表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の女  作者: 北川瑞山
26/33

26

 晴行は既に店の中で席について待っていた。入口から見て左側の赤茶けたオーク材のテーブル席にこちらを向いて座っていた。向こうもこちらにすぐ気が付いたようだ。時間にルーズな晴行が約束の時間の前に待っているなんて、相当に気合いが入っているに違いない。

「やあ、待たせたな。何か飲むか?」

晴行は遠慮がちにそれを断った。

「心配しなくて良い。一寸体を温めるだけの話だ。最近はめっきり寒くなったからな。すみません、バター・ド・ラムを二つ」

私は二人分のカクテルを頼んだ。事実火の女の居場所に行くにしては少々今日の気温は冷え込み過ぎていた。あの辺は非常に閑散とした盆地で、暖をとるところも無ければ冷風を遮る山や林もない。建物すらまばらだ。せめてホットカクテルでも飲ませなければ、晴行の場合寒さに音を上げて引き返してきそうである。

 晴行は唐突に口を開いた。

「一体あんたは誰なんだ?何故火の女について知っているんだ?」

「それは訊かないでくれ。私は誰でもない。私は君が望む事を叶えてやりたいと思っているだけなんだ。そして君が心から変わってくれる事を心から祈っている」

「しかし、余りにも解せない。第一火の女などという呼び名だって俺が勝手に心の中で名付けたものなんだ。それを他人の口から言われるなんて、まるで夢でも見ているみたいだ」

「そうだろう。分かるよ。だがこれは現実なんだ。私は君の事については何でも知っている。そしてそれがどうしてなのか知ろうとすることは余りにも馬鹿げている。なぜなら私は素性を知られると色々とまずい事がある。私が折角善意でここに来ているのに、私を敢えて困らせて追い払うなんて事はちっとも君の為になりはしない」

晴行は不承不承といった感じで黙り込んだ。カクテルが運ばれてきた。細長い円筒型のグラスに焦げ茶色の液体が入っていて、その表面にはバターが浮かべられていた。そこから湯気が朦々と立ち上がり、バターが一気に溶けていく。甘い香りが鼻腔に広がる。

「さあ、景気付けに一杯やろう。まだ時間はたっぷりとあるんだから」

私は晴行とグラスをかち合わせた。晴行はやはり躊躇いがちだ。私はカクテルを一口啜ると、煙草に火を付けて、晴行に問いかけた。

「それはそうと、会社の方はどうだい?」

「さあ、どうだいと言われても…」

「君ももう入社して五年目だろう?後二ヶ月やそこらで六年目になる。そろそろ責任のある仕事を任せられる頃なんじゃないか?」

「なんだ、あんたそんな説教を垂れにきたのか?そんならお断りだ。そんな御託は聞き飽きたよ」

「まあ待て。何も説明してくれなくたって実情は分かっているよ。何も説教しようというんじゃない。むしろ君の本当の気持ちを確かめたいんだ」

「本当の気持ち?」

「そうだ。君は心の何処かではこのままじゃいけないと思っているのだろう?」

「馬鹿言うな。俺は仕事なんてものが心底阿呆らしく思えてならないんだ。真面目にやる価値なんて一向に見出せないね」

「だが、周りの人たちが真面目に仕事をする姿を見て少し羨ましくも思う。そうだろう?」

「羨ましい?そんな馬鹿な。彼らの上昇志向とか出世欲とかはみんな学生時代の惰性なのだ。学生時代には、少しでも偏差値の高い学校に行くために猛勉強し、あるいは少しでも報酬の高い職業に就くためになんだかんだと努力をする。それはいい。食い扶持を稼ぐために必要なことだ。だが既に食い扶持を稼ぐことのできるポジションにたどり着いた後にまでそれをする必要がどこにある?それは努力した方が地位も給料も上がるし尊敬もされるだろう。だがよく考えてみればそれらにさしたる意味はないのだ。それらは皆まやかしだし、幻想だ。にもかかわらず「努力すれば報われる」という学生時代そのままの価値観を頑なに信じ込み、実のところ他人の都合のいいように使われていることに気づかず、または認めたがらず、お偉いさんの口車に乗ることをあたかも自分の意志であるかのように思い込むのだ。自己欺瞞だ」

また出た。お得意の自己欺瞞が。

「だが君はその怠惰によって食い扶持を稼ぐポジションすら追われつつある。自分でもそれに危機感を募らせているね?」

晴行は黙ってしまった。私も少し説教がましい言い方をし過ぎた。こんな事を言いにきたのではないのだ。私は少し反省した。

「まあいいさ。君だって何か思うところがあってここに来たわけだから、別に問題ない。火の女の素性を確かめれば何かが変わるかもしれない、そう思っているんだろう?」

「俺は別に何も変わらなくたっていい。火の女のところに行くのだって何か目的があってのことじゃない。人生に目的がないのと同じように。この生活が何一つ変わらなくたって俺は一向に構わない。俺は仕事をするために生まれてきたのではないからな。大体仕事で成功している奴なんて例外無く卑怯者じゃないか。上には媚び諂って、下には責任を押し付ける。それが仕事というものだからな。それが出来たからって何が立派なものか。それなのに仕事で失敗したら男の人生は殆ど終わりだ。俺はそんな現実にほとほと嫌気がさしたんだ。食い扶持がなくなったら野垂れ死ぬまでだ。何も未練なんか無い」

ふん、まるで小学生の言い分だ。それこそ自己欺瞞じゃないか。まあしかしこんな一言で晴之が溜飲を下げてくれるのなら安いものだ。第一火の女のところに行くとうっかり意思表示をしてしまっているところが間抜けだ。

「何だっていいさ。やってみて初めて自分の求めていたものに気付くというのもよくある話だ。とりあえずは行動を起こそう」

私はそう言って晴行の目の前に持ってきた地図を広げた。そして街の中心部に出てからの大まかな道筋を教えた。

「細かい道は覚えなくても、とりあえず○○小学校まで行ってくれるようにタクシーの運転手に頼めば良い。そこからは歩いてほんの二三分だ。酷い田舎だが、この地図を持っていけばまず迷う事は無いだろう」

そう言ってタクシー代の入った茶封筒を渡した。すると晴行が驚いた様な目線を私の方に向かってあげた。

「なんだ、あんたは一緒に来てくれないのか?」

やれやれ、どこまでも甘ったれた奴だ。一緒に行くのは勿論構わないが、別に私自身火の女に用があるわけではない。第一私は晴行がどこへ行こうとも天井からそれを俯瞰する事が出来るのだ。様子を見るだけならそれで充分だ。だが次の一言はさすがに意外だった。

「タクシー代はいい。そんなのは自分で出す。その代わりと言っちゃなんだが、あんたも付いてきてくれ」

まあよく考えてみれば、晴行の気持ちも分からなくもない。何となく恐ろしいのだろう。火の女は何かしら晴行の憧れでありながら、畏れの対象でもある。一目見るだけで自分の腑抜けた性質を叩き直すのに充分な刺激になり得るほどの存在である。少なくとも晴行はそう考えている。するとそれはまた自分にどれほどの程度でどんな作用を及ぼすか、分からないだけに恐ろしいというのはあるだろう。未知は人を惹き付けるが、同時にこれ以上無い程の抵抗も催させるものだ。無論それは私が付いていったところでどうなるわけでもないが、一人では心細い気持ちも分からなくはない。何よりそんな恐れを感じる程、晴行はこの件について真剣に考えていたのだ。私はその事実に内心喜んだ。私とてこういわれて断る理由も無い。何よりこんなところで晴行の機嫌を損ねられては馬鹿らしい。

「分かった。付いていくだけ行ってみようか」

私は快諾した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ