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晴行は、寒い、と言い出して、煙草に火を付け、吸い出した。
火の女はこんなところから毎日通勤しているのか。車通勤だろうが、それにしても遠過ぎるだろう。来る日も来る日も毎朝毎晩…よくやるものだ。俺なんて片道自転車で十分のところに住んでいても遅刻ばかりしているのに。
大体こんな僻地で一体何をしろというのだ。立ち小便をするのにだって淋し過ぎる場所だ。それに何か空気が冷た過ぎる様な気がする。単に寒いというだけじゃない。匂いが冷たいのだ。まるで砂鉄が混じっているのではないかと思うくらいに重く無機的な匂いがする。焼け野原の匂いというのはこんな風だろうか。焼け野原?これはもしかして火の女が焼き尽くしてしまった街の余燼、そういう暗示的な匂いだろうか?いやいや、そんな馬鹿な。火の女はこんなところで燃えていたりはしない。むしろここに潜伏している間は火を消して名前の無い一人の人間として生活しているに違いないのだ。むしろそうしている姿こそが他ならぬ俺の確かめたかった彼女の姿ではないか。従って恐れるに足りないのだ。それはただの一個の人間の姿なのだから…。
男が黙って歩き出した。俺はこいつについて行けば良いんだな。あ!赤信号なのに平気で横断歩道を渡っていやがる。見かけに寄らずふてえ野郎だな。まあ車も来ないので無理も無いか…。しかし俺はこう見えて律儀な人間なのだ。赤信号一つ渡るにしても結構勇気が要る。車が来ないから良いというものではない。もし横断中に不慮の事故が起きたら、警察の事情聴取に対して何の言い逃れもしようがないではないか。俺は無言で男についていったが、俺は自分で自分の気の小ささが嫌になった。
男はすぐに脇道に入った。俺も黙って付いていくが、しかしその小径があまりにも狭い。多分横幅一メートルくらいしかない。これじゃ軽自動車も入っていけないだろう。道の右側には木造の廃屋の様なぼろの建物があって、それ以外は背の高い草が鬱蒼と繁茂しているだけだ。ここに来るとさすがに外灯の一つも無くなって、もう真っ暗だ。男の背中がやっと見えるくらいで、その先は何も見えない。本物の闇というのはこんなにも暗いものなのか。その闇を切り裂いてぐんぐん進む男の背中は何故かしら自信に満ちていて、近寄り難い。だがもう今となってはこれしか頼れるものが無い。それにしても何で俺はこんなに心細いのだろう?駄目な男というのはどこまでも駄目なものだ。欲しいものを手に入れる力も無いのに、いざ幸運によってそれを眼前にすると途端に尻込みをしてしまう。今だってほら、何とか自分の脚で歩いてはいるものの一寸内股で、しかもへっぴり腰で、気が付けば腋を締めて手は胸の前でぎゅっと握っている。まるで肝試し中の子供だ。
男が急に立ち止まった。これだけで俺の心臓は縮み上がりそうになる。何もそういきなり立ち止まらなくたっていいだろうに。一言何か言うとか、速度を少しずつ緩めるとか…。
「ここを左に行ってすぐだ」男は突然言った。
ああ、どうしてこいつの行動は何でもこんなに唐突なんだ。何か言う前に溜め息をつくとか、一服するとか、ああもう苛々する!
だが気が付いてみるとそこは十字路になっていた。角には化け物の様な大木が一本そそり立ち、枝葉が路傍に覆い被さっていた。左に折れた道の向こうの右側には、確かに何となく家屋の様な黒い影が見える。だがそこには全く明かりが付いていない。俺は何となく嫌な予感がして男に声をかけてみた。
「おい、もしかして留守なんじゃないのか?」
するとあっけない答えが返ってきた。
「ああ、どうやらそうらしいな」
俺は馬鹿らしくなってあきれ顔で再び問うた。
「そうらしいなって、ここまで来させておいてそんな話があるか!」
思わず大きな声を出した。だが発する声は悉くこの乾いたスポンジの様な闇に吸収されて全く響かない。
「しょうがないじゃないか、私だって火の女がいつ在宅してるかまでは分からんよ」
それもそうだ。考えてみれば火の女が休日必ず家にいるなんていう保証はどこにも無かったのだ。火の女は火の女でなくなったとき、きっとごく普通の休日を過ごしているに違いないのだ。近くのホームセンターで歯磨き粉や洗剤を買っているかも知れないし、あるいは街中に出て恋人とショッピングを楽しんでいるかも知れない、あるいは…。しかし火の女の火の女たる姿しか知らない俺はそんな事すらも想像しきれていなかったのだ。俺の見たいものはそう簡単に見られるものではない事に、俺はこのとき初めて気付いた。とりあえず、火の女の家の前まで向かう事にした。
家の前まで歩く道のりはもはや道と言えるほど舗装されたものではなく、乾いた土と砂利にまみれた、単に「草の生えていないところ」と言った方が適確だった。周りは田んぼだったので、あぜ道と言っても良いかも知れない。そこを男と二人で歩いていると、すぐに目の前に家が迫ってきた。何という事は無い、普通の二階建ての日本家屋だ。しかしいささか年数が経っている様で、家の壁面には暗闇の中でも分かる程の目立ったヒビやシミが見受けられたし、玄関は古い日本家屋にありがちなガラガラと音を立てるタイプの引き戸だった。それに一階部分に対して、二階部分がやけに小さい。まるで後から継ぎ足した様な感じだ。むき出しのプロパンガスのボンベがエジプトの石像よろしく立ち並ぶ。崩れかけた石門には表札が無く、小さな鉄の扉が半開きできいきい音を立てているだけだった。それは匿名の、生活の象徴の様な家だった。
何だか拍子抜けした気分だ。火の女がどんな家に住んでいようが別になんて事は無いと思っていたのだが、それにしても生活臭が出過ぎていやしまいか。こんな安普請に住んでいたら、火の女だって燃えるに燃えられないだろう。自宅を焼き尽くしてしまう訳にはいかないのだから。いや、そういう馬鹿らしい比喩を弄ぶのはもうやめにしよう。火の女の火とは要するにあのあらゆるものを拒絶した様な厭世的な雰囲気なのだ。ただ睥睨と言っても違う、孤独と言っても違う、誘惑なんて言ったらなお違う。結んだ唇の中で密かに歯を食いしばる様な秘めたる攻撃性。世を恐れて世に爪を立て、色を嫌って全てを灰にし、音を忌避して無音で叫び、光に甘んじて闇に住み、言葉を失い涙は涸れ、信仰を嘲って自由を蹴り、死を食って生を垂れ流す…。少し大げさ過ぎるかも知れないが、それでいていくら並べたって表現しきれない。とにかく平穏さの欠片も無いのだ。しかしそんな火の女だってここにいる間は何の事は無い、平穏無事に生きる小市民に違いないのだ。下らないテレビを見ながら番茶を啜って、火燵の上の蜜柑を半分食べ残したままうたた寝をしてしまうような。そうだ、そうなんだ。
で、俺は一体何をしにきたのだ?火の女に化学反応を求めるだと?平穏無事な小市民に?焼き尽くして欲しい?こんなところに住む田舎者に?冗談じゃない。どこにそんなドラマティックな要素があるのだ?せいぜい良いリフォーム業者を紹介してやるくらいのものだ。ああ、あの日見た火の女は、あの神秘的な面影はここにはないのだ。そして俺は十分その事を理解してここへ望んだのではないのか?俺は一体何をしにきたのだ?




