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火の女  作者: 北川瑞山
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 晴行は朝寝坊した。朝の八時に林田さんと待ち合わせをしていたにも拘らず、それをすっぽかした。林田さんから電話がかかってきて、晴行は寝たまま枕元で電話口に出た。

「すみません、今起きました」

「わかった。じゃあ定刻には出社するように」

こういうやり取りがあったにも関わらず、晴行はその後二度寝した。再び林田さんから電話がかかってきた時には、すでに定刻の九時を過ぎていた。

 最初は林田さんも注意するに留めて多めに見ていたが、こういう事が度々続くと、遂に晴行との出社をしてくれなくなった。面倒見の良いので評判の林田さんにすら見限られてしまった。そのことにさすがに晴行も反省せざるを得なかった。ほとほと自分に呆れた。だが晴行の遅刻はそれからも無くなることはなかった。

 ある日会社の喫煙所で煙草を吸っていると、児島さんが入ってきた。いつもなら児島さんが話しかけてきてくれるのだが、今日はこちらを見ようともしない。そこで晴行は児島さんに向かって会釈をしてみた。だが児島さんは気付かないのかあるいは気が付かない振りをしているのか、黙って違う灰皿の前で煙草を吸い始めた。それが一向にこちらを見ようとしない。自分を無視している、と晴行は直感で分かった。これだけ遅刻を繰り返していれば社内で悪評が立つのも無理は無い。恐らく他部門の児島さんにもそれが耳に入ったのだろう。晴行は瞬間的にそう理解した。

 味方を一人ずつ失っている気がした。面倒見の良い上司も、気さくな先輩も、少しずつ自分を諦め、離れ始めている。そう思うと辛かった。しかし自業自得である事は理解できたので、特に彼らを恨む様な事はしなかった。それでもすれ違う社員という社員が自分を憫笑している様な気がして、大層肩身が狭かった。

 年が明けると、社内の掲示板に昇格人事が公表されていた。晴行の後輩達が揃って主任に昇格していた。昇進の遅れ気味であった同期達も残らず昇進したようだ。晴行の年代でまだ一般社員なのは晴行一人であろう。勿論遅刻を繰り返している晴行が昇進などする筈が無い。解雇されないだけでもありがたいくらいだ。それは分かっているが、こうして実際に目の当たりにしてみると、思いの外やるせない思いがした。

 晴行はひとみの前で大見得を切ってブランド物の小物をプレゼントした自分を思い出した。得意げで余裕げで、如何にも出来る男ぶっていた。社会的成功者が見せる様なゆったりとした身のこなしと自信に満ちた笑みを纏っていた。だが蓋を開けてみればこの体たらくである。その表裏の馬鹿さ加減に、晴行は一人で赤面した。

 火の女に惹かれていた晴行ではあったが、さすがにそれどころではなかった。一刻も早く自分を立て直さなければならなかった。ただ火の女には度々社内ですれ違った。それが忘れようとすればする程頻繁にすれ違うようになった。火の女は恐らく晴行の名前を知らないだろう。だが児島さんと同じように、自分の悪評が何らかの形で火の女の耳に入っている事が無いとは言えない。それを想像すると、晴行は火の女を直視できなかった。

 晴行は途方に暮れていた。自分を律することで、早くまともな人間として社会から取り扱われたいと切に思った。そして自分の思いは届かなくとも、せめて誰かに恋をする権利くらいは欲しいと思った。実際晴行には恋をする権利どころか、飯を食う権利すら与えられていないことは晴行自身よく分かっていた。

 そうこうしているうちに、林田さんが部署を異動することになった事を知った。林田さんの転属先は今までやっていた仕事とはおよそ何の関係もない部署であった。林田さんはこれまでこの仕事が自分の天職だと信じていたし、常日頃から嬉々として仕事に取り組んでいた。それなのに全く関係のない部署に異動させられたということは、それが本人にとって望まぬ人事だったことは容易に伺い知れた。何も根拠は無かったが、晴行には何となくその異動が自分のせいである様な気がしてならなかった。晴行の遅刻や無断欠勤を林田さんは事実上黙認していたし、それに有給休暇あてがう事でなるべく見かけ上の欠勤を無くすようにしてくれていた。だがそういう処置は人間としては寛大であっても、上司としては指導力不足と見なされるだろう。そこで林田さんは半強制的に異動させられたのではあるまいか。そう思われてならなかった。これには晴行もさすがに自己嫌悪に陥った。自分はもう跡形も無く消え去った方がいいのだ。その方が世のため人の為だ。そんな風に考えた。そうは言っても具体的には何らなす術が無かった。いっそ首でも括って死んでしまおうかとも考えたが、それは迷惑の重ね塗りである事が分かって、出来なかった。

 ある日の夕方、晴行は会社の近くのスーパーに行って鶏肉を買い、ベンチに腰を下ろして食べた。いつだったか、同じ事をしていたら林田さんに見つかって注意された事を思い出した。そしてあの日から結局何も変わる事無く漫然と時を重ね今に至っている事を思うと、林田さんに対して一層申し訳ない様な気がした。

 外は次第に夕闇に包まれてきた。夜風は冷たい。そんなところで冷たいチルド食品の鶏肉を食っている姿が我ながら滑稽だった。しかし晴行が人目を憚る様な事は無かった。この期に及んで何の体裁を気にする事があろうか?自分は落ちるところまで落ちたのだ。嘲られようが冷やかされようが罵られようが、それに対して自分は何を言い返す権利も無い。彼らは正しいのだから。しかし俺はどこで間違ったのだろう?なぜこんな風になってしまったのだろう?晴行は悲しい様な悔しい様な気がして、乱暴に鶏肉の皮を食いちぎった。

 ところでさっきから目の前の駐車場に、エンジンも止めずにヘッドライトをつけたままの車が駐まっている。それが晴行の正面にあるので、ライトの明かりが炯々と晴行を照らし続けている。晴行はその存在に気づき、訝しく思った。上司や誰かが自分の行動を見張っているのだろうか?そう考えると、疚しい思いに駆られもした。だが運転席にいる男は晴行の見知った顔ではなかった。しかもその男は見た限りかなり若そうで、とても晴行の行動を見張るような立場の人間とは思えなかった。誰かの命を受けているのなら話は別だろうが、会社がそんな手の込んだ見張りをするというのも現実離れした話だ。すると何だろう?男は確かにフロントガラスの奥で晴行をじっと伺っている。その視線を感じていると、なんだか居心地が悪い。晴行はベンチを立って、そこを立ち去ろうとした。しかしそれと同時に車内の男が車から降りてきた。晴行は単なる偶然と考えはしたものの、さすがに気味が悪くなって足早に立ち去ろうとした。晴行は男が晴行の動きを追ってこちらに来るのを尻目に捉えながら、それを無視して早歩きをした。だがあっさりと、晴行は男に肩をつかまれた。

「なあ、ちょっと待ってくれ」男は言った。

「はい?」晴行は振り返りながら何気ない返事をした。しかし心中は穏やかではいられなかった。やはり誰かの差し金で動いているスパイだったのだろうか?と思った。

「俺は怪しい者ではない。君の味方だよ」男は不敵な笑みを満面に浮かべて言った。しかしそう言われると余計に怪しく見えてきた。

「何でしょう?」晴行は疑いの眼差しで男を睨み付けた。味方だと?それではスパイではないのか?じゃあ宗教か何かの勧誘か?そう言えば晴行はそういう手合いから声をかけられることが常々多かった。晴行に何か思い悩んでいる風があるのか、それとも単に気弱な人間と判断されやすいのか…。どちらにしても腹が立った。男はコートのポケットに懐手をしたまま、唐突に言った。

「君の行きたいところに連れて行ってやる」

やはり宗教か、または気が狂った奴か、どのみち無視して行き過ぎるのが賢明だ。晴行は黙って男から視線を外し、駐車場の出口に向かって歩き始めた。これ以上話しかけるなと言わんばかりの後ろ姿を見せつつ。男は追ってこなかった。代わりに後ろからこんなことを言った。

「火の女の所に連れて行ってやる」

晴行はそこでぎょっとして足を止め、また振り返った。


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