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火の女  作者: 北川瑞山
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 晴行は悶々としていた。無限ループの音楽を聴いている様ないつまでも終わらないもどかしさに頭を抱えていた。尤もこんな事はいつもの事だった。業務時間中に頭を抱え出すともう仕事が手に付かない。そういうとき晴行は決まって自身の逃げ道を確保した。例えばそれは煙草を吸いにいく事であったり、スーパーに行って鶏肉を食う事であったりした。だが今に至ってはそれよりも遥かに魅力的な逃げ道が晴行の前にはっきりと姿を現していた。それは勿論あの男の提案に乗って火の女のところに行く決断をする事だった。あの怪しげな男の事を一から十まで信用する訳にはいかないが、火の女の事について何か能動的な行動を起こす事が出来ると考えただけでも晴行にとっての生きるよすがとなり得た。元々如何なる問題が起ころうとも「どうにでもなれ」といった投げやりな態度で水に流してしまう晴行が、今回の事も同じく「どうにでもなれ」と言って行動に移す事はそう難しい事ではなかった。増してこの暗澹たる無限ループの生活に頭を抱える晴行はそれによって一縷の希望を得ていたくらいである。筆者の失策がこんなところで晴行に希望を与えていたというのは何とも皮肉な話である。

 晴行は財布からあの男に貰ったバーのショップカードを取り出してみた。店名は『Mont Ventoux』。読み方は分からなかったが、場所は地図で大体分かった。東武宇都宮にほど近い小さなバーだ。入った事は無いが、外観からしてなかなか洒落たバーだったと思う。ショップカードの隅には手書きで「1月21日(土)20時〜」と書いてある。今週の土曜日だ。この時間にここに行けば男に会えるのだろう。まあ行って話を聞いてみるだけなら特に問題はあるまい。そう決めてしまうと晴行は少し元気になった気がした。ただ土曜日が訪れるまでこの狂おしい倦怠を晴行は持て余さねばならなかった。便所の前に立つと急に尿意を催すように、出口が見つかってからそこを出るまでの期間というのは出口が見つからない期間よりも耐え難いものである。

 ようやく土曜日が訪れると、晴行は柄にも無く朝早くから目を覚まし、街に出て商店街界隈をうろつき始めた。ただすることも無いので、ファミリーレストランや喫茶店で本を読んでいた。それにも飽きるとデパートの館内を巡り始めた。何も買いたいものは見つからなかった。本を一冊買おうかと思ったが、荷物になるのでやめておいた。デパートには土曜のせいか家族連れが多かった。ヒーローものの特設ステージが組まれていたし、至る所で小さな子供が泣きわめいていた。晴行にとってそんな見渡す限りの穏やかな海の様な平和は居心地が悪かった。不穏な企みを宿した自分が酷く場違いに思われた。結局晴行は何の収穫も無いままデパートを出た。

 気分を落ち着かせる為に、晴行は近くのコンビニで缶コーヒーを買ってそれを飲みながら店の前の灰皿で煙草を吸った。煙草の吸い方、煙の吐き方が忙しなく、妙に浮き足立っているように感じた。

 店の前で黒と茶の毛色の猫が鳴いていた。あまりしきりに鳴くので、どうしたかなと思った。通行人の女性も気になったらしく、どうしたのどうしたのと言って寄ってきた。すると店から店長らしき禿頭の男性が缶詰を持って出てきた。猫は鳴きながら店長の脚に絡み付いた。

「あら、ごはんの時間だったのね」と女性が言った。店長は器に缶詰をあけた。同時に猫はそれに食らいついた。

 晴行はそんな平和な光景を横目で眺めていた。そしてそこから離れなければならないのを何となく淋しく思った。自分は今から想像もできないくらいに危険な場所に踏み込もうとしているのかも知れない。そう思うと何だかそこを離れたくなかった。

 街角で蒸しパンを買って、それを昼食に食った。アーケード街の中程にある広場のベンチに座ってそれを食いながら、そこでやっていたジャズの催しを見ていた。素人が集まってジャズバンドをやっているらしかった。蒸しパンの甘さや柔らかな食感、街の住人達のジャズの演奏、それらはとても平和だった。晴行にはつい先ほどまで忌み嫌っていた筈の平和が、ここにきて急に愛おしく思われた。これほど平穏で、小市民的で、恙無い休日を、ここ最近で初めて過ごしたように思われた。晴行はそこから離れたくないと思った。だが一度決心をした事はやり遂げなければならぬ。ここで尻込みをしてしまっては折角自分が変われる機会を逃してしまうかも知れない。晴行にはそういう自身の意固地さが意外に思われた。


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