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悲しくも陽気でもないただ激しいジャズの様な、出鱈目な音の断片が耳元を荒れ狂い、吹き回っている。晴行はそこを立ち上がって手当り次第に何かを叫びたい衝動に駆られた。そして叫びながらそこら中を駆け回りたくなった。だが何物かが晴行の首を絞め、肩を重く押さえ付けていた。だから立ち上がれなかったし、声すらも出なかった。家の中の女が忙しく動き回っているらしい、物音が背後から聞こえて来る。
やがて先ほどと同じ様な遠慮のない足音が次第に二人の背後まで近づいて来た。そして彼らの頭上にある窓の明かりが灯った。すると二人がしゃがみ込んでいる辺りが一気に明るくなり、晴行は思わず身を縮めた。もし女にこの窓を開けられでもしたら間違いなく見つかってしまう。そう思うと余計に晴行は地面と外壁の角にうずくまって小さくなった。だが幸い窓は閉まったままだった。中では絶えず物音が聞こえる。その音は恐らく、服を脱いでいる音だった。下着に手をかけ、片足を持ち上げて下着からするりと引き抜く、衣擦れの音がした後にその足を着地させ、もう片方の足をやはり引き抜く。そして中身の無くなった下着を脱衣籠にぱさりと放り込む。その一連の動作が目に見える程にその音は鮮明に聞こえてきた。しかしそれに対して晴行は喜ぶどころではなく、膨張していく罪悪感に苛まれ、徐々に冷静さを失っていった。
やがて隣の窓の明かりもついた。同時に浴室の扉を開ける音がした。浴室の床板はつま先立ち特有の慎重さで軋む。やがて浴室の扉が閉まった音がした。それはとても卑猥な響きだった。女は、すぐそこに、裸でいる。それが本当に起こっている。そう晴行は思った。しかしそれはやはり喜びの気持ちでは無かった。惜しいと言うか勿体ないというか、そんな気持ちだった。一体何故風呂になんか入るんだ、という不条理がむらむらと湧いてきた。
やがてシャワーを流す音が聞こえてきた。その中に混じって女の咳払いの声も聞こえた。エンストした車のエンジンを必死で作動させようとする様な声。その声は浴室に反響して良く響いていた。痰が絡まったのか、むせたのか…それにしても人間的だ。
晴行の中の火はもはや風前の灯だった。もう消えているかと思えば、また辛うじて息を吹き返した。そんな状態だった。火は火の女自身によって吹き消されようとしていた。それがまた晴行にとっては皮肉な結果だった。火の女は自らの火の女である事を否定し続け、晴行は心の何処かでそれを受け入れる事が出来ずにいるのだ。
シャワーの流れが止まった。そして一瞬の静寂の後に、湯を被る音が聞こえた。桶に湯をすくい、全身にそれを浴びる。それが何度も何度も執拗に繰り返された。そしてその音がする度に晴行の火は殆ど消えてしまいかけた。しかしまたそれがどうしても消えきらずに、燃えかすのように、未練がましく残っていた。シャワーを浴びた後に何だってそんなに湯を被る必要があるのだ?もう充分表面の老廃物は流れ落ちたよ。それにどうせ一人暮らしだろう?すぐ捨ててしまう湯を汚すのをどうしてそこまで恐れるのだ?全く見上げた清潔感じゃないか。俺が欲しいのは清潔感などではないのに。お前が消そうとしているその不浄な火で、正にその火で俺を燃やして成仏させてもらいたいのに。こうして壁一枚隔ててそれが消えるのを待っているのは何と皮肉な事だろう。お前はどうしてそこまで無自覚に俺を悲しませるのだ。しかし晴行のこういった憤怒は壁の向こうの女には毫厘も届かなかった。それに妙な話で、晴行自身その憤怒が一体どこから発しているのか分からなかった。自分は何を求めているのか、何を取り上げられようとしているのか…。
換気扇の排気口から湯気が吐き出されてきた。それは晴行の頭上にあった。まるで合成甘味料の様な甘い香りが辺り一面に瀰漫した。それは確かに女の香りだった。だがただの女の香りに過ぎなかった。お前から火を取ったら、ただの女だ。それも三十過ぎの!
晴行は決して風呂を覗こうなどと思わなかった。元より窓には一分の隙もなかったし、内側からカーテンが降ろされているので、覗こうとしても無理だったが、しかしその向こうで自分の理想が瓦解していくところを想像するだけでも晴行には恐ろしかった。増して覗く事なんか出来はしない。出来れば耳も塞ぎたかったくらいだ。
晴行は恐ろしさに震えた。だがそれでいて何となくその恐怖には晴行特有の諦念があって、それが薄い靄のように堅い石の様にわだかまっている恐怖を包んでいた。やがてはその諦念が勝ってくると、もういいや、という気になってきた。あわれ晴行はここにきてまた虚無に逃げ込んだのだ。与えられても手を引っ込める、奪われても手を引っ込める。なるほどこれは便利な事だ。絶対に傷つかない。
不意に男が晴行の肩を指で叩いた。晴行がはっとして男の方を向くと、男は微笑を絶やさぬまま一言も発さず、地面の砂に指先で何か書き始めた。暗くて見えにくいが、晴行は目を凝らした。
「カベに耳をあててみろ」
何故男がそんな注文をつけたのか、晴行には全く理解できなかった。だがその時の晴行はそれを撥ね付ける程確固たる自己を持ち合わせていなかった。言われるがままに、晴行は家の外壁に片方の耳を密着させた。壁の表面は紙ヤスリのようにざらついていて、それに氷のように冷たく、決して快適な肌触りではなかった。だが耳をあてがってみると、中の様子が手に取るように分かった。水滴の一滴一滴が滴り落ちる音までが明瞭に聞こえてきた。湯船の中で女が体勢を変える音、それに合わせて湯の表面が小さな波を立てる音…。それは視覚よりも却って明瞭に存在の本質を捉えていた。盲人が聴覚を異常に発達させたお陰で何不自由なく生活できることが少しも不思議ではなかった。女は間違いなくそこにいた。それは目で見るよりも確かな事だった。女の肉のたるみまで想像できる程に、それは肉感的だった。
暫くは際立った音は何も聞こえてこなかった。ただ湯船の湯が揺れる感触と、そこにたゆたう女の微かな吐息が聞こえてくるだけだった。官能的、というのはこの場面を差し置いて他にない様に、晴行には思われた。晴行は恍惚とした。確かに想像以上に聴覚というのは効果的なものだった。覗きをやっているわけではないのに、それと同等か、もしくはそれを凌駕する程の効果が得られた。
突然、女が湯船から立ち上がったらしい。水音が鯨の息継ぎのように凄まじく聞こえた。女は体から湯を滝のように滴らせながら湯船を跨ぐ。裸のまま湯船を大股で跨ぐあられもない姿が晴行の脳裡にありありと浮かんだ。しかしこれが正真正銘の、あの火の女なのだ…。
すると一瞬、火の女の動きが止まった。同時にすうと息を吸う音が聞こえた。
「ぶぇっくしゅ!」
「!」
晴行の火は一瞬で吹き消された。真っ裸でくしゃみをした火の女。彼女はもう火の女では無くなった。田園の真ん中で、腹を膨らませて一声鳴いた、一匹の蛙に過ぎなかった。
晴行はそこで茫然と壁から耳を離して、男の方を見た。しかしそこに男はおらず、荒涼とした闇に、蕭条たる部屋の明かりが仄かに差しているだけだった。
漆黒の山裾に爪痕の様な三日月がかかっていた。




