5話目 霞んで聞こゆ恋の音々
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「着きました、魁様。ここが洛陽でございます」
2日程だろうか。身体も洗えず、外には少ししか出られず、いい加減発狂しそうな気を抑えながら、魁はゆらりと車から降りた。華々しい街並が目の前に広がり、後ろには巨大な城がある。バックパックを片手に持ち、汗ばんだ身体を洗いたいが為に、役人に風呂の場所を聞くと、すぐさま風呂に突入した。
素早く服を脱ぎ、誰もいなさそうな大きな風呂場に置いてある桶で、流し湯用の湯を被ってびっしょりと濡れる。バックパックに詰めた旅行用のシャンプーやボディソープにスポンジを使って心身共にリフレッシュすると、非常に巨大な湯舟に魁は身体を沈めた。
「最低な旅の疲れを流すにはもってこいだな……。はあ……」
魁には最早、湯舟が極楽浄土にしか見えなかった。風呂は疲れが大きいほど素晴らしいものと思えてしまう。そして極上のリラックスを与えてくれる。
現に今、魁の隣には赤い髪をした少女がおり、これはなんかのサービスか、夢の中なのかはわからないが、その少女は魁に何も気をかけていない。魁が驚きすぐ離れると、彼女は魁の方を向いた。
「うぉおおっ!?先客いたのか?!って女の子!?」
「……誰?」
「え?俺?」
コクリと少女は首を縦に振った。動じていない、というか興味が全くないという具合の態度に、魁は自分の反応が笑われもしなかったことが恥ずかしくなった。ふう、と息を吐き、その少女に名乗る。
「驚いた俺が馬鹿みたいじゃねえか……。姓は新城、名が魁。あんたらの世界じゃ真名が魁ってことになんのか?」
「……ごはんの御遣い様」
「ああ、味の御遣いやらなんやら、色んな名前で呼ばれてるよ。最初は最高のトリップだったのに、最近は最低な思いしかしてねえ」
「……恋」
「それ、真名だろ?気軽に教えちゃいけないんじゃなかったか」
「恋は恋しか名前がない」
「そうかい」
よく見れば、恋と名乗った少女の身体には入れ墨が、そして手は傷が無数にあった。恐らくここの武将なのだろう。自分と同じ年齢のような顔付き、そして、確かに女性的だが筋肉質で締まった身体。ぴょこんと跳ねた二本の髪の毛。
「ごはん作って」
「あー。風呂出てからな」
「うん」
恋の腹の虫は我慢を知らないようで、ひたすら声を上げて彼に料理を催促した。くすりと魁はその空腹感に笑い、しゃあねぇ、と頭に乗せていたタオルを湯舟の中で腰に巻き、脱衣所に向かう最中であった。
「痴れ者ぉぉぉっ!!」
「おわっ……」
「……ちんきゅー」
顔面に強い衝撃が走り、そのまま後ろに倒れて後頭部を強打し、魁の意識が湯気と共に旅立った。
◆
「魁殿、大丈夫ですか?魁殿!」
「んにゃ……。なにここ……?」
「気づかれましたぞ、恋殿」
「ちんきゅー、まずはごめんなさいしなきゃ」
「あうう……」
魁が目覚めたのは、城の少し上にある部屋の寝台であった。後頭部に鈍痛と氷のような冷たさを感じ、ゆっくりと上体を起こして、声のする方に向く。
先程知り合った恋と、小さな女の子が、魁の寝台の横にいる。どうやら彼女達は自分を介抱してくれたようだった。自分の服も、バックパックの中から取り出して、枕元に置いてあり、これも彼女達がやってくれたのだろう。
「先程は何と言う失礼を……!すいませんでした!」
「ああ、あれ君がやったの。いいよ、別に。やっちまったもの、過ぎたことは仕方ない」
「本当でありますか?心の広いお方でよかったです!」
「魁。この子はちんきゅー」
「陳公台ね。なるほど、軍師さんか」
「はい!ねねは、恋殿に御仕えする軍師であります!」
元気いっぱいに答える陳宮に、魁は鈴々の面影を見た。4日ぐらい会っていないのを懐かしむように、陳宮と鈴々を重ねる。
話しながらTシャツとネックレスを着けて、下着とジーンズを掛け布団の中で着る。二人が立って着替えればいいと言ったが、女の子二人の前でそんなことをしたらただの露出狂だし、また素晴らしい威力を誇る陳宮の蹴りが炸裂するだろう。第一、そんなはしたないことを魁はしたくないので頑なに拒んだ。
「よし、着れた」
「恋ー、御使いはんは起きたかー?」
「霞。今起きた」
「おお、ちょうどええな。ほな、邪魔するでー」
寝台の横におかれたブーツを履いている最中、扉をノックもせずに開ける、大胆な服装の女性が部屋に入ってきた。胸にはサラシを巻き、薄い着物を羽織り、袴を下着が丸見えな状態で穿いている。なんなんだこの城は、と魁が頭を抱えるのを気にも留めず、片手にある酒瓶を魁の前に出して豪快に笑う。
「あんさん、ものごっつデカいなぁ!タッパもそやけど、シモも」
「あ、あんたなぁ……!そういうことは言わねぇもんだぞ、普通」
「固いこと言わんなや。ほな、自己紹介しよかー。ウチは張文遠、見ての通り酒好きの女や、よろしゅうな、魁はん」
「なんで関西弁なんだよ。あと、俺の名前は恋から聞いたのか?」
「んにゃ、あんさんの名前は、あんさんの荷物からわかったんや。なにやらどえらく綺麗な字で書いとったからなぁ。あれ、あんさんの世界の字も混じっとってあんまようわからへんかったけど、その様子やと合っとるみたいで安心やわ」
関西弁のことははぐらかされたが、名前に関してはまあよしとした。
綺麗に研磨された床に、張遼の酒瓶が手からするっと滑って落ちる。衝突する前に、魁はそれを優しく蹴って、サッカーのリフティングの要領でそれを自分の手に取った。おおっ、と張遼には驚きの声が上がり、手渡された酒瓶に皹や傷がないことを確認すると、やりおるなぁと魁を誉めた。
「ホンマ、アカン思うたけど、魁はんのおかげやさかい、床に呑ませんで済んだわ。おおきに!」
「気を付けなさいよ」
「魁、凄い」
サッカーはスポーツでわりかし得意な方であったが、こんなところで役に立つとは、魁は思いもしなかった。手に付いた酒の雫をぺろりと舐めるが、やはりアルコール濃度は薄い。
鳳蓮のところで貰ったりんごを、切って水の入った瓶に詰めているものを、最近の日課として確認しているのを見て、遥かに美味い酒を造れるなと思うと、顔がにやけてしまう。その瓶に陳宮が気付いて、興味を持って魁に聞くと、自信満々に言い放った。
「酒を造ってるんだ」
「ほお!個人で作れるんかいな」
「作れるんだよ。これはりんご酵母を発酵させてる最中でね。あと何日かしたら、酒の元が作れる」
「魁、物知り。すごい」
「恋はさっきから俺を誉めてばっかだな。悪い気はしないからいいんだけどさ」
「ごはん作る人、みんな物知り」
「そらそうよ、料理人はぎょうさん物の性質知らんとあかんからなぁ。なぁ魁、せやろ」
「まあ、知らねぇと料理は作れないしな」
物質の性質は、大体は化学と実体験で魁は覚えた。こちらの料理人はどうしているのかは知らないが、知識量と経験量、そして料理の腕前は負けない自負が魁にはある。料理は勝ち負けを争う物ではないが、まずい料理は意図しない限りは魁には作れないだろう。
「恋、お腹空いてたよな」
「恋殿だけじゃなく、ねねもお腹ペコペコです!」
「ウチは酒さえありゃええけど、御遣いはんの腕前も知っときとうはあるからなぁ」
「厨房どこ?案内してよ」