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火の女  作者: 北川瑞山
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 晴行はある平日の朝、家から会社までの道のりの真ん中程にある歯医者の前で林田さんを待っていた。時間は七時五十五分。晴行にしては少々早過ぎる朝である。朝日の存分に照らす空から小鳥のさえずりが心地よく響く。晩秋の朝の澄明な匂いが鼻腔を刺激する。晴行は歯医者の窓ガラスに映る自分の寝ぼけた顔をじっと見て立ち尽くしている。間もなく八時である。

 ふと湾曲したブロック塀の影から林田さんの姿が現れる。晴行は寝ぼけ眼を正して、恭しくお辞儀をする。

「おはようございます」

こちらに近づいてくる林田さんはただ軽く会釈したのみである。

 実を言うと、晴行の日頃の無断欠勤やら遅刻が目に余るので、上司の林田さんが暫くは晴行と一緒に出社する事になっていた。上司を待たせてはいけないというプレッシャーがあれば、朝寝坊などなかなか出来るものではない、というその効果を狙っての事であろう。実際晴行は林田さんと朝出社する事になってからは定刻通りに出社することが出来ていた。この日は晴行の上司同伴出社が一週間程続いた時の事である。

「今日は何時に起きた?」

「ええ、六時頃に起きました」

「また随分と早かったんだな?」

「ええまあ」

確かに上司を待たせるわけにも行かぬ。そういう緊張感で晴行の朝は一転して早くなっていた。それでも晴行にはこの習慣が苦痛でしかなかった。待ち合わせ場所から会社まで徒歩で高々十分程度の道のりであるが、この時間晴行は林田さんと肩を並べて歩かなければならぬ。無言でいる訳にも行かないので、とりあえず何か話さなければならないが、仕事に情熱を持っていない、さりとて大した趣味も無い晴行は特段の話題を見つける事が出来ず、いつもおどおどしているばかりであった。たまに林田さんの方から話題を提供されても、晴行の口からは「はあ」とか「そうですね」とか気の利かない生返事が漏れるばかりで、それが一層気詰まりな雰囲気を醸して会話をたちどころに終了させてしまう。たまにこの二人の横を母親に連れられた幼稚園児とか、通学中の高校生の自転車などが通り過ぎる。晴行は一々それらにびくついては道をあけ、手の置き場所に困って髪の毛や額や鼻を触りながらとにかくおどおどしながら歩く。

 こう言うと晴行の性格について意外に思われる者があるかもしれない。人生に何の希望も見出せない、いっそ野垂れ死んでしまおうかと思う程に投げやりな生き様の人間にしては、世間に対して恐れを抱き過ぎていやしないか?という疑問はもっともである。ただし、これはかなりの程度自信を持って言えるのだが、何もかも捨て去った人間程世俗的な存在は無いのである。人間性という文明社会の本質を見限った者に残るのは結局動物性だけである。食欲、性欲、睡眠欲、それから権威に阿諛追従する卑しい媚び諂い。ホームレスはホームレス社会の階級意識に基づいて生活するらしい。もはや猿山の猿である。晴行はスーツを着て見かけ上こそ社会的に見えるものの、その実はそのホームレスと同じ根性を持っているのであって、つまり上司の顔色を伺っておどおどしたりする世俗性は全く不自然ではない。世俗的なものを軽蔑した先に待っているのは畢竟世俗性であって悟りの境地ではない。そもそも悟りの境地に踏み入れた人間など生きている人間に限って言えばそう滅多にいるものではない。

 会社に着くと、林田さんと晴行はそれぞれの席に向かう。

「じゃ、また明日もよろしく」林田さんは晴行を振り返りながら言う。

「はい、よろしくお願いします」

晴行は頭を下げるが早いか、そそくさと駆け足で席に向かった。パテーションで仕切られた晴行の部署には、まだ誰も来ていなかった。オフィスは静まり返っている。フロア全体でも晴行と林田さんを含めて三四人しか来ていないようだ。晴行はパソコンを起動させて勤怠管理システムの出社ボタンを押すと、書類やら食べ物の屑やらが散らかった机の上で居眠りを始めた。やはり朝早いのは晴行の性に合わないようであった。静謐の中で、晴行はやすやすと眠りに就く事が出来た。

 目を覚ますと、既に始業時間の九時を過ぎていた。周りを見渡すと、先輩方がいつもの様に淡々と仕事に取り組んでいた。

(起こしてくれりゃ良いのに…)

寝ぼけ眼で晴行は思う。これではきちんと遅れずに出社した意味が無いではないか、と思いかけて、しかし自分が仕事をしようがしまいが勤怠上は出社した事になっているのだから、それで誰にも迷惑はかからんのかも知れんと思い直した。組織(殊に日本の大企業)とは誠にそういうものである。誰にも迷惑をかけずにただそこにいれば地位は概ね安泰である。

 で、晴行の勤務態度についてだが、見かけ上は少しだけ好転した。「見かけ上は」というのは、晴行が以前より少しだけ真面目に働くように見えるのは偏に毎日朝決まった時間に出社する様になった事で少しずつ周りから仕事を任される様になった事から来ているのであって、晴行の就労意欲には実は何らの変化も無かったからである。晴行はただ任された仕事を淡々とこなすのみであった。晴行は決して能力において欠陥がある訳ではない。やってみれば意外に仕事は速い。だが与えられた仕事をさらりとこなしてしまうと、後は以前と同じ様に煙草を吸いにいったり、買い物に出かけたり、インターネットで遊んだりといったサボリ癖がひょこひょこと顔を出す。他の社員の手伝いをしようとか、あるいは専門知識を身につける為に勉強しようとか、そんな主体性は欠片も見当たらない。

 尤も、考えようによってはそれで何も問題ないのかも知れない。出世や周りからの評判など気にしなければ、最低限の仕事だけをこなしていれば、少なくとも社会人失格とまでは言われないであろう。勿論そういう者には何の張り合いも無く詰まらない社会人生活を送る宿命が課されるであろうが、本人がそれで良いというのならば何も他人が押し付けがましく非難する必要は無いのである。

 午後六時。晴行はパソコンをシャットダウンし、全身で伸びをしながら大きなあくびをした。そして自分の席から悠然と立ち上がると、残業をする先輩方を尻目に

「お先に失礼しまーす」

という一言を何の臆面も無く吐いて、会社を後にした。


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