序章03
友暉が手を振り去って行ったあと、私は手中にある物をじっと見つめる。
「ああ怖かった。本当に死んじゃうかと思った」
フェンスを背に、へたり込む私たちは、その後、意味もなく笑って泣いていた。
涙目で見る、笛吹友暉の顔はひょっとこみたいで、笑える。
風の冷たさや、周囲の雑音とか、そんな感覚が戻ってきた私の躰は、小刻みに震えていた。
最初に口を開いたのは友暉の方からだった。
聞いてもいないのに、友暉は自分の名前を名乗り、エヘヘヘと出っ張った頬骨を目いっぱいあげて笑う。
「月、綺麗だね」
そう言われて、私は改めて空を見上げた。
ビルとビルの隙間にぽっかりと浮かんでいる薄っぺらい月がそこにはあった。その月が綺麗なんて思えなかった私は、黙ったまま空を見上げ続ける。
「そう言えばさ、今日の僕は最悪でさ」
最悪という割には、声は明るいものである。
どうでもいい話だった。
出されたご飯が嫌いなものばかりで、結局食べれずに今もお腹が空いているとか、本当にくだらない話ばかりなのに、私たちは夢中で話しをしていた。
静かだった街が白み始め、ゆっくり夜が去って行き、にわかに音を立て動き出した街を見下ろし、私たちは螺旋階段を降り始める。
お互い、名前しか知らない関係。
初めて訪れたこの街に、二度と来ることはないだろう。
友暉も同じことを考えていたようで、最後の階段を下りた時、目が合い、微笑みかけてきた。
もう二度と会うことがない友暉に、私はそっけない態度を取る。
友暉の姿が街に溶け込んで行く。
戻りたくない現実世界。
むかむかと吐き気がしてきた。
見えない翼。そんなものがあるのなら、この空も飛べるはず。
さっき降りてきた螺旋階段を再び見上げる私の手を、誰かに急に掴まれ、目を見張り、振り返る。
そこには息を切らした友暉がいた。
「さっき、渡すの忘れたから」
そう言ってポケットから、ペンギンのオブジェを私に握らせ、歯を見せて笑ってみせる。
「い、いらない」
「どうして? 綺麗でしょ」
「もらう必要性が分からない。それに」
「それに、私はもう死んじゃうから?」
にっと笑う友暉から目をそらし、私は何も答えなかった。
「きみは死ねないよ」
「どうして、そんなことが言えるのよ」
ムッとした声で言う私の肩を、友暉は軽く数回叩く。
「だって、きみは選ばれちゃったから」
「意味、分かんない」
「良いからさ、持っているだけでもだいぶ違うからさ」
歌うように話す友暉を、私は上目使いで見る。
「これは願い事を一つだけ叶えてくれるんだ。だけどここが重要ポイント。その願い事は必ず叶えられる。それだけ強いパワーがあるんだ。ここまでの説明は分かる?」
コクンと頷く私を見て、友暉は微笑んだ。
「願い事によっては、きみの人生、んん、この世のものすべてをひっくり返してしまうことにもなりかねない。だから慎重に願い事を選ばなければならないんだ」
もう友暉の顔には、笑顔はなかった。
真剣な眼差しを受け、私は再び俯き、目を逸らす。
「そんなすごいものなら、あなたが使えばいいじゃない」
「僕はもう使ったよ。だからきみにあげる」
「でも、やっぱり」
私の言葉を切るように、友暉が空を見上げ、口笛を吹き始める。
その音色は、不思議なくらい私の心を軽くしていくものだった。
「その曲、何て言うの」
私をチラッと見た友暉は、私の手からオブジェを取り、空に掲げてみせる。
つられて私も、空を見上げる。
七色に乱反射した光りが、目に飛び込み、思わず綺麗と呟く私を見て、友暉は嬉しそうに笑う。
「信じなくてもいいけど、お守りとして持っておくといいよ。それにさ、願い事を叶えるには、一つ条件もあるし」
「条件?」
「まあね。本気ですごいパワーがあるからねこれ。そのくらいないとね」
私を試すように、友暉はにやにやと話を焦らした。
「何よ。いらないって言っているじゃない」
「でも、きみは受け取る。受け取って、鍵の相手を探し始める」
「だから、あなたの話、さっぱり分からないわよ」
友暉の話は、つかみどころのないものだった。
本当に必要になるまで、私はこのペンギンのことを忘れてしまうらしい。そして、願い事を叶えるための鍵を持つ人を、探し始めると言う。
旅に出なきゃじゃないと言う私に、友暉は腹を抱え、本気で笑っていた。
そんなにおかしなことを言った覚えがない私が、ムッとして睨み返す。
「待つだけだよ」
「待つ?」
「待っていればいい。無意識に、きみはきみの必要な鍵を探し求め、呼び寄せる。それが何かは分からないけど。だからきみはきみの意志だけで、自分の人生を終わらせられない。鍵がそうさせてはくれないと思う」
「鍵って、これのどこに鍵なんて差し込むのよ。差し込める場所なんて、ないじゃない」
含み笑いをした友暉が、それは、お、た、の、し、み。と一字一句切って言う。
その態度に腹が立ち、投げつけてやろうと思ったのに、何故か急に悲しみが胸を占め、私は堪らなくなってペンギンを抱きしめてしまっていた。
止めどもなく流れ落ちる涙。
友暉は何も言わず壁に寄りかかり、空を見上げ、私の涙が止まるのを、待っていてくれた。
そして満面の笑みで、じゃあと手を上げ、またと言った。
絶対にそれはない。
この街には、二度とは来ない。
そんな事を思いながら、私はコクンと頷く。
「大丈夫。僕らはまた会える」
そんな確信、どこからくるのか、呆れてしまったけど、妙にその時の友暉の顔が目に焼き付いた。
これでもう会うことはないだろう友暉の姿は、あっという間に見えなくなり、私もペンギンをバックに押し込み。通勤して行く人に混じり街を歩き出す。
私の人生が急変することもなく、嫌なことはなくなっていない。
友暉が言っていたこと、本気にしたわけではないけど、机の上に放りだされたぺんぎんを見るたび思ってしまう。
それでも、友暉のあの自信満々の笑顔が頭に浮かび、
「本当に?」
と私に尋ねる。
悔しいけど、認めなければならないことが、私にはあった。
ほんの少しだけど……、変わったこと。
私は、空を見上げることが多くなった。
そして、真剣に新しい自分が欲しいと思う。と言うより祈っている。そんなこと、今までしたことなどなかったのに。
春が過ぎ、夏の日差しが照りつけ、ぺんぎんは埃を被り、どこかへ失くしてしまった。
友暉が言うように、私はぺんぎんの存在すら忘れ、じっとりとした暑い日、転機が訪れる。
私は、新しい自分を迎えることになった。
子宝に恵まれない叔父夫婦が、私を欲しがった。
母は、泣いて嫌がったが、私はそれを望んだ。
ついでに私は名前も変えた。
男の子でもない女の子でもない名前。ユウキ、箕輪ユウキ。
これで私は変われると思った。
引っ越しの日、2歳年上の兄は、複雑そうに私を見ていた。
何か言いたげなその素振りを、私は気が付かないふりをする。
母の目は泣きはらし、父は無言で会社へと出かけて行った。
どれもこれも、私の心に響かない。
叔父夫婦が、母と兄に丁寧に私の横で頭を下げる。
車中、叔母は嬉しそうに私を見る。
「母さん」
と言うのも、抵抗がある。
「悠子ママ」
私はそう呼ぶことにした。
叔父さんに関しては、滅多に呼ぶことがないので、あのとかそので誤魔化せばいい。
真夏の太陽がさんさんと輝く下、新しい街での暮らしが始まる。




