3
晴行は腹が減っていた。昼飯を食っていないので当然である。晴行は我慢できずに、業務時間中にも関わらず社屋を抜け出して近くのスーパーへ向かった。誰も咎めるものもいないし、何より自分が姿を消した所で誰も困らない事を晴行自身が認めきっていた。誰からも必要とされていないという点で、晴行にとってこれは悲しい話である。晴行は何の役にも立たないくせに、食欲だけはいっちょまえに持ち合わせているのである。
社屋を出ると、通りは国道に面しており、数えきれない程の車が高速で疾走していく。それらが近づいては遠ざかる轟音で溢れている。歩道にはちらほらと人影が見えるが、晴行の知った顔はいない。晴行はとぼとぼと歩き、スーパーへ向かった。スーパーの駐車場には無数の車が駐車してあった。この片田舎では車が生活必需品であり、大型スーパーともなればこれほど寂れた所にも各地から客が押し寄せる。彼らの車はなかなか立派で、俗に言う高級車の類も少なくはなかった。整然と並ぶそれらを見ていると、「小市民」という言葉がぽっと思い浮かんだ。
(人生とは今を生きる事。今を生きる事は未来に如何なる期待もしない事。未来に期待しない事は絶望する事)
晴行は店の前の赤いベンチに腰掛け、煙草に火をつけた。眼前を占めて光沢を放つ乗用車の群れには、絶望の香りが一欠片も見当たらなかった。絶望は人生と切っても切り話せない関係にあり、それどころか晴行にしてみれば毎日を凌ぐ上での滋養分であった。それなのに目の前にはどこにもそれが転がっていない。それどころか未来に必要以上の希望を託し、必要以上に懸命に生きようとしているのである。誠に中学レベルの話ながら、晴行はこういう時にいつも世の中に対する優越感を感じる。尤もそんな優越感すら晴行にとっては何の意味も無く、ただその優越感を以て一笑に付すのみであった。
突然、ポケットの携帯電話がうなり出した。会社からの呼び出しだろうか?と一瞬思ったが、違った。何処かの業者の下らない広告メールだ。
「サイクロン掃除機から待望のニューモデル値下げ!吸引力が大幅アップ!」
晴行は何だか一段とがっかりし、肩を落とした。仕事をサボっていたって誰からも呼び出しがこない。くるのは低俗な広告メールだけ。この広告の送り主だって、別に自分だけにこれを送りつけたのではあるまい。誰だって良かったのだ。誰も俺などに用はない。晴行は自分が想像していたよりも遥かに社会から必要とされていなかったことに、フンと鼻で笑い飛ばさずにはいられなかった。そのくせ頗る憂鬱だった。
晴行は煙草を吸い終えると、スーパーに入って調理済み鶏肉の真空パックされたものを買い、またベンチに腰掛けてそれにかぶりついた。鶏肉は晴行の大好物である。それにこれは調理済みであり、ちょっと冷たいのを我慢しさえすれば買ってそのまま食べられるから手軽だ。真空パックされているから日持ちもするし、またこのレモンの風味と黒こしょうのマッチングが絶妙だ…。
等と考えて無心にそれに食らいついていると、不意に晴行の頭上に大きな黒い影が落ちた。大口を開けて鶏肉にかぶりついたまま、晴行は頭を上げて影の主を見やった。そこには上司の林田さんが仁王立ちしていた。林田さんはこの日有給休暇を取っていたが、たまたまここに買い物に来たと見える。さすがに晴行もこれには驚いて、鶏肉をくわえたまま固まらざるを得なかった。
「お前、今業務時間中だよな?」
林田さんはその大柄な身体から野太い声を出して、諭す様に言う。
「ははは」
何故か分からないが晴行は笑った。とは言えいつまでも鶏肉をくわえている訳にもいかないので、急いでそれを口の中から引き抜くと、そこから唾液が糸を引いた。慌ててそれを吹っ切ろうと鶏肉を遠ざけると、今度は手を滑らせてそれを落としてしまった。それを拾う勇気もなく、また林田さんの方に向き直って
「いやぁ、あははは」
とまた惚けた笑いを醸した。
林田さんは腕を組んで、はあと溜め息をついてからこう言った。
「菅原、仕事に戻れ。腹が減ったなら会社で食え。とりあえずこそこそとこんな所で食う様な真似は辞めろ。いいな」
そう言い終わるが早いか、林田さんは踵を返して駐車場の方へ向かって歩いていってしまった。悠然とした後ろ姿を見送りながら、晴行は何の懲罰も無かった事に感謝していた。だがその反面で物足りなくもあった。もしここで一発怒声を浴びせられでもしていたら、自分はもっと懸命に働いていけたのかも知れない。少なからず気持ちを入れ替える事が出来たかも知れない。だが林田さんはそういう効果を狙う事をしなかった。俺はそれだけ期待されていないのだ…。
晴行はベンチから立ち上がると、俯きながら会社へ戻った。オフィスへ戻る途中の喫煙所で煙草を吸った。さも一仕事終えて休息を取りにきた様な表情を浮かべて。喫煙所を出ると、自動販売機でコーヒーを買い、喫煙所に引き返してもう一本吸った。コーヒーを飲むなら煙草を吸わなければ勿体ない。そうして晴行がオフィスに戻る頃には、席を立ってから実に三十分以上も経過していた。だが晴行がどこへ行っていたのか問いただす者もいなく、晴行は黙って席に着いたのであった。
煙草を吸って席に座ると、いつも軽い倦怠に襲われる。無為や怠惰から来る偽りの幸福からの生還。そういうとき、決まって一向に仕事が手に着かない。壁にかかっている日めくりカレンダーにはこんな箴言がでかでかと書いてある。
いいか、人生は情熱だぞ
晴行はそれを見て見ぬ振りをし、足を組んだまま、頬杖を付き、パソコンでインターネットを始めた。それでも気付いてか気付かずか、周囲の先輩方は誰も注意しない。
「美味そうなラーメンの画像」
「クレジットカード審査に落ちるのはこんな人」
「続きを読みたかった打ち切り漫画」
「本性が暴かれる友達との旅行」
下らないサイトを目まぐるしく移動して回る。下らないと分かっていて読む自分が実は一番下らないと、晴行は思う。そして自分の後ろを先輩が通る度に、遊んでいる事がバレない様アウトルックの画面に切り替える。とは言え既にバレバレである事は晴行自身も知悉していた。いい加減自分の駄目さ加減に嫌気がさす。だがだからと言って特に態度を改める気もない。
晴行の所属している部署は現在晴行を入れて八人いる。晴行はその中の最年少社員である。とは言えそういう晴行とて入社五年目の中堅社員であるから、かなりのベテランぞろいという事になる。一番歳の近い室井さんが三十歳。その同期の仙田さんが同じく三十歳、その上の菊地さんが三十二歳。その他はもう年齢がはっきりしないくらい年上である。晴行の甘ったれた勤務態度はベテラン社員達に囲まれた労働環境で培われた末っ子気質であるかも知れない。
そうこうしているうちに、晴行はインターネットにも飽きはじめた。元々他者への興味関心が希薄な晴行にとって、インターネットに流布されている誰がどうしたこうしたといった事象の羅列などは無意味な情報の氾濫に過ぎなかった。晴行はインターネットのウィンドウを閉じた。無闇矢鱈にエクセルやワードのファイルを開いてみたが、そうしたところで特に急いですべき仕事もない。そんな急務が晴行のような不良社員に任されるはずもない。そこで晴行は席を立ち、また喫煙所へ向かった。
喫煙所の脇にある自動販売機でトマトジュースを買うと、透明なガラス張りの喫煙所に入ってそれを飲み始めた。濃厚なトマトの健康的な味わい。しかし若干塩気が強すぎて、腫れた親知らずの辺りの歯茎にしみる。分煙機の脇にジュースの缶を置き、煙草に火を付けた。気だるい靄が頭の中に濛々と立ちこめる。煙草の害は吸い始めた瞬時に人体に作用する。それをまたトマトジュースで洗い流す。健康と不健康の不釣り合いなせめぎ合いに圧迫され、晴行は恍惚とした吐き気を催していた。透明なガラス窓の外の通路には沢山の社員が行き来する。晴行はいちいち彼らと視線を合わせる。心なしかそれは非喫煙者達が高みから喫煙者達を見下ろし、軽蔑する視線に見えた。晴行は檻に閉じ込められた動物になったような心持ちがした。喫煙猿とはよく言ったものだ。いや、あまり言わないか。
「よう、お疲れ」
晴行は不意に背後から声をかけられた。振り向くと、他部門の児島さんがいた。背が高くて温厚で、それに優秀な先輩社員である。晴行とは違う部門に所属しているので話す機会はあまりないが、喫煙所で煙草を吸っているときにはよく声をかけてくれる。
「どうだ、仕事は順調か?」
児島さんは煙草の煙を優雅に吐き出しながら言った。晴行は急にかしこまって答えた。
「ええ、まあ今のところは…尤も大した仕事もしていないんですがね…」
晴行のこうした返答はすなわち自己弁護であった。なぜなら晴行の場合大した仕事をしていないのではなく、何の仕事もしていないからである。それを大した仕事をしていないと言っておけば謙虚に聞こえるし、一応は仕事をしているという事になる。そういう姑息なやり口は晴行が社会人になって唯一身につけたスキルである。
そんな感じで、晴行はしばし児島さんとの世間話に応じた。どこか疚しいところのある者の卑屈な笑いをたたえながら。誠に奸佞の徒である。晴行はこうして他部門の人間が自分に気さくに声をかけてくれるのは、自分の働きぶりが知られていないからだろうなと思う。それを思うと、自分の不真面目な勤務態度を親しい人間に知られてしまう事はたまらなく恐ろしかった。だが一方でそんな事はとうにバレている気もした。誰々は無能だとか、仕事が出来ないとか、そんな噂は誰が広めるのでもなしにあっという間に広まるものであるからだ。そうすると児島さんは駄目人間と分かっている自分にわざわざ話しかけてきてくれているのだろうか?そう思うと、晴行はその場で土下座したくなる程に卑屈な気持ちになるのであった。
「お先に失礼します」
先に煙草を吸い終えた晴行は、児島さんと別れて喫煙所を後にした。オフィスに戻る前に、建物の玄関から屋外に出て、外の空気を吸った。東の空は既に夕闇に包まれている。さして澄んでもいない空気が、ここに来てたいそう美味く感じられた。勤務時間中に外に出て吸う空気は何故こんなにも美味いのだろうか?晴行は少しだけ真面目に働いてみようかな、という気になった。
地平線の彼方に山並みが連なり、その隙間隙間に民家が点在し、鈍い明かりを漏らしている。そのすぐ上には薄い雲が幾重にもたなびいて空の群青に身を染めている。風はどこからともなく吹き、そこら中を吹き渡ると、やがては遠い視界の奥へと吹き抜けてゆく。晴行は国道沿いの排気ガスの匂いを溜め息で吹き返し、ぼんやりと今日もまた暮れてしまった一日を思った。スーツのポケットに両手を突っ込む。もうどうしたらよいのか分からない。とは言え気持ちだけは強く持とうと努めた。
(明日からは真面目に働こう)
もうすぐ夕飯の時間である。