9
火は、消えかかっていた。非常灯の明かりは予備電源で電力をまかなわれているのだろう。一時間もするともう周りの景色も闇で霞んできた。対面に座っている女も、もはや風前の灯の如く薄ぼんやりとして、今にも消え入りそうである。尤もこの赤い空間が闇に閉ざされていくにつれ、ざわめいていた晴行の心は落ち着きを取り戻してきていた。真っ赤な空間に一時間も置かれていると、畳み掛ける様にして襲ってくる吐き気と目眩で発狂しそうになる。もし同じ明るさが一時間保たれていたら、晴行は正気を保てていなかったに違いない。そういう意味で、晴行は何か不安とか狂気に取り憑かれる様な事は無かった。だが女は違ったようだ。女は浮かない顔をして、さっきから一点をじっと見続けている。その顔が闇に赤くぼんやりと浮かんでいて、余計に陰鬱に見える。何処か具合でも悪いのだろうか?それとも便所にでも行きたいのだろうか?そう言えばエレベーターに乗る直前に便所で用を足してきた晴行とは違って、女は長らく便所に言っていないという事も考えられる。女は男よりも尿意が我慢しにくいと言うし、かと言って男の目の前で放尿してしまう訳にも行かないだろう。何だか可哀想だ。いや、というよりそんな事情が無くたって今の状況では女が不安にあおられるのはむしろ当然だ。エレベーターが落ちてしまうのかも知れないなどと考えているとしたら…。今の自分に出来る事は…。
晴行はなるべく明るい声色を使って女に話しかけた。
「うーん…なかなか復旧しないですねぇ」
すると闇の奥からか細い返事が返ってきた。
「ええ」
先ほどよりも更に濃い闇に縁取られた赤い顔はこけしの如き表情で、少しも動いていない様に見えた。
「まあでも、大丈夫でしょう。遅かれ早かれエレベーターが復旧するか、さも無ければ誰か救助に来ますよ」
「ええ」
女は相変わらず浮かない返事しかしない。晴行は更に女を元気づけようと努めた。
「ああそうだ。知ってます?今のエレベーターっていうのは優秀でね。万が一落下してもショックアブソーバーっていう、まあクッションみたいなのが付いていて、殆ど衝撃がないんだそうですよ」
女は遂に返事をしなくなった。晴行は言ってしまった後に、まずい事を言ったと思った。何も落下した時の話などする事はあるまい。
「まあ優秀なら最初から事故を起すなということなんですがね、ははは…」
乾いた愛想笑いは暗闇に反響して晴行の元に虚しく戻ってくる。その間に、女は何の言葉も挟まなかった。ただ闇の奥で赤い、怒気の様な沈黙を放っているだけである。せめて溜め息でもついてくれればまだよかっただろうが…。
遂に明かりは消えた。赤は残像としてのみ残り。実際に視界を占める色は黒一色であった。空気は冷え込んでいた。晴行は急に淋しくなった様な気がした。目の前に女がいる事を手探りで確かめたくなったが、かといってそうする訳にも行かず、何か口にするべき言葉も見当たらず、ただ黙っていた。黙っていたが、その分だけ耳を澄ませていた。すると微かにではあるが、女の吐息が囁く様に聞こえてきた。女は確かにいる。その実感が少しだけ晴行を安心させた。晴行はその一種甘美な感じのする吐息に縋る様に一層耳を澄ませた。すると、女の吐息が微かに震えを帯びている事が次第に分かってきた。震えは小刻みではあるが、止めどなく振幅していて、吸う時も吐く時も苦しそうだった。寒いのかな、と晴行は思った。女の人は寒がりだからなあ。そう思って晴行は暗闇の奥にいるであろう女に声をかけた。
「あの、よかったら上着着ますか?僕は全然寒くないんで」
そう言うと晴行はスーツのジャケットを脱いだ。衣擦れの音が密室に響き渡る。
「え…」
ほんの一瞬の間を置いて、女は声を漏らした。躊躇している。寒さで震えているのに、上着を借りる事を躊躇っている。いじらしい女!晴行は黙って女に上着を渡してやろうとした。と言っても暗くて正確な女の居場所が分からないから、大体の見当をつけて、そこに上着を掴んだ手を伸ばした。すると、手の甲が女の肩らしき部分に当たった。女はびくっと身動きしたらしく、晴行も思わず手を引っ込めた。痩せた肩だった。これでは寒いに決まっている。
「どうぞ」
「…ありがとうございます」
女は、今度は素直に受け取った。上着の裾の辺りが弱々しい力で引っ張られた。晴行が手を離すと、上着は女の方に躊躇いがちに引っ張られ、やがて女の肩を覆う様に羽織られた事が衣擦れの音で察せられた。晴行は自分の汗臭い上着について、柄にもなく恥ずかしい気がした。こんな事になるならクリーニングにだしておけばよかった、などとも一寸思った。ただ女に対しては恩を売った様な多少得意げな気持ちもあった。他人の役に立つというのは案外悪い事ではないかも知れない、等と思って、いつもの怠慢な働きぶりを改めようか等とも一瞬思った。しかしそんな気持ちはここを出た途端に霧の様に消え去ってしまう事が容易に想像でき、すぐに諦めた。
それから暫く経ったが、一向にこの状況に変化は無かった。助けが来る気配も、電力が復旧しそうな見込みも無かった。むしろ室内は段々冷えてきて、上着を貸した晴行までもが寒さを感じる様になってきた。が、無論女に得意らしく上着を貸してしまった手前、今更上着を返せなどとは、晴行には言えなかった。ただ晴行の関心はそんな寒さにも、またいつここを出られるのかという点にもなかった。晴行の関心事は専ら、女は今何を考えているのかと言う事だった。不思議なもので、辺りはすっかり暗闇に包まれてもはや女の姿形を確認する事は出来ないのに、その事が却って晴行の興味を誘った。目を凝らしても見えないものが、目を閉じると見える様な気がした。瞼の裏に赤い仄明かりが現れて、そこに自然に女の姿が浮き上がってくる。それには晴行を受け入れてくれる様な寛容さは無かったが、外界を拒絶して自分の中にある炎だけを守り抜いている様な強さが感じられた。何物にも媚びる事の無いその炎は、ただそこにあるだけで周囲を神妙に照らしだす、無限のエネルギーの様に感じられた。女は今何を思うのか?それを考えると、想像裡における女の炎が自分に燃え移ってくる様な畏れを感じた。そしてそれはまた喜びでもあった。晴行は女に燃やし尽くされたいとすら思った。焼かれて骨になって、骨壺に入った後に女に抱いてもらう想像をさえした。晴行の脳内はもはや女の放つ熱っぽい微香におかされていた。瞼の裏の女は、暖色の炎の中にか細い姿を滲ませつつ、光の尾を引いて次第に遠ざかっていった。晴行は知らぬ間に、その場に眠り込んでいた…。