴は……」

「少女の気を紛らわすためさ……そうなのさ」

アレッタは苦笑いを浮かべる。そして気をそらすためか、昨日きた客が言っていたが、と前置きし、

「そういえば、近々大法官の公開処刑があるようだね」

エステルの肩がぴくっと上がった。アレッタはその僅かな挙動に眼を細める。

「大法官……トマス・モアか?」

カイルも染色ギルドでそんな話を誰かがしていたなと思い出した。その人はカトリック教徒だったので、英国の律法と信仰の徒である彼の処罰を嘆いていた。

ちなみにカイルは神を信じていない。

「ああ、あのユートピアの著者だね」

「俺はおろか貧民街の奴らは誰もその著書を読んだことないと思うぞ」

「……天が癒せぬ悲しみは地上になし」

エステルがぼそっと呟いた。

カイルは眉根を寄せる。アレッタはエステルのそれを聞き、高らかに、

「羊が人を喰い殺す」

とそらんじた。

「貴族である彼女が知っているのはともかく、お前もよく知ってるな」

「ロンドン橋の市場で簡単な概要を見ただけさ」

カイルは掲示板に貼られたチラシを想像しながら、物好きな女だと思いつつ、ふと思い至った。

「というか、それは俺ら織物ギルドを皮肉っているのか?」

いやいや、とアレッタは苦笑する。

「このイングランド社会全体を皮肉っているのさ」

今や英国は毛織物業が盛んなオランダに羊毛を輸出するために農地を牧草地に変えてまで羊を飼育している。野菜を育てるより毛を刈るほうが儲かるからだ。

すると必然的に農地にいた小作人達は職を失う。

「飢えで干からびかけている人の隣では豊かな草を食んで太っていく羊。これはそういう皮肉だよ」

「囲い込み……」

またもエステルがぼそっと呟いた。

「最近じゃその政策をそう呼んでいるらしいね」

カイルはしばしば熟考する。

「なるほど、その大法官トマス・モアがユートピアでそう皮肉ったのか」

「そう……。で、君はそれと何か関係があるんじゃないかい?」

アレッタはエステルの方を向いた。

エステルは肩を落とし、悩んだ顔を見せるが、意を決したように表情をきりりとしたものに繕うと告げた。

「うん、私は歴史踏襲の一助を担っている。役割としては旧西暦十六世紀のイングランド国王ヘンリー八世の二番目の妻、アン・ブーリンを担う、ことになっている……」

エステルはしょげた風に語った。

「……は?」

カイルは突然の告白に理解が追いつかない。

「それって何だ?」

歴史踏襲、旧西暦、まったく何を言っているのか分からない。カイルのその態度にエステルの方も困惑する。

「なるほど、君が今代のイングランド王ヘンリーと結婚し、ついでに今の王妃キャサリンも追い出す。当然今の時勢なら教皇もヘンリーとキャサリンの離婚を認めないわけだから大問題となる」

アレッタが紐解くように話し出した。

「で、ヘンリー国王は国王至上法を発布。これにより教皇、つまりキリスト教カトリック派と縁を切り、イングランドは国王を神の代理人とした新たなキリスト教宗派、英国国教会を創始するわけだ」

アレッタは満足げにうんうんと頷く。

「…………は?」

今までの説明のほとんどがカイルには理解の及ばない事だった。

「いや、最近王様とキャサリン王妃が不仲なのは俺でも知ってるけど……英国国教会?」

カイルの困惑した様子を見ていたエステルは、

「えと、アレッタ?」

「ああ可憐な処女アレッタさんだぞ。何だ?」

「彼は何も知らなさそう……。メテウスでは、ない?」

「メテウスってなんだ?」

カイルがまたも疑問を投げかける。

二人の反応を見たアレッタは、

「ほぅ、カイルは無事にメテウスを発動させたか」

そう呟く。そして、息を一つ吸うと、

「さて、二人は知っているかな?」

何を、とカイルは問う。

「この世界が一度、滅びを迎えたことを」

「……は?」

カイルのその反応にアレッタは微笑を浮かべ、

「今よりはるか昔、人類は高度な文明を持っていた。空はおろか宇宙へも到達できたし、たった数時間で世界の端まで行けた。遠くの人間と会話できたし、本だって手軽に買えた。そんな頃が人間にもあったのさ」

「お伽噺か?」

本当にあった遥か昔の話だよ、とアレッタは言う。

「お伽噺だと思っても無理はない。私も最初は疑った」

エステルの言いにカイルは常識の話ではなかったようだと安堵した。

「そうか、じゃあおさらいがてらに聞いてみよう」

アレッタはエステルに微笑みかける。

「だから歴史踏襲って何なんだよ」

「まぁすぐに分かるさ。続けようか。私達から見れば黄金期にも見える目覚ましい文明発展の進んだ世界で、その当時から数えて実に3回目の世界大戦が起こった」

世界大戦? とカイルが疑問符を投げかける。

「世界中の各国が争いを繰り広げる大戦争だよ。そう、その第三次世界大戦の最中、何かが起きた」

「何かって?」

カイルの問いにアレッタはふるふると首を振る。

「私にも分からない。そしてその何かによって世界の文明レベルは一気に古代期まで押し下がった。そう、貨幣経済も製紙法も無いほどの、まだ世界中が全く繋がりを持っていないほどの時代へと」

「そんな事が可能、なのか……?」

「現に君は貧しく生きているじゃないか。こんな所でジャガイモを貪っている」

「貧しさは関係ないだろう」

カイルは憤る。アレッタは、関係あるさ、と聞こえないほどの声で呟いた。

「さて、そんな古代期から今現在までの発展、それにかかった時間がどれくらいかカイ……いや、エステルはわかるかい?」

「五百年くらいか?」

カイルは馬鹿にされた気がしたのでエステルを遮り言い捨てる。

「馬鹿だねハズレだ。エステル、君は?」

アレッタはやれやれと笑う。

「……二千年、くらい?」

「惜しいね、正解は約千二百年だ」

俺の方が惜しくないか、とカイルは仏頂面をする。

「おっとそれがどうしたと言った表情だね。これは凄い事さ。その一度滅びた世界……知っている者達は旧世界と呼んでいるが、そこでは同じレベルからここまで発展するのに四千年はかかった」

「な!」

「……異常」

「そう、異常な速度で進んでいる。これも全ては計画通りに文明発展をしているからさ」

「計画通り……?」

カイルが再び疑問符を浮かべる。

「歴史踏襲プログラム……」

エステルが合いの手を打つように答えた。

「そうだ、世界は一度滅びた。しかし原因も分からない。だから今世では失敗しないよう、原因が分かるよう、世界を上手く運営管理しよう。その計画書が歴史踏襲プログラムだ」

「…………」

カイルは頭を整理する。

「旧世界での歴史を一部なぞる事で同じような文明のレベルを急速発展させ、それと崩壊を起こすその何かを事前に食い止める、そういう計画が俺たち大多数の知らない所で行われていた、ということか」

そうさとアレッタが頷く。

「だが可笑しい。なぜ今まで誰も気付けなかったんだ。それに、計画書通りと言ったって千年ちょっとでここまでどうして発展するのが早いんだ」

「現に君は気付けなかっただろう。私は計画書の内容を深くまでは知らないが、その……マクニール文書に書かれている通りに物事を進める組織が存在する。彼らが影から助長、もしくは手を加えずとも自然と、その文書通りに事を進めればその影響によって勝手に時代が進む。そうしてまた文書に書かれた通りの事態に至る。それをまた組織が、あるいは自然的な事柄が物事を進める。そう繰り返してきて今に至る」

またカイルの知らない事がぞくぞくと出てきた。

「マクニール・ルネサンスと世界復興委員会……」

エステルがぼそっと呟いた。

「そう、それがこの一連の動きと裏から世界を牛耳る組織の名だ」

「私の兄も、所属してる」

「なるほど、だから歴史踏襲を知っているのか。普通は重要人物であってもそうそう知らないからね」

たとえ一国の王でもね、とアレッタは付け加える。

「じゃあお前は何者なんだよ」

カイルはアレッタをジトッと睨む。

アレッタはニコッと笑って躱す。

「まぁこの組織がマクニール文書を管理して、その書面通りにちょこちょこと歴史的事件に関与しているわけだ」

「あと、メテウスも……。彼らがほとんどの者達を管理してる」

エステルの付け加えにカイルは反応する。

「そうだ、さっきから言っているそのメテウスってのは何だ」

カイルのその態度にエステルは眉根を寄せた。

「あなたもさっき行使していた……。なのに、なんで知らない?」

カイルはまたも困惑し、もう訳がわからないことばかりだと頭を抱えそうになる。

「カイル、君は先程この少女を助けるときに何か違和感を感じなかったかい?」

カイルには心当たりがあった。

「全ての動作が遅く見えた……」

あれがそうだと言うのだろうか。

「それもメテウスのチカラだ。例えば、計算能力が馬鹿に高い人間がいるとしよう。その者がメテウスの場合、馬鹿凄いじゃ表現しきれない。それほど凄いのがメテウスのチカラだ」

「イマイチわからないな」

「例えば、予測力……」

エステルが助言する。

「予測力、のメテウスか?」

「そう、その予測力のメテウスはあなたが想像するようなチャチなものじゃない。喧嘩になったら相手の挙動は全部読めるから絶対に負けないし、戦争になればどこで何が起こってどう終戦するのかすら予測できる。しかも、外れない」

それは……。

「未来視じゃないのか?」

エステルの髪が左右に揺れる。

「未来を見ているわけじゃない。あくまで予測。でも、未来視とも言えるほどのチカラ」

「それがメテウスの権能さ。超直感、超人的記憶力、超すごい絵画センス、超ヤヴァイ科学理論の提唱。これらを行使する者達によっても急激な文明発展がなされた」

旧世界の遺産でもあるらしいね、とアレッタがさらに付け加える。

「……で、俺もメテウスなのか?」

カイルは己の両手を見下ろす。

「そう、みたい……」

カイルは目を瞑るとしばし熟考し、目を開けるとアレッタのほうへ眼光を飛ばした。

「今朝のカップか?」

アレッタは肩をすくめた。

「あれを飲んだおかげで今生きているだろう?」

なんとも白々しいとカイルは憤る。

「あ、あの……助けてくれてありがとう」

ふいに横から可愛らしい声がした。カイルはエステルを見る。

「いや、俺は……いないほうがむしろ良かったはずで」

「私がお礼を言いたいの、……ありがとう」

言い訳をしようとするカイルにムッとした顔でエステルは言った。

「あ、ああ……」

カイルは頬を掻いた。

「……で、ここまで説明してようやく君の問題に繋がるわけだ、エステル」

アレッタがエステルへ自身のカップを向ける。エステルはこくりと頷くと、

「それで私は旧西暦でいう十六世紀の王様ヘンリーの二番目の正妻という役割がある」

「アン・ブーリンだね。つまり君は国民の支持厚き現王妃キャサリンを退けてヘンリーの寵愛を得なければならない」

エステルが頷く。

「それと、エリザベス一世という役割も荷わなくてはならない」

エステルはさらにそう告げた。

「処女女王エリザベス一世。テューダー朝最後の王でもあるね。確か……アン・ブーリンの娘だったね」

アレッタの確認するような口添えにエステルは然りと頷く。

なぜアレッタがこんな事を知っているのだろうかとカイルは疑問に思うが、昔から色々とミステリアスな女だったなと彼女の鮮やかな炎髪を見つめて自分を無理やり納得させることにした。

「……ん? こちらをギラギラと見詰められては緊張してしまうよ」

カイルの視線に気付いた彼女は苦笑しながらワザとらしく髪を手櫛で流す。良い匂いが漂う。なぜこんな良い香りが出来るのだろうかとカイルは不思議に思った。

「……あれ? 待てよ、ヘンリーの妻をやった後に女王にもなるのか?」

「そう」

「それってつまり、少なくともヘンリー国王より後に亡くならなくちゃいけないだろ」

「……そう」

エステルは重々しく肯定した。誰が次代になるとしても前王が崩御しない限りは王位が譲られることはほとんどない。例外は生前退位であるが、圧倒的支持率を持って戴冠した当代の王にその可能性はないだろう。

「……それって、王を殺めるって事か?」

カイルは恐る恐ると尋ねた。

「……そう。でも私が直接的にやるんじゃない。恐らく多くの人間に悟られないように上手く毒殺するんだと、思う……」

自分で言って気分が悪くなったのかエステルの語調は段々と沈んだものになっていく。

「……いくらなんでも無理がないか? 旧西暦とやらでは違うんだろ?」

少なくとも一人で血縁の親と娘の二役をこなすなんて矛盾技はしていないはずだ。

「でもマクニール文書にはそう書いてある、らしい……」

恐らくエステル自身もその文書とやらを見た事がなく、偉い誰かにそういう役割なんだと告げられたのだろうとカイルは推測した。

「そうだね、確かに可笑しい。実際、旧西暦のヘンリー八世は妻を六人娶っているし、ヘンリーとエリザベス一世の間には三名ほど王位が擁立されている。だが……」

アレッタは一泊置いて告げた。

「その矛盾、理不尽を踏まえて歴史を加速させられるのがマクニール文書だ」

気圧されそうになるほどの威圧感が彼女にはあった。その眼光には凄絶さが秘されていた。カイルはその眼を知っている。

(憎しみの瞳……)

かつての自身も鏡を見る度にこのような眼をしていたなと思い出した。

「……だけど、どうしてそこまで歴史を早めようとする?」

「それは私にも確かな事はわからない。気候的、環境的変化で止む無くか、その急いだ果てに何かがあるのか……どちらにせよ、我々生きているものは皆、マクニールの書いた落書きに踊らされているのさ」

アレッタは両手を挙げて笑う。

マクニール。

「何者なんだ? 宗教家か扇動者なのか?」

先ほどからちらつくその人名にカイルは疑問を投げかけた。

「原初のメテウス、知見のある者はそう称している。全ての能力を制限なく行使することが出来たらしい。対峙すれば何をしたとしても必ず負けるだろうと言われるほどのハイスペックマン。マクニールの遺した編年体型の文書がマクニール文書さ。あれはマクニールの叡智の結晶らしいね」

「なるほど……いや待て、そもそもそいつが崩壊の原因なんじゃないのか?」

その者の思い通りに今の歴史が進んでいるならば、その原因であってもおかしくは無い。

カイルの言い分にアレッタは肩をすくめる。

「さぁね、何かを誰かが起こした結果人類が衰退したのは分かっているんだがね。その引き金がマクニールにあるとは言い切れない」

「それって実質何もわかってないって事じゃないか。どうしてそんな得体の知れない奴の言う通りに行動できるんだ」

「だからその疑問を抱く事はどうしようもない事だよ。マクニールの預言通りに少し行動したら彼の意図した結果に自然と全てが動いているのさ。そして実際それで上手く歴史は進んでいる」

カイルは瞠目した。可笑しいんじゃないかと。カイルはもう一人の少女へ言葉を向けた。

「君はどうなんだ。今渦中にいるんだろう? 人生を誰かの思い通りにされているんだぞ? 良いのかよ!?」

ついつい声を荒げてしまう。

「少なくともカイル、君という貧民街の孤児が言える事ではないね」

カイルはアレッタを強く睨んだ。

「私は……」

エステルが透き通るような声でボソリと言いだす。二人はエステルを注視する。

「私は王妃と女王を務めなきゃ、いけない。けど……それをしたら王妃反対派への弾圧で多くの人が死ぬ。女王になれば、私は英国国教会の旗印としてカトリックや多くの他宗派を粛清しなくてはならないから……もっと多くの人が死ぬ。スペインの艦隊とも戦わなくちゃいけないらしいから……やっぱり沢山の人を死なせてしまう」

最後の方は消え入りそうな声で、泣きそうな声でそう言った。

「だから、私は死ななくちゃいけない」

自分の存在が多くの人の死に繋がるのならば、死ななければならない。

エステルの肩は震えていた。

「……水を切らしているね。エステル、お冷を貰いに行ってきて欲しい」

アレッタのススメにエステルは三人分のカップを掴む。

「いや、お前が行けよウェイター」

カイルがジト目を送る。アレッタはそれを聞き流し、

「厨房にいる女将さんがくれる。その潤んだ瞳を見ればレモンの一切れくらいは貰えるだろうよ」

エステルはこくりと頷くと厨房のほうへ向かって行った。

「……悪かった」

去っていくエステルを見つめながらカイルは謝る。

「不器用なのさ、みんな。そう、他人を知らないからね」

それから一泊置いて、

「……それで、なんで黙っていたんだ。いや、お前は何者なんだ」

カイルはアレッタを睨みつける。自分がその歴史踏襲とやらに巻き込まれ、さらにはメテウスなどというものになってしまった今、無関係では無い。であるならばなぜこんなただの食堂の少女がそんな重大な事を知っているのか、また、なぜ自分を巻き込んだのか、怒りと疑念がカイルの中で渦巻いていた。

アレッタはカイルの鋭い眼光に怯むことなく、むしろこの時を待っていたと言わんばかりの微笑を湛えて、

「ナサニエル・ハートコート」

カイルの脳髄に電流が走った。カイルは眼を目一杯見開く。

アレッタの口角が鋭く上がった。

「いま、なん……」

「六年前、新興の中でも歴史を刻みつつあり、ロンドンの郊外にそこそこ大きな豪邸を建てていた子爵家の次男。当時は十歳らしく好奇心が強くも聞き分けは良い従順な少年だった。寒空の下、自身の兄に屋敷を焼かれるまでは……」

カイルは身体が硬直したかのような錯覚を覚え、事態にも付いて行けない。

「数枚の硬貨を握り締めて、ロンドン市内の役所に駆け込み身の上を語るも、誰もハートコートの次男坊だと信じてくれず、教会に駆け込んでも相手にされない。仕方なく特別身分証明証を有り金すべてで発行してもらうも、身寄りも助っ人もないまま各所を彷徨い、貧民街であるここバンクサイドに流れ着く」

カイルは反射的にアレッタの胸ぐらを掴みにかかった。

襟元を引っ張られ、殺気ともとれる形相を間近にされてもアレッタは動じることなく言葉を紡ぐ。

「しばらくは炊き出しや拾い集めたゴミで身体を暖めるような、生活とも言えない生活を送っていたが、なんとか染色ギルドの下っ端として雇ってもらえるに至った。しかし特別身分証では徒弟にもしてもらえなかったため、少ない稼ぎとたまにのスリで生計をなんとか立てている」

いつまで経っても口を閉じないアレッタにますますイライラして、もはや引き千切れるのではという程に襟足を引っ張る。

「そんな生活を続けている内に自分から全てを奪った兄への恨みはじょじょに磨耗していった……。が、まさかね」

アレッタはようやくカイルと眼を合わせる。カイルはその瞳に驚いた。どこまでも卑屈さの漂う眼だったのだ。

「まさかまさかまさか、本当は消えたんじゃなくて隠れていただけさ。でなければ動揺こそすれ胸ぐらを掴むほど逆上はしない、だろう? ナサニエル・ハートコート」

アレッタの不敵な笑み、いつものように見ているはずのそれを今日ほどゾッとしたことはいとカイルは感じた。

「……お前は、何者なんだ…………」

カイルは苦しそうに呻くように声を絞り出した。

「私はアレッタ。川のせせらぎ亭の住み込み従業員さ。そして、元理解力のメテウス」

アレッタは己の紅い髪を掻き上げて流した。

「メテウス……」

「そう、といっても私の血を飲んだ君や奪っていったカス共のようなレプリカじゃない。天然物のメテウスさ」

そう言ってアレッタは厨房のほうへ眼を向ける。エステルが女将にレモンを溶かした水を貰っていた。それを飲むと眼を瞑り、激しく身震いし始めた。

「私の理解力で分からぬ事などなかった。失われかけた言語を理解することも可能だった。そう、メテウスの権能を得ることが出来る旧世界の本も解読できたし、己のチカラとすることも出来た」

生まれも元の名も知らない。貧しい身なりで一人各地を転々とし、ある時自身の眼が赤くなっている事に気付いた。それからしばらくしてある人物に拾われる。

「オリバー・ハートコート。ハートコート子爵家を築いた、君の祖父さ」

かの老人はあらゆる本を蒐集していた。古代哲学書、言語学書、論文、専門書、それは小さな図書館ができるほどであった。本は高価である。これらだけで一財産は築けるだろう。そしてその持ち主だけあって多くの知識も備えていた。メテウスに関する知識と蔵書も。

「ねぇナサニエル、君はメテウスにはどうやったらなれると思う?」

「……お前の血を取り込むのか?」

カイルは沈んだ声で答えた。

「それも一つの方法だ。事実世界復興委員会のレプリカメテウス共はその方法を使っている。だがそれだけじゃない。私のように突然覚醒していることもあれば、他にもう一つ、旧世界の技術として存在していたメテウスの権能、そのメテウスに関する書物を解読することでも得ることができる」

私が得ていた他の権能のように、とアレッタは己の胸元を握り締める。

「それってどういう……」

「新西暦が始まって千二百年と少しまではマクニール文書と自然発生したメテウスによって文明レベルは加速させられていた。君の知る人物では……例えばレオナルドダビンチ、他にもアレクサンドロス大王やカエサル帝。旧世界ではカエサル帝は暗殺されて、その後継者が帝政ローマを創ったが、この新世界ではカエサルが初代帝位を確立しているだろう?」

カイルは昔屋敷で教わった知識を掘り返す。

「が、私の登場によってメテウス技術は躍進した。理解力が超人的に発達していた私に君の祖父はメテウス奇書、それだけでなくあらゆる教養まで全てを身につけさせた。ま、これもマクニールは予想していただろうけどね」

そういえばとカイルは思い出す。祖父の書斎には行ってはいけない、どころか祖父が普段使いしている別館には立ち入ってはならなかったと。もしかしたらその別館にアレッタがいたかもしれない。

「そして最終的に私は百以上の権能を扱えるようになった。そして、君の兄によって全てが奪われた……」

「兄さん……」

「そう、ウィリアム・ハートコート。今は世界復興委員会英国支部長兼メテウス部隊管理局長サミュエル・アクィナスと名乗っている。彼こそが私と君から全てを奪った男だ」

「なっ」

『お前には理解できない』。六年前の夜、兄に言われた言葉がカイルの脳裏を過ぎる。

あの言葉にはメテウスや歴史踏襲が含まれていたのではないか。カイルの頭の中で次々知らされる事実と兄のあの冷徹な眼が結びついていった。

そこでエステルが戻ってきた。目元は薄っすらと赤くなっているが、瞳には凛とした光を携えている。

「おかえり」

「うん、アレッタ、ありがとう……」

「おっと女将さんが呼んでいる。忙しくなってきたね」

そう言ってアレッタは立ち上がり、厨房へ向かう。

「おい待て! まだ話は」

「あとで話し合おうじゃないか。君には少し、考える時間が必要だ」

アレッタはそう乱暴に切り捨てるとカイルを一瞥し、厨房へ向かって行った。

カイルは歯噛みした。

「カイル……」

エステルが声をかけてきた。カイルはテーブルの横にいるエステルの方を向く。

「私は、死ななくちゃいけない」

「だから……」

それは違う。そう言おうとカイルは口を開けたが、

「でも、私が死ねば違う誰かがその役をするだけという事実もある」

エステルが凜然と告げた。

「どうしたって一定の人は死んじゃう……それが、歴史だから。だから、私がアンとエリザベスになる。そして出来るだけ人が死なない未来になるようにしてみせる」

その声は少々震えていた。しかし、その握った小さな拳にはありったけの力が篭っているのだろう、白んでいた。

「それは……」

(結局歴史踏襲に従うということなのか)

カイルは目線を落とした。

「でも、私はまだ、人生に満足してない……」

エステルの声のトーンが落ちた。

「……というと?」

「私を三日でいい、匿って。そしてカイルの過ごす生活を見たい」

エステルの瞳に無邪気さが宿る。

「……だめだ。というか無理だ」

ウィルトシャー伯爵家、もしかしたらテューダー王家もエステルを捜索しているかもしれない。

(三日も逃げおおせられるわけが無い。そして捕まればやはり極刑だ。それに……)

カイルはエステルの華奢な身体をくまなく見つめる。その視線に気付いたエステルが恥ずかしそうに、

「そんないい身体じゃない……恥ずかしい」

頬を赤らめていた。

(あのボロ屋で生活なんて無理だ)

カイルは額を抑えてため息を吐いた。

「む……私に魅力がないからと、それは露骨過ぎる」

エステルはカイルをジトッと睨む。が、すぐに自身の身体的魅力のことではないと察すると、屈み込み、

「私じゃ、ダメ?」

「……ああ、無理だ」

「……わかった」

エステルは立ち上がると、ポケットをまさぐった。

カイルは怪訝に思い、エステルのほうへ顔を上げる。

「……おまっ!?」

エステルは自身の白い三つ編みを掴むと、ポケットから取り出したナイフを当てていた。そして刃をそのまま斜めに滑り下ろした。

何百本もの髪が切れる音がした。結びから解放された頭髪は自由を得てはらりと舞う。数本の髪糸がはらはらと落ちていく。エステルの左手にはほつれかけた三つ編みの束が。

カイルはあまりの事に目を見開いた。

貴族令嬢にとって、それ以前に女性にとって髪というのは大切なものであり、おいそれと切って良いものではなかったはず。この少女はそれをしたのだ。

エステルの髪型は肩口でざっくばらんとしたものになっていた。髪型だけ見れば浮浪者とも言える。

「……な、何をしたのか分かっているのかっ!」

しかしカイルの激昂を真正面から見つめ返したエステルは、

「わかってる。これが私の覚悟……。三日だけで良い、過ぎたらちゃんと貴族令嬢らしくなる。だから三日だけ、庶民でいさせて……」

エステルは、自分はもう決めたのだという宣言のように願い出た。その熱い瞳にカイルは気圧されてしまった。

「そんなの心配なら君の妹とか奴隷とか愛人とかって事にすれば納得できる」

「……三日だけだ。明後日にはロンドン塔前まで連れて行く」

正直三日もロンドン市内を逃げおおせられる自信はないが、このそこらの町娘より酷い髪型ならばあるいはという気がしないでもなかった。

「うん、ありがとっ」

エステルはここに来て初めて笑顔を見せた。















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