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火の女  作者: 北川瑞山
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 ある土曜日のことである。普段土日は休日なのにもかかわらず、晴行は会社に出勤していた。休日出勤を迫られるほど晴行が多忙だったのではない。寝坊して欠勤した日を振替休日として処理するために、やむなく振替出勤をしたのである。こういう事は今までにも間々あった。あったどころか、晴行の怠慢ぶりを以てすればその振替出勤にすら寝坊するという言語道断の事態も時には免れなかった。そういうときはやむなく傷病欠勤として処理する。その際必要な医師の診断書を提出するように総務部から催促されたが、一度も提出せずに放っておいたところ遂には忘れられて有耶無耶になっている始末である。

 ともかくこの日の振替出勤は寝坊せずに出勤した。晴行はいつになく充実感に満たされた気持ちでいた。いつもは百人超を収容している広いオフィスは伽藍としていて誰もいない。照明も晴行のセクション以外は全て落とされていて、薄暗がりの中にただ大口を開けた様な広々とした静寂が広がっているのみである。誰も働いていないときに敢えて働くという事は何と気持ちのよい事だろう。平日会社にいる時などちっとも働く気にならないし、それどころか難しい顔をしてディスプレイなどを睨んでいる様な奴がいると頭から小便でもかけてやりたくなるのに、彼らが休んでいる時には逆に働く事がこの上ない美徳の様な気がする。働く事こそ人生そのものである様な気がする。ああ、全くこういう天の邪鬼な性格が俺を怠け者にしているに違いない。皆が怠け者だったら、俺は逆に働き者になるに違いない。そう考えれば俺が怠け者なのは皆のせいだ。皆が額に汗してあくせく働いているから、俺は物事に取りかかる前に全てが馬鹿らしくなってやる気を失ってしまうのだ。真っ黒に蠢く働き蟻の群れを見て、俺もあんな風になりたいと思う奴がどこにいるだろうか?

 そんな事を考えながら嬉々として仕事を片付けていた晴行だったが、そうして一時間も過ぎると何だか一人で仕事をしている優越感にも飽きてきて、そのうちいつもの様にインターネットで遊ぶ様になっていた。やはり晴行の怠け癖は周囲ではなく本人のせいだった。しかし晴行はそういう都合の悪いことには思考が及ばない。全く及ばないでもないが、すぐに追い払う。追い払った後には開き直る。どうせ俺は怠け者ですよ。だから何だというのだ?誰も見ていないじゃないか?日頃は誰が見ていようとも仕事を怠ける晴行は、今日だけは人目を憚って怠ける事に一抹の道徳心すら感じていた。だが会社のパソコンからアクセスされたページは常に管理者によってログ管理されている事を彼に教える者はこれまでのところ誰もいない。

 昼飯の時間になった。どれだけ仕事を怠けようとも、昼飯だけは忘れない。晴行は十一時四十五分きっかりに立ち上がった。社員食堂は休みである。近くのスーパーでカップ麺でも買ってくるか。待てよ、カップ麺は体に悪いし、腹にもたまらない。もっと良い食い物は無いかなぁ…そうだ。ここから少し離れてはいるが、コンビニに行ってもっとまともなものを買ってこよう。弁当やら何やら、ちゃんとした飯が食えるに違いない。そう思うが早いか、晴行は社屋の裏手にある自転車置き場にとめてあった自転車に跨がり、最寄りの(しかしかなり離れた)コンビニに向かった。

 街はすっかり休日の雰囲気で、何となく浮き立った人々の呼吸と混雑した国道の車が列をなして街の中心部へ向かう。確かに秋は行楽シーズンである。だがそんなにも大挙して押し掛ける場所などあろう筈が無い。晴行の脳裡にはいつか銚子の漁港で見たイワシ漁が思い浮かべられていた。大網を仕掛けると、その中に大量のイワシがわんさかと押し寄せる。クレーンで網を引き上げると、もの凄い量のイワシが銀色の大波の如く網から溢れ出す。漁船の甲板は瞬く間に銀一色に染まる。気の遠くなる程の数のイワシが一斉に身を翻すため、キラキラ輝いて美しい。が、イワシはいずれ一キロ三十〜四十円の相場で取引される身である。中には甲板を動き回る漁師に踏みつぶされて売り物にすらならない奴もいる。晴行はそれを見てつくづくイワシに生まれなくて良かったと思ったものだ。

 行楽という投網に引き寄せられた愚民は、正にこのイワシだった。少しでも欲望を持てば網にかかって生け捕りにされ、屍の山の中に放り込まれる。欲は身を滅ぼす。であれば如何なる欲望も持たない事だ。それだけが上手く生きる秘訣だ。と、信号待ちをしながら晴行は考えていた。

 コンビニではボンゴレスパゲッティを買った。晴行はご飯やパンなどよりもスパゲッティや蕎麦などの麺類が好きである。糖質を含む炭水化物は苦手なのだ。わざわざ高いカロリーを摂取してまでおかずの味を薄める意味が分からない。またそれ以上にご飯やパンを食うと消化が早すぎて血糖値が上がりすぎる。血糖値が上がるとインスリンが分泌される。すると今度は急激に血糖値が下がる。低血糖になると気分が悪くなる。燃えやすいものは長期的に見れば不定愁訴の原因になる。燃えて、消えて、急激に冷え込む。そうだ。食べ物も人生も一緒だ。如何なるものにも燃やされてはいけない。その後で急激に冷え込んでしまう。地味に見えても結局は平坦な人生こそ幸福だ。

 晴行はコンビニのレジでお金を払った。相手は若い女の店員だった。

「暖めますか?」

恭しく女店員は尋ねた。

「お願いします」

晴行はこの女店員をだいぶ前から見知っていた。下膨れの狸顔は少し幼くも見えるけれども、何とも可愛らしい日本的な情緒のある顔だった。晴行は別に彼女に恋をしたわけではないが、日頃から何となく目線を配ってちらちら見てしまう。思いがけなかったのは、彼女がまだ高校生であることだった。何ヶ月か前、晴行が夜遅くにこのコンビニに行くと、ちょうど仕事上がりの彼女に出くわした。普段は店の制服を着ていて分からなかったが、仕事を終えた彼女はその時ブレザーの学生服を着ていたのである。二十七にもなる自分が恐らく十才は離れているであろう女子高校生に惹かれていたという事実に、晴行は嫌気がさした。それからはもう晴行が彼女をあからさまに気にすることはなくなったが、それでも出会い頭につい見てしまう。

 日頃から如何なる情熱も欲求も持たないように努めている晴行である。こういう事実が晴行には不愉快だった。情熱はいつか冷めて凍り付く、欲求は人を屈服させ愚行に走らせる、誠に人生は退嬰的に生きるのが一番だ。それなのに自分はこうして出会い頭の女の実に七割方には魅惑を感じているのである。男とはこのようなものだろうか?だとすれば生まれながらにして無条件に馬鹿な生き物だ。陰茎の先っぽに小さな脳みそが詰まっていて、それを握られた途端に思考停止してしまう、哀れな生き物だ…。

 晴行はそんな事を思いめぐらしながら会社に戻った。秋の心地よい風を全身に受けて一人自転車をこぐ。柔らかく乾いた風は強ばった晴行の表情すらも徐々に和らげる。国道の自動車が相変わらず列をなしている。晴行は先ほどまで軽蔑していたその行列に加われない事への孤独を心ならずも感じた様な気がした。この心境の変化は、晴行の心が築いた鉄壁の防御が一瞬の隙をつかれて傷口を押し広げられた事によるであろう。元来晴行は決して無欲な訳でも、情熱を持ち得ない訳でもなかった。人並みに女を好きになるし、孤独や人恋しさを感じもするのである。ただ経験による数々の教訓がそれらを拒み続け、またそういう習慣に最も都合の良い形で自己を正当化する城壁を築いてしまったのである。晴行は自己欺瞞、という言葉が好きであった。自分は正に自己欺瞞の塊である様に思えるのである。だが晴行にとって自己欺瞞はすなわち自己防衛であった。自己欺瞞の何が悪い?それは生き抜く為の知恵だ。自分を欺かなければ自分に負けてしまう、自分に負ける事は人生に負ける事だ。と晴行は心の中で常に居直っている状態で日々を暮らしていた。

 会社に着くと、誰もいないオフィスで一人ボンゴレスパゲッティをかきこんだ。スパゲッティの汁が大分容器の外に漏れていた。自転車の籠に入れていたのがよくなかったらしい。会社に電子レンジがあるのだから、会社に戻ってきてから暖めればよかったと、晴行は後悔した。レジに並んだ時にはそんな機転も利かなかった。

 飯を食い終わると、晴行は満腹になって大きなげっぷをした。げっぷをしても一人。種田山頭火だったっけか?

 晴行は便意を催して、便所に行った。個室に入ると、食った昼飯と同じ量の糞をした。糞をしても一人。いや、そもそも糞は一人でするものだ。個室の壁には張り紙が張ってある。

「便座に座らないとおしり洗浄など使えません」

「などが」だろう!お前にはおしり洗浄など使えぬ!何て斜め上からの発言だ。技術屋の書く文章はこれだから困る。

 その後洗面所で手を洗った。手を拭く紙が入った箱にはこんな文言がシールになって貼り付いている。

「一枚の紙も資源です。大切に使いましょう」

まるで小学校の道徳の時間だ。何だってこんなに幼稚な文言を臆面も無く、わざわざ印刷して貼り付けるのだろうか。

 その後煙草を吸いにいった。食後の煙草はやめられない。どうせ煙草を吸っても一人だ。だが一人は何も辛い事ではない。静かな場所で食後の一服を楽しむ。良いではないか。こういうささやかな楽しみが何よりの至福だ。欲をかくより目の前に転がっている幸福を噛み締めようではないか。

 晴行は一階の喫煙所に向かう為、エレベーターのボタンを押した。エレベーターを待つ時間はじれったい。エレベーターが二つもあるのにこの非効率さは何だろう?まるで人工頭脳も何も入っていない様な旧式のエレベーターに違いない。エレベーターは晴行を焦らす様にゆっくりと滑り降りてくる。

ピンポーン。

やっとのことでエレベーターが到着したブザーが聞こえる。だがブザーが鳴ってからも扉はなかなか開かない。遅い、遅い。晴行は苛立って閉じたままの扉の真ん前に立った。鼻息がかかる程の至近距離に青いエレベータの扉が聳えている。晴行はその奥の明かりを予期して、扉が開くや否や寸刻の無駄も無くその中に闖入していける様に、前のめりでそれを待っていた。

 息を極限まで吸い込んだ瞬間、やっとこさドアが開いた。吸った息を吐き出す前に、晴行はエレベーターに乗り込んだ。乗り終えると同時に大きく息を吐いた。そして吐くと同時にエレベーターの中に一人の女がいることに気付いた。てっきり中に誰もいないと思っていた晴行はいささか面食らった。女は恐らく三十前後で、身長は170センチ前後の晴行と同じくらいだから、女にしては少し大きめだった。まあ踵の高い靴を履いている事を差し引いてもそれほど小さい方ではないだろう。黒いセーターを着ているからか、それとも目の周りの濃い化粧のせいか、彼女には非常に暗い印象があった。それは何か近寄り難い靄のようなものが纏綿して、絶えず周りを拒絶しているかのようだった。彼女はエレベーターに乗り込んだ晴行をちらりと黒ずんだ横目で見やったきり視線を元に戻し、エレベーターの閉じるボタンを押した。扉は静かに、しかし重々しく閉じてその空間を密閉した。

 恐らく彼女はこの会社の社員だ。だが殆ど見覚えが無い。一見すらした事があるとは思えない。なぜならこれほど暗く、重たい雰囲気を背負っている女はそういないだろうと思われるからである。まるで存在することを拒絶する様な彼女の周りの空気は却って人目を惹く。もし一度でも会った事があるのなら、それを忘れる筈は無い。上のフロアから降りてきた事を考えても、晴行とは普段違うフロアのオフィスにいて顔をあわせる機会の無い人だろう。それを思うと彼女の乗るエレベーターに乗り合わせた事は晴行にとって不思議な縁の様に思われた。ただでさえ人気の無い休日の社内で、違うフロアでそれぞれ働く二人が偶然同じエレベーターに乗り合わせたというのは余程奇遇な事であろう。

 それにしても何と不思議な雰囲気を醸す女だろう。女は決して若い方ではない。三十前後と最初は思ったが、よく見れば確実に三十は超えている。分厚い化粧で覆い隠したところでその年輪は隠せはしない。だが熟れた果実が放つ甘い腐臭の様なこの蠱惑は何であろう?先ほどまで高校生に惹かれていた晴行は、勿論それほどの年増好きとは言えない。しかしその若さを失った哀愁がその背中に溢れていて、また後ろ姿からでもその女が伏し目がちである事が容易に察せられる白い項はどこか妖艶で、また不気味でもあった。晴行はその女に誘われながら、同時に突き放されている様な、何とも表現しようのない感覚を味わった。暖かみに近づけども、決して触れる事の出来ない、まるで暗闇に仄めく炎の様な気配の女は、晴行に背を向けたままエレベーターのボタンの前に、天井から吊り下げられた様な脱力感で立っていた。

 と、そのときエレベーターの室内が突然「ゴトン!」と揺れたかと思うと、室内を照らしていた青白い明かりが消えた。同時に弱々しい赤色の非常灯に切り替わった。非常灯の明かりは実に薄暗く、目が慣れるまで、辺りは暗闇に包まれていた。段々と目が薄暗がりに順応してきて、視界が開けてくると同時に、晴行は闇の奥に真っ赤に染まった女がこちらをじっと睨みつけているのを発見した。一瞬晴行は背筋が痙攣する程どきりとさせられた。背中を向けているとばかり思っていた女が知らぬ間にこちらを向き、それも非常灯の真っ赤な光に染まった形相でじっとこちらを伺っているのである。だが晴行をどきりとさせたのは何も恐怖や驚きばかりではない。晴行に突き刺さる様な攻撃性に、心臓を鷲掴みにされた様な激しい誘惑を感じた。その得体の知れない熱は凍り付いていた晴行の心臓を一気に溶かし、そればかりか停止した心臓をまさぐって蘇生させ、鼓動を復活するに至らしめたのであった。

「どうしましょう…」

「え?」

女がいきなり口を開いたので、晴行は言葉を失ってしまった。そのか細く囁く様な声は涼しげに彼女の口から出てきたが、それでいて晴行の耳朶を焦がす様な攻撃性も帯びていた。熱い視線の機鋒は無遠慮に突き刺さる。その矢面に立たされて、晴行はたじろいだ。

「止まってしまいましたね」

「え、ええ」

エレベーターの隅で、晴行は間の抜けた返事をした。そしてただ目の前の赤の素地に黒の描線で象られた女を見続けていた。ただ全てのものは強い赤で染まっている。陰影と玉縁の黒だけが辛うじて赤の中で存在を保っている。輪郭と髪の色と、それから目の周りを縁取った黒アゲハの様な化粧と…。それは美しいと言えば語弊があるかも知れない。醜いのとは勿論違う。ただ触れられない。

 どこにも拠り所の無い、天涯孤独の人間が安らぐ場所とはいかにして辿り着く事ができるのか?意思?祈り?優しさ?権力?悪?分からない。ここに晴行は全ての思考を諦めた。諦めた所で何が変わる訳でもない。無為は晴行の得意分野だ。だが不思議だ。いつもやっている事なのに、どうしても頭が真っ白にならない。真っ白どころか、どうしても真っ赤に染まってしまう。目の前の事態をいつもやっている様に遠くに放擲する事が出来ない。瞬きの瞬間にも瞼の裏に閃く真紅は、まるで血の海を泳ぐ様な禍々しさで、晴行には吐き気と目眩が代わる代わるやってきた。

「非常呼び出しがあるはずよね…」

女はそう言って操作板の方に向き直った。そしてすぐに透明なプラスチック板に覆われたボタンを発見した。彼女はそのプラスチック板を細い指先で撫でる様に持ち上げると、もう片方の手の指で非常呼び出しボタンを押した。余程力を入れて押した様で、女の体全体が前のめりになって指先に体重を移動させていた。だが何の音もならない。彼女は続けざまに何度もボタンを押していた。が、結局なんの反応もなかった。女は少し焦っていた。晴行はそれを黙ってみていた。女が力を入れた様子や焦っている挙動などが何となく性的な意味を持って見えた。それはこの非常事態にあって女の人間味がそれほどの滑稽さを帯びていたからである。赤く濡れそぼった世界は非現実的で、まるで自分がそこに存在しない様な、第三者として世界に存在している様な錯覚を生むものだ。そんなスクリーンの額縁の中で誰かが慌てふためいている事が滑稽に見えてならない。ともすると女を一人捕まえて檻の中に閉じ込めた様な性的な征服欲の充足すら感じる。

「鳴りませんね…?」

女はまたこちらを向いて、晴行に助けを求める様な眼差しを注いだ。晴行はそれに応えられず、ただうーんと言って頭を掻いているばかりである。女は溜め息をついた。それは溜め息というよりは火柱を舞い上げた灼熱の熱風の様に感ぜられた。室内はそれほど暑くない。むしろエアコンが切れていてかなり寒い。それでも人間の口腔の中にいる様な、火燵の中に潜っている様な閉塞感のある暑さがここにおいては感じられる。まるでこの一室が一つの心臓のように脈打って見える。

 社内に人間は殆どいない。悪くすればこのエレベーターに乗っている二人だけという事も充分にあり得る。ドアを叩いても叫んでも誰も来やしないだろう。携帯電話はどうか?晴行はすぐさまポケットから携帯を取り出してみたが、あいにくここは圏外らしい。全く何たるポンコツだ!広告メールは放っておいても次々受信するくせに、大事な時に役に立たない!女も同じ事を考えていたのか、自分の携帯を見て溜め息をついた。同じ結果だったらしい。全くこのエレベーターは考えていた以上におんぼろだった。ろくに定期検査すら行われていないんじゃないか?大体非常呼び出しは言うまでもなく非常の時に使うのだから、火事でも地震でも停電でも、何が起こっても使える様にしておかなければならない。当然じゃないか。確かに非常時に使えるか否か、厳密には非常時になってみないと分からない。想定できる範囲でしか事故が起こらないのであればそもそも非常時など存在しない。それも一理ある。だがせめて命綱である非常呼び出しだけは死守するべきだろう。いや、待てよ、死守しようとした上で、それでも如何ともし難い事態が起こってしまったら、非常事態とは本来そういうものかも知れない…。やはりしょうがないか。自慢じゃないが、俺だってこんな駄目社員になりたくてなった訳じゃない。それでも人生には想定できない何かが起こりうる。そうしていつの間にかこんな風に成り果てている。人生には結局何の保証も無い。エレベーターが100%安全とは言い切れなくても、乗ると決めたら乗るしか無いのだ。なるに任せるしかないのだ。

 晴行がそんな事を考えていると、女はまた溜め息をついて床に座り込んだ。それは大変疲れきっている様に見えた。座り込んだ後の彼女は脱力していて何も語らなかった。八方塞がりの状況である事と、晴行が役立たずである事をおおよそ同時に悟ったのかも知れない。彼女の黒い瞳には諦めの色が見えていた。だらりと肩に垂れ下がった髪の毛にも生気が感じられない。ただ真っ赤な光沢が黒髪の節々を低回して見える。さすがに晴行も見かねて気休めを言った。

「まあ、待っていればすぐに復旧しますよ。多分停電かなにかでしょう」

晴行を睥睨した女の表情はまるで湿っぽい怒気を含んでいるようだった。実際にはちらと瞥見したに過ぎないだろうが、赤い海の中に描かれた女の表情は視線から何から、燃え盛っている様な熱気を放っていた。晴行はなるべく女から離れた所に、おどおどしながら座った。


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